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柔らかくも眩しい朝の光が、クリスティアの意識を引き上げる。ぱたぱたと瞬きして眠気を軽く振り払い、成長期のまっただ中にある子どもの小さな身体を起こした。
そのままベッドでぼんやりしていると、控えめなノックが響く。
はあい、とクリスティアがまろやかな声で応えを返すと、専属侍女のメリーが姿を見せた。
「おはようございます。お嬢様」
にこ、と向けられる笑顔も、身に纏う空気も柔らかい。
「おはよ」
「よく眠れましたか?」
「うん」
メリーがカーテンを開けていくと、明るさを増した朝の光が部屋の中を満たしていく。眩しさに、クリスティアは軽く目を眇めた。
他の使用人達と比べてかなり若いメリーは、貴族の子女が必ず通う学園を卒業すると同時に、ベラーニ伯爵家でクリスティアの専属として仕えていた。
癖のあるふわふわした茶色の髪は肩より長く、赤みのかかった同系色の瞳は丸みがあり愛嬌がある。頬にうっすらそばかすがあることを本人は気にしているようだが、素朴で優しげな印象を与えていた。
乳母の姪と出自もはっきりしていて、文句なしに人柄もいい。
十歳の子どもであるクリスティアにも敬意を持って、丁寧に接してくれた。
「本当に、毎朝起こす必要がないですね」
「朝日で、自然と目が覚めるの」
「でしたら、カーテンを遮光性のある物に換えますか?」
窓の方を見て、軽く眉尻を下げたメリーが提案する。離れにあるこの部屋の家具やファブリック類は、以前のままのものが多い。
こだわりがないので放置しているだけなのだが、それを部屋の主であるクリスティアよりも、出入りする使用人たちの方が嘆いていた。
「このままでいいよ」
どれがいいと、大量のカタログを眺めるのも面倒くさい。いずれ家を出て行くつもりでいるので、それまで寝起きできれば充分だった。
「では、気が変わりましたらいつでもお申し付けくださいね」
「うん」
頷いて、クリスティアは身支度を始める。動き始めると空腹も感じて、健康だなと実感した。
伯爵、と高すぎず低くすぎもしない爵位を持つベラーニ家の第一子として生を受けたクリスティアだが、家庭環境は若干複雑だ。
二才に満たない頃に、流行病で母を亡くしている。その頃はあまりにも幼すぎて大切な人を失う悲しみはわからず、愛情を注いでくれたはずだろう母との思い出どころか記憶もなかった。
顔も肖像画でしか知らない。けれど十歳になったクリスティアが鏡に向き合うと、母の面影を感じることはできた。
(うん、間違いなく将来有望)
自画自賛ではあるが、事実だ。
濃い赤紫色の髪は母譲りで、ピンク色の瞳は父譲りだが、子ども独特の丸みがありながらも軽くつり上がっているところは母に似ている。すっと通った鼻筋にも涼やかな美しさがあるけれど、表情を消すと冷たい印象があった。
性格がきつそうにも見えるが、クリスティアとしては強そうな見た目に生まれたことを感謝していた。
「今日の髪型はどうしますか?」
「まかせるわ」
「では、両サイドを編み込んでまとめて、リボンはこちらでどうでしょうか」
「いいわ」
忙しなくメリーの手が動き出すのを、クリスティアは鏡越しに眺める。毎朝のことではあるが、器用だなと感心するばかりだ。
「今日の朝食は、シェフ渾身の新作パンがあるんですよ」
「そうなの? 楽しみ」
ふわっと一気にテンションが上がる。美味しい物を食べるのは大好きだ。
「気に入ったからといって、食べ過ぎないようにしてくださいね」
「……わかってる」
もう一個いける! と思って、制止の声を振り切り食べて、クリスティアは具合が悪くなったことがある。メリーを筆頭に心配をかけたので反省はした。
「デザートもありますからね」
「うん!」
自然と、笑顔がこぼれる。
母の人となりに関しては聞いたものばかりになるが、物心ついた頃からいつもそばには乳母がいて、今は姉のようなメリーもいる。離れに住んでいても、母を慕っていた優しい使用人たちがクリスティアを気にかけてくれているので、困ることはなかった。
父親であるアントンは存命だが、常に仕事に忙しくしている。領地にいることが多く、今より幼い頃から一緒に過ごす時間は少なかった。
それがクリスティアの当たり前だ。
父親になかなか会えないことを淋しく思っても、不満に思うことのない妙に大人びた子どもだったのかもしれない。
それが無理をしていると周囲の大人たちの目には映り、誰かが苦言を呈したのか、アントンもそう思ったのか、純粋な恋愛だったのかは定かではないが、クリスティアが四歳になるとき、義母にサシャを迎えた。
その二年後には弟ができて――と少し追加の説明が必要ではあるけれど、特別珍しいとも言えない家庭環境だった。
