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妖奇譚~怪異の来る探偵事務所と、人間をやめかけた男~ ※次回更新5月  作者: Tomato.nit
空の器

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空の器 28

第三十九話 静かな余燼


夜明け前の空はまだ青とも黒ともつかない色をしていた。山の稜線の向こうでわずかに光が滲み始めているが、街灯はまだ消えず、廃火葬場の敷地には夜の静けさがそのまま残っている。戦闘の余波で割れたタイルや抉れた地面が生々しく残っているにもかかわらず、ここに先ほどまで異様な戦いがあったとは思えないほど空気は落ち着いていた。怪異の気配も、虚巣の広がりも、今はもうどこにも感じられない。


建物の前にはパトカーが一台停まっていた。赤色灯は消え、エンジンも落ちている。その横で、ぬらりひょんの男は壁に背を預けるようにして座らされていた。鈴の符と煙の術式はまだ完全には解かれておらず、彼の周囲には薄い拘束の気配が残っている。


竜胆は腕を組んだまま男を見下ろしていた。夜の仕事を終えた刑事の顔だった。怪異だろうと人間だろうと、いったん拘束した以上は事件の一部として扱う。それだけの冷静さがある。


「逃げる気はないな」


男は肩をすくめた。


「逃げませんよ」


軽い調子でそう答えるが、その声にはいつもの余裕ほどの軽さはない。


「逃げ道がありませんからね」


その横で奏灯が静かに言った。


「うん。ない」


着ぐるみの丸い頭がわずかに揺れる。


「その未来はもう見えない」


男は小さく苦笑した。


「やはり未来視というのは厄介なものですね」


鈴が符の状態を確かめながら言う。


「厄介なのはお互い様でしょう」


朔夜は少し離れた場所で月光を鞘に納めていた。刀を収める仕草はいつも通り落ち着いているが、その視線はまだ男から外れていない。


「さて」


竜胆がゆっくりと言った。


「少し話を聞かせてもらおうか」


男は一度だけ息を吐き、夜空を見上げた。朝の色が少しずつ広がり始めている。


「話と言っても、私が知っていることはそう多くありませんよ」


「それはこっちが判断する」


竜胆は短く答える。


男は少しだけ考えるような仕草を見せ、それから口を開いた。


「怪貨連という名前は、もう聞いているのでしょう?」


誰も答えない。


男は構わず続けた。


「怪異を回収し、加工し、そして流通させる。それが我々の仕事です」


鈴がわずかに眉を寄せる。


「流通、ですか」


「ええ」


男は頷く。


「怪異というものは扱いが難しい。人に害をなすものもあれば、ただ存在するだけのものもある。しかし力そのものには価値がある。だからそれを扱いやすい形に加工し、必要とする者へ渡す」


竜胆が低く言う。


「怪異ビジネスか」


男は肩をすくめた。


「言い方は色々ありますね」


綾戸ならここで鼻で笑うだろうな、と竜胆は思った。


「その方法は一つじゃないんだろ」


「ええ」


男はあっさり頷いた。


「怪異を従わせる者もいれば、力だけを取り出そうとする者もいる。私のように、ただ回収する役目の者もいる」


鈴が静かに言った。


「仕立て」


男の目が一瞬だけ細くなる。


「その名をご存知でしたか」


「少しだけ」


男はそれ以上深く触れなかった。


竜胆が言う。


「日本だけの話じゃないんだろ」


男は空を見上げたまま答える。


「ええ。世界は広いですから」


その言葉には、妙な実感があった。


「怪異というものは、どこの国にもあります。形は違っても、恐れられ、語られ、そして忘れられる」


その言葉の最後が少しだけ低くなる。


竜胆はその変化に気づいたが、あえて追及はしなかった。


「上は誰だ」


男はゆっくり視線を戻す。


「私の仕事は回収だけです」


「つまり知らないと?」


「さあ」


男は小さく笑った。


「知っていたとしても、話す義理はありませんからね」


鈴が小さく息を吐く。


「厄介な方ですね」


「よく言われます」


そのとき、竜胆がポケットから折り畳まれた紙を取り出した。夜露を吸った紙は少し湿っていたが、そこに並んだ文字ははっきり読める。男の前にしゃがみ込み、その紙を突き付ける。


「じゃあ別の話だ」


低い声だった。


「お前が関わったのはどれだ」


紙にはいくつもの名前が並んでいた。怪異事件の被害者、あるいはその中心にいた人物たち。そして一度は警察が確保、あるいは保護したにもかかわらず、その後の消息が途絶えた者たちの名前。


