第59話 崩れる天才
59話です。
地鳴りは、一度では終わらなかった。
最初の崩落が止み、誰もが胸をなで下ろしかけた、その瞬間だった。
坑道の奥から、腹の底を揺らすような鈍い轟音が再び響き、それまで踏みとどまっていた岩盤が巨大な獣の背中のように波打ちながら崩れ始めると、土煙は空を覆い、木製の支柱は乾いた悲鳴を上げながら次々とへし折れ、積み上げられていた鉱石が雪崩となって谷へ流れ落ちていった。
「全員、退避だ!」
アルヴェルの怒号が谷全体に響く。
兵が走る。
鉱夫が叫ぶ。
誰もが動く。
しかし、その叫びを切り裂くように、一本の声が響いた。
「まだ中に三人いる!」
一人の若い鉱夫だった。
顔中を土で汚し、額から血を流しながら、それでも坑道の奥を指差して叫ぶ。
「東坑道の奥だ! まだ戻ってない!」
空気が凍った。
兵は互いに顔を見合わせる。
崩落は続いている。
今、入れば、生きて帰れる保証はない。
いや。
保証どころか、死ぬ可能性の方が高い。
アルヴェルは拳を握る。
歯を食いしばる。
頭の中では、数字が弾かれていた。
支柱の角度。
岩盤の厚さ。
崩落速度。
救出時間。
生存確率。
そして、都市全体への損失。
冷静な計算は、一つの答えしか出さなかった。
切り捨てろ。
それが、国家としては正しい。
都市としても正しい。
軍師としても正しい。
だが――。
「……隊長。」
兵がアルヴェルを見る。
命令を待っている。
谷全体が、その一言を待っている。
アルヴェルは口を開く。
しかし。
言葉が出ない。
その時だった。
一人の少年が走った。
エドだった。
「待て!」
誰かが叫ぶ。
しかし、エドは止まらない。
崩れ続ける坑道へ、一直線に駆け込んでいく。
「馬鹿野郎!」
兵が追おうとする。
だが、アルヴェルが腕を伸ばし、その兵を止めた。
「動くな。」
低い声だった。
兵が驚いて振り返る。
「ですが!」
アルヴェルはエドだけを見ていた。
少年は瓦礫を乗り越え、土煙の中へ消えていく。
(なぜ行く。)
理解できない。
合理性がない。
勝率もない。
それなのに。
(なぜ、迷わない。)
その姿を見た瞬間、アルヴェルの胸の奥で、何かが軋んだ。
思い出す。
あの日。
学院で、教師が言った言葉。
「責任を背負う覚悟を育てる。」
あれは理想論だと思っていた。
現実は、切り捨てることでしか守れない。
そう信じてきた。
なのに。
今、目の前で命を懸けているのは、兵ではない。
貴族でもない。
ただの教え子だ。
「……くそ。」
初めてだった。
アルヴェルが、自分の計算を呪ったのは。
次の瞬間。
彼は外套を脱ぎ捨てた。
「隊長!?」
兵たちが叫ぶ。
「支柱を持て!」
怒鳴る。
「太い梁を全部運べ!」
「救護班は入口!」
「ロープを三本!」
命令が、嵐のように飛ぶ。
止まっていた兵が、一斉に動き出す。
「隊長、中へ入る気ですか!」
「当たり前だ!」
アルヴェルは剣を地面に突き刺した。
「今日は剣はいらん!」
その代わりに、一本の角材を肩に担ぐ。
「今日は、この街を守る!」
そして、自ら崩落する坑道へ飛び込んだ。
その光景を、離れた高台から見ていた。
風が土煙を運ぶ。
崩落の音。
怒号。
悲鳴。
すべてが混ざる。
しかし、その中心で、一人、また一人と人が坑道へ入っていく。
命令されたからではない。
誰かを助けたい。
街を守りたい。
その想いだけで。
思わず、小さく笑った。
「……ようやくか。」
誰にも聞こえない声だった。
アルヴェルは、もう命令を待つ男ではない。
自分で決め、自分で責任を背負い、その責任の中に、自ら飛び込める男になった。
それこそが。
ずっと見たかった姿だった。
だが、その直後――。
坑道のさらに奥から、今までとは比べものにならない轟音が響く。
山そのものが唸った。
岩肌に巨大な亀裂が走る。
誰もが顔を上げる。
兵が青ざめる。
老鉱夫が震える声で呟いた。
「……第二層が、落ちる。」
その一言で、谷全体が絶望に包まれた。
もし第二層が崩れれば。
坑道だけではない。
今、築き始めた都市そのものが、大地ごと飲み込まれる。
そして。
アルヴェルも。
エドも。
数百人の労働者も。
全員が、生き埋めになる。
誰も息をしない。
誰も動けない。
ただ一人を除いて。
俺は、高台から静かにチョークを取り出した。
掌に残る白い粉を見つめ、ゆっくりと息を吐く。
「……さて。」
長かった授業は終わりだ。
ここからは――
本当の実践が始まる。
誤字脱字はお許しください。




