昼の残り香
昼のショッピングモールは、あまりにも健全な顔をしていた。
吹き抜けの天井から降る光は白く、床には磨かれたタイルが続いている。エスカレーターは一定の速度で人を運び、案内放送は柔らかな声で催事場の場所を告げ、フードコートの方からは揚げ物と甘い飲み物の匂いが流れてくる。ベビーカーを押す母親、制服姿の学生、買い物袋を提げた会社員、休憩スペースでスマートフォンを眺める老人。そこには、ありふれた昼の生活が隙間なく詰まっていた。
つい昨日まで、廃火葬場や夜の屋上を歩いていた身には、むしろその明るさの方が奇妙だった。
綾戸は三階の吹き抜け通路を歩きながら、片手で耳元に触れた。右耳には、小さな黒いインカムが引っかかっている。もっとも、それは何にも繋がっていない。電源も入っていなければ、通信先もない。ただのハリボテだった。
「便利な時代だな。こうやってお前らとしゃべってても、特に怪しまれることもない」
綾戸は周囲の流れに合わせて歩きながら、耳元のインカムを軽く叩いた。店員がこちらを一瞬見たが、すぐに視線を戻す。独り言ではなく、通話中の人間だと判断したのだろう。
コートの内側で、曵奈が小さく笑った。
「あたしから見れば、そっちの方が不思議だけどね。何にも繋がってないんでしょ、それ」
「何にも繋がってない。けど、周りは勝手に納得する。人間ってのは、周りがそうしていれば意外と何にでも慣れるんだよ。昔なら独り言を言う変な男だが、今なら通話中の忙しい男だ」
曵奈はコートの襟元をほんのわずかに揺らした。外から見れば、歩く拍子に布が揺れただけにしか見えない。
「つまり、あたしが喋ってても、機械のせいにできるってことか。便利だね、人間の世の中」
「便利すぎて、怪異も紛れやすくなってる。怪貨連がこういう場所に入り込むのも、まあ分からなくはねぇな」
綾戸は視線だけで周囲を拾っていく。店の配置、監視カメラの角度、警備員の巡回、関係者用の扉、人の流れが不自然に途切れる場所。賑やかな場所ほど情報量は多い。だが、その分だけ隠れたものも見えにくい。
鈴とこんは別行動だった。
鈴は一階の案内板と館内マップ、テナント表を確認している。怪異の痕跡を見るだけではなく、どの会社がどのフロアに入っているか、屋上へ続く動線がどこにあるか、人間の建物としての構造を洗う役目だ。こんはその近くで、忘れ物センターやゲームコーナーに溜まった小さな噂を拾っているはずだった。
正直、こんを単独で動かすのは危なっかしい。だが鈴が目を光らせているなら、少なくとも余計な供物契約を結ぶ前には止められるだろう。
綾戸がそう考えていると、曵奈が少しだけ声を低くした。
「綾戸。ここの影、変だよ」
その言葉に、綾戸は足を止めなかった。ただ、歩く速度を少しだけ落とす。
「人が多すぎて影だらけに見えるが、どこが変だ」
「人の影はいっぱいあるよ。子どもも、大人も、店員も、買い物袋も、全部ごちゃごちゃしてる。でもね、一ヶ所だけ踏まれてない影がある。人がそこを避けてるっていうか、意識から滑ってるっていうか」
綾戸は吹き抜け脇の通路へ視線を向けた。そこには、白い壁に溶け込むような関係者用扉があった。非常口の表示と、小さなカードリーダー。普通の客が目を留めるようなものではない。だが、人の流れを見ると確かに奇妙だった。誰もその扉の前に立ち止まらない。ぶつかりそうな流れがあっても、無意識に扉の前だけ空く。
「なるほどな。昼間のうちから、扉だけ夜の顔してるわけか」
「そういう言い方、あたし好き」
「気に入られても困る」
綾戸はその扉を視界の端に入れたまま、吹き抜けを一周するように歩いた。真正面から見るのではなく、横を通り過ぎる客として距離を取る。監視カメラの位置も確認する。扉の上には一台、通路の反対側に一台。片方は客の流れを見るためのものだが、もう片方は明らかに関係者用通路を見ている。
