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妖奇譚~怪異の来る探偵事務所と、人間をやめかけた男~ ※次回更新5月  作者: Tomato.nit
空の器

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採寸


 夜のショッピングモールは、昼間に見せていた顔をきれいに畳んでいた。


 吹き抜けを満たしていた人の声も、フードコートの油と砂糖の匂いも、エスカレーターを上り下りする靴音も、今は建物の奥へ吸い込まれたように消えている。シャッターの閉じた店舗が規則正しく並び、通路には非常灯の赤だけが細く伸びていた。


 そのさらに上、屋上へ続く扉の向こうには、冷えた夜風が吹いていた。


 綾戸はフェンスの近くに立ち、眼下の街を眺めていた。遠くの道路を走る車の灯りが細い線になって流れ、駅前の看板は閉店後もまだ明るく光っている。昼にはこの建物も同じ光の一部だった。家族連れや学生や会社員が行き交い、誰もが買うもの、食べるもの、待ち合わせる相手のことだけを考えていた。


 だが今は違う。


 白線の引かれた屋上駐車場には車が一台もなく、風に揺れる広告幕の金具がかすかに音を立てている。室外機の低い唸りだけが、建物がまだ動いていることを示していた。


 綾戸は煙草の箱を指先で弄び、一本取り出しかけて、やめた。


「吸わないの?」


 コートの内側から曵奈が尋ねる。


「吸ったら鈴に怒られる」


「怒るかな。注意はすると思うけど」


「それが一番効くんだよ」


 綾戸は煙草の箱を懐へ戻し、屋上の出入口へ視線を戻した。三枝裕也が怪玉を受け取った場所。そして前夜、赤マントだったものの残滓が広がった場所。床にはもう赤い痕跡はない。零課が最低限の処理をしたこともあるが、それ以上に、モールという建物自体が日常の顔へ戻ろうとしているようだった。


 その戻りかけた空白を、今夜は罠として使う。


 鈴は少し離れた室外機の影に立っていた。巡煙簫を袖の内側に隠し、薄い煙だけを周囲へ這わせている。煙は風に散るように見えて、実際には屋上の縁、エレベーター棟、非常階段、設備配管の影へ薄く絡んでいた。見張りであり、結界であり、道の輪郭でもある。


 こんは広告幕の支柱の上に腰を下ろしていた。小さな狐火を指先に灯しては消し、また灯す。いつもならもっと騒がしいはずだが、今夜は意外と静かだった。


「来るのかのう。本当に」


 こんの声が、風に紛れて届く。


 綾戸はフェンスの向こうの夜景を見たまま答えた。


「来るさ。ああいう手合いは、自分の仕事に手を入れられたまま放っておけねぇ。まして、こっちから“ほつれが出た”なんて言ってやったんだ。職人気取りなら、見に来る」


 鈴が静かに言う。


「それだけでしょうか」


 綾戸はその言葉に、すぐには答えなかった。


 鈴の声は落ち着いていた。けれど、わずかな硬さがある。仕立ては以前、鈴を狙った。怪玉のように力だけを切り出すのではなく、鈴という存在そのものに目を向けた男だ。今夜の返信が本当に怪玉の再調整だけを意味していると考えるほど、綾戸も鈴も楽観的ではなかった。


「お前を見に来る可能性はある」


 綾戸は正直に言った。


「むしろ、本命はそっちかもしれねぇ」


 鈴は薄い煙の向こうで、わずかに目を伏せた。


「分かっています。ですが、逃げる理由にはなりません」


「逃げろとは言わねぇよ。ただ、無理はするな。あいつは人を傷つける前に、形を測る。そういう目をしてる」


「はい」


 鈴は巡煙簫を指先で軽く撫でた。


「だからこそ、見せます。測られるためではなく、拒むために」


 その返事を聞いて、綾戸は小さく息を吐いた。鈴は静かだ。だが、静かなまま前に立つ。そこが彼女の強さであり、綾戸が目を離せなくなるところでもあった。


 エレベーターの到着音が鳴った。


 屋上の空気がわずかに変わる。


 電子音はあまりにも日常的だった。閉店後の商業施設、無人の屋上、怪異の取引。そのどれにも似合わない、平板で清潔な音だった。だからこそ、不気味だった。


 エレベーターの扉が開く。


 そこから、一人の男が歩いてきた。


 細身のスーツ。手袋をした指。小さな革鞄。顔には、以前事務所に依頼人として訪れたときと同じ、穏やかな笑みが浮かんでいる。夜風の中に現れたその姿は、怪異の売人というより、予約時間に遅れず訪れた仕立て屋そのものだった。


