旅立ち
その夜、リネルのギルドは珍しく遅くまで灯りがついた。
ハルドさんは塔で起きたことを聞き、しばらく無言で額を押さえていた。
マルタさんは《縫界片》と記録をまとめ、フィアは学舎提出用の観測記録を書き、ルクトは町周辺の警戒配置についてドルクさんたちと短く話をしている。
私は椅子に座り、剣を膝に置いていた。
閉じたあとも、刃の青い筋は完全には静まっていない。
でも、前よりわかる。
この剣は壊すためじゃなく、つなぐためにある。
だからこそ、たぶん狙われる。
ハルドさんがようやく口を開いた。
「結論を言う。リネルに置いておける話じゃなくなった」
部屋の空気が引き締まる。
「旧中継塔の異常、魔王軍側の偵察、スズカの剣、得体の知れん旅商人――」
「その並びに入るんですね、私」とえんちゃんが小さく言った。
「当然だ」とルクト。
ハルドさんは続けた。
「王都まで行けとは言わん。だが、少なくとも辺境管理局のある中核都市までは報告を上げる必要がある。
マルタ、お前も行けるな」
「はい。むしろわたしが行くべきです」
「フィア」
「行きます」と即答だった。
セレネ先生の顔が一瞬浮かんだけれど、たぶん今回ばかりは止めないだろう。むしろ記録を持ち帰れと言いそうだ。
ルクトは肩をすくめる。
「どうせ私もだろ」
「当然だ」
最後に、ハルドさんの視線が私へ向く。
「スズカ。お前はこの件の中心だ。
嫌でも町の外へ出ることになる」
私は少しだけ目を伏せた。
旅立ち。
その言葉を、どこかで予感していた。
この小さな町だけで終わるわけがないと、もうわかっていた。
でも、実際にそう言葉にされると、胸の奥が少しだけ重くなる。
リネルは小さい。
でも、知らない世界で最初に居場所をくれた町だ。門番がいて、宿があって、ギルドがあって、共同浴場があって、顔を覚えてくれる人がいる。
そこを離れる。
「……行きます」
声は思ったより静かだった。
「帰ってくるために、行く」
ハルドさんが頷く。
「それでいい」
フィアが私の横で、小さく拳を握った。
「わたしも行きます。今度こそ、本当にちゃんと役に立ちます」
「もう役に立ってるよ」と私は言った。
フィアは少しだけ目を丸くして、それから照れたみたいに笑う。
ルクトはいつもの眠そうな顔のまま、でもはっきり言った。
「じゃあ、決まりだな。
新人二人と、面倒ごと一式を連れて、明日発つ」
「面倒ごと一式って私だけじゃないよね」と私。
「半分はお前だ」
「残り半分は?」とフィア。
ルクトは、部屋の隅で小さくなっているえんちゃんを見た。
「たぶん、あいつ」
「ええっ!?」
全員の視線が集まる。
えんちゃんはしばらく固まってから、ものすごく控えめに手を挙げた。
「……あの、もし可能なら、途中まで同道という形で……」
「やっぱり来るんだ」と私。
「仕事で……」
「何の?」とまた聞くと、
えんちゃんは今度こそ本気で困った顔をした。
その顔があまりにも誤魔化しが下手な人だったので、私は逆に少しだけ警戒を解いてしまった。
たぶんこの人は、敵じゃない。
でも味方と断言できるほど、まだ何も知らない。
それでも明日、私たちは町を出る。
小さなリネルから、もっと広い世界へ。
終わっていない戦いのある場所へ。
十賢者の名が現実に聞こえる場所へ。
魔王軍の影が、はっきり形を持つ場所へ。
そして、その旅の最初の一歩に、
どうしようもなく怪しい旅商人と、残業帰りみたいな顔をした世界の裏方が混ざることになるなんて、少し前の私なら想像もしなかった。
夜の終わり、ギルドの窓から外を見る。
リネルの灯りは、今日も小さくてあたたかい。
その灯りを背にして進むのは、少し怖い。
でも、怖いから止まる気はなかった。
マニュアルがないなら、自分で確かめに行くしかない。
私の剣が何なのか。
世界の縫い目がどうして裂けるのか。
そして、あの旅商人が何者なのかも。
明日、旅に出る。
その事実だけが、妙に静かに胸へ落ちてきた。