昼間に無理をする場所ではない。
綾戸はそう判断し、フードコートへ向かった。
昼時を少し外しているとはいえ、席はそれなりに埋まっていた。トレーを持った人々が行き交い、椅子を引く音、食器の触れる音、子どもの声が折り重なる。曵奈はコートの内側で、少しだけ居心地悪そうに身じろぎした。
「ここ、影が踏まれすぎてて落ち着かない」
「人間の昼間ってのは、だいたいこんなもんだ。お前ら怪異からすると騒がしすぎるかもしれねぇが、こっちにとっては普通だよ」
「でも、普通の中に混ざってる変なものほど見つけにくいんでしょ」
「その通りだ。だから探偵は飯時のフードコートで不審者みたいに歩き回る羽目になる」
綾戸は適当な柱の近くで足を止めた。フードコート全体を見渡せる位置だ。買い手候補は、二駅先の再開発地区にある複合ビルで働く若い会社員。煙崎の情報では、スーツ姿で、怪異の気配は薄いが、背後に赤い布の影を畳んでいる。
見つけるなら、昼間の顔を見る必要があった。
数分後、エレベーター脇の通路から一人の男が現れた。
二十代後半から三十代前半。紺のスーツに、少し緩めたネクタイ。整えた髪は崩れていないが、顔には疲労が滲んでいる。片手には社員証らしきカードホルダー、もう片方にはコーヒーの紙カップ。足取りは普通で、周囲に怯えている様子も、誰かを探している様子もない。
ただ、曵奈が反応した。
「あの人」
綾戸は顔を向けすぎないように、視線だけで男を追う。
「怪異の匂いは」
「本人からは薄い。ほとんど普通の人間。でも背中の後ろ、影が少し変。本人の形より広いところに、何か畳まれてる」
「赤いか」
「うん。布みたいな赤い影。広げたら、たぶんもっと大きい」
綾戸は紙カップを持つ男を見た。男はフードコートの端に座り、スマートフォンを取り出す。昼休み中の会社員としては何もおかしくない。疲れた顔で画面を眺め、少しだけ眉を寄せ、何かに返信する。その姿は、怪異の力を買った人間というより、ただ仕事に追われる普通の男に見えた。
だからこそ、嫌だった。
悪人らしい顔をしていてくれれば簡単だ。禍々しい気配をまとっていれば、こちらも構えやすい。だが現実は大抵、もっと薄く、もっと日常に近い。
「追わないの?」
曵奈が尋ねる。
綾戸は小さく首を振った。
「昼間の顔を見た。今はそれでいい。ここで動けば、相手にも警備にも気づかれる。買い手は、買ったものを使う場所に戻ってくる。焦る必要はねぇ」
そのとき、耳元のインカムに触れるふりをして、綾戸は短く息を吐いた。
何にも繋がっていない。だが、それで周囲は納得する。
人間は、理由があるように見えるものには寛容だ。
綾戸はそれが少し怖かった。
休憩スペースで鈴と合流したのは、それから十五分ほど後だった。
鈴は館内マップを撮ったスマートフォンをテーブルに置き、落ち着いた声で報告を始めた。こんはその横で、なぜか紙袋入りの小さな饅頭を抱えている。
綾戸はまずそこを見た。
「こん。その袋はなんだ。俺の記憶が確かなら、聞き込みに行かせたのであって、買い食いに行かせた覚えはないんだが」
こんは胸を張ろうとして、鈴の視線に気づき、途中で姿勢を正した。紙袋を両手で抱え直し、いかにもこれは重大な任務の成果物であるという顔を作る。
「これは情報提供者からの厚意じゃ。決して勝手に買ったわけでも、鈴の名前で約束したわけでもない。わらわは今回、非常に慎み深く振る舞ったのじゃ」
鈴は穏やかに微笑んでいたが、その笑みは、こんの言葉を全面的に信用している者の顔ではなかった。
「こんちゃんは、今回は比較的よく我慢していました。ただ、ゲームコーナーの古いプリクラ機に宿った残滓と、少し長話をしていましたね」
綾戸は一拍置いてから、聞き間違いであってほしいという顔で鈴を見た。
「プリクラ機の残滓って何だよ。都市の怪異、細かすぎるだろ。というか、プリクラってまだ現役なのか?」
