専務の褒め方と、裂け目の手前
その頃、世界の裏側では、まったく夢のない戦いが続いていた。
「報告書の一文目で、もうダメだな」
朝。
えんちゃんは会議室で、提出したばかりの書類を専務に突き返されていた。
相手は新たにこの案件へ目を通すことになった専務、御厨専務。
フクロウ風の外見で、丸眼鏡の奥にある目がやたらと静かだ。静かなのに、見逃してくれそうな気配が一切ない。声も低く穏やかで、その分だけ逃げ道がない。
えんちゃんは机の端を握りしめた。
「だ、ダメですか……」
「ダメだ。
現場のがんばりにより、なんとか危機を回避は報告書じゃない。感想文だ」
「はい……」
「なんとかで済ませるな。何が、どこで、どう危険で、何をして、どこまで戻したのか。
努力は結果に変換してから持ってこい」
ものすごく正しい。
正しすぎてつらい。
会議室の隅では、赤坂部長が腕を組み、みなちゃんが半分だけ同情した顔をしていた。
御厨専務は書類を指先で整えながら続ける。
「君は設計者としての熱はある。そこは否定しない。
ただ、熱で穴を埋める癖がある。現場はそれで回っても、組織は回らない」
えんちゃんは心の中でぐさぐさ刺さっていた。
だいたい合っているからだ。
御厨専務は客観的ロジック派である。
数字、構造、因果、再現性。そういうものを好む。
感情を嫌うわけではない。けれど感情だけで仕事を評価しない。
その一方で、妙に変なところで人の記憶に残る人でもあった。
たとえば食事だ。
社内食堂で誰かが「このカレー、おいしいですね」と言った時、御厨専務は首を横に振った。
「それは違う。これは十分に良い。だが、本当にうまいとは別だ」
一同が凍りつく中、専務は平然と続けた。
「そのへんのものを気軽にうまいと言うな。
本気でうまいものを作るために、十年二十年と鍋の前に立った職人に失礼だ」
面倒くさい。
でも、言っていることは筋が通っていた。
逆に、部下に対しては別の軸を持っている。
新人が昨日までできなかった集計を、今日はミスなくこなした。
以前は散らかっていた資料を、今日は順番通りに並べられた。
そういうひとつできるようになったことに対しては、御厨専務は驚くほどきちんと褒める。
「そこは良くなった」
「それは前より明確だ」
「今の一文は正しい」
大げさではない。
でも、その一言をもらった若手はだいたい、その日ずっと少し背筋が伸びている。
えんちゃんは、その専務から、前者の褒め言葉が欲しかった。
悪くないではなく。
筋は通っているでもなく。
御厨専務が、心から「これは良い」と言う瞬間の言葉を、自分の作った世界で引き出したかった。
理由は単純だ。
その言葉が出た時だけ、この人は絶対にごまかしていないとわかるから。
だから、えんちゃんは残業する。
泥臭く現場を走る。
判子みたいな緊急補修具を持って草むらに潜る。
報告書でなんとかを消して、局地継ぎ目異常の仮縫合に成功みたいな堅い言葉へ直す。
ロマンは減る。
でも、たぶん必要な工程だった。
「書き直せ」と御厨専務。
「はい……」
「ただし」
えんちゃんが顔を上げる。
専務は新しい報告書の端を、指先で軽く叩いた。
「現場判断で、主人公の前に出なかったのは良い。
説明したくなる場面で、説明しない方を選べたのも良い。
設計者は、自分の作ったものに喋らせすぎる癖がある。そこを我慢できたのは進歩だ」
えんちゃんは数秒固まった。
それから、じわじわと胸の内側が熱くなる。
進歩。
良い。
それは、専務が部下向けに使う、ちゃんとした褒め言葉の方だった。
「……ありがとうございます」
「礼を言う暇があるなら、次は構造で見せろ」
「はい!」
みなちゃんが横から小声で言う。
「よかったじゃん」
「うん……でも、まだ本当に良いじゃない……」
「そこ狙ってるの、ほんと面倒くさい向上心だよね」
否定はできなかった。
御厨専務は最後に、画面へ映し出されたリネル周辺の異常図を見ながら言った。
「継ぎ目の乱れは、雑だが意図がある。自然劣化だけではないな。
誰かが縫い、誰かが引っ張っている。
なら、現場の偶然に期待するな。次は先に手を打て」
「先に……」
「主人公を守るのが目的ではない。世界の論理を壊さず、なおかつ進行を止めないことが目的だ」
その考え方は、冷たく見えるかもしれない。
でもえんちゃんは知っていた。この人は、ものを雑に褒めないのと同じくらい、ものを雑に切り捨てない。
だからこそ、認められたい。
えんちゃんは書類を抱え直し、再び現場用の簡易擬装セットへ手を伸ばした。
残業はまだ終わらない。
けれど少なくとも、今日は少しだけ、昨日より前に進んでいた。
午後、ギルドの裏手にある訓練場で、私はマルタさんから《縫界片》を見せてもらっていた。
薄い青の欠片。
ガラスにも氷にも似ているのに、どちらとも違う。光にかざすと内部に細い線が走っていて、まるで見えない布地の繊維が閉じ込められているみたいだった。
「触ってもいいですか」
「慎重に、ですが」
受け取った瞬間、腰の剣がかすかに鳴った。
