買った力
関係者用通路の向こうは、昼間のショッピングモールとは別の建物のようだった。
扉一枚を隔てただけなのに、音の種類が変わっている。さっきまで吹き抜けに残っていた店内放送の余韻も、フードコートの椅子を片付ける音も、遠くへ押しやられていた。代わりに聞こえるのは、空調設備の低い唸りと、非常灯の薄赤い光の下を歩く自分たちの足音だけだった。
綾戸は三枝裕也の背中を追いながら、歩幅を変えずに距離を保っていた。前方の男は、何度か後ろを振り返りかけたが、そのたびに思い直したように視線を戻す。誰かに追われていると確信しているわけではない。ただ、後ろめたいことをしている人間特有の、空気の変化に怯えるような仕草だった。
鈴は数歩後ろを歩いている。巡煙簫はまだ出していないが、袖口の中でいつでも取れる位置に手を置いていた。こんは足音を立てないように浮かびながら、壁際の防犯カメラの向きを気にしている。曵奈はコートとして綾戸の肩に静かに纏わりつき、影の流れを読んでいた。
「三枝の足元、昼間より濃いよ」
曵奈の声が、コートの内側から低く聞こえた。
「本人の影というより、何かを引きずってる感じ。赤い布が畳まれてるって言ったけど、今はその畳み目が少し開きかけてる」
綾戸は前を見たまま、耳元の偽インカムを指で押さえた。ここではもう周囲に人はいない。演技をする必要はほとんどないが、昼間からの癖のように、その仕草だけが残っていた。
「使う気か、あるいは使わされる気か。どっちにしろ、屋上に着く前に止めるのはやめとく。買った場所と使う場所、両方見ておきたい」
鈴が小さく頷く気配があった。
「分かりました。ただし、あの玉が赤マントの残滓なら、力の出方は読みにくいかもしれません。赤マント本人ではないとしても、切り取られた力が歪んでいる可能性があります」
「本体より弱いが、扱いづらいってことだろ。よくある話だな」
綾戸の声音に、わずかな苦みが混じる。
階段の先で、三枝が非常扉を開けた。夜風が一気に吹き込んでくる。モールの中に残っていた人工的な温度が剥がれ、外の冷えた空気が通路へ流れ込んだ。
三枝は屋上へ出る。
綾戸たちは数秒置いて、その後を追った。
屋上は広かった。周囲には高いフェンスが張られ、室外機が規則正しく並び、隅には作業用の照明がいくつか取り付けられている。昼間なら商業施設の裏側であり、空調や設備点検のための場所に過ぎないのだろう。しかし夜になると、そこは街の上に切り離された空白のように見えた。
下には灯りがある。ガラス張りの通路、車道、駅前の広場、遠くの高層ビル。そのすべてが人の営みとして光っているのに、ここだけはその営みから外れている。
三枝はフェンス際に立ち、スマートフォンを耳に当てていた。風に紛れて声が途切れ途切れに届く。
「……言われた通りにしました。今夜もここに来ました。だから、これで本当にもう近づかれないんですよね」
綾戸は室外機の影に身を寄せ、会話を聞いた。三枝の声は怒っているというより、必死だった。強い力を手にした者の声ではない。力にすがっている者の声だった。
「ちゃんと話します。怖かったことを、誰かに話せばいいんですよね。あれを見たって、赤いものが出たって。そうすれば、もう代金はそれでいいって……」
そこで通話が切れたのか、三枝はスマートフォンを耳から離した。
綾戸は目を細める。
「代金は怪談の拡散か。金を取るより、よっぽど嫌な商売してやがる」
こんが低く唸った。
「恐怖を広めることが支払いとは、ずいぶんと怪異向きの取引じゃな。人間にやらせるのがまた性質が悪い」
鈴は何も言わなかった。ただ、三枝の右手を見ている。彼の掌の中に、黒い石のような玉があった。屋上の照明を吸い込むように鈍く、光を返さない玉だ。
綾戸は身を隠すのをやめ、室外機の影から一歩出た。
「その玉、どこで買った」
三枝が弾かれたように振り向く。驚きで肩が跳ね、黒い玉を握る手が胸元へ引き寄せられた。
「誰だよ、あんた。警備員じゃないだろ。警察か?」
綾戸は両手を軽く広げて見せる。敵意がないことを示すには不十分だが、少なくともいきなり殴りかかる気はないと伝える程度にはなる。
「警察より面倒な探偵だ。今のところ、お前を捕まえに来たんじゃない。その玉を持ってる理由と、誰から受け取ったのかを聞きに来た」