鈴はスマートフォンの画面を閉じながら、少し意外そうに綾戸を見た。彼女の声はいつも通り穏やかだったが、内容は妙に現代的だった。
「現役らしいですよ。最近の機種はすごいそうです。加工もできますし、お絵描きもできますし、撮った写真をスマートフォンに転送することもできるとか」
綾戸は思わず眉を寄せた。
「それってもうプリクラなのか? ほぼ画像加工端末じゃねぇか。というか、なんでお前がそんなに詳しいんだよ」
鈴は少しだけ視線を逸らし、それから素直に答えた。
「紅さんから聞きました。学校の方々と行くことがあるそうです。私も詳しくはありませんが、紅さんが妙に楽しそうに説明してくださったので、少し覚えてしまいました」
綾戸は納得したような、余計に分からなくなったような顔で天井を見た。
「紅、そういう普通の高校生っぽいこともするんだな。いや、普通の高校生なんだから当然なんだが、こっちの事件に巻き込まれてる姿ばっか見てると感覚がバグる」
こんはそこで待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「そのプリクラ機の残滓じゃが、なかなか哀れなやつでな。昔は女子高生たちに囲まれ、笑い声と落書きと妙な決め顔を日々浴びておったのに、新しい機種に場所を奪われ、ゲームコーナーの隅に追いやられたそうじゃ」
綾戸は嫌な予感がした。
「まさか、それで怪異化したとか言わねぇよな」
「正確には怪異というほど濃くはないのじゃ。ただ、長年“盛れますように”“可愛く写りますように”“別人になれますように”という願いを浴び続けた結果、少しだけ残ったらしい。しかも最近は誰も使ってくれぬので、自分がまだ現役であると主張したくて、近くを通る者の顔を勝手に補正しようとするのじゃ」
綾戸は額を押さえた。
「くだらねぇ……いや、怪異の発生理由としては妙に説得力があるのが腹立つな。勝手に補正って、具体的に何するんだ」
鈴はほんの少し困ったように言った。
「こんちゃんによると、目が少し大きく見える、頬が少し明るく見える、あと輪郭が勝手に細くなるそうです」
「怪異の力をそんな方向に使うな」
こんは饅頭の袋を抱えたまま、なぜか誇らしげだった。
「だが、その残滓がよい情報を持っていたのじゃ。あやつはゲームコーナーの奥から、関係者用通路へ向かう人間をよく見ておる。三枝裕也。あの男は最近、夜になると人目を避けて、関係者用通路を通って上へ向かうそうじゃ」
綾戸は顔から呆れを消し、すぐに目を細めた。くだらない由来と有用な情報が同時に来るあたりが、怪異の世界らしい。
「三枝裕也か。名前まで出たなら上出来だ。プリクラ残滓に礼を言うべきなのかは微妙だが、そいつが見ていたなら信用していい」
鈴がスマートフォンの画面を示す。そこにはテナント一覧が表示されていた。
「三枝裕也さんは、このビルに入っている広告関連会社の社員のようです。公開されている社員紹介にも名前がありました。役職は主任。年齢は三十前後。昼間の経歴だけを見れば、ごく普通の会社員ですね」
鈴はそこで一度言葉を切り、画面に映る社員紹介の写真と、先ほど綾戸たちが見た男の姿を見比べるように目を伏せた。
「ただ、こんちゃんが拾った噂と、曵奈が見た影は一致しています。本人から怪異の濃い気配はしないのに、背後だけに赤いものが畳まれている。赤い紙、あるいは赤い布のような気配です」
綾戸は曵奈へ意識を向ける。コートの内側で、曵奈が小さく頷く気配があった。
「あたしが見たのも、それ。本人の影じゃないよ。後ろに畳んでる。道具みたいに持ち歩いてる感じだった」
鈴の指がテーブルの端でわずかに強張った。
「赤マントに近いですね。ただ、あの子そのものではありません。切り取られた力だけが残っているような気配です」
綾戸はその言葉をしばらく飲み込んだ。
