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旅のはじまりと、裏側の補助線

その頃、世界の裏側では、えんちゃんが朝からだいぶ疲れていた。


「つまり、今の問題は二つです」


会議室でそう言ったのは、見知らぬ男だった。


狐風の細い顔立ち。

ぴしっとしたスーツ。

笑っているのに目が笑っていない、いかにも“嫌な感じのコンサルタント”という第一印象を、そのまま形にしたみたいな存在である。


名前は白槻しらつきコンサルタント。

赤坂部長が「外部視点が必要だ」と言って呼んだらしい。


えんちゃんは内心で思った。

絶対ややこしくなる。


白槻は資料をめくりながら、淡々と続ける。


「ひとつ。主人公が現状、強すぎる。

正確には何がどれだけ強いのかが、現場にも観測側にも見えづらい。これはドラマを作る上で損失です」


「観測側って言い方、ちょっと怖いですね」とえんちゃん。


「上層部でも同じ意味でしょう」


正論だった。腹は立つけれど。


「もうひとつ」と白槻。

「主人公の感情が、折れない方向に安定しすぎている。

これは人物として魅力でもありますが、揺さぶりが弱いと物語の山が作りにくい」


えんちゃんは眉をひそめた。


「それ、要するに傷つけろってことですか」


白槻はすぐには答えず、資料を閉じた。


「極論すれば、そうです」


会議室の空気が少し冷える。


みなちゃんが椅子に座ったまま、にんじんスティックをくわえてぼそっと言う。


「初手から角が立つ言い方するなあ」


「事実を柔らかく言っても構造は変わりません」


嫌な感じだ。

でも、完全に間違っているとも言い切れないのが腹立たしい。


白槻は画面へ、新しい試案を映し出した。


・レベル概念の実装

・基礎パラメーターの可視化

・成長演出の明確化

・感情負荷イベントの再設計


「レベル……?」とえんちゃん。


「はい。

現地世界に直接ゲームっぽさを持ち込む必要はありません。

ただし主人公の認識補助、あるいは特定条件下でのみ見える補助表示として実装することは可能です」


「でも、それ急にやると世界観が……」


「すでに境を縫う剣が存在している時点で、主人公周辺には特殊例外が積み上がっている。ならば、例外に意味を持たせるべきです」


御厨専務が腕を組んだまま、それを聞いている。

否定も肯定もしない。

赤坂部長は難しい顔だ。


白槻はさらに言った。


「強い主人公は悪くない。

ただ、強いなら強いで、その強さをどう観測し、どう伸びたかを示すフレームが必要です。

そうでないと、周囲の危機も、達成も、比較軸を失う」


そこまでは理解できる。

むしろ設計としては筋が通っている。


でも、次の一文にえんちゃんは反射で口を開いていた。


「感情負荷イベントって何ですか」


白槻は事もなげに答える。


「大切なものを失いかける。信頼が揺らぐ。守れなかった経験を与える。

そういう強い動機づけです」


「やりたくない」


即答だった。


白槻の眉が、ほんの少しだけ動く。


「即答ですか」


「やりたくないです。

涼花ちゃん……主人公は、もう十分いろんなものを失ってる。家族と急に離れて、訳もわからない世界に放り出されて、それでも前向きにやってる。

そこでさらにエンタメだから揺らせって、私は、あんまり……」


言い切る前に、自分でも子どもっぽい反論だとわかっていた。

でも、引っ込めたくなかった。


白槻は少しだけ黙ってから言う。


「なるほど。情は理解しました」


「理解したって顔じゃないですね」


「ええ。私はまず構造を見るので」


やっぱり嫌な感じだ。


その時、御厨専務が口を開いた。


「白槻」


「はい」


「揺らすと壊すを混同するな。

良い職人は素材を殺さない」


白槻が一瞬だけ視線を上げる。


専務は続ける。


「そして、えん君」


「はい」


「守りたいという感情だけでイベント設計を拒むな。

物語に試練は要る。だが、その試練が何を生むのかまで設計して初めて意味がある。

嫌だから避けるのは、優しさではなく未設計だ」


えんちゃんは、ぐっと言葉に詰まった。


正しい。

正しいけれど、痛い。


白槻がそこで初めて、ほんの少しだけ語気を下げた。


「誤解しないでください。

私は主人公を壊したいわけではありません。

強い人物には、強い人物なりの揺れ幅があります。そこを見つけたいだけです」


その言い方は、さっきより少しだけましだった。


えんちゃんは完全に納得はできないまま、それでも考え込む。

試練は必要かもしれない。

でも、傷つけるために傷つけたくはない。

その線を、どこで引くのか。


難しい。

そしてたぶん、それこそが今後の課題なのだろう。


白槻は最後に言った。


「レベル概念については、すぐに全体実装ではなく、主人公と剣の反応系に限定した試験導入案を出します。

危機演出については、関係性の揺らぎから先に設計しましょう。喪失はその後でいい」


それは、最初に思ったよりはましな着地点だった。


みなちゃんが小声でえんちゃんに言う。


「ほら、思ったより全部悪くないかもよ」


「第一印象が悪すぎたせいで、ちょっとマシなだけで良く見えてる気もする」


「それはある」


でも、たぶん白槻とは、これから何度もぶつかる。

そして、うまくいけば、何かを一緒に作れるのかもしれない。


えんちゃんはそう思いながらも、今はまだ素直に認めたくなかった。


出発直前、ギルドの裏手で私は一人の旅商人を見つけた。


正確には、見つけようとしたわけではない。

荷車の陰で、明らかに慣れていない手つきで旅装を整えている怪しい男がいたから、どうしても目に入っただけだ。


「……またいる」