三枝の顔に、恐怖と苛立ちが同時に浮かんだ。
「知らない。俺は何もしてない。これは、必要だったから持ってるだけだ。あんたたちには関係ない」
鈴が綾戸の後ろから姿を見せる。声は柔らかいが、言葉は明確だった。
「その玉は危険です。あなたが扱えるものではありません。使えば、あなた自身にも周囲にも影響が出ます」
三枝は鈴を見て、ますます顔をこわばらせた。
「何も知らないくせに言うなよ。俺がどういう目に遭ったかも知らないくせに、危ないから捨てろって言うのか。助けてくれなかった連中と同じことを言うな」
その叫びは、悪意というより傷の反射だった。
綾戸は一歩だけ近づいた。三枝はそれに合わせて半歩下がり、フェンスに背中を近づける。
「近づかれたくない相手がいるのか」
三枝の表情が変わった。
答えは、それで十分だった。
「誰かを傷つけたくて買ったって顔じゃねぇな。でもな、三枝。その玉を売った奴は、お前を守るために渡したわけじゃない。お前が怖がって、それを誰かに話すところまで含めて、商品にしてる」
三枝の指が、黒い玉を強く握った。
「うるさい。これがあれば近づけないんだ。あいつらも、俺を笑った連中も、もう俺に触れない」
その瞬間、玉の中で何かが赤く滲んだ。
赤い布の影が、三枝の背後から広がる。
布、と呼ぶにはあまりに薄く、しかし影と呼ぶには色が濃すぎた。夜風に揺れているわけではない。三枝の恐怖に反応して、内側から膨らむように広がっている。フェンスを覆い、室外機の上を滑り、屋上の床へ薄く垂れた。
そして、壊れた声がした。
「赤……」
鈴の呼吸が、ほんのわずかに止まった。
赤い布が三枝の肩越しに広がり、綾戸たちの視界を遮るように揺れる。
「青……」
問いかけの形だけが残っている。
だが、かつての赤マントのような意思はない。選ばせる悪意も、恐怖を喰らう輪郭も、そこにはない。ただ、切り取られた機能だけが壊れた音声のように繰り返されていた。
「選……べ……」
鈴は巡煙簫を握りしめた。唇を結び、赤い影を見据える。
「違います。これは、赤マントではありません」
声は少し震えていた。それでも、鈴は逃げなかった。
「赤マントだったものの、破片です。あの子の形も、怖さも、願いも、もうここには残っていません。力だけが削られて、こんな形で使われている」
綾戸は横目で鈴を見た。
「鈴、いけるか」
鈴は小さく息を吸い、それから巡煙簫を構えた。
「大丈夫です。だからこそ、止めます。壊して終わりにするのではなく、これ以上使わせないようにします」
赤い布が一気に広がった。
視界が赤で塗られる。フェンスの位置が曖昧になり、足元の距離感が狂う。布は顔を覆おうとするように迫り、同時に三枝の背中をさらにフェンス側へ押しやっていた。
「三枝、動くな!」
綾戸が声を飛ばすが、三枝はもう冷静ではなかった。赤い布に守られていると思い込んでいるのか、あるいは赤い布に押されているのか、自分でも分かっていない顔で後ずさる。
こんがすぐに狐火を散らした。青白い火が屋上の端を照らし、フェンスの位置をはっきり浮かび上がらせる。
「人間、焦るとすぐ端へ行く。落ちるぞ、馬鹿者! 守られておるのか追い詰められておるのか、少しは考えぬか!」
曵奈の影が綾戸の足元から伸び、三枝の靴底に絡む。強く縛るのではなく、踏み出す力だけを殺すように足元を縫い止めた。
「あの赤い影、薄い。中身がないから逃げ方も下手だよ。三枝を守ってるんじゃなくて、三枝の恐怖に引っ張られて暴れてるだけ」
綾戸は綴桴を抜いた。
赤い布の一部が鞭のように迫る。綾戸はそれを真正面から斬らず、綴桴の側面で叩いて軌道を逸らした。赤い影は屋上の床をかすめ、薄い焦げ跡のような赤黒い線を残す。
「悪いな」
綾戸は布の動きを見切りながら、三枝へ向かって踏み込む。
「本物の方が、よっぽど怖かった」
赤い布は次々と伸びる。顔を覆うように、視界を奪うように、選択を迫る形だけを繰り返しながら迫ってくる。だが、綾戸は動きを止めない。綴桴で布の流れを叩き、逸らし、鈴の煙ができる余白へ追い込む。
鈴が巡煙簫を吹いた。
細い音が夜風に混ざり、白銀の煙が赤い布の周囲へ広がる。煙は布を裂かない。包む。押し返すのでもなく、形を保ったまま動きを鈍らせる。
