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妖奇譚~怪異の来る探偵事務所と、人間をやめかけた男~ ※次回更新5月  作者: Tomato.nit
空の器

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探偵の仕事


 廣守探偵事務所に戻ってきたとき、朝の光はすでに窓の縁へ淡く差し込み始めていた。


 夜通し動き続けた身体には疲労が沈んでいるはずなのに、綾戸の頭は妙に冴えていた。火葬場の冷たい空気、床を満たした影、蒼良が言った「帰る場所を探すだけ」という言葉、そしてぬらりひょんの男の薄い笑み。そのどれもが、まだ皮膚の裏側に残っている。


 事務所の空気は、いつも通り少しだけ散らかっていた。テーブルの上には菓子の袋が残り、読みかけの雑誌がソファの端に乗っている。窓際の棚にはこんが勝手に並べ替えたらしい小物がいくつかあり、誰のものか分からない湯呑みが一つ、乾いた茶渋を底に残していた。


 ただ、いつもと少し違うところもある。


 朔夜がいない。


 奏灯もいない。


 それだけで、事務所の密度が一段薄くなったように感じられた。


「……なんか、締まらねぇな」


 綾戸はコートを脱がずに椅子へ腰を下ろし、背もたれに身体を預けた。コートの裾がわずかに揺れ、そこから曵奈の声が漏れる。


「それ、あたしがいるのに言う?」


「お前がいるから余計に締まらねぇんだよ」


「ひどっ。あたし、昨日も結構がんばったんだけど」


「頑張ったのは認める。だが締まりとは別問題だ」


 ソファの背に腰掛けていたこんが、ふんぞり返るように腕を組んだ。


「ぬはは。つまり、わらわがこの場の威厳を補えばよいのじゃな」


「お前が威厳を語るな」


「なぜじゃ。わらわは偉大なるこっくり様の化身であるぞ」


「偉大なる化身は、人の机の上に干からびた煎餅を置きっぱなしにしねぇんだよ」


 こんは視線を逸らした。


「それは……あとで食べようと思っておったのじゃ」


「完全に忘れてただろ」


 軽口を叩きながらも、綾戸の視線は自然と事務所の奥へ向いていた。朔夜が普段立っているあたり。奏灯が鈴の隣で小さく座っていることの多い場所。その空白を、鈴も同じように感じているらしかった。


 鈴は帳簿机の椅子に腰を下ろし、外していた髪飾りを整えながら静かに言った。


「朔夜様と奏灯ちゃんは、しばらく零課に常駐ですね」


「だろうな」


 綾戸は天井を見上げる。


「ぬらりひょんの男の監視。正直、あいつを普通の警察署に置くのは無理だ。気づいたらいませんでした、どころか、最初から誰も覚えてませんでした、になりかねねぇ」


「ええ。朔夜様なら、あの方の気配の揺らぎを捉えられますし、いざとなれば月光で影渡りの兆しを断てます。奏灯ちゃんも、逃亡の未来を先に見られる」


 鈴は言葉を切り、少しだけ考えるように視線を落とした。


「それに、竜胆様との相性も悪くありません」


「あの二人、妙に噛み合うよな」


 綾戸は思い出す。火葬場へ向かうパトカーの中で、奏灯が淡々と先の危険を告げ、竜胆がそれを当然のように使って車を走らせていた姿。戦闘中も同じだった。竜胆は奏灯の未来視を過剰にありがたがりもせず、疑いもせず、ただ情報として扱う。その距離感が、奏灯には合っている。


 こんが横から口を挟む。


「つまり、奏灯はあやつに取られたということか?」


「取られてねぇよ。調査協力だ」


「むう。わらわの遊び相手が減ったのじゃ」


「お前、奏灯を遊び相手扱いするな」


 曵奈がコートの襟元からひょこりと声だけ出す。


「でも、朔夜と奏灯がいないと、こっちは戦力落ちるね」


「そうだな」


 綾戸は否定しなかった。


 朔夜は斬るための切り札であり、奏灯は未来を読む目だ。その二人が零課側に回るのは痛い。だが、ぬらりひょんの男を捕らえた意味を保つなら、そこへ戦力を割くのは当然だった。


「だからこそ、こっちはこっちの仕事をする」


 鈴が頷く。


「竜胆様もそう仰っていましたね。警察が追える線は零課が追う。綾戸様には、警察が追いにくい線を追ってほしい、と」


「警察が追いにくい線、ね」


 綾戸は机の上に置かれたメモを指で引き寄せた。零課での会議中に走り書きしたものだ。湾岸部の古い倉庫街、移送記録の空白、民間搬送、失踪者の名前。そして、その横に大きく書かれた一言。


