縫う刃、裂ける景色
景色が裂けた。
音より先に、目の前の空気が縦に割れたように見えた。
いや、空気じゃない。そこにあったはずの夕暮れの丘陵、旧中継塔の石壁、草の揺れ、空の色――そういう“世界の並び方”そのものが、無理やり左右に引き剥がされた。
裂け目の奥は、暗くなかった。
むしろ逆だった。
色が多すぎる。遠近が合っていない。近いはずの石が遠くに見えて、遠いはずの空がすぐ目の前に垂れている。誰かが失敗した絵の具を、乾く前にもう一度塗り重ねたみたいな、ひどく落ち着かない景色だった。
「下がれ!」
ルクトの声が飛ぶ。
私は反射でフィアの前へ出た。
剣を抜く。青い筋が、夕暮れの中で今まで見たことがないくらい濃く光った。
裂け目は、昨日見た穴とは比べものにならない。
塔の足元から壁面にかけて、目に見えない布を誰かが横に強く引っ張って、その縫い目がまとめて浮き上がってきたような形をしている。細いひびではなく、もう傷口だった。
フィアが息を呑む音が聞こえる。
「昨日より、ずっとひどい……!」
マルタさんは塔の石壁と裂け目を交互に見て、蒼白な顔で呟いた。
「共鳴が強すぎる……まさか、遺構そのものが継ぎ目の節点だったなんて……」
「学術解説は後だ!」
ルクトが短剣を構え、塔の側面へ回る。
その動きに迷いはない。でも、迷いがないのと余裕があるのは別だ。私にもわかった。ルクトは今、完全にいつも以上に張り詰めている。
裂け目の奥から、何かが出てきた。
狼にも見える。人にも見える。
四足の獣が歩いていると思った次の瞬間、肩の位置が高くなり、腕のようなものが垂れ下がる。顔の輪郭は定まらず、目だけが赤い。足音があるのに、接地の感覚が薄い。存在しているのに、まだこの世界に入りきっていない感じがする。
一体だけじゃなかった。
二体、三体。
その後ろに、もっと大きな影。
「影兵か……!」
ルクトの声が低くなる。
「知ってるの?」と私。
「魔王軍の下級浸潤兵だ。
でも普通は、こんな辺境の継ぎ目から直接出てこない」
その言葉が終わる前に、最前列の一体が地面を蹴った。
速い。
けれど昨日と違って、ずれ方がひどい。真正面に来ると思ったのに、視界の端に現れる。左から来たと思ったものが、次の瞬間には頭上にいる。
私はフィアを庇う位置を保ったまま、無理に追わず、呼吸を合わせた。
剣道で教わったことのひとつに、見えない時ほど足から整えろ、というのがある。目が惑う時、体まで流されると終わる。
足裏。重心。肩の力。呼吸。
一体が飛び込んでくる。
完全には見えない。なら、見えた部分だけで読む。
私は半歩ずれて剣を振った。
青い軌跡が走る。
手応えは薄い。やっぱり半分ほど向こう側に逃げられる。
「薄い!」と私。
「だから言った!」とルクト。
次の瞬間、フィアの杖先から白い光が弧を描いた。
「《薄明の標》!」
光が裂け目の周囲へ散り、影兵たちの輪郭が一瞬だけ固定される。
曖昧だった線が、わずかにこちらへ寄る。
「今なら触れます!」
フィアの声に、私は踏み込んだ。
一体目。首筋。
二体目。前脚の付け根。
斬る、というより、引っかけるように軌道を合わせる。
手応えはある。けれど、まだ弱い。
斬っても霧のように揺らぎ、完全には崩れない。
その間を縫うように、ルクトが入った。
短剣が二閃。
低く、速く、的確に、固定された一瞬だけを切り抜く。
やっぱり強い。派手じゃないのに、相手の嫌がる場所を正確に取っていく。見た目が整っているだけじゃなくて、中身まで無駄がないのが少し悔しい。
でも、三体目の影兵が突然、形を変えた。
