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境を縫い止める刃

出発は昼前になった。


私は新しい本登録タグを首から下げ、腰の剣を確かめ、荷物の中身を三回確認した。

水袋、布、簡易食、紐、小刀、着替え、予備の布、それから生活魔法で補えない最低限の衛生用品。


フィアが私の荷物を見て目を丸くする。


「すごい、整ってますね」


「何が必要かわからない時ほど、抜けが怖いから」


「遠征向きだな」とルクト。


その言い方に、少しだけ胸がくすぐったくなった。

褒められている、たぶん。


町を出る門の前で、ドルクさんが私の新しいタグを見て口笛を吹いた。


「お、もう本登録か」


「おかげさまで」


「無茶すんなよ。あと、帰ってきたらミオが本当に登録されたか確認したいってうるさいから顔見せろ」


「伝えておいてください。ちゃんと帰ります」


ドルクさんは一瞬だけ真顔になった。


「……その言い方、嫌いじゃない」


辺境町というのは、たぶん人の生還を軽く扱わない場所なのだ。


門を抜け、丘陵へ続く道へ入る。

風は冷たく、草の匂いが濃い。

遠くの空はよく晴れているのに、北東の方角だけ、うっすら色が鈍かった。


フィアが小声で言う。


「やっぱり、少し変です」


「何が?」


「空気。魔力の流れ、じゃなくて……なんだろう、つながり方が変」


「つながり方?」


「うまく言えないですけど、布の縫い目が少しだけ浮いてるみたいな感じです」


その表現に、なぜかぞくりとした。


布の縫い目。

つながり。

見えないのに、見えないからこそ嫌だった。


ルクトは周囲を警戒しながら歩いている。

やっぱり立ち姿が綺麗だ。長身ではないけれど均整が取れていて、動きに無駄がない。町の女の人たちが騒ぐのもわかる気がする。


そう思って見ていたら、フィアが急ににやっとした。


「スズカさん、今、ルクトさんのこと見てました?」


「見てた」


「素直」


「歩き方が綺麗だなって」


ルクトが後ろも見ずに返す。


「お前ら、聞こえてるからな」


「褒めてるんです」とフィア。


「ありがたくない」


でも耳が少しだけ赤かった。

自覚はあるらしい。


私は別にそういう意味で見ていたわけじゃない。

整ったものを整っていると思っただけだ。

たぶん私自身も、最近は周りからそういう目で見られることが増えた気がするけれど、正直まだ慣れない。


「スズカさんも、かなり目立つ側ですけどね」とフィアがぼそっと言った。


「何が?」


「なんでもないです」


誤魔化された。納得はいかない。


一方その頃、私たちより少し先の街道脇では、旅商人風の男が荷車の陰でひっそり蹲っていた。


えんちゃんである。


「何で先回りって、こんな疲れるの……」


今回の現場介入任務は二つ。

旧中継塔周辺の世界の継ぎ目の乱れを抑えること。

そして、必要があれば異常個体をこっそり弱体化すること。


本来なら遠隔で済ませたい。

けれど今回は、継ぎ目のズレが細かく、広く、しかも嫌な形で現実寄りだった。

地図の端で紙が浮くみたいに、世界そのものの縫い合わせが少しずつずれている。


「やだなあ……こういう仕様にない揺れが一番やだ……」


その時、街道の向こうから三人分の気配が近づいてきた。


えんちゃんは反射で荷車の後ろに隠れた。

そして次の瞬間、自分の心臓が嫌な跳ね方をした。


来た。

涼花たちだ。


自然にすれ違うだけ。

旅商人として、普通に挨拶して通り過ぎればいい。

そう思っていたのに、本人が近づいてくると妙に落ち着かない。


あの夜、熱に浮かされながら自分を見た目。

家族を残して引き離したこと。

説明不足のままこの世界へ送ったこと。


