屋上の宵待
夜の都心は、昼間とはまるで違う顔をしていた。
昼には人の流れで埋め尽くされる駅前の歩道も、終電を過ぎれば途端に余白を取り戻す。高層ビルの窓にはまだいくつか明かりが残っていたが、それは働き残った人間の灯りというより、消し忘れた機械の目に近かった。道路にはタクシーがまばらに流れ、信号だけが律儀に赤と青を繰り返している。昼間の喧騒を吸い込んだアスファルトはまだ少し熱を持っていたが、上空から降りてくる夜風が、その熱をゆっくり剥がしていた。
綾戸は、古い雑居ビルの前で足を止めた。
十階建ての細長いビルだった。昼間なら一階のテナントに弁当屋が入り、二階には整体、三階から上には小さな事務所が詰まっている。看板の文字は明るく、どこにでもある都心の雑居ビルにしか見えない。人が働き、昼食を買い、荷物を運び、電話をかけ、書類に追われる場所だ。
けれど今は、そのすべてが消えていた。
シャッターの閉まった弁当屋。消灯した整体院。無人のエントランス。郵便受けに詰まったチラシ。昼間には絶えず誰かが出入りしていたはずのビルが、深夜になると驚くほど空になる。廃墟ではない。壊れてもいない。だが人がいないというだけで、建物はまるで一枚薄い膜をかぶったように別のものへ変わる。
綾戸はビルの上階を見上げたまま、少しだけ目を細めた。
「昼間は会社員でごった返してるんだけどな。こうして夜に来ると、同じ建物とは思えねぇくらい空っぽに見える」
鈴も隣で足を止め、同じように上を見た。暗い窓の列に視線を這わせ、それから静かに頷く。
「だからこそ、夜にはよく空くのでしょうね。昼間に人が多い場所ほど、人が引いたあとの空白がくっきり残ります。廃墟とは違う、生々しい空き方です」
「詩的に言うなよ。ちょっと嫌な感じが増すだろ」
綾戸が顔をしかめると、鈴は悪びれた様子もなく、淡々と返した。
「綾戸様が選んだ行き先です。嫌な感じがするのは、むしろ正しい反応ではありませんか」
「選んだっていうか、こんのツケが残ってる店を避けた結果なんだよ。まっとうに聞き込み先を選んでたら、もう少し地上に近い場所だった」
その言葉に、こんが綾戸の肩の近くでふわりと浮き、むっと頬を膨らませた。
「わらわの信用問題に関わる言い方はやめるのじゃ。宵待のマスターは心の広い御仁じゃぞ。少しくらい支払いが後になっても、笑って許してくれる懐の深さがあるのじゃ」
綾戸は無言でこんを横目に見た。その視線だけで、言いたいことは十分伝わっている。
「ツケを許してくれるから心が広いって評価してる時点で、だいぶ終わってるんだよ。お前、どれだけ飲み食いした」
こんはふいと視線を逸らし、いかにも聞こえなかったという顔をした。
「細かい数字は、怪異の尊厳に関わるので秘すのじゃ」
「尊厳じゃなくて請求書の話だろ」
綾戸のコートの裾が、小さく揺れた。そこから曵奈の声が、夜風に混ざるように聞こえる。
「あたしは、こういう場所けっこう好きだよ。昼と夜で役割が変わる建物って、影も二重になるんだ。昼間の人の熱が残ってる影と、夜に空いた影が重なってる感じ」
綾戸はビルの脇へ回りながら、コートの裾を軽くつまんだ。
「お前の好み、分かるようで分かりたくない方向に育ってきたな。影が二重になるとか、普通の人間にはなかなか出てこねぇ表現だぞ」
「普通じゃないからね、あたし」
曵奈は少し得意げだった。
「あと、綾戸も普通側の顔して言わない方がいいよ」
「俺は比較的常識側だ」
綾戸が言い切ると、鈴がほんの少しだけ視線を逸らした。こんは露骨に鼻を鳴らす。曵奈はコートの内側で笑った。
「その沈黙、全員あとで覚えてろよ」
軽口を交わしながら、綾戸はビルの裏手へ回った。正面玄関は当然閉まっている。だが、裏手には非常階段の下へ通じる古びた扉があった。鍵穴には古い真鍮のプレートが嵌まっており、そこに小さく「屋上」とだけ刻まれている。
鈴は扉と綾戸の手元を見比べ、少し首を傾げた。
「ここから上がるのですか。普通のビルなら、関係者以外立入禁止の場所ですよね」
「普通の人間なら鍵がかかってる。けど、客なら開く」
綾戸はポケットから、昼間に名刺入れから抜いた札を取り出した。墨で「宵待」と書かれた、紙とも木片ともつかない薄い札だ。
