縫い目
廣守探偵事務所へ戻った頃、朝はすでに昼へ傾きかけていた。
徹夜明けの街は、こちらの疲労など知らない顔で動いている。通りを走る車、歩道を急ぐ人、コンビニの自動ドアが開く音、どこかの店先から流れる明るい音楽。それらはいつも通りの生活音で、怪異の力が商品として売られていたことも、赤マントだったものが黒い玉に封じられていたことも、当然のように知らない。
綾戸は事務所の扉を開け、煙草の匂いがわずかに残る室内へ入った。仮眠を取るには頭が冴えすぎていて、すぐに動くには身体が重い。そういう中途半端な疲れが、肩の奥に溜まっていた。
鈴はそのまま帳簿机ではなく、応接用のテーブルへ向かった。手には零課から写しを取らせてもらった資料の束がある。三枝裕也の供述調書の一部、怪玉の解析記録、そして彼が受け取った封筒の中身。小さな説明書のコピーが、他の書類とは違う嫌な白さで混じっていた。
こんはソファの上でぐったりと伸びていたが、綾戸たちが戻るなり片目を開けた。
「して、次は仕立てを殴りに行くのじゃな。わらわは仮眠なら五分で済むぞ」
綾戸はコートを脱がず、椅子へ腰を下ろしながらこんを見た。答える声には疲れが混じっていたが、視線だけは冷えている。
「殴りに行けるなら苦労しねぇよ。居場所も、今の顔も、まだ半分霧の中だ。今あるのは、あいつが触ったかもしれない痕跡だけだ」
「痕跡でも辿ればよかろう。足跡でも匂いでも、残るものは残るのじゃ」
こんはそう言いながら身体を起こしたが、寝起きのように尻尾の先だけが少し揺れていた。軽く言っているようで、怪異としての勘は外していない。
鈴はテーブルの上へ資料を並べながら、静かに頷いた。
「そうですね。人間を追うより、今回は加工痕を追う方が近いと思います。仕立てという名前の通り、あの方の仕事には必ず縫い目が残りますから」
綾戸はその言葉に、少しだけ目を細めた。
「縫い目、か」
鈴は怪玉の解析記録を開く。そこには零課の機器では読み取れない記号や、鈴自身が書き込んだ術式のスケッチが細かく並んでいた。赤マントの力を抜き出し、人格を削り、機能だけを小さな外殻へ留める。説明されればされるほど、技術としての巧妙さより、そこにある乱暴さが目立った。
「文字に癖があるように、術式にも癖があります。封じる、祓う、鎮める、繋ぐ。それぞれに手つきがあります。あの方の術式は、ただ力を閉じ込めるのではありません。怪異を布地のように扱い、端を裁ち、ほつれないように留める。その手つきが、赤マントの時に見たものと似ていました」
鈴の声は落ち着いている。だが、言葉を選ぶたび、喉の奥に押し込めた怒りが少しずつ形を持つようだった。
曵奈がコートの内側で小さく身じろぎした。
「あいつ、怪異を布扱いするんだ。嫌なやつだね。布だって、勝手に切られたら痛いのに」
綾戸は少しだけ笑いかけて、すぐに表情を戻した。
「お前が言うと説得力ありすぎるな。まあ、そういうことだ。あいつの居場所じゃなく、あいつの縫い目を辿る。探偵仕事としては、まだそっちの方が現実的だ」
鈴はもう一枚の紙をテーブル中央へ置いた。三枝が受け取った封筒に入っていた説明書の写しだ。白い紙に印刷された文字は、驚くほど整っていた。脅迫文でも怪文書でもない。むしろ、家電の取扱説明書に近い丁寧さがある。
綾戸はそれを手に取り、目を通した。
使用時は対象を明確に思い浮かべてください。
強く拒絶したい相手に対して効果が発現します。
恐怖が高まるほど、赤布の展開範囲は広がります。
使用後は必ず体験を第三者へ伝えてください。
過剰展開、逆流、または意図しない対象への反応が見られた場合は、再調整を承ります。
綾戸は最後の一文で視線を止めた。