全部が今さらみたいに重くなる。


「こんにちはー!」


先に声をかけてきたのはフィアだった。

えんちゃんは一瞬だけ詰まり、それから無理やり営業スマイルを作る。


「こ、こんにちは! よい旅路を!」


声が裏返った。


ルクトの目が少し細くなる。

私も、その男を見た瞬間、どこかで見たことがあるような気がした。


疲れた顔。

場慣れしていない愛想笑い。

妙に姿勢だけは社会人っぽい立ち方。


「どこかで会いましたか?」


私がそう聞いた途端、旅商人の肩がびくっと跳ねた。


「い、いえいえ! 辺境は狭いので顔が似た人も! いや、広いですけど! では!」


会話として破綻している。


彼は深く礼をして、早足で去っていった。

荷袋の口から、なぜか木製の判子みたいなものが少しだけ見えていた。


フィアが首を傾げる。


「変な人でしたね」


「変だったな」とルクト。


私はその後ろ姿を見送りながら、胸の奥に小さなひっかかりを覚えていた。


あの声。

どこかで聞いたことがある気がする。


でも思い出せない。

熱の夢みたいに曖昧だった。


荷車の陰へ回り込んだえんちゃんは、しばらくその場でうずくまった。


「今の危なかった……! いや、メンタルが!」


現場介入デビュー。

ニアミスは順調に悪化していた。


旧中継塔跡は、丘陵の先にある石積みの残骸だった。


塔そのものは上半分が崩れ、根元だけが残っている。

蔦が絡み、風雨に削られ、それでも中心部の石壁だけは不自然なくらい残っていた。


マルタさんが革筒から写しを取り出し、現地の石面と見比べる。


「これです」


彼女が示した壁面には、確かに青白い線を模したような浅い彫り込みがあった。

完全に発光しているわけではない。けれど、光の角度によって、私の剣の筋とよく似た印象を受ける。


私は思わず剣の柄に触れた。


その瞬間、刃が微かに震えた。


「……っ」


「どうした?」とルクト。


「今、剣が……」


言い終える前に、石壁の紋様がふっと淡く光った。


フィアが息を呑む。


「魔力反応、あります。でも普通の術式じゃない……」


マルタさんが一歩下がる。


「やはり共鳴している……」


私は剣を半分だけ抜いた。

青い筋が壁の紋様に呼応するように細く光る。


そして、壁面の下部。

長い年月の土に埋もれていた部分から、一行だけ文字のような刻みが浮かび上がった。


読めない。

でもマルタさんは震える声でそれをなぞった。


「古代辺境文……完全には無理ですが、断片なら」


「何て書いてあるんですか」


彼女は慎重に言った。


「境を断つにあらず、境を縫い止める刃……たぶん、そう読めます」


境を縫い止める刃。


その言葉の意味を、誰もすぐには飲み込めなかった。


私の剣は、ただ強いだけじゃないのかもしれない。

そう思い始めた直後だった。


塔の裏手から、嫌な音がした。


石を引きずるような、湿った布を裂くような、どちらともつかない音。

振り向くと、空間そのものが少しだけ歪んでいた。


空気に亀裂が入った、というのがいちばん近い。

ただ、裂けているのは空気じゃない。景色の奥行きだった。


フィアが顔を強張らせる。


「これ、魔物じゃない……“穴”です!」


歪みの中心から、何かが這い出してきた。


狼に似ている。

でも輪郭が時々ぶれる。前脚が一瞬だけ二本に見え、次の瞬間には一つに重なり、胴体の一部が背景と混ざる。


目だけが、異様に赤い。


「後ろへ!」


ルクトが短剣を抜き、前に出る。

私も剣を構えた。


相手は一体。

けれど、ただの一体じゃない。

見ているだけで距離感が狂う。近いと思ったら遠い。右へ行ったと思ったら左にいる。


「気をつけろ、位置がずれる!」


ルクトの警告と同時に、異形の獣が跳んだ。