獣のようだった上半身が、急に人型へ近づく。腕が伸びる。
その手に、黒い槍のようなものが生まれた。
「フィア!」
私が叫ぶより早く、槍が投げられる。
フィアは回避のために身を引いたけれど、完全には避けきれない。
その瞬間、私は考えるより先に前へ出ていた。
剣を横に払う。
黒い槍と刃が触れた途端、耳の奥で高い音が鳴った。
きん。
金属じゃない。
糸を硬く張って、それを爪で弾いたみたいな音だった。
次の瞬間、青い線が槍の軌道に沿って走り、黒い槍の形そのものがばらける。
ばらけた破片は地面に落ちず、そのまま空気へ溶けた。
「……今のは」
私が呟いた瞬間、裂け目の奥で何かが脈打った。
どくん、と。
世界そのものの鼓動みたいに。
塔の石壁に刻まれた青い紋が一斉に光る。
私の剣も呼応するように熱を持つ。熱いのに、燃える感じじゃない。むしろ逆だ。ほどけた糸を指でたぐり寄せる時みたいな、奇妙に冷静な感覚が流れ込んでくる。
そして私は、初めて“わかった”。
この剣は、ただ強く斬るためのものじゃない。
線を見つけるためのものだ。
裂け目の端と端。
今にも離れそうになっている世界の縁。
目には見えないけれど、確かにそこにあるつながるべき線。
「スズカ!」
ルクトの声が遠く聞こえる。
私は一歩前へ出た。
裂け目が近い。普通なら危険だ。危険だと頭ではわかっているのに、剣がそこだと教えてくる。
フィアが必死の声を上げる。
「近づきすぎです!」
「でも、わかる……!」
「何が!?」
「たぶん、これ、斬るんじゃない!」
自分で言いながら、正しいかどうかはわからない。
それでも、今までの勘より深いところで、そうだと理解していた。
裂け目の端は、破れているというより、外れている。
縫い目が切れたんじゃない。引っ張られて、かみ合わなくなっている。
なら、やることはひとつだ。
私は剣を逆手気味に持ち替え、裂け目へ刃を差し込むように近づけた。
斬る軌道ではなく、線をなぞる軌道。
竹刀で打つ時のような勢いはいらない。必要なのは、相手の中心を外さないこと。
刃先が裂け目の縁へ触れた瞬間、青白い光が一気に走った。
それは火花じゃなかった。
糸だ。細い、無数の青い糸。
裂け目の左右に散っていた景色の断片が、その糸に引かれるように元の位置へ戻っていく。
空の色が空へ。石の輪郭が石へ。草の揺れが草へ。
ずれていたものが、少しずつ噛み合っていく。
「縫ってる……」
フィアの呆然とした声。
そうだ。
私は今、たぶん本当に“縫って”いる。
剣を横へ引く。
縁から縁へ。
ほどけた布の合わせ目を、表からなぞるみたいに。
裂け目が抵抗する。
引き離そうとする力がある。
腕が重い。足元が不安定になる。頭の奥に誰かの知らない記憶みたいな光景が流れ込む。遠い塔、燃える街、青い紋を刻む手、泣きながら何かを閉じようとする誰か。
「スズカ、戻れ!」とルクト。
戻れない。
ここで手を離したら、たぶんもっと大きく裂ける。
私は歯を食いしばった。
勝ち負けのあることにしか夢中になれない。そう思ってきた。
でも今は違う。これは勝負というより、譲れない線だ。
「……閉じろ!」
自分でも何に言っているのかわからないまま、最後の一押しで剣を走らせた。
青い糸が強く張る。
そして――裂け目が、閉じた。
完全じゃない。
傷跡のような細い線が、塔の前に一本だけ残っている。
でも、さっきまであれだけ暴れていた影兵たちは、その線が閉じた瞬間にまとめて輪郭を失い、黒い灰みたいに崩れた。
静寂が来る。
遅れて、膝から力が抜けた。
「スズカ!」
誰かが支える。
