右手の剣と、知らない空
気づくと、私は草の上に立っていた。
立っていた、というか、半分転びかけていた。
受け身を取れたのは習慣みたいなものだ。
「……は?」
最初に出た言葉がそれだったのは、仕方ないと思う。
目の前には、夜の森が広がっていた。
空には月が二つ。
風はひんやりしていて、熱なんて最初からなかったみたいに体が軽い。
そして私は、ピンク色のパジャマ姿だった。
「……え?」
もう一度言う。
いや、言わせてほしい。
「え?」
右手には剣が握られていた。
竹刀じゃない。
木刀でも模造刀でもない。
ちゃんとした剣だ。鞘はなく、刃は薄く青白く光っている。見た目は美しいのに、妙に手に馴染んだ。
おかしい。
何もかもがおかしい。
私はさっきまで、自分の部屋で寝ていた。
全国大会の前日で、高熱を出して、救急車を待っていて――
そこまで思い出して、背筋が冷えた。
「家族は」
声に出した途端、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
いない。ここには誰もいない。
私はひとつ、深呼吸をした。
取り乱しても情報は増えない。父の言う通り、勝負は情報だ。
まず確認。
熱はない。
体は動く。
視界良好。
聴覚も問題ない。
右手に謎の剣。
服装はパジャマ。最悪。
場所は不明。森の中。夜。空に月が二つ。
「……異世界とか?」
自分で言って、すぐに否定したくなった。
そんなの、ゲームか漫画の話だ。
でも、月が二つある時点で説得力があった。
その時、近くの茂みががさりと揺れた。
私は反射で半身になり、剣を構えた。
不思議と怖さはなかった。
相手が何であれ、来るなら対応するという感覚の方が先に立つ。
現れたのは、犬くらいの大きさの――
いや、犬ではない。黒い毛並みに赤い目、額に小さな角。口元から覗く牙。どう見ても普通の生き物じゃなかった。
「……魔物?」
そいつは低く唸ったあと、地面を蹴った。
速い。
でも、見える。
私は一歩引かず、相手の軌道を見た。
真正面から来る。飛びかかり。高さは胸元。重心は前。
竹刀じゃない。けれど、“打突の間合いを読む”感覚は同じだ。
迷うな。
勝つことだけ考えろ。
私は右足を半歩ずらし、体を捌いた。
同時に、剣を振る。
手応えは驚くほど軽かった。
青白い軌跡が夜に走り、魔物の体がそのまま横に弾き飛ばされる。
「……え?」
今度のえ?には、かなり具体的な意味があった。
切った、というより、叩き落とした。
けれど威力が尋常じゃない。
地面に転がった魔物は、ぴくりと痙攣したあと、しゅわっと黒い煙みたいになって消えた。
残ったのは、赤い石だった。
「ドロップ品みたいなのまであるんだ……」
思わずそう呟いてから、私は自分の冷静さに少し引いた。
もっと混乱していい場面じゃないのか、これ。
でも、泣いても意味はない。
怒っても帰れない。
なら、やることは一つだ。
「生き残る」
言葉にすると、不思議と腹が決まった。
私は赤い石を拾い、森の奥を見た。
遠くに、かすかな灯りがある。村かもしれない。罠かもしれない。
どっちにしても、止まっていたら朝までに何かに食われる。
「ルールも、マニュアルもないってわけか」
だったら、自分で探すしかない。
どう動けば勝てるのか。
どうすれば、この世界で生き残れるのか。
そして、どうすれば帰れるのか。
その全部を。
右手の剣を握り直し、私は一歩を踏み出した。
その瞬間、どこか遠くで。
――あ、初戦闘いけた。よかった……。
そんな、間の抜けた声が聞こえた気がした。
私はぴたりと止まった。
「……誰?」
風が吹く。
森が揺れる。
返事はない。
けれど私は知らなかった。
この世界の裏側で、ひとりのパンダ風サラリーマンが、モニター越しに私を見ながら胸をなで下ろしていたことを。
そして彼が、これから何度もこっそり現れては、
私の物語を面白くするために、余計なことまでしていくことを。
その時の私はまだ知らない。
この世界が、誰かの企画書から始まったことも。
魔王すら完全な自由ではないことも。
私の右手の剣が、ただの支給品ではないことも。
何ひとつ知らないまま――
私は、月が二つ浮かぶ世界へ、最初の一歩を踏み込んだ。