鈴は札を眺めながら、少しだけ慎重な声になった。
「客というのは、人間の客ですか。それとも、もっと広い意味での客ですか」
「その質問、店によっては失礼になる。ここはたぶん後者だが、わざわざ口に出すと面倒な客が振り向く」
綾戸が札を扉に軽く触れさせると、鍵の内側で小さく金属が外れる音がした。
「ほらな。少なくとも、今日は俺たちを客として扱う気はあるらしい」
鈴は扉の隙間から伸びる暗い階段を見て、わずかに眉を寄せた。
「防犯上はかなり問題がありますね」
「そもそも防犯の外にある店なんだよ。警備会社のシールより、怪異の顔馴染みの方が強い場所ってのはある」
扉を開けると、鉄骨の非常階段が上へ伸びていた。外気にさらされた階段は少し錆びており、足を乗せるたびに低く鳴る。ビルの壁面を沿うように上がっていくと、街の音が少しずつ下へ遠ざかっていった。
十階まで上ると、風の質が変わった。
地上ではビルの谷間を濁って流れていた夜気が、屋上近くでは冷たく澄んでいる。最後の扉を開けると、そこには思っていたより広い屋上があった。フェンスに囲まれたコンクリートの床。空調室外機の列。給水塔。非常灯。そして、その奥。
屋上の端に、ぽつんと喫茶店が開いていた。
木製のカウンターと数脚の椅子。小さな布張りの屋根。琥珀色のランプ。看板はない。ただ、夜風の中にコーヒーの香りが漂っている。屋上にそんな店があること自体がおかしいのに、不思議と違和感は薄かった。むしろ、この時間だけは最初からそこにあったように見える。
店の名は、宵待。
昼間は人間の街に紛れ、夜だけ屋上に顔を出す喫茶店。
客はすでに何組かいた。
フェンス際の席には、薄い着物を着た女が一人座っている。顔は整っているが、コーヒーカップに映るはずの姿が映っていない。室外機の陰には、古い傘が一本立てかけられており、その傘がときおり小さくくしゃみのような音を立てる。カウンターの端では、背広姿の男が新聞を読んでいるが、首から上が湯気でできていた。
綾戸は屋上全体をひと通り見渡し、低く呟いた。
「相変わらず客層が濃いな。昼間のビルの屋上にこんな連中が並んでるって考えると、都市ってのは思ったより隙間だらけだ」
その言葉に、カウンターの奥から柔らかな声が返ってきた。
「昔からですよ。綾戸さんが慣れただけです。都市は人間が思っているほど、人間だけのものではありませんから」
店主は初老の男に見えた。白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけ、黒いベストを着ている。ただし輪郭がわずかに煙のように揺れていた。動くたびに肩や指先の線が薄くなり、次の瞬間にはまた人の形に戻る。
煙崎。
綾戸が知る限り、人間ではない。だが怪異と言い切るには、あまりに世間慣れしていた。
綾戸はカウンターへ近づきながら、軽く片手を上げた。
「久しぶりだな、煙崎。しばらく顔を出さなかったからって、俺の席を他の怪異に売ってたりしねぇだろうな」
煙崎は穏やかに笑い、カップを磨いていた手を止める。
「ええ。しばらくお見えにならなかったので、てっきり真っ当な生活を始めたのかと心配しておりました。もっとも、綾戸さんが真っ当になったら、それはそれで別の怪異案件かもしれませんが」
「俺が真っ当だった時期があるみたいに言うな。いや、ないって前提で心配するのも失礼だけどな」
「ないから心配していたのです」
煙崎の返しは穏やかだったが、容赦はなかった。
その横から、こんがすいと顔を出して胸を張る。
「煙崎、久しいのじゃ。わらわの顔を見て、店の格がまた一段上がったであろう」
煙崎はにこやかに会釈した。
「こん様。お久しぶりです。未払い分はまだ残っておりますので、格が上がったかどうかは帳簿を確認してから判断いたします」
綾戸はゆっくりとこんを見た。視線だけで、こんの耳が少し下がる。
「……顔が広いと申したであろう。帳簿にも名が載るほどの顔ということじゃ」
「ツケを広げてるだけだろ。お前、顔じゃなくて負債を広げてんだよ」
鈴は困ったように眉を下げ、煙崎へ丁寧に頭を下げた。
「お騒がせします。こんちゃんの件については、あとでこちらでも確認いたしますので」