 男は数歩進み、綾戸の前で足を止める。


「ご依頼、承りました」


 仕立ては、丁寧に一礼した。


「採寸に伺いました。もっとも、依頼人の顔が少し変わっているようですが」


 綾戸は動かなかった。曵奈がコートの内側で、かすかに緊張する気配がある。


「悪いな。三枝は来られねぇ。あいつは今、警察と仲良くお話し中だ」


「それは残念です。あの方には、もう少し丁寧に使っていただきたかったのですが」


「よく言う。弱ってる人間に怪異の力を売っておいて、使い方が悪いみたいな口ぶりか」


 仕立ては困ったように眉を下げた。だが、その表情には本当の困惑はない。ただ、相手の言葉に合わせて礼儀正しく顔を作っているだけだった。


「必要としていたから渡したのです。彼は拒絶する力を欲していた。赤布はそれに応えた。効能としては、そう間違っていなかったはずです」


「効能ね」


 綾戸は鼻で笑う。


「赤マントだったものを切り刻んで、玉に詰めて、怖かったら誰かに話せってか。薬の説明書より気持ち悪いな」


「怪異は語られてこそ形を保つものです。恐怖を語ることは副作用ではありません。循環です」


 仕立ての声は柔らかい。


「使われ、語られ、また形を得る。そうすれば、怪異は消えずに済む。人間も、必要な力を得ることができる。双方に利のある取引だと思いませんか」


「思わねぇよ」


 綾戸の声が低くなる。


「お前がやってるのは、助けじゃない。怪異も人間も、自分の作業台に乗せてるだけだ」


 仕立ては小さく首を傾げた。


「作業台という言い方は少し乱暴ですね。私は、整えているだけです」


 男の視線が、綾戸の背後へ流れた。


 煙の向こうに立つ鈴へ。


「怪異は、よく揺れます。恐れられ方、語られ方、出会った人間の感情、その日の空気。ほんのわずかな違いで、形が変わってしまう。美しい反面、あまりにも扱いづらい」


 仕立ては、まるで布地の質を確かめる職人のように、夜風へ手袋の指を滑らせた。


「ですから、余分な揺れを落とします。残すべき線を残し、暴れる端を押さえ、ほどける場所を縫い留める。そうすれば、怪異はようやく人の手に収まる形になる」


「中身を抜いてるだけだろ」


 綾戸が吐き捨てると、仕立ては不思議そうに目を細めた。責められている理由が分からない、というより、その言葉の粗さを惜しむような顔だった。


「中身、ですか。あなたはずいぶん大まかに捉えるのですね。布を裁つとき、落とした端切れを本体とは呼ばないでしょう。必要な部分を見極め、形を与える。それは破壊ではなく、仕立てです」 鈴が一歩、煙の中から出た。


 巡煙簫は構えていない。ただ、手には持っている。夜風が彼女の髪を揺らし、白銀の煙が足元で静かに流れた。


「あなたは、何も変わっていませんね」


 鈴の声は穏やかだった。


「怪異を見ても、人を見ても、まずどこを切るか、どこを縫うかを考えている」


 仕立ての笑みが、わずかに深くなる。


「お元気そうで何よりです。以前より、ずいぶん綺麗に馴染んでいる」


 綾戸の目が細くなった。


 鈴は表情を変えない。


「あなたに見せるために整えたわけではありません」


「ええ。だからこそ美しいのです」


 仕立ては、手袋をした指先をゆっくり揃えた。


「怪玉は、力だけを残すための器です。余分を削り、問いや衝動のような機能を残し、外殻へ留める。けれど、あなたは違う」


 仕立ての視線が、鈴の足元から髪の先へ、ゆっくりと滑っていく。採寸するように。布目を読むように。


「力も、名も、意思も、形も、まだ同じ場所にある。外から縫った跡が薄いのに、ほつれていない。怪異性を抱えたまま、人の輪郭を崩していない。普通なら裂けるか、混ざるか、どちらかに寄るはずなのに」


