空の器 27
「あなたは怪異を助ける側ですか?」
その問いが、骨上げ室の白い空気にゆっくりと沈んでいった。
風も、煙も、刃も、一瞬だけ止まったように感じられる。白い棚の縁に積もっていた埃さえ、いまは宙のどこかで息を潜めているようだった。誰もすぐには動かなかった。動けなかったと言った方が正しいのかもしれない。ぬらりひょんの男が投げたその一言は、ただ蒼良ひとりに向けられたものではなく、この場にいる全員の認識の隙間へ差し込まれた楔のようでもあった。
美香は、蒼良の前に立ったまま小さく息を呑んだ。胸の内では反射的に否定の言葉が湧き上がっている。そんなことを考えなくていい、答えなくていい、こいつの言葉を聞く必要なんてない。そう叫んでしまいたい衝動が、喉元までせり上がっていた。
だが、そこで口を開けば、蒼良から選ぶ機会を奪う。
それが分かったからこそ、美香は唇を引き結んだ。背中越しに感じる蒼良の気配は静かだった。怯えてもいない。だが揺れていないわけでもない。問いの意味を、そのまま受け止めて考えようとしている沈黙だった。
鈴は巡煙簫を構えたまま、横目で蒼良を見た。煙はまだ室内を満たしている。細い白の筋となって風の流れを映し出し、男の気配を辛うじてこの空間に繋ぎ止めていた。だが今この場で最も危ういのは、見えない風の刃でも、影渡りの隙でもない。蒼良の答えひとつで、虚巣の態度も、この場の均衡も変わる。そのことを鈴は理解していた。
朔夜は刀を構えたまま微動だにしなかった。動けなかったのではない。動かなかったのだ。敵の首を落とすことはできる。影渡りの癖も見えてきた。だが今、ここで必要なのは刃の速さではない。蒼良が何を選ぶか、それを見届けることの方が重いと、本能的に悟っていた。
竜胆は拳銃を下げないまま、男と蒼良の双方を視界に入れていた。警察として、状況を制圧するべきだという理性と、この場がすでに普通の事件の尺度を外れているという現実が、頭の中でせめぎ合っている。奏灯だけは、着ぐるみの奥に隠れた表情を見せないまま、静かに蒼良を見つめていた。未来はまだ完全には固まっていない。いくつもの枝分かれの先で、今まさに一本だけ強く光り始める道がある。そんな感覚があった。
蒼良は静かに男を見た。
白い棚。揺れる影。美香の背中。鈴の煙。朔夜の刃。そして、足元に寄り添うように揺れる虚巣。
そこにあるものを、一つずつ確かめるような視線だった。何か一つを選ぶのではなく、全部を見た上で、自分がどこに立つのかを決めようとしている。
やがて、蒼良はゆっくりと首を振った。
「違う」
ぬらりひょんの男の目が細くなる。
蒼良は続けた。声は小さい。しかし不思議と、その一言一言は骨上げ室の隅々まで届いていく。
「助けるんじゃない」
少しだけ間を置き、蒼良は影を見下ろした。
「帰る場所を探すだけ」
その瞬間、床いっぱいに広がっていた虚巣の影が大きく揺れた。揺れるというより、応えるようだった。声なき怪異が、初めて自分を理解する言葉に触れたときのように。黒い影は蒼良の足元へ寄り、次いで部屋中の隙間へ滑り込んでいく。骨壺棚の影、金属台の影、壁際の影、柱の影。これまで男の通り道だったすべての影が、今度は逆にその通り道を埋めるように濃くなっていった。
蒼良はもう一歩だけ前へ出た。美香の背中のすぐ後ろから、その肩越しに、虚巣へ語りかける。
「ここは違う」
影が揺れた。
「ここは終わる場所」
床の黒が、波紋のように広がる。
「でも」
蒼良は迷わない。
「空いてる場所は、ほかにもある」
ぬらりひょんの男の唇から、わずかに息が漏れた。それは笑いにも溜息にも聞こえなかった。ただ計算外のものを目にした者だけが見せる、ごく短い空白だった。
「……なるほど」
初めて、その表情に明確な驚きが浮かんだ。
影渡りに必要な隙間が、消えたのだ。影はまだある。だがそれはもはや彼のための通路ではなく、蒼良と虚巣の意思に従って閉じられた壁へ変わっている。
「そこか!」
朔夜が踏み込んだ。
静止から加速への移行があまりにも滑らかで、一瞬、彼の姿が視界から消えたように見えた。月光が一閃し、男の動きを正面から捉える。今度の刃は空を切らない。男は躱そうとしたが、影へ逃げる一瞬の隙間がない。肩口から胸元にかけて、鋭い線が走った。布が裂け、その下の肉が浅く開く。男の身体がよろめいた。
しかし、まだ倒れない。
後ろへ滑るように距離を取ろうとしたその瞬間、竜胆が引き金を引いた。
骨上げ室に乾いた銃声が轟く。
弾丸は男の胴を狙ったものではなかった。朔夜の斬撃で崩れた体勢、その足元の床――影が最も濃く溜まる位置へ、正確に叩き込まれる。タイルが弾け、黒い影が一瞬だけ散る。その一発は殺傷のためではなく、逃げ道を断つための援護だった。