「いえ。廣守探偵事務所の方々は、騒がしい時ほど良い話を持ってきます。未払いより、そちらの方が大抵は高くつきますので」
綾戸はカウンター席へ腰を下ろし、煙崎に視線を向けた。
「悪い話の間違いだろ。今日は少なくとも、コーヒーを飲んで帰るだけの客じゃねぇ」
「でしょうね」
煙崎は手元のポットを傾け、なぜかそれでも綾戸の前にコーヒーを置いた。
「ですが、話には飲み物があった方がいい。苦い話ほど、苦いものと一緒に出した方が飲み込みやすいものです」
琥珀色のランプの下で、黒い液面がわずかに揺れる。
綾戸はカップに触れず、低く言った。
「怪貨連の流通品を探してる」
その瞬間、屋上の空気がわずかに変わった。
着物の女がカップを止める。傘が小さな音を立てる。新聞を読んでいた湯気の男が、紙面の向こうからこちらを見た。誰も声を上げない。だが、この名前がただの組織名ではなく、夜の側にいる者たちにとっても避けて通りたいものだということだけは、はっきり伝わってきた。
煙崎はしばらく黙っていた。磨いていたカップを棚へ戻し、今度は綾戸ではなく、鈴とこんと、綾戸のコートの影へ順に視線を向ける。
「その名前を出すなら、コーヒー一杯では足りませんね。ここでその名を聞いた客の中には、明日からしばらく別の店に移る者もいるでしょう」
綾戸はようやくカップに触れ、指先で温度を確かめた。
「じゃあ二杯で足りるか。足りないなら、こんのツケに上乗せしとけ」
こんが慌てて綾戸の肩の周りを回る。
「待つのじゃ。それは人質ならぬ狐質じゃ。わらわの財布は既に軽いのじゃ」
「財布を持ってる怪異の時点でだいぶ怪しいんだよ」
煙崎は薄く笑った。
「命が安いですね、綾戸さん」
「高く売れるほど上等でもねぇよ。こっちは買い手の話を聞きに来たんだ」
鈴が綾戸の横で、少し声を落として補足する。
「怪異の力だけを抽出した品が、どこかに流れている可能性があります。使用者本人には怪異の気配が薄いまま、力だけを扱える品です」
煙崎の目が、ほんのわずかに細くなった。
「……玉、ですか」
鈴の表情が変わる。いつもの穏やかさは残っているが、指先にわずかな緊張が宿った。
「ご存じなのですね。現物を見たことがありますか」
「噂だけです。現物を持ち込まれたことはありません。持ち込まれていたら、この店はもう少し荒れていたでしょう。怪異の力だけを小さな器に入れて持ち歩くなど、火のついた炭を紙袋に入れるようなものですから」
綾戸はカップを指先で回した。黒い液面に、屋上のランプが細く歪んで映る。
「怪玉って呼ばれてる。少なくとも、こっちが知ってる筋ではな」
「その名で通っているかどうかは知りません。ただ、最近妙なものを持った人間がいるという話は聞きました」
綾戸は眉を上げた。
「人間か。怪異じゃなくて?」
煙崎は頷いた。
「ええ。怪異の気配はほとんどない。けれど、怪異の力を使った。だから噂になったのです。この店の客たちは、怪異そのものより、怪異らしくない異物に敏感ですから」
鈴が身を乗り出す。台詞は短いが、その前にある動きが、彼女の緊張を示していた。
「その力は、どのようなものでしたか。見た方の証言で構いません」
「黒い石のような玉を握った瞬間、その背後に赤い布のような影が広がったそうです。夜風もないのに、ひらひらと広がる赤い布。顔を覆うようにも、背中から垂れるようにも見えた、と」
鈴の指先が、かすかに強張った。
綾戸はその反応を見て、煙崎へ視線を戻す。
「赤い布、か。鈴、やっぱり思い当たるか」
鈴はすぐには答えなかった。屋上のランプの光が、彼女の横顔を淡く照らしている。
「赤マントの残滓かもしれません。断定はできませんが、赤い布、顔を覆う、背後から現れるという特徴は近いです」
「仕立てだな」
綾戸の声が低くなる。
鈴は一度だけ目を伏せ、それから静かに首を横へ振った。
「まだ断定はできません。ですが、無関係ではないと思います。怪異の力だけを取り出すという手法も、あの方のやり方に近い」
綾戸は頷き、屋上の向こうへ視線を投げた。ここからは都心のビル群が見える。昼間には人で満たされる街。その屋上、非常階段、空調設備の隙間、夜になって初めて空く場所。湾岸の倉庫とは違う。廃墟でもない。だが、夜の間だけ街の機能から切り離される場所は、怪異にとっても、人に見られたくない取引にとっても都合がいい。