 買い手。


「怪貨連が怪異を回収して、加工して、流通させるってんなら、当然それを買う奴がいる」


 綾戸の声は、先ほどまでの軽口より低かった。


「売る奴がいるから流れるんじゃない。買う奴がいるから、売る奴が調子に乗る」


 鈴は静かに目を伏せた。


「怪異の力を欲しがる人間、ですか」


「人間とは限らねぇけどな。怪異同士の取引もあるだろうし、半端に見えるようになった連中が手を出すこともあるかもしれねぇ。けど一番面倒なのは、力の意味を知らない人間が、便利な道具みたいに買うことだ」


 こんが首を傾げる。


「怪異の力など、そう簡単に扱えるものではなかろう」


「普通はな」


 綾戸はメモの端を叩いた。


「だから加工する。扱いやすい形にする。道具にする。……そういう話なんだろ、怪貨連ってのは」


 鈴の指が、膝の上でわずかに強張った。


 綾戸はそれを見逃さない。


「鈴」


「はい」


「仕立てのこと、思い出したか」


 鈴はすぐには答えなかった。窓の外から入る朝の光が、彼女の横顔を淡く照らしている。その表情はいつも通り穏やかだったが、瞳の奥だけが少し遠くを見ていた。


「……ええ」


 やがて鈴は静かに言った。


「あの方は、怪異の力だけを取り出そうとしていました。赤マントの件も、他の件も、ただ封じるのではなく、力を抜き取って形にしていた」


「怪玉、だったか」


「はい。怪異そのものを使役するのではなく、力だけを取り出して玉に封じる。あれは今までの怪貨連のやり方とは少し違っていました」


 鈴の声がわずかに低くなる。


「怪異の存在そのものを希薄にするやり方です。人間にも怪異にも傷が残る」


 綾戸は机の上に肘をつき、指を組んだ。


「昨日のぬらりひょんの男も、“力だけを取り出す者もいる”って言ってた。あいつが仕立てのことを指してたかはまだ分からねぇ」


「ですが、無関係と見る方が難しいですね」


「ああ」


 綾戸は短く頷く。


「しかも、仕立ては一度うちに来てる。依頼人面してな」


 曵奈が低く唸るように言う。


「あいつ、ずいぶん大胆だよね。敵の事務所に客として来るとか」


「大胆というより、舐めてるんだよ」


 綾戸の声に、わずかに冷たいものが混じる。


「自分は見抜かれないと思ってた。あるいは、見抜かれても問題ないと思ってた。どっちにしろ、気に入らねぇ」


 こんが腕を組んで頷いた。


「つまり、次はその仕立てとやらをぶん殴るのじゃな」


「お前最近血の気増えたよな」


「分かりやすくてよかろう」


「分かりやすさだけで仕事が進むなら探偵なんか要らねぇんだよ」


 鈴が少しだけ笑った。


「では、綾戸様に与えられた任務を整理しましょう」


「与えられたって言い方、気にくわねぇな。小間使いみたいで」


「では、押しつけられた仕事で」


「悪化してんぞ」


 鈴は軽く首を傾げた。


「怪貨連の流通先を探る。特に、怪異の力を買った人間を見つける。竜胆様のお話では、零課は移送経路と仮置き場の線を追うそうです。湾岸の倉庫街については警察側で動く。ただ、そこへ警察が踏み込めば、相手はすぐに気づくでしょう」


「だから、こっちは裏側から当たる」


「はい。怪異側の噂、怪しい流通品、急に力を持った人間。警察の書類には残らない線です」


 綾戸は椅子の背にもたれた。


「怪異を売る奴も気に食わねぇが、買う奴も大概だな」


「どうしてですか?」


 こんが尋ねる。


 綾戸は少しだけ考えた。


「怪異ってのは、都合のいい力なんかじゃないからだ」


 事務所の空気が、ほんの少し静まる。


「怖いものもある。面倒なものもある。人を傷つけるものもある。けど、全部が全部、ただの道具じゃねぇ。そこに何かしらの由来があって、感情があって、歪みがあって、願いがある。そういうものを削って、使いやすい武器みたいにするのが気に食わねぇ」