音ではない。
でも、鳴ったとしか言いようのない反応だった。
細い糸を爪で弾いたみたいに、空気のどこかがぴんと張る。
フィアが息を呑む。
「またです」
「見えるの?」
「見える、というか……剣のまわりだけ、少し色が変わります」
ルクトは腕を組んだまま、私の手元をじっと見ていた。
「昨日より強いな」
「そう感じる?」
「ああ。塔の時は、向こうから呼んでた。今は剣の方も返してる感じだ」
返してる。
その言い方は妙にしっくりきた。
私は剣を少しだけ抜いた。
刃の青い筋が、欠片に近づけた瞬間だけわずかに濃くなる。
「この剣、やっぱり“あっち側”に触るためのものなんですかね」
自分で言っていて、よくわからない。
でも、《境を縫い止める刃》なんて言葉を聞かされたあとでは、ただの武器扱いをする方が不自然だった。
マルタさんは慎重に答える。
「断定はできません。けれど、少なくとも通常の魔導兵装ではありません。
境界術式か、古代の保全技術か、それに近い系統だと思います」
「保全技術」
「古い文献には、世界の“縁”を固定するための装置や術式の話が稀に出てきます。
ただ、多くは神話寄りで、実在証明が難しい。学者の間でも半分は眉唾です」
「その眉唾が、今ここで光ってるわけだ」
ルクトの言い方は雑だけど、核心だった。
その時だった。
訓練場の端に置いてあった木箱が、一瞬だけぶれた。
位置が、半歩分だけずれたように見えたのだ。
私は思わず目をこする。
でも、フィアはすぐに杖を握った。
「今、揺れました!」
ルクトも低く言う。
「見えたな」
マルタさんの顔が強張る。
昼間の、しかもギルドの敷地内で。
旧中継塔だけじゃない。異常は町の中へ近づいている。
木箱の近くへ行くと、地面の上に細い亀裂のような光が一瞬だけ走って、すぐ消えた。
爪で引っ掻いたような、小さく浅い線。でも、その線を見た瞬間、剣が強く熱を持った。
「……っ」
反射で柄を握る。
すると、刃の青い筋がほんの少しだけ浮き上がり、その亀裂のあった場所へ向かって、見えない何かがぴたりと吸いつく感覚がした。
次の瞬間、違和感が消える。
フィアが目を見開いた。
「消えた……」
「消したのか?」とルクト。
「わからない。勝手にそうなった」
本当にわからなかった。
けれど少なくとも、この剣は異常を斬るだけじゃない。
触れて、押さえて、閉じるようなことをしている。
それはもう、普通の戦い方からはだいぶ外れていた。
ハルドさんが訓練場へ入ってきたのは、その直後だった。
私たちの顔を見て、だいたい察したらしい。
「また出たか」
「はい。小さいですけど、町の中で」とマルタさん。
ハルドさんは低く唸った。
「隠して済む段階じゃなくなるな……」
そして、私たち三人を順に見た。
「今夜はもう一度、旧中継塔を見に行く。
昨日の調査で終わる相手じゃない。今度は出たから行くじゃなく、出る前提で行く」
「え」とフィア。
「学校は」
「実地研修扱いの正式書面を、さっき学舎へ返してきた。先生からも了承は取ってある」
仕事が早い。辺境の大人たち、妙にこういう時だけ連携が良い。
「スズカ、ルクト、フィア。お前ら三人で行け。
マルタも同行する。町の警備は別に回す」
私は頷いた。
ルクトは「了解」。
フィアも、ほんの少しだけ緊張しながら「はい」と答える。
その返事のあとで、私は訓練場の地面を見た。
さっきの亀裂はもうどこにも見当たらない。
でも、見えなくなっただけで、消えたと決めつける気にはなれなかった。
世界は、確実にどこかからほどけ始めている。
夕暮れ前、私たちは再び北東丘陵へ向かう準備をしていた。
荷物をまとめていると、ギルドの裏口の方で、聞き覚えのある声がした。
「すみませーん、荷運びのお手伝いとか――」
振り向くと、昨日の旅商人風の男がいた。
まただ。
同じ帽子。
同じ、妙に疲れた顔。
同じ、愛想笑いが下手なくせに頑張ってる感じ。
私がじっと見ていると、向こうもこちらに気づいたらしい。
ぴしっと固まった。
「……こんにちは」
とりあえず言ってみる。
「こ、こんにちは! 良い夕方ですね!」
夕方の挨拶としてはだいぶ怪しい。
ルクトが横でぼそっと言う。
「やっぱり知り合いじゃないのか」
「わからない。でも、すごく怪しい」
フィアが小声で付け加える。
「怪しいのに、悪い人っぽさは薄いんですよね……」
それはわかる。
なんというか、秘密を持ってる人ではあるけど、人を騙すのが上手い人ではまったくない。
私が一歩近づくと、旅商人はなぜか半歩下がった。
「えっと、以前どこかで――」
「荷崩れしてる! 失礼します!」
誰も何もしていない荷車の方へ走っていった。
もはや芸に近い逃げ方だった。
その後ろ姿を見送りながら、私は確信に近いものを持ち始めていた。
この人、絶対に何か知っている。
ただ、その何かが敵意なのか、別の事情なのかがまだ見えない。
一方その頃、荷車の陰へ逃げ込んだえんちゃんは、心の中で完全に崩れ落ちていた。
何で毎回いるの!?
