正式加入と、町に浮いた縫い目
旧中継塔から帰ってきた夜、私はたぶんちゃんと眠った。
たぶん、というのは、途中で何度か目が覚めたからだ。
夢の中で、布の端と端がうまく合わず、誰かが無理やり縫い直しているような光景を見た。白い糸が足りなくなって、代わりに青い糸を使ったら、そこだけ妙に目立ってしまう。そんな、変な夢だった。
朝になって宿の窓を開けた時、最初に思ったのは、夢の後味が悪い、ではなかった。
町の音が、ほんの一瞬だけ遅れて聞こえた気がした。
外では荷車が通っている。車輪が石畳を鳴らす音。遠くで鍛冶屋が金属を打つ音。子どもが笑う声。
全部いつも通り、のはずなのに、耳に届くタイミングがごくわずかにずれている。
「……気のせい?」
自分にそう言い聞かせながら顔を洗う。
《微水》で手を濡らし、《洗浄》で肌を整え、《乾燥》で髪を軽く流す。生活魔法は本当に偉大だ。どれだけ世界が不穏でも、髪がまとまるだけで少し落ち着く。
鏡代わりの金属板を見て、前髪の流れを指先で整える。
昨日の塔で土埃をかぶったせいで、毛先が少しぱさついていた。後で油でも探したい。そういうことを考えられるくらいには、私は今も私だった。
ただ、やっぱり町の空気は少し変だった。
宿を出ると、井戸端で水を汲んでいた女性が首を傾げていた。
「さっき、桶の中の空がね、ほんの一瞬だけ夕方みたいな色に見えたのよ」
「寝不足じゃないの」と別の女性が笑う。
「かもしれないけどねえ……」
笑い話にしている。
でも、完全に笑い話とも言い切れない顔だった。
道の角では、パン屋の看板が風もないのにわずかに揺れている。
広場の噴水では、水の落ちる筋が一瞬だけ二重に見えた。
何もかもが、ほんの少しだけ変だ。
致命的ではない。けれど、何でもないで片づけるには気持ちが悪い。
ギルドへ向かう道すがら、私は何度か腰の剣に触れた。
昨日から、この剣は妙な沈黙の仕方をしている。黙っているのに、完全には静かじゃない。触れると、遠くで細く鳴っている糸のような感覚がある。
あの塔の壁に浮かんだ文字。
境を断つにあらず、境を縫い止める刃。
それがこの剣のことだとしたら。
私はいったい何を持たされているんだろう。
ギルドの扉を開けると、いつもより人が多かった。
いや、人数自体は同じかもしれない。ただ、空気がざわついている。
「北の道でまた景色が揺れたらしい」
「用水路の向こう、昨日と石の数が違って見えたって」
「それ、酒のせいじゃなくて?」
冒険者たちがそんな話をしている。
昨日の旧中継塔の件は公表されていないはずなのに、周辺の違和感そのものは隠しようがないらしい。
「あ、スズカさん!」
受付の方からフィアが手を振った。
今日は学舎の制服らしい淡い紺色のワンピースに、短いケープを羽織っている。いつものローブ姿より少し幼く見えるのに、背筋だけはきりっとしていた。
「おはよう」
「おはようございます! あの、今日ちょっと大事な話があって」
その声色で、だいたい察した。
昨日の帰りに言っていた“次からも同行したい”という話だろう。
「学校のこと?」
フィアは一瞬だけ目を丸くしてから、こくりと頷いた。
「はい。そこが、いちばんの問題で……」
やっぱりか。
昨日は流れでチーム結成みたいな空気になった。
でも、フィアはまだ学舎に通う見習い術師だ。町のギルドで午前だけ手伝っているとはいえ、好き勝手に危険地帯へ出ていい立場ではない。
「ハルドさんとマルタさんも来てる。ルクトももういるから、奥で話そう」
フィアの顔は真剣だった。
かわいい顔をしているのに、こういう時はちゃんと覚悟が見える。そこがこの子のすごいところだと思う。
奥の会議卓では、ルクトが眠そうな顔で椅子に座っていた。
