空の器 22
火葬場の内部に足を踏み入れた瞬間、竜胆は空気の質が外とはまったく違うことを感じ取っていた。建物は長いあいだ使われていないはずなのに、ただ埃っぽいだけでは説明のつかない重さが漂っている。人の気配はない。しかし完全な無人とも違う。誰かが潜んでいるというより、この場所そのものが何かを抱え込んでいるような、妙に粘ついた沈黙だった。竜胆は拳銃を構えたまま歩幅を緩めず前へ進み、その少し後ろを、着ぐるみ姿の奏灯が静かに続く。着ぐるみの丸い頭部は頼りなげに見えるが、当人の視線は落ち着いており、むしろこの場の異様さを冷静に測っているようだった。
ロビーを抜け、奥の通路に差し掛かったところで、床の影がゆっくりと膨らんだ。最初は灯りの加減かと思えるほどの僅かな歪みだったが、次の瞬間には黒い染みが水面のように広がり、そこから人の腕に似た形がぬるりと伸び上がる。竜胆は迷わず引き金を引いた。乾いた銃声が廊下に反響し、影の腕の中央を弾丸が貫く。影は煙のようにほどけて床へ落ちたが、消えたわけではない。崩れた黒が床の上を滑り、また別の場所で形を取り戻そうとしている。
「左側二歩前」
奏灯の声が静かに届く。
竜胆は振り向きもせず銃口をわずかに振り、指示された位置へ弾丸を送り込んだ。弾丸が空気を裂いた直後、そこに浮かび上がりかけていた影の頭部が撃ち抜かれ、形を保てず霧散する。竜胆は息を吐きながら言う。
「本当に見えてるんだな」
「少し先の未来が見えるだけだよ」
奏灯は穏やかな声で答えた。だがその直後、通路の奥からさらに多くの影が滲み出してくる。壁際、床の継ぎ目、天井の梁の下、あらゆる暗がりから黒い輪郭が湧き上がり、次第に人型へと整っていく。数が多い。竜胆は舌打ちを飲み込みながら弾倉を確認し、冷静に狙いを定めていく。銃は怪異を祓う道具ではないが、影にも核のようなものがある以上、当てれば崩れる。
しかし数は減らない。むしろ、撃ち落とすたびに別の影が増えているようにも見えた。
そのときだった。床の影が不自然に盛り上がり、竜胆の背後から鋭い腕が突き出した。気付いたときにはすでに遅く、黒い刃のような形が竜胆の脇腹を狙って振り下ろされる。
だがその刹那、竜胆の周囲に淡い光の膜が広がった。
影の刃が触れた瞬間、硬い水面に当たったかのように軌道が逸れる。衝撃は結界の表面で滑り、黒い腕はそのまま弾き飛ばされた。
竜胆は半歩退きながら振り返る。
奏灯が両手を軽く広げ、着ぐるみの胸元に刻まれた符が淡く光っていた。普段はぬいぐるみの模様にしか見えないそれが、今は確かに術式として機能している。
「間に合った!」
竜胆は短く息を吐いた。
「助かった」
影の腕は再び床へ溶けたが、周囲の黒い気配はさらに濃くなっている。建物そのものが巣になっているという鈴の言葉を思い出しながら、竜胆は銃を構え直した。ここは影の通路であり、同時に巣の内側でもある。つまり、影は無尽蔵に湧き続ける。
「きりがないな」
「うん」
奏灯は穏やかな声で同意したが、視線は通路の奥へ向けられていた。
「でも、少し先で流れが変わるよ」
「流れ?」
「影の動き。今は僕たちを囲む形で湧いてる。でも二十秒くらいで奥に集まる」
竜胆はその言葉を聞いた瞬間、判断を下した。
「なら突っ切る」
次の瞬間、彼は床を蹴って走り出す。影の腕が左右から伸びるが、竜胆は止まらない。奏灯の結界が半歩後ろから追いかけるように展開し、迫る黒い刃を次々と弾く。結界は完全無欠ではない。衝撃を受けるたびに表面が揺らぎ、淡い光が波紋のように広がる。それでも致命的な攻撃はすべて逸らされていた。
竜胆は走りながら影の核を撃ち抜いていく。弾丸は最小限、狙いは正確、無駄な射撃は一発もない。影が崩れるたび、床の黒が一瞬だけ薄くなる。
「右前、三体」
奏灯の声。
竜胆は体を傾けながら三発続けて撃つ。弾丸はほぼ同時に影の中心を貫き、三つの人型が霧のように散った。
その直後、天井の影が大きく歪んだ。
竜胆が見上げたときには、巨大な黒い塊が落下してくるところだった。人型ではない。複数の影が絡み合い、一つの塊となって落ちてくる。
「来るよ」
奏灯が短く告げる。
竜胆は反射的に銃を構えたが、撃つより早く結界が広がった。淡い光が二人の頭上に半球を描き、落下してきた影の塊を受け止める。鈍い衝撃が結界を震わせ、竜胆の足元まで振動が伝わる。
しかし結界は破れない。
影の塊は弾かれ、床へ叩きつけられると形を保てずに崩れていった。
竜胆は短く息を吐き、銃口を下げる。
「思ってたより頑丈だな」
奏灯は少し照れたように言った。
「この着ぐるみ、鈴ねえと朔夜様が強くしてくれたの」
竜胆はそれ以上言わず、再び通路の奥を見据える。
影はまだ湧いているが、確かに動きが変わり始めていた。黒い流れが奥へ引き寄せられている。まるで巣の中心へ戻る潮の流れのように。
竜胆は銃を握り直し、低く言う。
「行くぞ。中心が近い」
奏灯も頷いた。
影の通路の奥で、まだ見えない何かが静かに蠢いている。その気配は、建物の心臓のように脈打ちながら、彼らを待っていた。