いや、いるのは向こうなんだけど!
でも遭遇率高すぎない!?
今回の任務は、旧中継塔周辺に先回りし、継ぎ目の乱れを可能な限り薄く補修しておくこと。
目立たず、悟られず、成果だけ出す。
御厨専務の言う構造で見せろを実行したい、その一心である。
なのに、肝心の主人公と視線が合うたび、メンタルが先に死ぬ。
えんちゃんは帽子のつばを押さえながら、荷車の陰で小さくうめいた。
「ちゃんとした変装って大事だなあ……」
そこへ、通信端末が震えた。
みなちゃんからだ。
「どう?」
「どう、じゃないよ! また会ったよ!」
「早いねえ」
「他人事!?」
「専務、さっき言ってたよ。現場で同じミスを繰り返すなって」
「刺さるからやめて!」
「でもさ」
みなちゃんの声が少しだけ真面目になる。
「笑ってる場合じゃないかも。
リネルの中心寄りで、小さい継ぎ目異常が出始めてる。旧中継塔だけが原因じゃない」
えんちゃんは顔を上げた。
「広がってる?」
「広がってるというより、引っ張られてる。
誰かが外から触ってる感じもある」
魔王軍側か。
あるいは、もっと別の何かか。
えんちゃんは荷袋の中の補修具と、緊急弱体化スタンプと、書き直し途中の報告メモを見比べた。
泥臭い。
本当に泥臭い。
でも、ここでやるしかない。
「……行くよ」
「うん。で、帰ったら報告書ね」
「現実の一撃が重い」
通信を切って、えんちゃんは大きく息を吐いた。
それから、少しだけ空を見上げる。
もし今日、うまくやれたら。
もし世界の継ぎ目を壊さず、主人公の流れも止めず、ちゃんと前へ進ませることができたなら。
いつか御厨専務に、あの滅多に出ない方の褒め言葉をもらえるだろうか。
悪くないじゃなく。
進歩したでもなく。
これは、ちゃんといい
その一言が欲しい。
欲しいから、今日も走る。
辺境の草むらで判子を持って走るサラリーマンの姿は、たぶん誰が見てもだいぶ情けない。
でも、えんちゃんにとっては割と真剣だった。
旧中継塔へ向かう道で、風が変わった。
昼より冷たい。
そして、音が少ない。
鳥の声がしない。草のこすれる音も薄い。
まるで、世界そのものが息をひそめているみたいだった。
フィアが杖を握り直す。
「昨日より、嫌です」
「わかる」と私。
ルクトも短剣の位置を確かめながら言う。
「今度は最初から出る気だな」
旧中継塔は、夕暮れの中で昨日よりも黒く見えた。
石壁の紋様は、近づく前からうっすら青を帯びている。
私の剣が、鞘の中で細く震えた。
昨日の続き。
でも、ただの続きじゃない。
世界の縫い目は、こちらが見ていない間にも、少しずつ浮き上がっていたのだ。
そして塔の足元、昨日はなかったはずの場所に、細い亀裂が走っていた。
それは土の上ではなく、景色そのものに入ったひびみたいに見えた。
私は息を呑み、剣の柄に手をかけた。
フィアが小さく言う。
「来ます」
ルクトの声が低く落ちる。
「構えろ」
その瞬間、塔の裏から、誰かが小さく「うわ、早い」と呟く声がした。
聞き覚えのある、妙に社会人っぽい焦った声だった。
私は反射でそちらを見た。
でも次の瞬間、景色が裂けた。




