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妖奇譚~怪異の来る探偵事務所と、人間をやめかけた男~ ※次回更新5月  作者: Tomato.nit
空の器

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空の器 23


影が床を這い上がり、壁となって立ち上がった瞬間、朔夜は咄嗟に鈴の手首を掴んでいた。次の一歩を誤れば、互いの位置すら見失うと本能が告げていたからだ。黒々とした隔壁は生き物の腹の内のように脈打ち、わずかな光を吸い込みながら通路そのものを塗り替えていく。さきほどまで確かに見えていた炉前ホールの広い空間は、影の増殖に呑まれるようにして消え、気づけば二人の立つ場所は細く狭い裏通路へと変わっていた。


そこは火葬炉の裏側に設けられた設備通路らしかった。コンクリート打ち放しの壁には煤の筋が黒く残り、天井近くを這う太い配管には長年の熱で変色した痕がこびりついている。床は平坦ではあるものの、ところどころに油染みのような古い汚れが広がり、足音が妙に湿った響きを返した。一般の利用者が足を踏み入れる場所ではない。人の気配が絶えて久しいその狭い通路に、今は別種の気配だけが濃く澱んでいる。


鈴は掴まれた手首に一度だけ視線を落とし、次いで朔夜の横顔を見た。


「ありがとうございます」


朔夜は手を離し、前方へと視線を向けたまま答える。


「礼を言う暇があるなら、周囲を見よ。ここは既に建物の中ではない」


「ええ」


鈴もまた、巡煙簫を両手に持ち替えながら頷いた。建物の輪郭はまだ残っている。壁も配管も炉の裏側を示す設備もそこにある。だが、空気の流れが違う。まるで火葬場の形を借りた何か別のものの内側に立っているような感覚だった。


その答えを示すように、二人の足元の影がゆっくりと膨らみ始めた。最初は僅かな黒ずみにしか見えなかったものが、じわじわと厚みを持ち、やがて人の膝ほどの高さにまでせり上がる。続いて壁際の暗がり、配管の裏、炉の隙間と、あらゆる陰から同じように黒い塊が滲み出してきた。


朔夜が月光の柄に手をかける。


「来るぞ」


言葉と同時に、影が一斉に形を成した。人型とも獣型ともつかない半端な輪郭。腕だけが異様に長いもの、頭の位置が曖昧なもの、胸の辺りに空洞を抱えたもの。どれも人のいた痕跡を真似ようとして、最後まで形を決めきれなかったような歪な姿だった。


最初に飛び込んできたのは、腕の長い影だった。朔夜は抜刀と同時に半歩踏み込み、斜めに斬り上げる。月光の刃が通った瞬間、影の胴は音もなく裂け、上下に分かれた輪郭が黒い霧となって崩れた。しかし、それで終わりではない。裂けた影の破片が床へ落ちる前に、別の二体が左右から迫ってくる。


「鈴」


「はい」


短いやり取りのあと、鈴は巡煙簫を唇へ当てた。低く柔らかな音色が、狭い通路の中を満たしていく。笛の音に呼ばれるようにして白い煙が床を滑り、朔夜の足元を抜け、迫る影たちの輪郭へ絡みついた。


影は煙に触れた途端、形を保てなくなったように揺らいだ。輪郭がぼやけ、動きが一瞬遅れる。その僅かな停滞を朔夜は逃さない。二閃、三閃と無駄のない斬撃が走り、影の首が飛び、胴が裂け、伸ばされた腕が根元から断たれていく。


黒い塊は次々と散ったが、その散り方が朔夜には気に入らなかった。普通の怪異を斬ったときのような、何かを断ち切った手応えが薄いのだ。刃は通っている。破壊もできている。だが、それはあくまで表層の影を崩しているに過ぎず、もっと深いところに本体が隠れている感覚があった。


鈴も同じことを感じ取ったらしい。煙を広げながら静かに言う。


「影が安定していません」


朔夜は次に現れた影の喉元を一文字に断ちつつ応じる。


「巣がまだ完成しておらぬな」


その言葉に鈴は微かに眉を寄せた。


「完成していない、というより……」


煙の流れを目で追い、彼女は一歩だけ通路の奥へ進む。白い煙はそこでも影を乱しながら進んでいくが、やがて不自然な動きを見せ始めた。普通なら空気の流れに従って拡散するはずの煙が、ある一点で吸い込まれるように壁の中へ消えていく。


「朔夜様」


鈴の声には、はっきりとした確信が宿っていた。


「建物の中に巣を作っているんじゃありません」


朔夜は新たに湧き出た影の腕を蹴り飛ばしながら、低く返す。


「ならば」


「建物そのものが巣です」


その一言で、この火葬場の異様さに理屈が与えられた。


虚巣は本来、空いた場所へ入り込む怪異に過ぎない。部屋一つ、家一軒、その程度の空間に巣を張り、住まいを得たと錯覚して落ち着く程度の存在だ。ところが今、この火葬場では影が通路となり、壁が呼吸し、建物そのものが一つの生きた巣のように振る舞っている。


