反撃準備
夜が明けきった頃、公安零課の会議室には、火葬場の湿った冷気とはまったく別の重さが漂っていた。
蛍光灯の白い光が、長机の上に広げられた資料を容赦なく照らしている。写真、報告書、失踪者の一覧、移送記録、防犯カメラの時刻表、事件ごとの簡易相関図。それらは一つ一つを見ればただの書類に過ぎないが、積み重なった瞬間、そこには人の生活が消えていった跡が浮かび上がる。
ぬらりひょんの男は、会議室の隅に座らされていた。
通常の留置場には入れられない。竜胆の判断は早かった。こいつは逃げる。いや、もっと悪い。そこにいたこと自体を周囲の認識から滑らせる。そう言い切った竜胆に、誰も反論しなかった。
男の両腕には鈴の符が巻かれ、椅子の脚には煙を編み込んだ簡易結界が絡んでいる。足元の影は薄く処理され、部屋の四隅には朔夜が打った符が貼られていた。窓には遮光布が下ろされ、床には塩と鉄粉を混ぜた細い線が引かれている。怪異を閉じ込めるには心許ないが、少なくとも“気づけばいなくなっていた”という事態だけは防げる程度の備えだった。
奏灯は会議室の端に立ち、じっと男を見ている。着ぐるみの頭部のせいで表情は分からないが、視線が男から外れていないことは誰にでも分かった。
「逃げる未来は?」
竜胆が問う。
奏灯は少し考えるように首を傾けた。
「今は薄い。ただ、完全には消えてない」
「十分だ」
竜胆は短く答え、椅子に座った。
男は苦笑する。
「まるで危険物扱いですね」
「違うのか?」
「いえ。否定はしません」
軽い返答だったが、その軽さを受け流すほど、室内の空気は緩くない。
美香は壁際に立ち、腕を組んでいた。蒼良はその近くの椅子に座っている。まだ眠そうな顔ではない。そもそも眠気というものがどの程度あるのかも分からない。ただ、火葬場での出来事以降、蒼良の視線は少し変わったように見えた。
何かを見るときに、ただ観察しているだけではない。
自分の中で言葉を探している。
そんな間が増えていた。
綾戸は遅れて会議室に入り、机の上の資料の量を見て顔をしかめた。
「うわ、朝から重いな」
竜胆は資料から顔を上げない。
「お前は昨日、ほぼ何もしていない。体力は残っているだろう」
「根に持ってんのか?」
「事実だ」
鈴が静かに言う。
「綾戸様。今日は出番が多いと思いますので、ご安心ください」
「その慰め方、あんまり嬉しくねぇな」
綾戸はぼやきながら椅子に座り、机の上に広げられた名前の一覧を見た。そこで表情が少しだけ変わる。
「……これ、昨日のリストか」
「ああ」
竜胆はホワイトボードの前に立った。
黒いペンで三本の線を引く。
一つ目に、失踪者。
二つ目に、回収係。
三つ目に、流通先。
「怪貨連を追うなら、怪異だけ見ていても駄目だ」
竜胆は言う。
「こいつらは怪異を扱っているが、動き方は犯罪組織に近い。人を動かし、車を使い、書類を偽り、制度の隙間を抜けている」
綾瀬が端末を操作しながら頷いた。
「昨夜のリストと照合しました。失踪者の多くは、事件直後に一度は警察か病院、あるいは保護施設の記録に載っています。ただ、その後の移送記録に不自然な空白があります」
「空白?」
美香が聞く。
綾瀬は画面を回した。
「はい。例えば萩原幸太。事件後、保護対象として移送された記録があります。でも、搬送担当の業者名が途中から変わっています。その変更手続きの記録が存在しません」
竜胆が続ける。
「ほかにも同じパターンがある。病院から別施設へ。警察署から保護先へ。保護施設から専門機関へ。移動の途中に“民間委託”が挟まっている」
綾戸は眉を寄せた。
「怪異じゃなくて、普通に人間の手続きに紛れてるってことか」
「そういうことだ」
竜胆はホワイトボードの“失踪者”に丸をつける。
「怪貨連は怪異だけを回収しているんじゃない。怪異事件の中心にいた人間も回収している。実験材料か、証拠隠しか、あるいは別の用途かは分からん」
男は椅子に座ったまま、黙って聞いていた。
竜胆がそちらを見る。
「訂正は?」
「ありません」
男はあっさり答える。
「ただ、用途までは部署によりますね。私の仕事は、基本的に現場から拾うところまでですので」
「便利な分業だな」
「ええ。おかげで責任の所在が曖昧になります」
綾戸が鼻で笑った。
「最低だな」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてねぇ」
竜胆は会話を切るように手を上げた。
「次に回収係だ」
ホワイトボードの二本目の線に印をつける。
「こいつは自分だけではないと言った。おそらく事実だろう。事件後に人間や怪異を回収する役目が複数いる。今回こいつを捕まえたことで、少なくとも一つの回収経路は止められる」
鈴が静かに問う。
「ですが、別の経路が動く可能性もある、ということですね」
「そうだ」
竜胆は頷く。
「だから早く動く必要がある」
男が口を開いた。
「急いでも、そう簡単には辿り着けませんよ」
