第60話 山が吠える
60話です。
山は、生きていた。
岩ではない。
土でもない。
人の都合など一切知らず、数千年という時間だけを胸に抱え、静かに積み重なり、静かに耐え、そして限界を迎えれば、何の感情もなく崩れる。
だからこそ、山は恐ろしい。
敵ではない。
説得もできない。
赦しもしない。
ただ、落ちる。
巨大な亀裂が尾根を一直線に走り、乾いた破裂音が連続して響くと、谷全体が低く唸り始め、その振動は足の裏から膝、腰、胸へと這い上がり、立っている者すべてに「逃げろ」と本能だけで理解させるほどの圧力を放っていた。
「第二層が来るぞ!」
老鉱夫の叫びが風に裂ける。
その瞬間だった。
逃げ出そうとした若い鉱夫の腕を、年老いた職人が力いっぱい掴んだ。
「走るな!」
「でも!」
「上を見るな!」
怒鳴り声が飛ぶ。
恐怖は人を空へ向かせる。
だが、鉱山では違う。
空を見上げた者から、足を止める。
止まった者から死ぬ。
「前だけ見ろ!」
その怒号に、数十人が一斉に走り出した。
混乱ではない。
流れだ。
都市が初めて、自分自身で命を守ろうとしていた。
その頃、坑道の奥では、土煙が視界を完全に奪っていた。
アルヴェルは肩に担いだ梁を岩壁へ叩き込み、崩れかけた天井を無理やり支えながら、肺いっぱいに入り込む砂埃を吐き出した。
「返事をしろ!」
怒鳴る。
返事はない。
もう一度叫ぶ。
「生きているなら声を出せ!」
沈黙。
嫌な静けさだった。
その時。
「……こっち!」
かすれた声が闇の奥から返ってきた。
エドだった。
その一言だけで、アルヴェルの身体が弾かれたように動く。
崩れた梁を乗り越え、砕けた岩を蹴り飛ばし、狭くなった隙間へ身体を押し込む。
そこには、三人の鉱夫がいた。
一人は足を岩に挟まれている。
一人は気を失っている。
もう一人は、その二人を守るように覆いかぶさっていた。
エドは歯を食いしばりながら岩を押している。
細い腕だった。
子どもの力だった。
それでも諦めていない。
「馬鹿者……」
アルヴェルが低く呟く。
「一人で何とかできると思ったのか。」
エドは顔を上げた。
汗と土で汚れた顔に、涙の跡が一本だけ残っている。
「……思ってない。」
息を切らしながら答える。
「でも。」
もう一度、岩を押す。
「誰かが来るって思った。」
アルヴェルの手が止まる。
その一言は、剣よりも深く胸へ刺さった。
誰かが来る。
命令が来るではない。
助けが来るでもない。
人が来る。
信じていたのだ。
その信頼に、応えないという選択肢はなかった。
「全員で押せ!」
怒号が坑道へ響く。
兵が梁を差し込み、鉱夫が肩を入れ、エドも歯を食いしばる。
岩は動かない。
もう一度。
「押せぇぇぇっ!」
全身の筋肉が悲鳴を上げる。
腕が裂けそうになる。
膝が震える。
それでも押す。
岩が、ほんの指一本分だけ浮いた。
「今だ!」
足を挟まれていた男が引きずり出される。
直後だった。
支えていた梁が、鈍い音を立ててひび割れた。
「隊長!」
兵の叫び。
アルヴェルは迷わなかった。
「全員出ろ!」
「隊長は!」
「命令だ!」
初めてだった。
彼が自分ではなく、他人を優先する命令を出したのは。
兵がエドの腕を掴み、強引に引きずる。
エドは暴れる。
「まだ!」
「行け!」
アルヴェルの怒鳴り声が坑道を震わせる。
「お前がここで死んだら、この街は誰が教える!」
その言葉に、エドの身体が止まった。
兵は一気に外へ駆け出す。
そして最後に、アルヴェルが飛び出した瞬間――。
轟音。
山が吠えた。
巨大な岩盤が一気に崩れ落ち、今まで人がいた坑道は、一瞬で土砂の海へと飲み込まれる。
谷全体が揺れた。
誰も声を出せない。
ただ土煙だけが、夕焼けを飲み込みながら空高く舞い上がっていく。
静寂。
耳鳴りだけが残る。
やがて、その静寂を破ったのは、一人の老人だった。
「……生きてる。」
その震える声に、全員が土煙の向こうを見る。
そこには、肩で息をしながら立つアルヴェルがいた。
外套は裂け、額から血を流し、右腕はだらりと垂れ下がっている。
それでも、立っていた。
誰かが拍手した。
一人。
また一人。
やがて谷全体に広がる。
兵も。
鉱夫も。
教師も。
子どもも。
誰一人命令されていない。
それでも自然に手を打っていた。
その音を聞きながら、高台に立つ主人公は静かに目を閉じる。
あの日、自分は「問い」で人を変えようとした。
今日、人を動かしたのは問いではない。
一人の男が、自分の責任で前へ踏み出したという事実だった。
教育は、知識を与えることではない。
誰かが立ち上がる勇気を、次の誰かへ手渡していくことだ。
そして今、この鉱山都市で、その最初の継承が始まった。
あんまり今書きたい内容では無いですね。




