旧織部服飾学院
旧織部服飾学院は、古いアーケード商店街の外れに沈むように建っていた。
夜明け前の商店街には、営業を終えた店のシャッターが長く続いている。錆びた看板、色の褪せた日除け、雨を受け続けて濁った透明屋根。昼間ならまだ買い物客の声や自転車のベルが響くのだろうが、この時間には風だけがアーケードの骨組みを鳴らしていた。
その奥に、三階建ての古い校舎がある。
服飾学院という名にふさわしく、正面玄関の上には針と糸を模した古い校章が残っていた。だが文字の一部は剥がれ、窓の多くは内側から布のようなもので塞がれている。校舎の外壁は灰色にくすみ、蔦が非常階段の手すりに絡みつき、正面のガラス扉には十年前の閉校を告げる紙が、読めないほど白く焼けたまま貼られていた。
しかし、建物は死んでいなかった。
三階の一角だけ、弱い明かりが漏れている。
綾戸は道路の向かい、シャッターの下りた呉服店の軒先から、その光を見上げていた。隣には竜胆が立ち、耳元の無線に短く指示を飛ばしている。零課の人員は周辺の主要な出入口を固めているが、建物へ近づく者は最小限に絞られていた。ここは仕立ての拠点である可能性が高い。人数を増やせば、それだけ絡め取られる糸も増える。
鈴は少し離れた場所で、夢縫い師から受け取った小さな鋏を袖の内側に収め直していた。巡煙簫は腰元にある。こんはアーケードの支柱の上に座り、耳を伏せるようにして校舎を睨んでいる。奏灯は竜胆の近くに立ち、着ぐるみの丸い頭を少しだけ傾けて、見えない未来を探っていた。
曵奈は、いつも通り綾戸のコートだった。
けれど、今夜のコートはやけに重い。
「綾戸」
コートの内側から、曵奈の声が低く聞こえた。
「あの建物、影が落ちてるんじゃない。影が吊られてる。床から伸びてるんじゃなくて、天井から下がってるみたい」
綾戸は校舎の窓を見たまま、短く息を吐いた。
「気持ち悪いこと言うな。いや、必要な報告だって分かってるけどな」
鈴が近づいてきた。彼女の足元には、淡い煙が低く流れている。その煙は商店街の床を這い、旧学院の敷地へ向かおうとして、門の手前で細かく揺れた。
「敷地全体に、薄い糸が張られています。触れればすぐに拘束される種類ではありませんが、何かが通ったことを知らせるためのものです。いわば、見えない鈴のようなものですね」
こんが支柱の上から身を乗り出す。
「見えない鈴とは厄介じゃな。鈴が鈴をほどくとは、妙な話じゃ」
鈴は穏やかにこんを見上げた。
「こんちゃん。今のは冗談としては少し分かりにくいです」
「ぬう。緊張をほぐそうとしたのじゃが」
「ほぐす相手を間違えてるぞ」
綾戸はそう言いながら、門へ向かった。
竜胆が横に並ぶ。
「突入は最短で済ませる。周辺の封鎖はしているが、あまり長くは持たない。怪異絡み以前に、ここは私有地だ。令状関係は後で俺がどうにかする」
「警察らしからぬ台詞だな」
「怪異事件らしい台詞だ」
竜胆は淡々と返したが、その手はすでに拳銃のグリップへかかっている。怪異相手に銃がどこまで効くかは相手次第だ。それでも、実体のあるもの、動くもの、時間を稼げるものなら撃てる。竜胆はそれを理解したうえで前に出ていた。
奏灯が小さく声を上げる。
「門、正面からはだめ。触った人の手首に糸が巻く」
竜胆はすぐに足を止める。
「迂回か」
「いや」
綾戸は綴桴を抜いた。
「正面から行く。ただし、触らずに開ける」