男の視線がわずかに竜胆へ向く。
その隙を、鈴は逃さない。
「今です、朔夜様」
鈴の煙が一気に渦を巻いた。白い煙は男の足元へと絡みつき、薄い縄のように膨らみながら膝、腰、腕へと巻き上がる。続けて符が飛ぶ。紙片は男の周囲で淡く光り、簡易結界の骨組みを組み上げるように空中へ留まった。煙が形を与え、符が意味を与え、目には見えない拘束が一つの檻になって閉じていく。
朔夜の二撃目は、その檻が閉じる瞬間に届いた。
今度は斬るためではなく、制圧のための一太刀だった。月光の切っ先が男の喉元すれすれで止まり、冷たい刃の線が皮膚に触れる。男は動きを止めるしかない。
「これ以上は動けませんよ」
鈴の声は静かだったが、その内側には明確な強さがあった。
男は体勢を立て直そうとしたが、その隙を竜胆が逃さない。前へ出た竜胆の拳銃が、男の額へ寸分違わず向けられる。警官としての所作だった。怪異相手であろうと、線を引くべきときには引く。そのための冷たさがあった。
「動くな」
低い声が骨上げ室に響く。
男は竜胆を見た。わずかに眉を上げる。すると竜胆は左手をコートの内側へ差し入れ、警察手帳を取り出した。ぱちりと開かれた手帳の中で、徽章が白い光を鈍く反射する。
「警察だ」
その一言には、肩書き以上の意味が込められていた。ここがどれだけ怪異じみた現場であろうと、自分たちは無秩序の側ではない。その宣言だった。
竜胆は手帳を閉じ、再び拳銃を構え直す。
「事情聴取だ」
その言葉に、男は数秒の沈黙を置いてから、小さく肩をすくめた。煙と符の拘束の中で、逃げ道を探るように視線だけが動いたが、もはや影はどこにも開いていない。
「これはこれは」
口元に、かすかな笑みが戻る。
「捕まってしまいましたね」
けれど、その声音には先ほどまでの余裕とは違う、どこか乾いた響きがあった。負けを認めるというより、次の手を探し始めている者の声音だと、美香には聞こえた。
「……あんた、ほんとにそういう喋り方しかできないの?」
美香が吐き捨てるように言う。怒りはまだ消えていない。それでも、蒼良を庇っていた時ほどの尖りではなかった。相手がいま捕縛されたという確信が、その声にわずかな余裕を与えている。
男は苦笑した。
「先ほども申し上げましたが、ぬらりひょんの特性でして」
「便利な言い訳ね」
「そうでしょう?」
「褒めてない」
そのやり取りを背中越しに聞きながら、蒼良はまだ虚巣の影を見ていた。影は先ほどまでのような巣の蠢きではなく、今は蒼良の足元に静かに寄り添っている。まるで、返事を待つように。
美香はその気配に気づき、ゆっくりと肩越しに振り返った。
「……蒼良」
蒼良もまた美香を見る。
「うん」
「今の、あんたが決めたのよ」
蒼良は少し考えたあと、小さく頷いた。
「そうだと思う」
美香は口元だけで息を吐いた。叱りつけたい気持ちはもうない。代わりに、ようやく胸のどこかが落ち着いたような感覚があった。
「なら、そのままでいい」
短い言葉だった。けれど蒼良には、それで十分だった。自分で選んだことを、美香は否定しなかった。その事実だけで、蒼良の中の何かが静かに座った。
男はその様子を黙って見ていた。
そして、ゆっくりと蒼良へ視線を向ける。その目には、今までの品定めとも観察とも違う興味が宿っていた。研究対象を見る目ではない。分類不能なものへ初めて直面した者の目だった。
「あなたは」
静かに、はっきりと男は言った。
「どうやら器ではないようだ」
蒼良はその言葉に、すぐには答えなかった。代わりに、足元の影へ視線を落とす。そしてもう一度、男を見る。
「うん」
小さな声だった。
「私は、私」
その言葉に、骨上げ室の空気がわずかに揺れた。誰も大きく反応しなかった。だが、その一言がこの場で最も重い意味を持っていることは、全員が理解していた。
朔夜は刃を引かずに言う。
「無駄口はそこまでだ」
鈴も続ける。
「お話は、落ち着いてからゆっくり伺います」
竜胆は拳銃を下ろさない。
「怪貨連についてもな」
その言葉に、男はごく薄く笑った。
「さて、どこまでお話しすることになるやら」
奏灯が初めてそこで口を開いた。
「逃げないほうがいい」
着ぐるみの丸い頭が、静かに男へ向く。
「もう、その先はないよ」
男の目がわずかに細められる。
「……やはり、未来視は厄介ですね」
その返答の間にも、虚巣の影は静かに床へ溶けていく。もう暴れる気配はない。火葬場全体に広がっていた巣は、その役割を終えたように、少しずつ形を畳み始めていた。
骨上げ室の白い静けさが、ようやく本来の姿を取り戻していく。
ただ、その中心だけは、もう以前と同じではなかった。
蒼良が選び、虚巣が応え、人がそれを見届けた。
その事実だけが、この冷たい部屋の中に、かすかな熱として残っていた。