 鈴はその言葉を、静かに聞いていた。


「綾戸様らしいですね」


「褒めてる?」


「少し」


「少しかよ」


「全部褒めると調子に乗りますから」


 曵奈が楽しそうに笑う。


「鈴、よく分かってる」


「お前まで乗るな」


 こんが勢いよく立ち上がった。


「では、わらわの出番じゃな。怪異の噂を集めるなら、こっくりさんの神通力が火を噴くのじゃ」


「火は噴くな。余計なことになる」


「比喩じゃ」


「お前実際に狐火ポンポン出せるんだから比喩じゃないんだよ」


 綾戸は立ち上がり、事務所の棚から古びた名刺入れを取り出した。中には普通の依頼人の名刺に混じって、どう見ても人間の店ではないだろうものがいくつか入っている。墨で書かれた屋号、読めない文字、触るとわずかに冷たい紙片。


 鈴がそれを見て、少しだけ目を細める。


「聞き込み先ですか」


「ああ」


 綾戸は一枚の札を抜き出した。


「まずは、夜だけ開く喫茶店だな」


 こんの耳がぴくりと動く。


「ぬ。あそこか」


「知っているんですか?」


 鈴が尋ねると、こんは胸を張った。


「無論じゃ。人と怪異と、どちらでもないものがたまに茶を飲む店じゃな」


「お前、勝手に行ってたのか?」


「わらわは顔が広いのじゃ」


「ツケ作ってないだろうな」


 こんはまた視線を逸らした。


 綾戸は額を押さえる。


「……最初の聞き込み先、変更するか?」


「申し訳ありませんが、むしろ早く行った方がよろしいかと」


 鈴が穏やかに言った。


「こんちゃんのツケが増える前に」


「鈴、そこは否定してやれよ」


 曵奈がくすくす笑う。


「あたしも行くよ。ああいう場所なら、影の方が話を聞きやすいし」


「お前は俺のコートだからな。行くも何も最初からいるだろ」


「失礼な言い方。こんなに可愛いのに」


 綾戸は札をポケットに入れ、窓の外へ視線を向けた。朝の光はもうすっかり街を照らしている。だが、彼らが向かう先は夜にしか開かない場所だ。今は準備の時間。昼のうちに調べられることを調べ、夜になれば人と怪異の狭間へ足を踏み入れる。


 警察は表から追う。


 自分たちは裏から潜る。


 ようやく、こちらから手を伸ばせる。


「怪貨連の買い手を探る」


 綾戸は自分に言い聞かせるように呟いた。


「怪異の力を買った人間を見つける。ついでに、仕立ての尻尾も掴めりゃ上出来だ」


 鈴が静かに頷く。


「はい」


 こんが拳を振り上げる。


「では、出陣じゃ!」


「夜になってからな」


「ぬう。待つのは苦手じゃ」


「知ってるよ」


 綾戸は椅子にかけていたままのコートの襟を整える。曵奈がその内側で少しだけ身じろぎした。


「で、綾戸」


「なんだ」


「今回は出番、あるといいね」


 綾戸は一瞬黙った。


 それから、深く息を吐く。


「お前ら全員、そこだけは忘れねぇんだな」


 鈴が微笑む。


「大事なことですから」


「大事じゃねぇよ」


 事務所に、久しぶりにいつもの騒がしさが戻った。


 綾戸はその騒がしさを少しだけ聞き流しながら、机の端に置いていた煙草の箱を引き寄せた。一本を咥え、ライターの火を近づける。小さな炎が先端を赤く染め、すぐに細い煙が立ち上った。


 鈴が少しだけ眉を上げる。


「朝からですか?」


「夜明け前から働いてたんだ。実質、深夜だろ」


「屁理屈ですね」


「探偵の煙草なんて、大体大雑把な理屈でできてんだよ」


 こんが鼻をひくつかせ、顔をしかめた。


「むう。煙いのじゃ」


「お前、散々燃やす癖に煙には文句言うんだな」


「嫌なものは嫌なのじゃ」


 曵奈がコートの内側でくすりと笑う。


「あたしは嫌いじゃないよ。その匂い、綾戸が考え込んでる時の匂いだし」


「勝手に人の思考に匂いをつけるな」


 綾戸は煙をゆっくり吐いた。窓から差し込む朝の光に、薄い紫がかった煙が絡み、すぐにほどけて消えていく。軽口は続いている。それでも、煙草を持つ指先だけは静かだった。


 だが、その騒がしさの奥で、綾戸の目だけは冷えていた。


 怪異を売る者。


 怪異を買う者。


 そして、それを当たり前のように流通させる者たち。


 ようやく尻尾を掴んだ。


 なら、今度は逃がさない。


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