門扉の中央には鎖が掛かっていた。古く錆びた鎖の上から、目に見えない糸が何重にも巻かれている。鈴の煙がその輪郭を浮かび上がらせた瞬間、鋭い線が何十本も光った。
鈴が一歩前に出る。
「私がほどきます」
彼女は袖の内側から小さな鋏を取り出した。刃は短く、実戦用の武器には見えない。だが、鋏が糸の前に置かれた瞬間、張り詰めていた線がわずかに怯むように揺れた。
鈴は深く息を吸う。
「切るのではなく、道を空けます」
鋏が閉じる。
音はほとんどなかった。ただ、糸の結び目だけが解けるように緩み、鎖に絡んでいた線が一本ずつ役目を失っていく。鈴はそれを乱暴に断たず、必要なところだけをほどいた。糸が校舎へ警報を送る前に、綾戸が綴桴で鎖の錠を叩く。金属の芯だけが砕け、錠が静かに外れた。
門が開く。
その瞬間、学院の中からミシンの音が聞こえた。
針が布を打つ、乾いた連続音。
全員の足が止まる。
閉校して十年の校舎から、明らかに作業中の音がしている。しかも一台ではない。奥から、上から、壁の向こうから、複数のミシンが一斉に動き出すような音が重なっていた。
綾戸は口元だけで笑った。
「歓迎されてるな」
鈴は巡煙簫を取り出しながら、校舎を見上げる。
「歓迎というより、採寸の続きではないでしょうか」
「縁起でもねぇこと言うな。走るぞ」
綾戸が先頭で門を抜けた。
敷地へ入った瞬間、地面の砂利が妙に柔らかく沈んだ。足元に糸が走る。だが曵奈の影がコートの裾から広がり、綾戸の足首に絡もうとした糸を黒く押さえた。
「あたしが踏む。綾戸は前を見て」
「助かる」
綾戸は止まらない。
正面玄関までの短い距離が、やけに長く感じられた。舗装の割れ目から伸びた糸が靴底を狙い、植え込みの枯れ枝が針のように跳ね、閉校を告げる紙が内側から膨らんで顔のない人形のように浮き上がる。
こんの狐火が飛んだ。
「紙切れごときが道を塞ぐでない!」
狐火に触れた紙の人形は燃えず、形だけを失ってただの古紙に戻った。綾戸はその横を抜け、玄関扉の前で足を止めずに綴桴を振るう。扉を縫い留めていた糸が弾け、鈴の煙がすかさず隙間へ入り込む。
「内側、右に二本。下にもあります」
鈴の声に合わせ、綾戸は綴桴の角度を変えた。見えない糸を叩く。糸は鈴の煙の中で一瞬だけ白く浮き、切れるのではなくほどけるように緩んだ。
竜胆が扉を押し開ける。
旧織部服飾学院の中は、暗かった。
だが完全な闇ではない。
非常灯の赤。奥の階段から漏れる青白い蛍光灯。壁際に並ぶ古いトルソーの白い胴体。掲示板に残った色褪せた作品写真。床には、かつて学生たちが歩いた傷と、今は誰も踏まない埃が重なっている。
そして、廊下の奥で、ミシンが鳴っている。
針が上下するたびに、校舎のどこかで糸が震えた。
奏灯が竜胆の袖を軽く引いた。
「次の角、上から来る。人じゃない。たぶん、腕」
「了解」
竜胆は即座に拳銃を抜き、角へ向けて構える。
綾戸が廊下を走る。
曲がり角へ差しかかった瞬間、天井裏から白い腕が落ちてきた。布でできた腕だった。人形の腕、トルソーの腕、袖だけの腕。それらが糸で束ねられ、一本の長い腕のように伸びてくる。
竜胆の銃声が廊下を裂いた。
弾丸は腕の中心を撃ち抜き、束ねていた針の頭を砕く。腕がばらける。その間を綾戸が駆け抜け、綴桴で残った縫い目を叩いた。床に落ちた布の腕は、力を失ってただの布切れへ戻る。