「その人間は、どこで見た。駅前の路地か、それとも別の空いた場所か」
煙崎は少しだけ考え、コーヒーの湯気を指先でなぞった。湯気が一瞬だけ細い線になり、都心の地図のように歪んでほどける。
「この近くです。二駅先の再開発地区に、昼は人で溢れる複合ビルがあります。飲食店、オフィス、商業フロア、展望デッキ。昼間なら怪しい取引などできない場所です」
綾戸はその説明を聞きながら、頭の中で場所を思い浮かべる。
「昼間なら、ってことは夜か。展望フロアの上に、関係者以外立入禁止の屋上でもあるのか」
煙崎は穏やかに頷いた。
「ええ。そこへ、深夜に人影が上がっていくのを見た者がいます。昼は人で溢れ、夜には空く。最近の怪異は、そういう場所を好むものも増えました。完全な廃墟より、人の気配が剥がれた直後の空白の方が、匂いが濃いのでしょう」
こんが耳をぴんと立て、少し楽しそうに言う。
「屋上とな。高い場所なら、わらわが見張るにも都合がよいのじゃ。風も通るし、逃げ道も分かりやすい」
綾戸は横目でこんを見る。
「お前はまず落ちないことを考えろ。高い場所にいると、妙に調子に乗るだろ」
「わらわを何だと思っておる」
「調子に乗ってフェンスに立つ狐」
こんは反論しようとしたが、少し心当たりがあるのか、すぐには言い返せなかった。
曵奈がコートの内側で、どこか楽しそうに呟く。
「あたし、屋上の影は好きだよ。地面から離れてるのに、ちゃんと足元にある。人が空に近づいたつもりになっても、影だけは置いていけない感じがするんだ」
「また分かるような分からないようなことを言うな。今から行く場所の不気味さが増すんだよ」
綾戸はそう言いつつも、目はすでに決まっていた。
「買い手の顔は分かるか」
「直接は」
煙崎はそう言い、屋上の客たちへ視線を向けた。
「ですが、ここは喫茶店です。噂を飲みに来る客もいます。私が知らないことを、客が知っていることは珍しくありません」
こんが勢いよく浮き上がった。先ほどまでの気まずさはどこかへ消え、すっかり得意げな顔になっている。
「わらわの出番じゃな。こういう時こそ、偉大なるこっくりさんの顔の広さを見せるときじゃ」
綾戸はすぐに釘を刺した。
「聞き込みはいい。ただし余計な約束はするな。菓子、札、手伝い、占い、全部禁止だ」
こんは胸を張ったまま、わずかに目を泳がせる。
「分かっておる。今回は慎重に聞くのじゃ。約束ではなく、あくまで可能性を示唆するだけに留める」
「それがもう危ないんだよ」
鈴が横から穏やかに言った。
「こんちゃん。情報をいただく相手には誠実にお願いしますね。あと、私の手作り菓子を勝手に交渉材料にしないでください」
こんは一瞬固まり、それからぎこちなく笑った。
「……先に釘を刺されたのじゃ」
「刺される心当たりがあるんだな」
そう言って、こんはフェンス際の着物の女の方へ飛んでいった。綾戸はその背中を見送り、鈴に小声で言う。
「あいつの慎重って、どのくらい信用できる?」
鈴は少し困ったように眉尻を下げた。
「善意はあります。ただ、こんちゃんの善意は、ときどき本人の好奇心に追い越されます」
「つまり信用できないってことだな」
「そこまでは言っていません」
「言ってるのと同じだよ」
十分ほどして、こんは得意げな顔で戻ってきた。着物の女、傘の付喪神、湯気の男、そのすべてから何かしらの話を拾ってきたらしい。
「聞いてきたぞ。まず安心するがよい。今回は何も払っておらぬし、約束もしておらぬ」
綾戸はすぐに疑いの目を向ける。
「本当か。お前の“払ってない”は、後日払いを含んでないことがあるから信用ならねぇ」
「少しだけ、鈴の手作り菓子が美味であるという話をしただけじゃ。可能性の話であって、契約ではない」
鈴がにこりと微笑んだ。その笑顔は柔らかいが、逃げ道を塞ぐ種類のものだった。
「こんちゃん。あとで詳しく聞きますね」
「……はいなのじゃ」
こんの耳が素直に下がる。
綾戸は額を押さえたが、すぐに本題へ戻した。
「で、情報は」
こんは咳払いを一つして、真面目な顔を作った。