私は迎え撃とうとして、踏み込みの感覚が空振りする。

床が一枚ずれたみたいに、足の位置と視界が噛み合わない。


「……っ!」


剣先が外れる。

その隙に獣の爪が迫る。


だが次の瞬間、フィアの補助光が弾けて、獣の輪郭がわずかに固定された。


「今です、スズカさん!」


私は迷わず前へ出た。


剣道では足裏の接地が命だ。

なら、ずれているならずれている前提で読むしかない。


一度見失った距離を、呼吸で測り直す。

相手の肩。首。前脚の沈み。次に来る重心。


今。


私は最小の動きで踏み込み、斜め下から剣を振り上げた。


青白い光が走る。

獣の輪郭が裂ける。だが完全には止まらない。


「硬い!」


「違う、薄いんだ!」とルクト。

「当たってるのに、半分ずれてる!」


意味はわからない。

でも感覚ではわかる。

斬っているのに、手応えが薄い。まるで紙を何枚も重ねたうちの一枚だけ切っているみたいだった。


獣がフィアへ向きを変える。

私は反射で間に入ろうとして――視界の端で、茂みの向こうに帽子のつばが見えた。


旅商人。

さっきの男だ。


彼はものすごく必死な顔で、何か判子みたいなものを空中に押しつけていた。


ぽん。


間の抜けた音がした。


その瞬間、異形の獣の輪郭が急にこちら側に定まった。


「今だ、スズカ!」


ルクトの声。

私はもう迷わなかった。


一歩。

二歩。

今度はずれない。


剣が、自分から行き先を知っているみたいに軽くなる。


振り抜いた刃は、獣の首元を正確に断ち切った。


異形は声もなく崩れ、黒い霧となって消えた。

残ったのは、普通の魔石ではない、薄青い欠片だった。


静寂。


風だけが吹く。


フィアがへたり込み、ルクトが深く息を吐く。

マルタさんは顔面蒼白のまま、石壁と空間の歪みの痕を交互に見ていた。


私は茂みの方を見た。


もう、誰もいない。


「……今、誰かいた」


ルクトもそちらを見るが、首を振る。


「気配は一瞬だけだった。人間っぽかったが、消えたな」


フィアが不安そうに私の袖を掴む。


「知り合いですか?」


「……わからない」


でも、夢じゃない。

あの男は確かに何かをしていた。

そして、あの判子の音のあとで、獣の輪郭が定まった。


偶然とは思えない。


マルタさんが、震える手で青い欠片を拾い上げた。


「こんなもの、文献でしか見たことが……」


「何ですか」


「《縫界片》……かもしれません。境界異常の近くで、ごく稀に見つかると言われる欠片です。ただし、実物の確認例は王都でもほとんどないはず」


境界異常。

縫界片。

境を縫い止める刃。


ひとつひとつは意味不明なのに、並ぶと無視できない。


私の剣は、ただ強いだけじゃない。

もっと別の、世界そのものに関わる何かを持っている。


そう考えた瞬間、背筋が冷たくなった。


同じ時刻。

大陸西南、黒曜の城郭。


《黒爪》ゼグドは、膝をつく配下の報告を聞いていた。

その隣には、紫の長髪を持つ魔族の女が壁にもたれている。細い指先で黒い扇を遊ばせ、退屈そうに目を細めていた。


《宵哭のメリシア》。

幻惑と諜報を担う、魔王軍幹部の一角である。


「北東外縁で、また境界の揺らぎが出た?」


彼女が笑う。

「遠い辺境でしょう? そんな小さな揺れを拾うなんて、ゼグドって本当に几帳面ね」


ゼグドは眉ひとつ動かさない。


「小さな揺れだから拾う。大きくなってからでは遅い」


「真面目」


「貴様が不真面目すぎるだけだ」


別の配下が続ける。


「命令網の一部に、断続的な空白が生じています。魔物の挙動ずれ、視界不良、位置誤認、指示遅延……いずれも短時間で消失」


メリシアの笑みが少しだけ薄れた。


「それ、ただの乱れじゃないわね」