「助かった」
綾戸が走りながら言う。
竜胆は銃口を下げずに返した。
「奏灯に言え。俺は言われた場所を撃っただけだ」
奏灯は少しだけ胸を張る。
「じゃあ、二人とも助かったってことでいいよ」
こんが横から飛ぶように追いついた。
「呑気に採点しておる場合か。次が来るぞ、前じゃ!」
廊下の両側に並ぶ教室の扉が、一斉に少しだけ開いた。
その隙間から、黒い糸が走る。
糸は床を這うのではなく、空中に線を引くように伸びてきた。廊下そのものを細かく区切り、進む者の輪郭を切り取ろうとしている。
鈴が巡煙簫を吹いた。
白銀の煙が一気に廊下へ広がる。煙に触れた糸が見える。見えた瞬間、綾戸が走る。綴桴が次々と糸の結び目を叩き、鈴の鋏がその後ろから絡みをほどく。
切って進むのでは遅い。
叩き、緩め、抜ける。
廊下を疾走しながら、二人の動きが噛み合っていく。綾戸が荒く道を作り、鈴がそこを壊さず通れる道へ変える。曵奈は足元の影を抑え、こんは扉の隙間から覗く小さな怪異の残滓を狐火で追い払い、奏灯は数秒先の危険だけを短く告げる。
「左の教室、入らないで。床が落ちる」
「了解」
「次、右から鏡。見ちゃだめ」
「こん!」
「任せよ!」
こんの狐火が右の教室へ飛び、割れた姿見の表面を青白く照らした。鏡の中には、こちらを振り向こうとする綾戸の後ろ姿が映っていた。だが本物の綾戸は振り向かない。曵奈がコートの裾を広げ、鏡に映った影を黒く塗りつぶす。
「綾戸の背中を勝手に使うな」
曵奈の声が低く響く。
鏡はひび割れ、廊下に粉のような光を散らした。
階段へ辿り着く。
上階からミシンの音がさらに大きくなる。針が布を打つ音は、もはや機械音ではなく、何かの鼓動のようだった。階段の壁には、学生の作品らしき古い写真が貼られている。笑っている生徒たち、完成した服を着たモデル、賞状を持った集合写真。その上から、細い糸が無数に走り、写真の中の顔をひとつずつ縫い潰していた。
鈴が一瞬だけ足を止める。
「夢が諦められた場所、というのはこういうことですか」
綾戸も写真を見た。
夢を持っていた人間の場所。何かを作ろうとした手の場所。そこに仕立てが居座り、怪異を道具として縫っている。
「胸糞悪いな」
綾戸は階段を駆け上がった。
二階へ上がった瞬間、廊下の空気が変わる。
ここは教室ではない。裁断室だった。広い部屋に長い作業台が並び、壁には型紙が吊られ、床には古い布くずが散っている。だがその布くずが、一斉に立ち上がった。
布片が鳥のように舞う。
それぞれに、怪異の端が縫い付けられている。赤い布の欠片が視界を覆おうとし、濡れた足音の残滓が背後から迫る気配を作り、黒い手の端が袖の形で伸びる。ひとつひとつは薄い。だが数が多い。
綾戸は部屋へ踏み込む。
「止まるな。ここで足を止めたら、もみくちゃにされるぞ」 曵奈がかぶせる。「満員電車みたいなもんだね」
こんが走りながら叫ぶ。
「例えが現代的すぎるのじゃ!」
「今のは分かりやすいと思うぞ」
綾戸は綴桴を振るい、布の群れを押し開く。斬らない。叩く。縫い目を外す。鈴はその後ろで鋏を使い、暴れた糸をほどく。ほどかれた布は力を失い、ただの端切れとして床へ落ちた。
だが奥の作業台の上で、ひとつだけ落ちない布があった。
白い。
遠目には、ただの反物に見えた。
けれど、それを見た瞬間、鈴の煙がわずかに乱れた。
