空の器 24
影の壁が立ち上がった瞬間、視界が黒く歪んだ。まるで濁った水の中へ落とされたかのように周囲の輪郭がぼやけ、次の瞬間には先ほどまで聞こえていた銃声も、剣戟も、すべてが遠くへ押し流されていた。美香は思わず足を止める。胸の奥がざわつくような不快な静けさが、耳の奥にこびりついて離れなかった。
「……ちょっと、冗談でしょ」
誰に向けたわけでもない言葉が、乾いた空気の中に落ちる。返事はない。代わりに、遠くで何か金属が軋むような音が小さく響いた。
美香はゆっくりと周囲を見回す。
そこは狭い通路ではなかった。白いタイルに囲まれた広い部屋だった。壁には古い棚が並び、その一つ一つに骨壺を置くための空間が整然と作られている。中央には低い金属台があり、その表面には長い年月を経た擦り傷が無数に残っていた。ここがどこなのかを理解するのに、時間はかからない。
「……骨上げ室」
火葬のあと、遺骨を拾い上げる場所。
人が最後に家族と向き合う場所。
そして、今は誰もいない場所。
不思議なことに、この部屋には先ほどまで感じていた濃い怪異の気配がほとんどなかった。影は確かにある。床にも壁にも黒い染みのような影が広がっている。だが、それは敵意を持って膨らむ影ではなく、ただそこに存在しているだけの静かな影だった。
美香は一歩だけ前へ進む。足音がタイルに反射し、乾いた音が部屋の中を滑っていく。
そのときだった。
床の影がゆっくりと揺れた。
水面のように。
そして。
「……空いてる?」
小さな声がした。
美香の背筋が一瞬だけ硬直する。だがすぐに、その声の正体を思い出した。蒼良の夢の中で聞こえていた声。あのときの、あの寂しそうな響き。
美香は眉をひそめながら、影を見下ろす。
「空いてないわよ」
少し間が空く。
影が、もう一度揺れる。
「でも……空いてる」
「誰もいない」
その言葉に、美香は鼻で小さく息を吐いた。
「だからって勝手に住みついていい理由にはならないでしょ」
影はそれ以上反論しなかった。ただ床の上で静かに広がり、部屋の隅へ流れていく。
その様子を見ながら、美香は少しずつ理解していた。
こいつは、怒っていない。
攻撃もしてこない。
ただ、場所を探しているだけだ。
「……あんた」
美香は腕を組んだ。
「空いてる場所に入りたいだけ?」
影が揺れる。
「うん」
あまりにも単純な答えだった。
怒りも、悪意もない。ただ当然のことを言っているだけの声。
その瞬間、美香はようやく確信した。
虚巣。
こいつは人を食う怪異じゃない。
ただ、空いた場所に入り込む怪異。
だから火葬場に巣を作った。
誰もいなくなった場所だから。
「……なるほどね」
美香は小さく呟く。
だが、それなら。
一つだけ、説明がつかないことがある。
「じゃあ蒼良はどこ?」
影は、少しだけ沈黙した。
そして。
「……あっち」
部屋の奥。
骨壺棚の裏側。
そこに、影の裂け目があった。
黒い布を裂いたような隙間。
その奥に、誰かが立っている。
美香は目を細めた。
「……蒼良」
影の中で、蒼良が振り向く。
完全に飲み込まれているわけではなかった。影は蒼良の足元を覆っているが、身体の上半分ははっきりと見える。むしろ、蒼良はその場所に立っているだけのようにも見えた。
美香は眉間に皺を寄せた。
「ちょっと」
そして、はっきり言った。
「何やってんのよ、あんた」
蒼良は少し考えるように首を傾げた。
「……寂しいって言ってた」
美香は一瞬言葉を失う。
だがすぐに額を押さえた。
「はあ……」
長い溜息が漏れる。
「だからってついていく?」
蒼良は真面目な顔で頷いた。
「うん」
美香は思わず声を荒げる。
「バカ!」という鋭い声が、静まり返った骨上げ室の空気を叩き割るように響いた。白いタイル張りの壁がその声を反射し、わずかな残響となって天井近くを漂う。蒼良は思わず瞬きをし、何が起きたのか理解できない子どものような表情で美香を見つめた。
美香は腰に手を当て、真正面から蒼良を睨みつけている。その視線には怒りがあったが、同時に焦りのようなものも滲んでいた。白く整然と並ぶ骨壺棚の列の前で、彼女だけが強い生命の気配をまとって立っている。
「助けたいのは分かるわよ」
美香は少し息を整えてから言葉を続けた。怒鳴りつけた勢いのままではなく、言葉を選ぶようにゆっくりと。
「でもね、助けるっていうのは、何でも言うこと聞くことじゃないの」
蒼良は黙ったまま、その言葉を受け止めていた。返事はない。ただ視線だけが、わずかに揺れている。
美香は小さく息を吐き、視線を横へ移した。壁一面に並んだ骨壺棚。その棚はどれも空で、白い台だけが静かに並んでいる。ここが本来どんな場所なのかを、否応なく思い出させる光景だった。
「帰る場所があるなら帰してあげる。それは優しいことよ」
さっきよりも声が柔らいでいた。
「でもね」
美香は骨壺棚の並ぶ壁を指差す。白い棚の列は奥まで続き、どこか無機質な静けさを放っている。ここには笑い声も、生活の音も存在しない。ただ、人が最後に通り過ぎるためだけの場所だ。
「ここは帰る場所じゃない」
蒼良の視線がゆっくりと動いた。白い棚、空の骨壺台、静まり返った室内。そのすべてを確かめるように見渡す。
「ここはね、人が最後に来る場所なの。ここから先は、帰る場所じゃないのよ」
その言葉を聞いて、床に広がる影がかすかに揺れた。黒い水面に小石が落ちたように、静かな波紋が広がる。
「……でも」
影の声が、かすれるように響く。
「空いてる」
「誰もいない」
美香はその影を見下ろした。怒りはすでに消えている。ただ、どう言えば伝わるのかを探すような表情だった。
「空いてるのと、住んでいいのは違うの」
その声はさっきよりずっと優しかった。
影は答えない。ただ床の上でゆらゆらと揺れている。その揺れ方は、どこか迷っているようにも見えた。
蒼良はその影をじっと見つめていた。骨上げ室の空気は静まり返り、遠くで配管が冷えていく微かな音だけが耳に残る。長い沈黙が続いた。
やがて蒼良が口を開く。
「……ここは空いてない?」
美香は迷わず頷いた。
「空いてない」
そして静かに付け加える。
「ここは終わる場所だから」
蒼良は少しだけ視線を落とした。その表情は考え込んでいるというより、思い出しているようだった。
昼間の公園の光景が、頭の中に浮かぶ。
古いブランコ。
迷子の霊。
鈴の声。
『帰る場所があるのなら、帰してあげないと』
蒼良は再び影を見る。
「……じゃあ」
影が小さく揺れた。
「どこ?」
蒼良はすぐには答えなかった。代わりに、足元を覆っていた影の縁からゆっくりと一歩だけ前へ出る。黒い床の上に立つその動きはとても静かで、まるで水面から浮かび上がるようだった。
そして蒼良は、影に向かって穏やかに言う。
「探そう」
その言葉が落ちた瞬間、床いっぱいに広がっていた影がほんのわずかに震えた。骨上げ室の静寂が、そこで一瞬だけ息を止めたかのように揺らいだ。