私が声をかけると、えんちゃんは肩を跳ねさせた。


「お、おはようございます」


「その挨拶は普通なんだ」


「朝なので……」


妙に律儀だ。


昨日までは、正直かなり怪しい人だと思っていた。

いや、今も怪しいのは変わらない。

でも、魔王軍みたいな影が現れたあとの反応や、隠しきれない慌て方を見ていると、少なくとも悪意で近づいてる人には見えなかった。


私は少しだけ近づいた。


「名前、聞いてなかった」


えんちゃんは一瞬だけ固まり、それから観念したみたいに答える。


「……エン、といいます」


「エンさん」


「はい」


「旅商人?」


その質問に、彼はものすごく微妙な顔をした。


「旅もしますし、商っぽいことも、たまに……」


「嘘が下手ですね」


「知ってます……」


あまりにも素直に落ち込むので、私は少しだけ笑ってしまった。


すると、えんちゃんは目を丸くした。

たぶん私が彼の前でこういう顔をしたのは初めてなのだろう。


「……怒ってないんですか」


「まだ、です」


「まだ」


「怪しいのは怪しいです。でも、昨日は結果的に助けられた気もするし」


えんちゃんの視線が泳ぐ。


「いや、その、私は別に大したことは……」


「それも、たぶん嘘」


言い切ると、彼は完全に言葉を失った。


私は少し考えてから、鞄の中から丸パンを一つ取り出した。

朝、屋台のおじさんにもらったやつだ。


「これ」


「え」


「顔色が悪いから。食べてないでしょ」


「……えっ」


「そんなに驚く?」


「いえ、あの、はい……びっくりしてます」


たぶんこの人は、自分が気遣われる想定をあまりしていない。

仕事で追い込まれてる人って、こういう顔をすることがある。父の道場の手伝いに来る大人たちにも、たまにいた。


えんちゃんはパンを受け取る手つきだけ、妙に丁寧だった。


「ありがとうございます」


「ひとつ聞いていい?」


「はい」


「エンさんは、敵じゃない?」


その問いに、えんちゃんは顔を上げた。

ほんの一瞬だけ、営業用でも誤魔化しでもない、真面目な目になる。


「……それは、違います」


短い答えだった。

でも、不思議とそこは信じてもいい気がした。


「そっか」


「ただ、その……全部はまだ言えません」


「でしょうね」


「すみません」


「それも、今はいいです」


全部は話せない。

でも敵ではない。

そのくらいの距離なら、今の私は受け入れられる。


沈黙が少しだけやわらいだところで、フィアが顔を出した。


「あっ、スズカさん! 準備できました……って、エンさんもいる」


「知り合いですか?」とえんちゃん。


「今、その手前くらい」と私。


フィアは首を傾げながらも、にこっと笑った。


「じゃあ、それはたぶんもう半分くらい知り合いです」


その基準はよくわからないけれど、悪くなかった。


出発は、思っていたより静かだった。


大げさな式もない。

ただ、ギルド前に集まった何人かが手を振り、門の方からドルクさんとミオが見送り、ベルナさんが「破くなよ」と二回目を言い、セレネ先生がフィアに「記録」とだけ念押しし、宿の女将さんが「帰ったら部屋空けとくよ」と笑う。


それだけだ。

でも、それで十分だった。


門を抜ける前に、私は一度だけ振り返る。


リネルは、やっぱり小さい。

石造りの建物も、低い屋根も、煙突の煙も、全部がこぢんまりしている。

でも、私にとっては最初の町で、最初の居場所で、最初に帰る場所になった。


「行ってきます」


小さくそう言うと、隣でフィアも同じように呟いた。


「行ってきます」


ルクトだけは何も言わなかった。

でも、そのまま足を止めずに歩き出したので、たぶん彼なりのけじめは済んでいるのだろう。


えんちゃん――いや、エンさんは、荷車の横でぎこちなく帽子を押さえた。


その後ろから、誰にも見えないはずの通信窓に、白槻から短いメッセージが届く。


『街道移動中、観測案を送ります。主人公補助表示はまだ提案段階です。先走らないでください』


えんちゃんは心の中で舌を出した。

嫌な感じのコンサルは、早速仕事が早い。


でも今は、それどころではない。

旅が始まる。

涼花たちの旅であり、自分の残業の延長でもあり、たぶん世界そのものの継ぎ目を追う旅だ。


リネルを出る街道は、朝の光を受けてまっすぐ伸びていた。

北東丘陵を背に、中核都市セイルへ続く道。

途中には小さな宿場があり、森があり、橋があり、そしてきっと、今までよりはっきりした危険も待っている。


フィアが少し弾んだ声で言う。


「旅、ですね」


「そうだな」とルクト。


「街道歩きなんて初めてです!」

「はしゃぎすぎて最初の一時間でばてるなよ」

「ばてません!」

「その言い方、ばてるやつだな」

「ひどい!」


そんなやり取りを聞きながら、私は一歩ずつ前へ進む。


剣は腰にある。

仲間がいて、怪しい旅商人もいて、町の見送りが背中に残っている。


不安はある。

でも、それ以上に、知らないものを知りに行く感覚の方が強かった。


小さな町の外に出たら、世界はもっと広い。

十賢者の名が現実に近づいて、魔王軍の影も濃くなって、剣の秘密も、たぶん隠しきれなくなる。


それでも行く。


マニュアルがないなら、自分で確かめるしかないからだ。


街道の先で、風が少しだけ向きを変えた。


リネルの朝の匂いが、背中の方へ遠ざかっていく。

代わりに、まだ見ぬ土地の乾いた空気が前から来る。


こうして私たちは、セイルへの旅を始めた。


たぶんこれは、異世界での移動っていうだけじゃない。

私たちそれぞれが、昨日までいた場所から少しずつ離れていく最初の日だった。

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