 男の声に、初めて熱が混じった。


「その均衡が美しい。削って残したものではない。失わずに留まっている。あなたは、私の知るどの器とも違う」「鈴を物みたいに見るな」


 綾戸が一歩前に出る。


 仕立ては悪びれる様子もなく、綾戸を見た。


「物ではありません。完成例です」


 その一言で、綾戸の中の温度が一段落ちた。


 怒りが熱ではなく、刃に近いものへ変わる。


「仕立て」


 綾戸は綴桴を握り直した。


「お前、今すぐその目をやめろ」


「目、ですか」


「鈴を材料みたいに見てる目だ」


 仕立ては少しだけ考え、それから穏やかに言った。


「材料ではありません。理想です」


 鈴の周囲の煙が、静かに濃くなった。


「私は、あなたの理論ではありません」


 鈴は巡煙簫を唇の近くへ持ち上げる。


「誰かに固定されたのでも、整えられたのでもありません。ここにいると決めたのは、私です」


 仕立ての目が、さらに細くなる。


「意思による固定」


 彼は楽しそうに、その言葉を口の中で転がした。


「やはり、あなたは素晴らしい」


 綾戸が動いた。


 踏み込みは速い。夜風を裂くように距離を詰め、綴桴を横から振るう。仕立ての喉元を狙ったわけではない。男の持つ革鞄、その留め金を叩く軌道だった。


 だが、綴桴は届かなかった。


 空中で、細い糸のようなものが張る。


 見えないほど細く、しかし触れた瞬間に存在を主張する硬さがある。綾戸の綴桴がその糸を弾き、金属を叩いたような高い音が屋上に響いた。


 鈴の煙が一気に広がる。


「糸です」


 鈴が低く告げる。


 煙が通った場所に、無数の線が浮かび上がった。フェンス、室外機、白線、広告幕の支柱。仕立てが立ってからわずかな時間で、屋上には細い糸の網が張られていた。


 こんが広告幕の支柱から飛び降りる。


「いつの間に張ったのじゃ。気色の悪い男よ」


「採寸の準備です」


 仕立ては鞄を開いた。中には、小さな糸巻き、針、布切れ、金属製のメジャーに似た術具が整然と並んでいる。


「対象の動き、反応、拒絶、揺らぎ。それらを見なければ、正しい寸法は取れません」


「やっぱり測りに来たか」


 綾戸は糸を綴桴で押し返しながら言った。


「怪玉じゃねぇ。鈴を」


「どちらもです。ですが、本日の本題は、赤布の再調整ではありません」


 仕立ての視線が、鈴へ向く。


「あなたです」


 次の瞬間、床に落ちていた薄い包装フィルムがふわりと浮いた。


 昼間、誰かが落としたものだろう。透明な包装の切れ端。それに仕立ての糸が触れる。するとフィルムは折れ、ねじれ、鳥とも虫ともつかない形を得た。そこに、赤い布の残滓のような気配が薄く縫い付けられていく。


 即席の怪異。


 いや、怪異と呼ぶにはあまりに浅い。


 だが、人を傷つけるには十分だった。


 フィルムの羽が鋭く裂け、鈴へ向かって飛ぶ。


 綾戸が割り込もうとするより早く、鈴の巡煙簫が鳴った。低い音が夜風を押さえ、白銀の煙が薄い膜となってフィルムの怪を受け止める。刃のような羽が煙に絡み、動きを鈍らせた瞬間、こんの狐火が横から走った。