相変わらずやる気があるのかないのかわからないのに、そこにいるだけで場が締まるのはずるい。顔立ちも整ってるし、立っても座っても見栄えがする。本人はたぶん、そのへんを一ミリも武器だと思っていない。
「おはよう」と私が言うと、
「おう」とだけ返ってくる。
短い。けれど、いつも通りで少し安心する。
マルタさんはすでに紙束を広げ、昨日の塔で見つかった《縫界片》と写本を並べていた。ハルドさんは腕を組み、今にも面倒な話を始めそうな顔をしている。
実際、面倒な話だった。
「フィアの同行についてだ」とハルドさん。
「昨日の件で、こいつの感知能力が使えるのははっきりした。だが、こいつはまだ学舎所属だ」
「はい」とフィア。
「本格的に調査へ絡めるなら、学校側の許可が要る。無断で危険地帯に連れ回したと知れたら、ギルドも学舎も揉める」
揉める、で済めばまだいい方だろう。
フィアは膝の上で手を握りしめていた。
「わたし、行きたいです」
小さい声だった。
でも、はっきりしていた。
「昨日のあれ、たぶんこれで終わりじゃないです。あの感じ、また出ます。町の近くで。もっと近くに。
それに、スズカさんの剣に何か関係があるなら、見える人と感じられる人がいた方がいいと思うんです」
「自分の実力で、どこまでできるかわかってるか?」
ハルドさんの問いは厳しかった。
でも責めるためじゃない。確認だ。
フィアは一度だけ深呼吸した。
「前に出て戦うのは苦手です。足も遅いです。怖がりです。
でも、魔力の乱れを見ること、支援すること、生活系と回復補助を維持することならできます。
あと、危ない時に危ないって言うのは、ちゃんとできます」
ルクトが小さく鼻を鳴らした。
「最後のは大事だな」
「大事です!」とフィア。
「知ってる」
何だかんだ、この二人は息が合っている。
私はフィアの顔を見た。
昨日の戦いで、この子は怖かったはずだ。足も震えていた。でも逃げなかった。必要なタイミングで補助を入れた。あれは簡単なことじゃない。
「私からもお願いしたいです」と私は言った。
「フィアがいると助かる。実際に昨日もそうだった。
ただ、学校に無理を通してまでってなると違うとも思う。だから、ちゃんと話を通して、それで駄目なら――」
「駄目じゃ困るんです」とフィアがかぶせた。
それは珍しく強い口調だった。
「困る、です」
言い直した声は少しだけ震えていたけれど、それでも彼女は視線を逸らさなかった。
「わたし、小さい頃から身体が弱くて、みんなの後ろで守られる側でした。
だから術師になろうって思ったのに、気づいたら安全な範囲で役に立つ子って扱いで止まってて。
もちろん、それが悪いわけじゃないです。でも、昨日みたいに本当に必要な時に外へ出られないなら、何のために勉強してるんだろうって……思うんです」
その言葉には、年相応の意地と、年相応じゃない切実さがあった。
会議卓の空気が少しだけ変わる。
マルタさんが静かに口を開いた。
「学舎側には、わたしから正式に協力要請を出します。
フィアさん個人の“わがまま”ではなく、辺境史跡管理と境界異常調査の一環として。
その上で、実地研修扱いにできるなら、おそらく通るでしょう」
「通るんですか?」と私。
「完全に安全ではないですが、完全に机上でもない案件ですから。こういう時のために、辺境の学舎は融通を持たせています」
ルクトが気だるそうに言う。
「要は、先生を説得できるかどうかだな」
「そういうことです」とマルタさん。
フィアはぎゅっと拳を握った。
「じゃあ、行きます。今から」
「今から?」と私。
「先生、朝のうちなら捕まえやすいので!」
そこは妙に現実的だった。
リネル魔法学舎は、町の中心から少し外れた、白い漆喰壁の二階建てだった。
王都の大きな学院と比べれば簡素なのだろうけれど、小さな町には十分すぎるほど立派に見える。蔦の絡んだ石門、薬草の植わった庭、窓辺に干された実験用らしい布。建物全体から、小さいけど真面目な空気がした。