ゼグドが低く問う。


「何に見える」


「縫い直しの跡」


部屋の空気が変わる。


ゼグドの目が細くなった。


「……誰がやる」


「さあ。人間側の十賢者にそういう真似ができる者がいても不思議じゃないけど、手つきが違う。もっと雑で、もっと新しい感じがする」


雑で、新しい。


まるで急ごしらえの仕事みたいな言い方だった。


ゼグドは黙って地図を見下ろす。

北東外縁。名も軽い辺境町。

本来なら、戦の盤面では重みのない点だ。


だが、点は時に線の始まりになる。


「監視を増やせ」とゼグドは言った。

「北東外縁、リュセリア王国辺境リネル周辺。小さな揺れでも見逃すな。必要なら影兵を送る」


「はっ」


メリシアは扇で口元を隠しながら、楽しそうに目を細めた。


「もしそこに、まだ誰にも名前を知られていない厄介の種があるなら」


「刈るだけだ」


「ふふ。そう簡単だといいわね」


魔王軍の視線が、ついに辺境の小さな点へ向き始めていた。


帰路につく頃には、陽が傾いていた。


フィアはかなり疲れていたけれど、歩きながら何度も私の方を見ていた。


「……スズカさん」


「うん?」


「さっき、助けてくれてありがとうございました」


「二回目だね、それ」


「今日は一回で命が二回くらい危なかったので」


それは困る。


ルクトが少し前を歩きながら言う。


「今回はお前がいなかったら厄介だった。認める」


「それ、かなり褒めてます?」


「かなりだ」


珍しい。

たぶん彼なりに本気なのだろう。


「でも、お前の剣、やっぱり普通じゃない。ギルドでも隠しきれなくなるぞ」


「隠すつもりはないけど、説明はできない」


「それが一番困る」


正論だった。


丘の上から振り返ると、リネルの灯りが小さく見えた。

本当に小さい町だ。

地図の上では点より少し大きい程度。

でも今の私にとっては、世界の全部みたいな場所でもある。


その小さな灯りの向こうに、王都があり、他国があり、海があり、前線があり、十賢者がいて、魔王軍がいて、終わっていない戦いがある。


世界は広い。

広いのに、今日の異常はこんな小さな町の外れで起きた。


それが、妙に怖かった。


その夜、ギルドに戻った私は、本登録祝いということで薄い果実酒の代わりに果汁水をもらい、フィアと少しだけ乾杯した。


「おめでとうございます、スズカさん」


「ありがとう、フィア」


「あと、今日は正式に言います。次からも、わたし同行したいです」


「危なくても?」


「危ないからです。たぶん、ああいうの、これから増えます」


フィアの声は小さいけれど真剣だった。


私は頷く。


「じゃあ、よろしく」


彼女の顔がぱっと明るくなる。


少し離れた席で、ルクトがそれを見て小さく肩をすくめた。


「はいはい、チーム結成おめでとう」


「ルクトさんもです!」


「私は巻き込まれてるだけだ」


そう言いながら席を立たないあたり、完全には嫌ではないらしい。


私は本登録タグを指先でなぞった。


今日だけで、世界はまた少し広がった。

町の外に地図があった。

戦いの歴史があった。

十賢者がいて、魔王軍幹部がいて、見えない異常が進んでいた。


そして私の剣には、名前になりきらない役割の欠片が見えた。


境を縫い止める刃。


それが何を意味するのかは、まだわからない。

でも、わからないままでも確かなことがひとつだけある。


私はたぶん、もうこの小さな町だけで終わる場所にはいない。


それなのに、そのすぐ近くで。

誰かが、ものすごく疲れた顔で、明日の報告書に頭を抱えていることを私はまだ知らない。

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