空の器 26
骨上げ室の空気は、重く沈んだまま静止していた。白い棚の並ぶ壁、整然と並んだ骨壺台、淡い埃をかぶった金属台。そして床いっぱいに広がる影。それらすべてが異様な静けさを保ったまま、その場にいる者たちの呼吸をわずかに反響させている。蒼良の足元では虚巣の影がゆっくりと揺れていたが、その動きは先ほどまでの巣としての蠢きとは違い、どこか迷うような、行き場を見失った波のように変わっていた。
火葬場の奥深くにあるこの部屋は、もともと人の死を受け止めるための場所だった。最後の別れのあと、遺骨を拾い上げるために整えられた無機質な空間。その用途を終え、長く放置された今では、生活の匂いも、人の気配も残ってはいない。ただ静けさだけが幾重にも折り重なり、白い壁に染み込んでいる。その静けさの中心で、今は人とも怪異ともつかないものたちの意志がぶつかり合おうとしていた。
その沈黙を破ったのは朔夜だった。
「随分とよく喋る」
低く、冷えた声だった。声量は大きくない。それでも、その一言だけで場の空気が少し張り詰める。朔夜は蒼良たちの少し前に立ち、月光の柄へ静かに指をかけていた。刀はまだ抜かれていない。だが、そこに立つ姿勢そのものに、いつでも一線を断てる鋭さが宿っている。
対する男は骨壺棚の前に立ったまま、わずかに肩をすくめて見せた。黒いコートの裾は影の中へ溶けるように馴染み、その立ち姿には奇妙な軽さがある。そこにいると分かるのに、目を離した瞬間には輪郭を失いそうな曖昧さがあった。
「すみませんね。これもぬらりひょんの特性故、ご容赦願いたい」
その口調はどこまでも軽い。場違いなほど穏やかで、まるで旧知の相手に冗談を言っているかのようだった。だが、言葉の中身は違う。男はあくまで蒼良を「それ」と呼び、回収品のように扱っている。
鈴が一歩前へ出た。巡煙簫を指先で静かに回しながら、男をまっすぐ見据える。
「だからと言って、はいそうですかと渡すとお思いですか?」
声音は柔らかい。だが、そこに含まれた拒絶は明確だった。普段の鈴は穏やかに相手の言葉を受け止める。しかし今は違う。彼女の立ち位置はすでに交渉ではなく、防衛のそれだった。
男は小さく笑った。
「そうしていただけると嬉しいのですが、どうやら願いは叶いそうにありませんね」
その笑みが消えるより早く、男の姿がふっと掻き消えた。
消えた、としか言いようがなかった。後ろへ跳んだわけでも、影へ沈んだわけでもない。視界の上から、男という情報だけが滑り落ちたような違和感。人がそこに立っていた記憶だけが残り、視線の焦点を合わせる先からその輪郭が剥がれ落ちる。
その瞬間、朔夜の声が鋭く響いた。
「来るぞ!」
月光が一気に鞘走る。朔夜は半歩踏み込み、腰の回転を使って横へ斬り払った。しかし刃は空を切るばかりで、肉も布も何も捉えない。手応えはない。それでも朔夜は止まらない。斬り終わると同時に刃を返し、次に来るものへ備える。
直後、床の影の向こうから鋭い風が唸りを上げて走った。
目には見えない。だが、それが空気そのものを薄く裂きながら迫ってくることは分かる。音よりも先に肌が危険を感じ、床のタイルが一直線に割れた。朔夜は即座に刀を返してその軌道を受け止める。金属同士がぶつかったような高い音は鳴らない。ただ、月光の刃に伝わる衝撃が腕を震わせ、刃先から火花に似た霊光が散った。
「カマイタチか」
朔夜が低く呟く。綾戸から聞いていた能力。見えぬ風の刃。しかも、ぬらりひょんの曖昧な移動と組み合わされれば厄介さは増す。
「厄介極まりないですね」