「紙屑風情が、鈴に触れるでないわ!」


 狐火が包装フィルムを焼き切る。燃えたというより、形を保つ理屈だけが解けたように、即席の怪はばらばらと落ちた。


 だが、その間にも糸は鈴の周囲へ伸びていた。


 鈴が目を細める。


「綾戸様。違います。この方、攻撃しているのではありません」


 綾戸は別の糸を綴桴で叩き落としながら聞く。


「じゃあ何してる」


 鈴は巡煙簫を握る手に力を込めた。


「測っています。私を」


 糸は皮膚を裂くためではなく、煙の流れに触れ、霊気の境目をなぞり、鈴の影と人の輪郭のあわいへ入り込もうとしていた。殺傷ではない。採寸だ。だからこそ気持ちが悪い。


 曵奈がコートの裾を大きく広げた。


「右、足元。あの糸、影の下を通ってる」


 綾戸は即座に踏み込んだ。綴桴が床を叩く。コンクリートの上に走っていた見えない縫い目が弾け、糸が夜風にほどけた。


「助かる」


「あいつの糸、影まで縫おうとしてる。嫌い」


「俺も嫌いだよ」


 仕立てはそのやり取りを眺め、楽しそうに微笑んでいた。


「影の付喪。あなたも面白い。布に宿るというより、影と布の境を行き来している。綾戸さんの周囲には、良い素材が集まりますね」


「素材なんて言うんじゃねえ」


 綾戸の声が鋭くなる。


 仕立ては軽く手を振った。糸がしなり、室外機の隙間に溜まっていた埃、破れた広告幕の端、誰かが置き忘れた紙コップを縫い合わせる。それらは一瞬だけ人の手のような形を取り、綾戸の足首へ絡もうとした。


 綾戸はそれを蹴り飛ばすのではなく、綴桴で縫い目を叩いた。


 形が崩れる。


 埃は埃へ、紙は紙へ、布は布へ戻る。


「便利な技だな。ゴミにまで仕事させるのか」


「捨てられたものにも、まだ使い道はあります。形を与え、余分を落とせば、たいていのものは働ける」


「その言い方が腹立つんだよ」


 綾戸は低く吐き捨てる。


 その背後で、鈴の煙が大きく広がった。煙は糸の流れを可視化するだけではない。音を含み、糸の張力を狂わせ、仕立てが取ろうとしている寸法を歪ませていく。


 仕立てが初めて、わずかに眉を上げた。


「なるほど。拒絶ではなく、測定値そのものを乱すのですね」


「あなたに正しく測られるつもりはありません」


 鈴は静かに答えた。


「私は、あなたの型紙には収まりません」


 その言葉に、綾戸は一瞬だけ笑いそうになった。


 強い。


 鈴は静かだが、確かに強い。


 仕立てはその強さすら嬉しそうに見ていた。


「良いですね。実に良い。意思が輪郭を強くしている。外から縫ったものでは、こうはいかない」


 男の指が糸巻きに触れる。


 そこから伸びた糸が、これまでよりも細く、速く、鈴へ向かって走った。


 綾戸が動く。


 だが、途中で別の糸が足元に絡む。曵奈がすぐに影で引き剥がしたが、一瞬だけ反応が遅れた。


 糸が鈴の袖に触れる。


 ほんの一瞬だった。


 だが、その一瞬で空気が変わった。鈴の周囲を流れていた白銀の煙が、一拍だけ乱れる。巡煙簫の音がわずかに外れ、煙の中に、普段は誰にも見えない細い輪郭が浮かびかけた。人の形。怪異の気配。影の隙間を埋めるもの。いくつもの線が、薄い布の裏地のように重なって見えた。


 仕立ての目が、それを読む。


 綾戸の背筋に、冷たいものが走った。


「鈴から離れろ」


 声は低かった。怒鳴ったわけではない。だが、夜風の音が一瞬遠のくほど、硬い声だった。


 鈴の煙が爆ぜる。


 巡煙簫の音が鋭く変わり、白銀の煙が糸を内側から焼くように震えた。糸は鈴の袖から離れ、途中で黒く焦げるように切れる。浮かびかけていた輪郭は、煙の奥へすぐに沈み、二度と形を結ばなかった。 同時に、綾戸の綴桴が仕立ての手元を叩いた。