「火葬場だからか」


朔夜が問う。


鈴は頷く。


「ええ。ここは人が最後に入る場所です。待合室があり、炉前があり、炉があって、骨上げ室がある。人が入って、別れて、出ていくために作られた場所です」


煙が壁の中へ吸い込まれる様子を見つめながら、彼女は続けた。


「しかも今は使われていない。新しい火葬場が出来て、ここは空になった。人の最後を見送るための場所が、その役目を終えたまま放置されている」


朔夜の目が細くなる。


「虚巣にとっては、これ以上なく都合のよい空席か」


「はい。ただ、それだけではここまで大きくなれません」


鈴の声は落ち着いていたが、その中には明確な警戒があった。


「虚巣は場所に憑く怪異です。でも、場所そのものをここまで書き換えるほどの力はない。……ぬらりひょんです」


朔夜は短く息を吐いた。


「境界を曖昧にしたか」


「ええ。影と影、部屋と部屋、通路と炉、そういう区切りを曖昧にして、全部をひとつの巣に繋いでいるんです」


ちょうどその瞬間、火葬炉の奥から低い軋みが響いた。金属が長い眠りから無理やり起こされたような、不快な摩擦音だった。二人が同時に視線を向けると、炉の裏側にあたる分厚い鉄板の境目から、黒い影が液体のように滲み出している。


それは最初、ただの染みのように見えた。しかしあまりにも量が多い。床へ落ちた影は瞬く間に盛り上がり、人型よりももっと巨大な輪郭を形作り始めた。頭部の位置は高く、腕の代わりに何本もの黒い帯が垂れ、胸の辺りには火葬炉の扉を思わせる長方形の空洞が口を開けている。


鈴が小さく息を呑む。


「……来ます」


巨大影は言葉もなく前へ滑り出た。歩くというより、床を這う影そのものが形を押し出してくるような動きだった。朔夜は正面から迎え撃つ。月光を逆袈裟に振り抜くと、刃は巨大影の胴を深々と裂いた。だが裂けたはずの傷口はすぐに両側から影を寄せ集めるようにして塞がり、再び何事もなかったかのように輪郭を取り戻す。


「再生か」


朔夜は舌打ちこそしなかったが、その声には明確な苛立ちが滲んでいた。


巨大影が振るった腕が、いや、腕に似た影の帯が横薙ぎに通路を薙ぐ。朔夜は身を低くしてそれを躱すが、続く二撃目が壁ごと押し潰すように迫る。そこへ鈴の煙が割り込み、影の帯の軌道を僅かに乱した。朔夜はその乱れを利用し、踏み込んで腕の根元を断つ。


切断された影は一度こそ崩れるが、やはり完全には消えない。床へ落ちた黒が炉の側へ引き寄せられ、また別の形となって戻ってくる。


「炉が供給源ですね」


鈴が鋭く言う。


「そのようだ」


朔夜は一旦距離を取り、巨大影と炉の位置関係を見た。巨大影は明らかにこの通路全体を埋めるには大きすぎる。にもかかわらず、動きに不自由がない。つまり、その本体はこの通路に収まっているのではない。もっと深く、もっと大きな空間に根を下ろし、その一部だけをこちらへ差し出している。


鈴が再び巡煙簫を吹く。今度の音色は先ほどよりも細く、高く、まるで見えない亀裂を探るための針のようだった。煙は巨大影の周囲を回り込み、その体表を舐めるように這っていく。やがて白い煙の一筋が、巨大影の背後――火葬炉の隙間へまっすぐ吸い込まれていった。


「やっぱり」


鈴が言う。


「核は炉の中です」


朔夜の口元に、ほんのわずかだが獰猛な笑みが浮かぶ。


「成程。ならば話は早い」


巨大影が再び迫る。今度は全身を押し出すようにして突進してきた。通路の幅いっぱいに広がるその黒い塊は、躱す余地など与えない。鈴は符を抜き、前方へ投げた。紙片は空中で淡く光り、瞬時に薄い障壁を張る。巨大影の突進はその障壁にぶつかって一瞬だけ鈍る。


「朔夜様!」


「分かっておる」


朔夜は正面から駆けた。月光を大きく振りかぶり、障壁で勢いを削がれた巨大影の中心を真一文字に断つ。影は縦に裂け、その隙間から炉へ通じる金属扉の境目が露わになった。


そのまま朔夜は一歩踏み込み、今度は火葬炉の扉そのものへ刃を叩き込む。金属同士が激しく噛み合う音が響き、長く閉ざされていた扉が歪む。さらにもう一閃。扉の蝶番が悲鳴を上げ、分厚い鉄板が内側へと押し開かれた。


その奥は、炉であるはずなのに、真っ黒だった。


火も灰もない。ただ底の見えない影の穴が口を開けている。そこから冷たい風とも熱ともつかない異様な気配が吹き出し、通路中の影を引き寄せていた。


鈴が息を詰める。


「……ここが」


「巣の口だ」


朔夜は刀を構えたまま答える。


巨大影はまだ完全には消えていない。しかし、その輪郭は明らかに不安定になっていた。核を晒されたせいだろう。黒い体表がざわめくように揺れ、再生の速度も鈍い。


鈴は煙をさらに濃く流し込み、穴の周囲の影を固定する。白い煙が黒い口の縁を縫うように巡り、これまで曖昧だった境界が一時的に輪郭を得た。


「蒼良ちゃんは、この奥です」


その言葉に、朔夜はわずかに目を細めた。


「ならば通るしかあるまい」


月光の切っ先が、炉の奥に開いた影の穴へ向けられる。火葬場の心臓部は今や、怪異の巣の口となって脈打っていた。その向こうで、まだ見えぬ中心が静かに待っている。


二人は同時に一歩、前へ進んだ。



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