2章 辺境の朝、出発前のそれぞれ
朝は、来る時はあっさり来る。
昨夜あれだけいろいろ決まったのに、目が覚めた瞬間の最初の感想はひどく現実的だった。
荷造り、足りてるかな。
旅立ちという言葉にはもっとこう、胸が熱くなるような響きがあると思っていた。
けれど実際は、替えの下着は足りるかとか、髪をまとめる紐をもう一本買うべきかとか、共同浴場に今朝もう一度寄れるかとか、そういう細かいことが先に頭へ浮かぶ。
私は布団から起き上がり、すぐに窓を開けた。
リネルの朝は、相変わらず小さくて、ちゃんとしている。
パンを焼く匂い。井戸端の声。遠くで鍛冶屋が火を起こす音。
昨日までなら、それをただの町の朝だと思っていた。けれど今日は違う。
この景色を、いったん離れるのだ。
そう思っただけで、胸の奥に小さな重みが落ちた。
「……帰ってくるために行く、か」
昨夜、自分で言った言葉をもう一度口にする。
嘘じゃない。たぶん今の私は、あの町に帰るという感覚をもう持っている。
《微水》で顔を洗い、《洗浄》で肌を整え、《乾燥》で髪を流す。
旅に出る日だからこそ、こういうことはきちんとしたい。
髪先が落ち着いて、前髪がきれいに流れたのを金属板で確認して、私は少しだけ安心した。
異世界に来て思ったけれど、清潔って本当に大事だ。
心の揺れをゼロにはできない。でも、整えておくことで余計な不安を一段下げられる。
戦う時に姿勢が大事なのと、たぶん同じ理屈だ。
荷物を見直す。
着替え、布、生活用品、携帯食、紐、革袋、小刀、予備の靴紐。
剣は腰。
本登録タグは首。
そして、昨夜から妙に静かなままの、あの青い剣。
鞘の上から触れると、やはり完全な沈黙ではない。
遠くで糸が張っているみたいな、張力だけが伝わってくる。
「行くよ」
誰に向けるでもなくそう言って、私は部屋を出た。
ギルドの朝は早い。
すでに広間には人の出入りがあり、依頼板の前では何人かが話し込んでいた。
でも今日は、いつもの仕事前のざわめきに、少し別の空気が混じっている。
私たちが旅立つことは、町の中ではもう半分くらい共有されているらしい。
辺境の町は、秘密が保たれにくいかわりに、誰かの動きもすぐ広まる。
「お、来たか」
最初に声をかけてきたのはドルクさんだった。
門番なのに、今日はわざわざギルドまで来ている。隣には当然、ミオもいた。
「見送りですか」と私。
「確認だ」とドルクさん。
「何の?」
「本当に行く顔をしてるかどうかのな」
ミオが横から口を挟む。
「それと、ちゃんと帰ってくる顔してるかもです!」
「それは見てわかるの?」
「わかる時はわかります!」
元気がいい。
こういう時、その勢いはありがたい。
ドルクさんは私の荷物を一瞥してから、ふっと鼻を鳴らした。
「無駄は少ないな。最初に森から出てきた時とはえらい違いだ」
「比較対象がパジャマ姿なので、だいたい何でも改善です」
ミオが吹き出す。
「それはそう!」
少し遅れて、フィアが学舎の鞄を抱えて駆け込んできた。
今日はいつものローブではなく、動きやすそうな薄緑の旅装に、学舎支給らしい短い外套を重ねている。髪も後ろでまとめていて、いつもより少しだけ大人っぽく見えた。
たぶん本人は気づいていないだろうけど、こういう子は整えると余計かわいい。
「お、お待たせしました!」
「待ってない」とルクトが壁際から言う。
「来る前提で見てただろ」と私。
「否定はしない」
ルクトは今日もいつも通りだった。
軽装の革鎧に短剣二本。荷物は最小限。
無駄がなくて、立っているだけで絵になる。本人に言うと嫌そうな顔をするので言わないけれど、本当にこの人は見た目がいい。顔だけじゃなくて、全体の線がきれいだ。たぶんそういうのは戦い方にも出る。
「スズカさん、何か今、失礼なこと考えませんでした?」とフィア。
「考えてない」
「絶対ちょっと何か考えましたよね」