 糸巻きが、男の指から弾かれる。


 夜風の中で小さく回転し、コンクリートの床へ落ちた。


 仕立ては拾おうとしなかった。


 いや、拾えなかった。


 こんの狐火が糸巻きの周囲に輪を作り、曵奈の影が床に縫い止め、鈴の煙が仕立ての伸ばした糸をすべて絡め取っていた。


 綾戸は糸巻きを拾い上げる。


「採寸料だ。置いてけ」


 仕立ては、しばらく綾戸を見た。


 それから、小さく笑った。


「今日は採寸だけのつもりでしたが、こちらも少々、計算違いでした」


「そりゃ良かった。こっちは最初から、手ぶらで帰す気はなかった」


「ええ。よく分かりました」


 仕立ては鞄を閉じる。


「綾戸さん。あなたはやはり、邪魔ですね」


「初めて意見が合ったな。俺もお前の邪魔をする気でいる」


 エレベーターの扉が開いていた。


 いつ押したのか分からない。仕立ては糸を使って、既に呼び戻していたのだろう。男はそこへ向かって歩き出す。


 綾戸は追わなかった。


 追うために足を出しかけた瞬間、鈴の煙がエレベーターの内側へ流れ込み、細かく裂けた。煙は奥へ進む前に、見えない刃物で刻まれたようにばらばらになり、床へ落ちる前に消える。壁の合わせ目には髪の毛ほどの糸が幾重にも走り、床の影は布の裏地をめくったように不自然な皺を作っていた。


 入口ではない。


 あれは、口だ。


 足を踏み入れた瞬間、内側から縫い閉じられる。そう分かるだけの気配が、エレベーターの箱の中に満ちていた。曵奈も同じものを感じているのか、コートの内側で小さく身を硬くしている。 鈴は巡煙簫を下ろさない。


 仕立てはエレベーターの前で一度だけ振り返り、鈴を見た。


「惜しい。あと少しで、輪郭だけでも取れたのですが」


「お断りします」


 鈴の返事は、静かで、揺るがなかった。


 仕立ては微笑む。


「ええ。その拒絶も、実に良い」


 綾戸の指が、綴桴を強く握る。


 男はその反応を楽しむように、今度は綾戸へ視線を向けた。


「次は、もう少し静かな場所でお会いしたいものですね」


「うるせぇよ。お前の戯言しか聞こえないくらい、十分静かだろ」


 仕立てはエレベーターへ乗り込みながら、振り返らずに答えた。


「ええ。ですが、ここにはまだ昼の残り香があります。あれは少々、縫いづらい」


 扉が閉じる。


 電子音が鳴り、エレベーターは下へ動き出した。


 屋上には、夜風と室外機の音だけが戻ってくる。


 綾戸はしばらく扉を見ていた。追わなかった判断は間違っていない。だが、腹立たしさは残る。捕まえられなかった。だが、ただ逃げられたわけではない。


 手の中には、仕立ての糸巻きがある。


 鈴が近づき、それを見た。


「……これ、ただの糸ではありません」


「ああ」


 綾戸は糸巻きを握り、低く答えた。


「だろうな。次はこいつを読む」


 こんが狐火を消しながら、まだ閉じたエレベーター扉を睨んでいる。


「気に食わぬ男じゃ。次は尻尾を掴んで引きずり出してやる」


「尻尾がありゃな」


 曵奈がコートの内側から呟く。


「あいつ、糸はいっぱいあるけど、尻尾はなさそう」


 綾戸は少しだけ笑った。


「じゃあ糸を辿るしかねぇな」


 夜の屋上に、まだ昼の名残が薄く漂っている。


 だが、その匂いの中に、いまは別のものが混じっていた。


 仕立ての残した、細い縫い目の匂いだった。


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