ルクトだとわかったのは、肩を掴む手が無駄に安定していたからだ。
「無茶しすぎだ」
「……ごめん」
「今のは謝る前に説明しろ」
「説明できる気がしない」
「だろうな」
フィアが駆け寄ってきて、半泣きの顔で私の腕に触れる。
「痛いところないですか!? 気分悪くないですか!? 見えてる景色、ちゃんと一枚ですか!?」
最後の確認が妙に具体的だった。
「たぶん、大丈夫」
「たぶん禁止です!」
その声が震えていて、私は少しだけ申し訳なくなった。
マルタさんは息を荒くしながら、残った細い傷跡の線を見つめていた。
「閉じた……いや、縫い留めた……
古文献の記述が比喩じゃなかったなんて……」
その時だった。
塔の裏手、草むらの向こうから、がさっと音がした。
全員の視線が向く。
そして、旅商人姿のえんちゃんが、ものすごく気まずそうな顔で半分だけ姿を見せた。
「あー……えっと……通りすがりです」
「通りすがりが何で塔の裏にいるんですか」と私。
「そうだぞ」とルクト。
「お、お仕事で……」
「何の?」
「……雑務?」
説得力が壊滅的だった。
私は立ち上がろうとして、少しだけふらつく。
えんちゃんは反射で一歩出かけて、それから「まずい」と言いたげに止まる。
その迷い方が、余計に怪しい。
「あなた、前にもいたよね」
「気のせいでは……」
「夕方の挨拶が下手な旅商人って、そんなに何人もいないと思う」
フィアが小さく「たしかに」と頷いた。
ルクトは完全に疑いの目だ。
えんちゃんが逃げようとした、その時。
塔のさらに向こう、丘陵の影に、別の気配が落ちた。
冷たい。
細い。
人間じゃない。
ルクトが一瞬で表情を変える。
「伏せろ!」
次の瞬間、闇の中から黒い矢が飛んだ。
えんちゃんはとっさに荷袋を前に出した。
矢が袋を貫き、中から木製の判子みたいなものや紙束がばらばら落ちる。
「いたっ! いたくはないけど危ない!」
悲鳴としてだいぶ情けない。
丘の上には、黒い外套をまとった細身の影が立っていた。
顔は見えない。けれど、その周囲だけ空気の色が暗い。
フィアが息を呑む。
「人……じゃない」
マルタさんが震える声で言う。
「影兵の指揮個体……!」
ルクトの目が鋭く細まる。
「魔王軍の影が、もうここまで来てるのか」
黒い外套の影は、こちらを観察するみたいにしばらく動かなかった。
その視線が、私の剣に止まる。
それから、えんちゃんの足元に散らばった補修具にも、一瞬だけ。
ぞくり、と背筋が冷えた。
あれは見た。
たぶん、全部見た。
影は次の瞬間、風に溶けるみたいに後退し、そのまま丘の向こうへ消えた。追える距離じゃない。追うべき相手でもないのが、直感でわかる。
ルクトが舌打ちする。
「最悪だな」
「知り合い?」と私。
「知り合いで済むなら楽だ。
ああいうのは、偵察か、値踏みだ。どっちにしてもろくでもない」
つまり、見られた。
この町の外れで起きた異常も、私の剣も、たぶんあの怪しい旅商人も。
えんちゃんは荷物を拾い集めながら、心の中で半泣きになっていた。
専務! 現場が想定より三段階くらい悪化しました!
というか敵にも見られました!
これ報告書どう書けばいいの!?
でも現実のえんちゃんは、何とか取り繕うように笑った。
「と、とりあえず、ここ危ないので、町に戻った方が……」
「あなたも一緒に来る」と私が言った。
「えっ」
「今ので“通りすがり”は無理」
ルクトも頷く。
「事情聴取だな」
フィアはえんちゃんの荷物から落ちた判子を拾って首を傾げる。
「これ、何に使うんですか?」
「文房具……みたいなものです……」
文房具で済む顔ではなかった