鈴が静かに言い、巡煙簫を唇に当てた。細く低い音が骨上げ室に流れ、淡い煙が床を滑るように広がっていく。煙は揺らめきながら室内を満たし、風の流れを可視化するように漂った。白い棚の間、金属台の下、柱の陰、天井近くの暗がり。煙は空間の隅々を這い、見えない何かの輪郭を探ろうとする。
「風の流れが見えます」
鈴は言いながら、蒼良、美香、竜胆、奏灯の前へ出た。彼女の役目ははっきりしている。斬るのは朔夜。守るのは自分だ。煙はただの攪乱ではない。空気の裂け目を可視化し、見えない刃の軌道を周囲へ知らせる術式でもあった。
実際、鈴の煙はすぐにその役目を果たす。部屋を漂っていた白い帯が、唐突に細く断ち切られた。そこを、見えない刃が通り抜けていく。
「左上」
鈴が短く告げる。
朔夜の身体が即座に動いた。刃を跳ね上げ、空中の一点を叩き落とす。今度は確かな手応えがあった。風と風がぶつかったような鈍い衝撃が返り、見えない刃が逸れて骨壺棚の柱へ斜めに傷を刻む。木片が散り、白い埃がふわりと舞い上がった。
その裂け目の向こうで、男の声が再び響く。
「あなたは理解していない」
声はどこからともなく聞こえる。煙の向こう、影の隙間、壁の角、そのどこに男がいるのか分からない。ぬらりひょんの気配というものは、ここまで人の認識を滑るのかと竜胆は苛立ちを押し殺しながら思った。拳銃は構えている。だが、撃つべき対象が定まらない。
「あなたは人間ではない」
その言葉に、蒼良が静かに顔を上げた。
美香は振り返らない。けれど、背中越しに蒼良の気配が変わったことは分かる。あの言葉が、確かに届いている。
「怪異でもない」
床の影が揺れた。虚巣の影が、男の言葉に反応するように波打つ。
「あなたは器です」
その声音には軽さがあった。しかし、それがかえって美香の神経を逆撫でする。蒼良のことを、もののように言い切る無遠慮さ。美香の肩がわずかに震えた。怒りだった。だが彼女は口を挟まない。蒼良の前に立ったまま、ただ男の声のする方向を睨んでいる。
「怪異を収めるための容れ物。それがあなたです」
朔夜の刃が煙を切り裂いた。気配を捉えたのだろう。だが斬撃はまたもや空を裂くだけで、男の姿は現れない。骨上げ室のどこかに確かにいるのに、その居場所は定まらない。
「鬱陶しい能力だ」
朔夜は低く吐き捨てるように言った。
「褒め言葉として受け取っておきますよ」
今度は後方から声がした。竜胆が反射的に振り向く。しかし、そこには誰もいない。声だけが残り、気配はもう別の場所へ滑っている。
そのとき、奏灯の声が後ろから響いた。
「右!」
声には迷いがなかった。朔夜は反射的に体をひねり、月光を振り抜く。刃が煙の中で何かをかすめ、わずかに布の裂ける音がした。次の瞬間、男の姿が骨壺棚の前に現れる。黒いコートの肩口が薄く裂け、下の布地に細い傷が走っていた。
男はそこを軽く押さえながら、初めて少しだけ目を細める。
「……未来視ですか」
奏灯は何も答えない。ただ着ぐるみの丸い頭を男へ向けて立っている。表情の見えないその姿が、逆に不気味な静けさを帯びていた。
朔夜はゆっくりと刀を構え直した。先ほどまで空を切るばかりだった刃が、今は確かに相手へ届きかけている。ぬらりひょんの特性は厄介だ。だが完全無敵ではない。認識の隙間に滑り込むのであれば、その隙間を埋める手があればいい。
「ようやく形が見えてきたな」
男は肩を回しながら言った。
「さすがに分が悪いですね」
その声はまだ軽い。だが次の言葉には、わずかに鋭さが混じっていた。
「少し本気を出しましょう」
男の足元の影が揺れる。次の瞬間、その身体が影の中へ沈んだ。床いっぱいに広がる虚巣の影が一瞬だけ波打ち、男の姿が溶けるように消える。