竜胆は目を細める。
「仮置き場があるんだろう」
男の笑みがわずかに止まった。
その変化を、綾戸は見逃さなかった。
「当たりか」
男は軽く肩をすくめる。
「回収したものを即座に加工施設へ送るわけではありません。怪異も人間も、状態の確認が必要ですからね。一時的に置く場所はあります」
「場所は」
竜胆が問う。
「そこまで親切ではありません」
奏灯が小さく言った。
「でも、嘘じゃない」
竜胆は綾瀬を見る。
「移送記録を重ねろ」
「もうやっています」
綾瀬の指が端末の画面を滑る。大型モニターに地図が映し出された。事件ごとの移送経路、途中で記録が途切れた地点、防犯カメラに残った搬送車両の通過地点。それらが線となって画面上に重なっていく。
最初はばらばらに見えた線が、いくつかの区域で密度を増した。
「……湾岸部ですね」
綾瀬が呟く。
地図上に、古い倉庫街が表示される。使われなくなった物流施設、閉鎖された倉庫、夜間だけ微かに出入り記録のある道路。
竜胆はモニターを見つめた。
「港か」
男は何も言わない。
その沈黙が、かえって答えに近かった。
綾戸が椅子にもたれた。
「ようやくこっちから殴りに行けるってわけだ」
「殴るな。まず調べる」
竜胆が即座に返す。
「はいはい。表向きはな」
「裏向きでもだ」
鈴が小さく笑った。
「綾戸様、今回は最初から来てくださいね」
「いや、今回は俺が出る流れだろ。さすがに置いていかれねぇよ」
朔夜が淡々と言う。
「前回もそう言っておればよかったな」
「お前ほんと刺してくるな」
軽いやり取りの中でも、室内の緊張は完全には消えなかった。湾岸部の倉庫街。怪貨連の仮置き場。その可能性が見えた瞬間、全員が次に何をすべきかを理解していた。
だが、もう一つ問題がある。
竜胆は蒼良へ視線を向けた。
「蒼良の扱いだ」
美香の表情がすぐに険しくなる。
「扱い?」
「怪貨連が蒼良を例外と見なした。今後も狙われる可能性が高い」
「だから?」
「保護体制を変える必要がある。零課での管理時間を増やす。外出時は必ず誰かがつく。少なくとも単独行動はさせられない」
美香は腕を組み直した。
「守るためって言えば、何でも通ると思ってる?」
竜胆は視線を逸らさない。
「思っていない」
「なら言い方を考えなさい。管理って言葉、最低よ」
会議室の空気が少しだけ硬くなる。
蒼良は二人を見比べていた。以前なら、きっと黙って聞いていただけだった。けれど今は違う。蒼良は自分の手を一度見下ろし、それから顔を上げる。
「私は、隠れるだけは嫌」
その言葉に、美香が蒼良を見る。
蒼良は続けた。
「怖いものがあるのは分かる。怪貨連が私を探すかもしれないのも、たぶん分かる」
少しだけ言葉を探すように間を置く。
「でも、知らないまま守られるのは嫌。何が起きているのか、私も知りたい」
竜胆はしばらく蒼良を見ていた。
その目には、保護対象を見る冷静さと、ひとりの意思を持つ存在を見る慎重さが混ざっている。
「分かった」
竜胆は言う。
「管理という言葉は撤回する。保護だ。ただし、情報は共有する」
美香は不満そうに眉を寄せたが、何も言わなかった。
蒼良は小さく頷く。
「うん。それならいい」
男が興味深そうにその様子を見ていた。
「ますます例外ですね」
竜胆が男を睨む。
「お前は黙ってろ」
「失礼」
男は素直に口を閉じたが、表情から興味が消えたわけではない。
竜胆は再びモニターを見る。
湾岸部の倉庫街。
深夜だけ動く搬送車両。
消えた保護対象。
そして怪貨連。
ばらばらだった点が、ようやく一本の線になり始めていた。
「次はここだ」
竜胆がモニターの一角を指差す。
古い倉庫番号が表示される。
綾戸が口元を歪めた。
「今度は俺も行く」
鈴が穏やかに言う。
「最初からお願いします」
「二回刺すな」
美香は蒼良の横に立ったまま、画面を見つめている。
蒼良もまた、その地図を見ていた。
青白いモニターの光が、蒼良の瞳に映る。湾岸の倉庫街。そこにはまだ何があるのか分からない。けれど、火葬場で出会った影のように、どこにも帰れずにいるものがあるかもしれない。
「そこにも」
蒼良が言う。
「帰る場所を探しているものがいる?」
美香は少しだけ考え、それから肩をすくめた。
「いるかもしれないわね」
「なら」
蒼良は静かに言った。
「見に行きたい」
竜胆はその言葉を聞き、しばらく黙っていた。
やがて短く答える。
「作戦次第だ」
「置いていく、じゃないんだ」
「置いていく理由があるなら置いていく。連れていく理由があるなら連れていく」
蒼良は少し考えてから頷いた。
「分かった」
会議室の外では、朝の気配が少しずつ庁舎の中へ入り込んでいた。
長い夜は終わった。
だが、事件は終わっていない。
ようやく掴んだ怪貨連の尻尾は、まだ細く、すぐにでも闇の中へ滑り込んでしまいそうだった。だからこそ、今度はこちらから手を伸ばす。
待つのではない。
追うのだ。