「黒い玉を持った男は、若い人間だったそうじゃ。スーツ姿で、昼間はその複合ビルで働いているように見えたらしい。だが夜には屋上へ上がっていた」
「会社員か。表の顔があるなら、調べようはあるな」
綾戸がそう言うと、こんはさらに続けた。
「ただし、怪異の匂いは薄い。持っている玉だけが妙に濃かったそうじゃ。本人は普通の人間に近いのに、背後にだけ赤い布の影が出た、と」
鈴が静かに言う。
「使用者本人に怪異の気配が薄いなら、やはり力だけを外部化している可能性があります。怪異を宿しているのではなく、道具として持ち歩いている」
綾戸はカップの中の黒い液面を見た。
「便利な道具にしたってわけか」
その声には、はっきりとした不快感があった。
煙崎が静かに綾戸を見た。
「綾戸さん。ひとつ忠告しておきます」
綾戸は顔を上げる。
「なんだ。今さら命が危ないって話なら、もう聞き飽きてるぞ」
「買い手は、自分を悪人だと思っていないことが多い、という話です」
夜風が屋上を抜ける。煙崎の輪郭がわずかに揺れ、しかしその声だけは妙にはっきりしていた。
「力を買った者は、それを必要だったと言います。守るため、勝つため、取り返すため、生き残るため。理由はいくらでもある。だから厄介です。売る者より、買う者の方が、自分を正しいと思っている」
綾戸はしばらく黙っていた。
それから、コーヒーを一口だけ飲む。苦味が舌の上に広がり、夜風の冷たさと混ざった。
「苦いな」
「大人の味です」
煙崎がそう返すと、綾戸はカップを置き、口元だけで笑った。
「煙草と合いそうだ」
「屋上ですが禁煙です」
「怪異の喫茶店が細けぇな」
煙崎は穏やかな顔のまま、磨いていたカップを棚へ戻した。
「ご存じですか、綾戸さん。煙草の小火というものは、火災保険で面倒を見るにも限度があるのですよ。まして、屋上に夜だけ現れる喫茶店となると、保険会社へ説明する段階でこちらが怪異扱いされてしまいます」
軽く返しながらも、綾戸の目は笑っていなかった。
屋上の喫茶店を出る頃には、夜風がさらに冷たくなっていた。非常階段の方へ向かう途中、鈴が小さく声をかける。
「綾戸様。次は、その複合ビルの屋上へ行くのですね」
綾戸は都心のビル群を見渡した。昼には人で満ち、夜には空白になる場所。その上に、怪異の力を買った人間が立っている。
「ああ。湾岸の倉庫は零課が追う。俺たちは、昼には人が溢れて夜には空く場所を追う。怪貨連の売り場じゃなくて、買った奴の顔を見に行く」
鈴は少しだけ目を伏せた。
「人がいた痕跡の残る空白。そういう場所に、怪異の力を買った方が出るのですね」
「そういう場所なら、普通の人間にも怪異にも都合がいい。昼間の顔と夜の顔を使い分けられるからな」
こんが腕を組み、屋上の風に尻尾を揺らした。
「つまり、次は高いところじゃな。わらわが華麗に見張ってやるのじゃ」
「落ちるなよ」
綾戸が即座に言うと、こんは不満そうに耳を動かす。
「わらわを何だと思っておる。そう何度も落ちるような狐ではないのじゃ」
「何度かは落ちたことある言い方やめろ」
曵奈がコートの内側で楽しそうに笑った。
「あたしは屋上の影、好きだよ。地面から離れてるのに、ちゃんと足元にあるから。人間って、高いところに上がると何かから離れた気になるけど、影だけはついてくるんだよね」
綾戸は非常階段の扉に手をかける前に、一度だけ振り返った。
屋上の端にあったはずの喫茶店は、もう少し薄くなっていた。琥珀色の灯りが夜風に滲み、カウンターも椅子も、客たちの輪郭も、ゆっくりと夜の中へほどけていく。
煙崎が遠くから軽く手を上げたように見えた。
次の瞬間、灯りは消えた。
屋上には、ただ空調室外機の低い唸りと、都心の夜景だけが残っている。
鈴が、消えた喫茶店のあたりを見つめながら静かに言った。
「綾戸様。今度は、遅れないでくださいね」
綾戸は少しだけ苦笑した。前回の火葬場で完全に出番を逃したことを、鈴はまだ穏やかに刺してくる。
「今回は最初から走ってるよ。だから置いていかれる心配は、たぶんねぇ」
「たぶん、なのですね」
「確約すると、だいたい面倒なことが起きるんだよ」
綾戸は扉を開けた。非常階段の向こうから、地上の音が遠く上がってくる。
夜の底で、怪異を売る者と買う者の匂いが、ようやく混ざり始めていた。