「歩き方が無駄ないなって思っただけ」
「私じゃなくてルクトさんの方!」
ルクトが小さくため息をついた。
「お前ら、朝から元気だな」
元気、というより、緊張をごまかしているだけかもしれない。
でも、そのくらいの軽さは必要だった。
見送りは、思っていたより多かった。
ベルナさんは店の前に立って、腕を組んだまま私を見るなり言った。
「服、破って帰ってくるんじゃないよ」
「なるべく頑張ります」
「なるべくじゃない。ちゃんとだ」
「はい」
そう返すと、ベルナさんは鼻を鳴らしながら、小さな包みを押しつけてきた。
「替えの下着と、丈夫な布だ。旅先で困るのはそういうとこだからね」
私は一瞬だけ固まった。
ありがたすぎて、逆に言葉が詰まったのだ。
「……ありがとうございます」
「礼は帰ってきてからでいい。
あと、フィア。あんたもだよ。ローブの裾、いつも引っかけそうで見てて怖いんだ」
「えっ、わたしの分もあるんですか!?」
「あるよ。支援術師は身ぎれいで動きやすく、これ基本」
ベルナさん、本当に面倒見がいい。
宿の女将さんは、朝なのにやけにしんみりした顔で手を振ってきた。
「あんた、水汲み二回しか手伝ってないのに、妙に長くいた気がするねえ」
「私もそんな感じです」
「帰ってきたら、次はちゃんと連泊扱いにしてやるよ」
「その時はお願いします」
「無茶だけはするんじゃないよ」
「はい」
祖母に言われるのとはまた違う重みがあった。
ここには家族はいない。いないけれど、こういうふうに言ってくれる人たちがいる。
広場の屋台のおじさんは、焼きたての丸パンを一袋くれた。
「旅の初日で腹減らしてると、だいたいろくな判断しないからな」
「そんなに顔に出ますか、私」
「出る出る。あんた、腹減るとちょっと目つきが勝負前みたいになる」
それは自覚がなかった。
フィアが横で笑う。
「それ、すごくわかります」
「え、ほんとに?」
「ほんとです」
ちょっと恥ずかしい。
そして学舎からは、セレネ先生が顔を出していた。
忙しいだろうに、わざわざ時間を作ってくれたらしい。
「フィア」
「はい!」
「記録は忘れないこと。わからないことをわからないまま書かないこと。
そして、自分が怖いと思った時は、それを恥ずかしがらないこと」
「はい」
「怖いという感覚は才能です。失う方が危ない」
フィアは真剣な顔で頷いた。
先生はそれから私とルクトにも目を向ける。
「二人とも。フィアを甘やかさなくていいですが、無理をしている時は見逃さないでください」
「了解」とルクト。
「わかりました」と私。
セレネ先生は最後に、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「行ってらっしゃい」
その一言が、意外なくらい胸に来た。
出発前の最後の時間は、妙に静かだった。
大げさな式もない。
ただ、ギルド前に集まった何人かが手を振り、門の方からドルクさんとミオが見送り、ベルナさんが「破くなよ」と二回目を言い、セレネ先生がフィアに「記録」とだけ念押しし、宿の女将さんが「帰ったら部屋空けとくよ」と笑う。
それだけだ。
でも、それで十分だった。
門を抜ける前に、私は一度だけ振り返る。
リネルは、やっぱり小さい。
石造りの建物も、低い屋根も、煙突の煙も、全部がこぢんまりしている。
でも、私にとっては最初の町で、最初の居場所で、最初に帰る場所になった。
「行ってきます」
小さくそう言うと、隣でフィアも同じように呟いた。
「行ってきます」
ルクトだけは何も言わなかった。
でも、そのまま足を止めずに歩き出したので、たぶん彼なりのけじめは済んでいるのだろう。
私はその背中を追いながら思う。
ここを離れるのは、寂しい。
でも、怖いから止まる気はない。
帰ってくるために、行く。
その気持ちだけは、思っていたよりずっとはっきりしていた。