綾戸はその反応に気づき、足を止めかけた。
その瞬間、奏灯が叫ぶ。
「だめ、今止まったら囲まれる!」
綾戸は歯を食いしばり、前へ出る。曵奈の影が足元を押し、鈴の煙が道を作る。白い布へ向かう視線を無理やり外し、まず部屋を抜けることに集中した。
背後で布片が壁に叩きつけられ、ほどけて落ちる。
裁断室を抜けた先に、三階への階段があった。
ミシンの音は、もうすぐそこまで近づいている。
三階へ上がると、廊下の先に明かりが見えた。
他の階とは違う。白い光だった。蛍光灯ではない。布に反射した、冷たい白。
廊下の両側には、トルソーが並んでいた。胸から上だけのもの、腕のあるもの、首のないもの。それぞれに未完成の服が掛けられている。学生の作品ではない。怪異の端を縫い付けられた、用途の分からない衣ばかりだった。
綾戸たちは走る。
トルソーが動き出す前に、鈴の煙が足元を包み、こんの狐火が顔のない胴体を照らし、竜胆が動いたものだけを撃つ。奏灯の声が短く飛ぶ。
「三つ目、右。動く」
銃声。
「上、針」
綾戸が綴桴で弾く。
「鈴、足元」
鈴の鋏が床の糸をほどく。
会話は短い。だが、一言だけではない。誰もが動きながら、相手の動きを受け取り、次の行動へ繋げている。足音、銃声、狐火、煙、糸の切れる微かな震え。それらが廊下の中でひとつの速度になった。
そして、彼らは一番奥の教室へ辿り着いた。
扉は開いている。
中から、ミシンの音が聞こえる。
綾戸は扉の前で一瞬だけ足を止めた。止まったのは躊躇ではない。呼吸を合わせるためだ。鈴が隣に立ち、こんが肩の高さに浮き、奏灯は竜胆の斜め後ろから室内を見ている。曵奈はコートの裾を大きく広げた。
綾戸は言った。
「入るぞ。中に何があっても、まず鈴を中心に崩されるな」
鈴は静かに頷いた。
「はい。私も、自分の輪郭は渡しません」
竜胆が銃を構える。
「突入」
綾戸が扉を蹴り開けた。
教室の中には、ミシンが並んでいた。
誰も座っていない。
それなのに、すべてのミシンが動いている。
針が上下し、布のない台を縫い続けている。糸だけが空中に引かれ、見えない何かを形にしようとしている。壁には無数の型紙が貼られ、天井からは糸が垂れ、奥の作業台には、大きなトルソーが一体立っていた。
そのトルソーに、白い衣が掛けられていた。
白無垢に似ていた。
だが、婚礼衣装の白ではない。
光を吸うように白く、見る角度によって赤い布の影が浮き、長い袖の内側には黒い手のような模様がうごめいている。裾は床に触れていないのに、濡れた足音が近づくような気配がする。襟元には鏡片に似た刺繍があり、誰の顔も映していないのに、見ている者の視線だけを返していた。
鈴の煙が、そこで大きく乱れた。
仕立ての声が、教室の奥から聞こえた。
「お待ちしておりました」
綾戸は声の方へ視線を向ける。
仕立ては、白い衣の向こう側に立っていた。手袋をした指で、最後の糸を整えている。
「まだ未完成ですが、寸法は悪くありません」
男は鈴を見た。
「どうぞ、ご試着を」
白い袖が、風もないのにふわりと広がった。
綾戸は綴桴を握り直す。
「誰が着るかよ、そんなもん」
しかしその瞬間、床の糸が一斉に跳ねた。
教室そのものが、待っていたかのように動き出す。
白い衣が、鈴へ向かって滑るように伸びた。
ミシンの音が、さらに速くなる。
夜の旧織部服飾学院で、未完成の白が、獲物を見つけた。