萩原幸太。


その名が最初に書かれている。


その下にも、いくつもの名前が続いていた。


こっくりさん事件の関係者。

メリーさんの事件で保護された少女。

その他、竜胆がこれまで関わってきた怪異事件の周辺人物。


男は紙を見る。


一瞬だけ沈黙した。


そして、口元がゆっくり歪む。


「どうでしょうね」


視線を竜胆へ戻す。


「すべて見覚えがある、とだけお伝えしましょうか」


その瞬間、竜胆の空気が変わった。


表情はほとんど動いていない。だが、その場の空気が一段低く沈んだような感覚が走る。


「そうか」


竜胆は静かに言った。


「それが聞ければ十分だ」


紙をゆっくり折り畳む。その指先には余計な力は入っていない。だが拳はいつの間にか固く握られていた。


「……あとは署でじっくり聞かせてもらう」


男は小さく肩をすくめる。


「聞けるといいですね」


そして少しだけ笑った。


「しかし、回収係が私だけとは限りませんので。その際はご容赦ください」


少し離れた場所で、美香は蒼良と並んで立っていた。話の内容は聞こえているが、蒼良はそれよりも足元の影を見ている。影はもう普通の影だった。火葬場の床に伸びる、ただの朝の影。しかし蒼良はそこから目を離さない。


美香が小さく言う。


「まだ気になる?」


蒼良は足元の影を見たまま、少しだけ考えるように黙っていた。すぐには答えない。その沈黙は迷いというより、自分の中で言葉を探している時間のようだった。


「うん……気になる」


美香が横目で蒼良を見る。


「怖い?」


蒼良は首を振った。


「怖いわけじゃない。さっきみたいに、もう暴れたりはしてないし」


それからゆっくりと続ける。


「でも、あの影たち……帰る場所があるのかなって思って」


蒼良の視線はまだ床に落ちている。


「私が言ったから、ああなったんだよね」


少しだけ間を置く。


「探そうって」


美香は空を見上げた。夜がゆっくりと明けていく。


「さあね」


それだけ言ってから、蒼良を見る。


「でも」


蒼良の視線が上がる。


「探すって言ったでしょ」


蒼良はすぐには頷かなかった。少しだけ考えて、それから小さく息を吐く。


「うん。だから探す」


その声は前より少しだけはっきりしていた。


「もし見つからなくても……どこかにはあると思うから」


美香は肩をすくめる。


「ならそれでいい」


遠くで車のエンジン音が聞こえた。もう一台の車が火葬場の入口へ入ってくる。運転席のドアが開き、綾戸が降りてきた。


周囲を見渡し、そして一言。


「……終わってんじゃねぇか」


全員が振り向く。


綾戸はしばらく沈黙したあと、大きくため息をついた。


「俺、今回何もしてなくない?」


竜胆が即答する。


「してないな」


鈴も続ける。


「していませんね」


朔夜が言う。


「運が悪い」そして奏灯が控えめに。「うん。綾くんがそういう顔するのは分かってた」


綾戸が顔をしかめた。


「一番言われたくない奴に言われた!」


そのやり取りを聞きながら、ぬらりひょんの男は静かに笑っていた。


「賑やかな方々ですね」


竜胆が男を睨む。


「お前はまだ終わってない」


男はゆっくりと蒼良を見る。


その目には、先ほどまでとは違う種類の興味が宿っていた。


「あなたは例外です」


蒼良は少し首を傾げる。


「例外?」


「ええ」


男は蒼良を観察するように見つめた。その視線には、これまでのような値踏みではなく、研究者が予想外の結果を見つけたときのような静かな興味が混じっている。


「普通、怪異というものは人間の恐れや噂に引き寄せられて生まれます。そして人間はそれを恐れ、遠ざける。両者は決して同じ側には立たない」


男はわずかに顎を引く。


「ところがあなたは違う」


蒼良は黙って聞いている。


「我々が作った器。そこに生じた自我。しかもその根源は怪異の思念」


男は足元の影を見る。


「しかもそれが、恐怖でも命令でもなく……"居場所を探す"などという理由で動くとは」


小さく笑う。


「実に興味深い」


それから静かに続けた。


「あなたは器として作られたはずの存在です。怪異を閉じ込め、縫い留めるための器。しかし今あなたがやっていることは、その逆だ」


蒼良の足元の影が、かすかに揺れる。


「怪異があなたに従っているのではない。あなたが怪異と同じ側に立っている」


男は少しだけ目を細めた。


「それは我々の想定にはなかった」


「つまり――」


一拍置く。


「例外です」


蒼良はすぐには答えなかった。ただもう一度、足元の影を見る。


影は静かだった。


ただの朝の影だった。


けれどその影が、ほんのわずかに揺れたような気がした。



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