赤マント。仕立て。怪玉。怪異の力だけを抜き取り、玉に封じる技術。
それらが一本の線で繋がっていく。
「怪異を削って、道具にしたってことか」
綾戸の声には、はっきりとした嫌悪が滲んでいた。
鈴はすぐには答えない。けれど、否定もしなかった。
フードコートの向こうでは、何も知らない人々が昼食を食べ、買い物袋を足元に置き、次に向かう店の相談をしている。その日常の中に、怪異の力を買った人間が普通の顔で座っている。
その事実が、綾戸にはひどく気持ち悪かった。
「夜まで待つ」
綾戸ははっきり言った。
鈴が頷く。
「零課へ連絡しますか。三枝さんの名前が分かった以上、竜胆様に共有しておくべきだと思います」
「ああ、共有はする。ただし踏み込ませるのはまだ早い。警察が来たら、三枝は逃げるか、玉を使う。今ほしいのは現行の動きだ」
「では、私たちは監視。異常があれば即時共有ですね」
「そういうことだ」
綾戸は耳のインカムを指で叩いた。
「こいつが本物なら楽なんだけどな。零課ともつながるし、鈴にも指示を飛ばせる」
曵奈が笑う。
「ハリボテなんでしょ」
「ハリボテでも、人が信じりゃ役に立つ。怪異と同じだな」
その言葉に、鈴が少しだけ綾戸を見る。
「綾戸様。今の言葉、少し危ういですね」
「分かってる。だからこそ、怪貨連みたいな連中に使わせたくねぇんだよ」
昼から夕方へ、モールの空気はゆっくりと変わっていった。
最初に変わったのは人の速度だった。昼食を終えた客が減り、夕方には仕事帰りの客や学生が増える。ショーウィンドウに映る人影が長くなり、吹き抜けの上から差し込む光が少しずつ赤みを帯びていく。フードコートの席は一度また混み合い、それから閉店時間が近づくにつれて、波が引くように空いていった。
やがて閉店アナウンスが流れた。
明るかった店舗が一つずつ照明を落とし、シャッターが降りる音が遠くから連鎖していく。清掃員が床を磨き、警備員の足音が通路を横切る。昼間には誰も気に留めなかった関係者用扉だけが、非常灯の下で妙にくっきりと浮かび上がっていた。
綾戸は三階の吹き抜け脇に立ち、下の階を見下ろしていた。
昼間、あれほど人で満ちていた場所が、夜になると驚くほど簡単に空になる。残っているのは、床に染みた足音の記憶と、店先の匂いと、誰かがそこにいたという熱だけだった。
「昼間は街の一部。夜は、ただの箱だな」
綾戸が呟くと、鈴が隣に立った。
「人がいなくなった途端、建物の意味が変わるのですね。昼間は買い物をする場所でも、夜には誰かが隠れる場所になる」
曵奈がコートの内側で、少し楽しそうに言った。
「だから影も変わる。昼間は踏まれてた影が、夜になると起き上がる感じ。ここ、今すごくよく見えるよ」
「お前の表現、たまに本気で怖いんだよ」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めてねぇ」
こんは関係者用扉の近くで、警備員の巡回を見送っていた。占いというより、気配の流れを読んでいるらしい。戻ってきたこんは、いつもの得意げな顔ではなく、少しだけ真面目だった。
「次の巡回まで、少し間がある。今なら入れるのじゃ。ただし、上へ向かう気配がもう一つある」
綾戸は扉の向こうを見た。
静かな通路の奥へ、三枝裕也が消えていくところだった。
昼間と同じスーツ姿。だが、今の背中は少し違う。疲れた会社員ではなく、何かを抱えた人間の歩き方だった。逃げているのか、向かっているのか、自分でも分かっていないような足取り。
綾戸は一歩踏み出した。
「行くぞ。昼の顔は終わりだ」
鈴が巡煙簫を懐に収め直す。こんが小さく頷き、曵奈がコートの裾を静かに揺らす。
誰も見ていない扉の向こうへ、綾戸は入っていく。
昼間、あれほど人で満ちていた建物は、夜になると驚くほど簡単に空になる。
その空白へ、怪異の力を買った男が消えていった。