「再調整、ね。売人の説明書にしちゃ、ずいぶん職人気取りだな」
鈴も同じ箇所を見ていた。指先が、紙に触れるか触れないかのところで止まっている。
「ここも見てください」
鈴が示したのは、説明書の下部に小さく印刷された補足だった。
ほつれが生じた場合は、指定の文言を送信してください。
その文字を見た瞬間、鈴の表情がわずかに硬くなった。
「……あの方も、以前、私の状態を“ほつれ”と言いました」
事務所の空気が静かになる。
綾戸は紙を机へ置いた。軽い音だったが、そこには明確な判断が含まれていた。
「じゃあ、ただの流通品じゃねぇ。仕立て本人か、少なくともあいつの手がかなり近いところに入ってる。量産品に見せかけて、調整まで受け付けるなら、職人が客と繋がってる」
こんは説明書を覗き込み、難しい顔をした。
「怪異を売っておきながら、修理窓口まで用意しておるのか。妙に親切なのが余計に腹立たしいのう」
「親切じゃねぇよ。客を手放さない仕組みだ。力が暴れたら再調整、効きが悪けりゃ再調整。そうやって買い手を何度も引き戻す」
綾戸はそう言いながら、綴桴を取り出した。説明書そのものはただの紙だ。だが、こういう紙には意外と人の意図が残る。印刷物だから無機質だと思うのは、人間の勝手な思い込みにすぎない。何を選び、何を削り、どう読ませようとしたか。その手触りは、紙の上に薄く残る。
鈴が少し身を引き、こんもソファの端へ移動する。
「紙を読むのですか」
鈴が聞くと、綾戸は綴桴の先を説明書へ軽く触れさせた。
「読めるかは分からねぇ。だが、触った奴の癖くらいは拾えるかもしれない」
先端が紙を叩く。
音はほとんどしなかった。
だが、綾戸の耳の奥に別の音が流れ込む。
布を裁つ音。
細い糸を引く音。
針が何かを貫く感触。
そして、誰かの声。
壊れているのではありません。
未調整なだけです。
恐怖は、形を整えれば使いやすくなる。
不要な部分を落とし、必要な部分だけを残せば、誰にでも扱える。
綾戸は息を詰めた。声は遠い。はっきり聞こえたわけではない。だが、その穏やかで、丁寧で、吐き気がするほど合理的な響きには覚えがあった。
仕立て。
一度、依頼人の顔をしてこの事務所を訪れた男。
綾戸は綴桴を紙から離し、しばらく何も言わなかった。
鈴がそっと尋ねる。
「何か、聞こえましたか」
綾戸は説明書を見下ろしたまま答えた。
「声の断片だけだ。だが、考え方は分かった。あいつにとって、怪異は壊れてるんじゃない。未調整らしい。整えれば使える。余計なものを落とせば便利になる。そういう理屈だ」
曵奈が低く言う。
「余計なものって、心とか名前とか、そういうやつ?」
「たぶんな」
綾戸は短く答えた。
「だから腹が立つ」
鈴は静かに紙を見つめていた。怒りが大きすぎる時、人は声を荒らげないことがある。鈴はまさにそうだった。
そのとき、テーブルの上のスマートフォンが震えた。竜胆からだった。綾戸はスピーカーに切り替え、机の上に置く。
「こっちは説明書を見てる。ほつれ、再調整、そういう文言が出た。仕立ての臭いが濃い」
電話の向こうで、竜胆が短く息を吐いた。
「こちらでも三枝の端末を洗っている。指定された投稿先が見つかった。都市伝説投稿フォームを装っているが、実質は使用報告の収集窓口だ」
「名前は」
「夜話箱」
鈴が静かに目を上げた。
綾戸は口の中でその名を転がす。夜話箱。古いようで、妙に現代的でもある。怪談を入れる箱。恐怖を集める箱。
電話の向こうで、竜胆の声が続いた。
「ぬらりひょんの男にも文言を聞かせた。断定はしないが、“彼らしい”と笑っていた」
「それはもうほぼ答えだな」
「同感だ。朔夜が横で不機嫌になっている」