これもまた珍しくもないだろうが、温かな空気が流れる家ではない。十歳の幼女が一人離れで暮らしている時点でお察しだ。
義理の母や義弟に虐められ、虐げられ、なんてことはないが、ある出来事をきっかけにして、クリスティアは離れに移り住んでいる。食事も基本的には別だ。
使用人たちに手間をかけさせて申し訳ないが、快く運び用意してくれている。本邸の方で、と勧められたことは一度としてなかった。
それでもアントンが帰宅すれば家族が顔をそろえ食事をするが、滅多にない。
(父、悪い人じゃないんだけどね)
ワーカホリック気味と言ったらいいのかもしれない。
最愛の妻を失った悲しみを、仕事に向かうことでごまかしているのだろうと使用人が話しているのをクリスティアは耳にしたことがあった。
もちろん、アントンがクリスティアを大切に思っているのは伝わっている。不器用な人、という認識だ。
そんなアントンが後妻に選んだ義母との関係も、当初はそう悪くなかった。
表面上は、とつくけれど。
アントンは再婚後も変わらず屋敷を不在にしていたが、一緒に暮らすようになったサシャは優しく、雷が酷い夜などはベッドに迎え入れてくれるなど、本当の娘のようにクリスティアを可愛がってくれた。
特別な日も、特別じゃない日も一緒にドレスや髪飾りを選び、不器用だけど――と髪を結んでくれることもあって、クリスティアも幼心に義母といい関係を築けていると思っていた。
けれどある秋の日、よく晴れた空が綺麗だったのを覚えている。風は少し冷たいが日差しは暖かく、少しくらいならとクリスティアはサシャとピクニックに出かけた。
――走って、転ばないように気をつけてね。
――はあい。
好奇心旺盛で、はしゃぎ落ち着きがなかったと今ならわかる。初めて自分で見つけた木の実をサシャに見せたくて、急ぎ駆け寄ったのが悪かった。
――かあさま、これ!
自然豊かなところなので、当然地面はでこぼこしている。子どもなど、足下はおろそかだ。
後はもう誰でも想像できる通りにクリスティアは躓き、義母の前で転びそうになってしまった。
全速力ではないにしろ、多少勢いはあったかもしれない。けれど大人が子どもを受け止められないことはないはずだ。
それなのに、サシャの姿はクリスティアの前から突如として消えた。
そのときの愕然とした感覚は、今も記憶に刻まれている。転んだだけなら、まだよかった。
掌や鼻を擦りむくかもしれないが、涙を堪えて起き上がればいい。
けれどサシャが湖を背にしていたせいで、クリスティアはばしゃんと水しぶきを上げて落ちた。
大好きだった人に避けられ悲しくて、冷たい水の中は息が苦しくて、絶望に染まったこと以外は記憶に残っていない。
すぐに飛び込んだ護衛によって、クリスティアは助けられた。
そのまま意識を失い、冷たい水に落ちたせいか熱を出し、一週間程度は寝込んだらしい。
その間のことは覚えていない。
ただ熱に浮かされ朦朧とする中で、クリスティアは多くの夢を見た。
奥底に沈んでいた記憶が表層へと顔を出し、反芻していたともいえる。熱が下がったときにはもう、ここベラフス王国とは文化も何もかも異なる平和な日本に生きた、白川祐理の記憶がクリスティアの中にあった。
――あんのクソやろう!
飛び起きてすぐの、クリスティアの第一声だ。
くらりとめまいがしたし、掠れた声にならない声に驚いたけれど、それ以上に、心の奥底から怒りがふつふつとわいていた。
残念なことに、祐理は寿命を全うしていない。
途切れる直前の記憶は多くの人が行き交う駅だった。
階段の下り口で、お腹の大きな妊婦にわざとぶつかった男を目撃し、よろけたその女性をかばい、結局祐理が落ちたところで記憶が途切れている。それ以降の記憶はないので、打ち所が悪くそこで死んでしまったのだろう。
とっさに手が出ていたのだから仕方がない。後悔もなかった。
どこの世界にも悪意はあって、弱そうに見える者へと理不尽に向けられる。何かしらの鬱憤なのかもしれないが、自分の機嫌は自分で取れよと言いたい。
(あーあ、まだまだ推し活がしたかったな)
そんな未練が脳裏をよぎる。悔しいし、原因となった男には呪詛を吐きたくなるけれど、たぶん、祐理は幸せだった。
家族仲も良好で、日々推し活に勤しみ精一杯生きた前世だ。
最後にいいことをしたから新たな生を生きろ、と転生させてくれた――わけではないらしい。
おまけなのかなんなのか、前世の記憶に加え、現在と同じ世界に生きた前々世、シャーランの記憶までもが追加されていて、なんだこの大盤振る舞いはとクリスティアは頭を抱えた。
人生が三度目など情報過多すぎる。思考が追いつかずに、また数日寝込んだ。