「壊しません」
鈴は静かに言った。
「残っているなら、残ったものとして扱います。たとえ力だけにされていても、雑に踏みにじっていいものではありません」
綾戸はその言葉を聞きながら、三枝の腕を取った。
三枝は抵抗した。だが、戦い慣れているわけではない。綾戸は手首の向きを変え、握り込んだ指を一本ずつ外す。三枝が苦しげに声を上げるが、綾戸は力任せに折ることはしなかった。
「壊すんじゃねぇ」
綾戸は黒い玉を見据え、綴桴を短く構える。
「お前が持つ理由を、切る」
綴桴が、三枝の手と怪玉の間にある見えない接続を叩いた。
硬いものを砕く音はしなかった。代わりに、張り詰めた糸が切れるような感触が綾戸の腕へ返ってくる。三枝の指から力が抜け、黒い玉が床へ落ちた。
赤い布が大きく暴れようとする。
しかし、その瞬間には鈴の煙が包み、曵奈の影が床へ縫い止め、こんの狐火が赤い残滓を逃げ場のない光の中へ浮かび上がらせていた。
赤い布は、少しずつほどけていく。
「赤……青……」
壊れた声は、最後まで問いの形を保てなかった。
やがて赤い影は薄くなり、黒い玉の中へ戻るように沈んでいった。鈴は煙で玉を包み、小さな封じの形を作る。壊さず、しかし二度と三枝が握れないように。
三枝は屋上の床へ膝をついた。肩で息をしながら、自分の手を見ている。
「俺は……ただ、近づかれたくなかっただけなんだ」
綾戸は彼の前にしゃがんだ。
「誰から買った」
三枝は首を振る。
「顔は見てない。声だけだった。ここで受け取った。必要なら、これを持てって。赤い布が近づくなって言ってくれるから、それで大丈夫だって」
「代金は金じゃないんだな」
三枝の顔が歪む。
「使ったら、話せって言われた。怖かったことを誰かに話せって。屋上で赤いものを見たって、そういう話として広めろって。そうすれば、それでいいって」
綾戸は黙った。
力を売り、恐怖を代金にする。
単なる商売ではない。流通させているのは怪玉だけではない。話だ。噂だ。人から人へ渡る恐怖そのものだ。
鈴も同じことに気づいたのだろう。封じた怪玉を両手で包みながら、静かに眉を寄せていた。
「嫌な取引ですね」
「ああ」
綾戸は三枝から視線を外さずに答えた。
「売り物は、力だけじゃねぇらしい」
こんが屋上の端から戻ってきた。
「零課には連絡するのじゃな」
「する。三枝は保護対象だ。事情聴取も必要だが、今の状態で放っておくわけにはいかねぇ」
三枝は反論しなかった。力を失ったことで、ようやく自分が何をしていたのか、少しだけ見え始めたような顔をしている。
綾戸は立ち上がり、懐から煙草の箱を取り出しかけた。
だが、屋上の扉の横に貼られた小さな表示が目に入る。
敷地内禁煙。
綾戸はしばらくその表示を見てから、煙草の箱を懐へ戻した。
「……最近、どこも吸えねぇな」
鈴が封じた怪玉を懐にしまいながら、淡々と答えた。
「条例で決められていますから。屋上だからといって、好きに吸えるわけではありません」
その言い方に、綾戸は妙な懐かしさを覚えた。
昔、朔夜が何かの拍子に屋根の上で火を扱おうとしたとき、自分も似たようなことを言った気がする。時代がどうとか、条例がどうとか、そういう人間側の理屈を、夜叉に向かって真面目に説明した。朔夜は心底面倒そうな顔をしていたが、結局は従った。
あのときの自分と、今の鈴の口調が少しだけ重なる。
綾戸は小さく息を吐いた。
「お前、たまに俺みたいなこと言うな」
鈴は少しだけ目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「それは、喜んでいいのでしょうか」
「知らねぇ。俺も今、言ってから微妙な気持ちになった」
こんが横で首を傾げる。
「つまり、鈴が綾戸化しておるということか?」
「やめろ。鈴に失礼だし、俺にも微妙に失礼だ」
曵奈がコートの内側でくすくす笑った。
「あたしはちょっと分かるよ。鈴、綾戸の言い方をたまに覚えてる」
「覚えなくていいもん覚えてるな」
軽口を交わしながらも、綾戸の視線は屋上の床へ落ちていた。
昼には人で満ちていた建物の屋上で、赤い布の影だけが、誰にも見られずほどけて消えた。
けれど、その恐怖を誰かに話せと言った者がいる。
売り物は、力だけではなかった。