少し遠くから、朔夜の声が聞こえた。
「回りくどい男だ。切れば早いものを」
さらに別の声、ぬらりひょんの男の穏やかな声がかすかに混じる。
「私はぬらりひょんですので、明瞭な回答は性に合いません」
綾戸は額を押さえた。
「そっちも大変そうだな」
「番犬はよく働いている」
「本人の前で言うな。あとで俺に来る」
竜胆は少しだけ笑ったようだったが、すぐに声を戻した。
「夜話箱の投稿ログは綾瀬が追っている。だが金の流れがない。代金が怪談なら、追うのは決済じゃなく投稿だ。三枝以外にも似たような体験談がある。赤い布だけじゃない。黒い手、湿った足音、鏡の中の顔。どれも商品レビューのように読める」
綾戸は眉を寄せる。
「怪談じゃなく、使用感想か」
「そういうことだ」
電話が切れた後、綾戸はノートパソコンを開いた。鈴が横に座り、こんは背もたれの上から画面を覗き込む。夜話箱は、表向きにはありふれた怪談投稿サイトに見えた。黒を基調にした画面、古びたフォント、投稿フォーム、人気の話ランキング。どこにでもありそうな安っぽさが、逆に嫌だった。
綾戸はいくつかの投稿を開く。
屋上で赤い布を見た話。
黒い玉を握ったら、嫌な相手が近づかなくなった話。
濡れた足音が背後を歩き、追ってきた人間が逃げた話。
どれも怪談の形をしている。だが、読み進めるほど違和感が強くなる。怖かった、助かった、また必要なら連絡したい。そういう文言が、感想欄のように混ざっている。
綾戸は画面から目を離し、低く言った。
「怪談じゃねぇ。商品レビューだ」
鈴も画面を見つめたまま頷く。
「恐怖体験として投稿させているのに、実際には使用報告を集めている。どれだけ効いたか、どこでほつれたか、どんな相手に作用したか。それを読んで、また調整する」
こんが不快そうに尻尾を揺らした。
「人間に怪談を書かせて、怪異を整える材料にしておるのか。ずいぶんと嫌な箱じゃな」
綾戸は投稿フォームの下部にある小さな注意書きを見つけた。
使用時にほつれ、不一致、過剰反応があった場合は、下記の文言を添えてご連絡ください。
文言は、説明書にあったものと同じだった。
綾戸は椅子にもたれ、しばらく画面を見た。
「誘うか」
鈴はすぐに意味を理解したらしい。表情が少しだけ硬くなる。
「三枝さんのアカウントを使って、再調整を依頼するのですね」
「ああ。向こうは不具合報告を待ってる。なら、こっちからほつれを出してやる」
こんが身を乗り出す。
「罠じゃな。今度こそ、わらわの出番ではないか」
「お前はまず余計な文言を足すな。仕立て相手にふざけた文章を送ったら、罠だってすぐバレる」
こんは不満そうに頬を膨らませたが、鈴が穏やかに見つめるとすぐに姿勢を正した。
綾戸は三枝の端末から抽出された文面を参考に、投稿フォームへ文章を打ち込んでいく。
赤布が過剰に展開しました。
持ち主の意思と合いません。
対象以外にも反応しました。
ほつれが出ています。
再調整をお願いします。
送信ボタンの上で、指が止まる。
鈴が静かに言った。
「来ますか」
綾戸は画面を見たまま答えた。
「来るさ。仕立てってのは、ほつれを見逃せないタイプだろ」
送信。
画面が切り替わる。
受付完了の文字が表示された。しばらく何も起きない。事務所の外では昼の車の音が流れている。こんが息を潜め、曵奈もコートの中で動かない。
数十秒後。
画面の下に、新しい返信が現れた。
承りました。
採寸に伺います。
鈴の顔が強張る。
綾戸は煙草の箱を手に取ったが、火はつけなかった。ただ、箱の角を指で押さえる。
「来るなら、こっちも測ってやるよ」
その声は静かだった。
昼の事務所に、まだ見えない仕立ての影が差し込んだような気がした。