鈴の煙が追いかける。だが、影へ沈んだ男の輪郭を完全には捉えきれない。
「今度は……」
鈴が言いかけたそのとき、朔夜の真横の影が盛り上がった。男がそこから現れる。直後、風の刃が至近距離から走った。朔夜は紙一重で躱しながら刃を返すが、男はすでに別の影へ沈んでいる。
「影渡り」
鈴が低く呟く。
虚巣の影を通路にしているのだ。認識の隙間に滑り込むぬらりひょんの特性と、影そのものを渡る移動。二重の曖昧さ。これでは通常の追跡はほとんど意味を持たない。
「ええ。相性が良いもので」
男の声は今度は左手の壁際から聞こえた。その直後には天井近くから、さらに次には蒼良たちの背後から。声と位置が一致しない。
そして、カマイタチの風が三方向から同時に走る。
煙が一斉に切り裂かれ、白い帯が空中でちぎれる。朔夜はそのうち二つを受け止めた。月光が唸り、見えない刃を弾く。だが残る一つが床を抉り、骨壺棚の脚を裂いた。木片が跳ね、棚に積もっていた埃がぼろりと落ちる。
美香が反射的に蒼良を抱き寄せるようにして庇った。
「っ……!」
「下がっていてください」
鈴が言いながら、符を二枚投げる。白い紙片は空中でくるりと翻り、淡い光を帯びて彼女たちの前に障壁を作った。次の風の刃がそこへ触れ、薄い水膜のような揺らぎを残して逸れる。
男はそのまま戦いながら、なお蒼良へ言葉を投げかけていた。
「あなたは何だと思います?」
影から影へ移るたび、声が別の場所から落ちる。
「人間ではない。怪異でもない」
朔夜の斬撃が壁際の影を裂く。男の姿が一瞬だけ浮き、また消える。
「ならばあなたは、作られた道具です」
竜胆の眉が険しくなる。拳銃を握る手に力が入った。だが撃てない。味方との距離が近すぎるうえ、相手は位置を固定しない。
「黙れ」
美香が低く吐き捨てる。
男は笑う気配だけを残した。
「失礼。ですが、事実でしょう?」
蒼良は、じっとその声を聞いていた。怯えているわけではない。ただ、考えている。美香はそれが分かったからこそ、余計に何も言えない。ここで答えを与えてしまえば、それは蒼良自身の選択ではなくなる。
奏灯の声が飛ぶ。
「朔夜様、上!」
朔夜は即座に上段へ刃を振り抜いた。天井の影が裂け、男の身体がそこで一瞬だけ止まる。その間隙を鈴が逃さず、煙を厚く巻きつけた。白い煙が男の輪郭へ絡みつき、曖昧だった動きを一瞬だけ固定する。
「今です!」
朔夜が踏み込む。月光が一直線に走り、男の脇腹を浅く裂いた。布と肉を割く感触が今度は確かに伝わる。男は初めて大きく後ろへ飛び退いた。
「なるほど」
傷口を押さえながら、男は小さく息を吐く。
「さすがに厄介ですね」
その目が、今度ははっきりと奏灯を見た。
「未来視がここまで噛み合うとは思いませんでした」
奏灯は何も言わない。けれど、着ぐるみの奥で視線だけは鋭かった。先の未来が見えても、すべてを変えられるわけではない。だが、たった一拍の遅れや隙を埋めるには十分だ。
朔夜は刃先を男へ向ける。
「お主も大概、喋りすぎだ」
「ぬらりひょんの特性だと申し上げたでしょう」
男は苦笑するように言った。だがその声の底には、先ほどまでの余裕だけではないものが混じり始めている。
「ですが――」
男は蒼良を見た。
その瞬間だけ、戦いの中心が朔夜でも鈴でもなく、蒼良へと移る。
「あなたは怪異を助ける側ですか?」
その問いが、骨上げ室の白い空気に落ちた。
風も、煙も、刃も、一瞬だけ止まったように感じられる。誰もすぐには動かなかった。動けなかったと言った方が正しいのかもしれない。