フィアは門の前で一度だけ立ち止まり、それからくるりと私たちを振り返った。
「えっと……できれば、変に怖い顔しないでもらえると助かります」
「誰がだ」とルクト。
「ルクトさんです」
「失礼だな。これが標準だ」
「知ってますけど!」
私は思わず笑いそうになるのをこらえた。
でも、緊張しているのはフィア自身なのだろう。いつもより少し早口だ。
迎えてくれたのは、長い銀灰色の髪を後ろでまとめた女の先生だった。
年齢は三十代くらいだろうか。細身で、目元が涼しい。柔らかく見えるのに、たぶん甘くはないタイプだ。
「フィア。ギルドから連絡は受けています」
「セレネ先生……」
「まず結論から言います。無断で危険地帯へ行ったことについては、本来なら叱ります」
フィアの肩がびくっと揺れる。
「ですが今回は、ギルド側と史跡管理の事情も理解しました。
そのうえで、あなたが正式に実地研修として同行するなら、条件があります」
はい、とフィアが姿勢を正した。
先生の視線は鋭いけれど、切り捨てる感じではない。
「ひとつ。単独行動をしないこと。
ひとつ。前衛の指示を無視して前へ出ないこと。
ひとつ。魔力観測と支援記録を毎回提出すること。
そして――学業を落とさないこと」
最後だけ、言い方がほんの少しだけ強かった。
「できる?」
フィアはきっぱり答えた。
「できます」
「即答はいいけれど、根性論で乗り切るのはやめなさい」
「はい」
「あなたは生活魔法と支援術式の組み立てが丁寧です。そこは誇っていい。
でも、持久力と判断の詰めが甘い時がある。実地に出るなら、その弱点も自覚しなさい」
私はそこで少し驚いた。
先生の言葉が、頭ごなしじゃなかったからだ。
できているところを認めて、その上で足りないところを言う。
言われる方は耳が痛いけれど、たぶんいちばん真っ当だ。
フィアも同じことを感じたのか、まっすぐに頷いていた。
「セレネ先生。わたし、ちゃんとやります」
「ええ。やりなさい。
それと、スズカさん」
急に名前を呼ばれて、私は少しだけ背筋を伸ばした。
「はい」
「フィアは見た目より無茶をします」
「先生!?」
「知っておいて損はありません。支援役は、自分を削ってでも回そうとする癖がある。
守るという意味ではなく、止めるという意味で、あなたに少し期待します」
私は一瞬だけ言葉に迷って、それから答えた。
「……わかりました。できる限り」
セレネ先生は小さく頷いた。
その反応が、思っていたよりずっと真面目で、重かった。
つまりこれは、ただの“かわいい見習い術師が仲間になりました”ではない。
学校と責任があって、その上で外へ出ることを選ぶ、ということだ。
学舎を出たあと、フィアはしばらく無言だった。
門を離れて、ようやくふうっと息を吐く。
「緊張しました……」
「見ててわかった」とルクト。
「ルクトさんは緊張しないんですか?」
「する時はする」
「想像できません」
「失礼な二回目だな」
私はフィアの横顔を見た。
ほっとしている。けれど、その奥にちゃんと嬉しさがある。
「正式に、ってことでいいんだよね」
そう言うと、フィアはぱっと顔を上げた。
「はい。たぶん、正式にです。
えっと……改めて、お願いします。わたし、スズカさんとルクトさんの支援役として同行します」
言い切ったあと、自分で照れたみたいに耳が赤くなる。
かわいい。
「こちらこそ」と私。
「でも、無理はしないで」
「はい。なるべく!」
「その“なるべく”が危ないんだよ」とルクト。
言いながら、彼もどこか少しだけ安心しているように見えた。
こうしてフィアは、私たちの調査に正式に加わることになった。
そしてたぶん、この時点でもう、ただの町の新人三人組ではなくなっていた。




