空の器 21
夜の郊外道路を、赤色灯を回したパトカーが突き抜けるような勢いで走っていた。住宅街の灯りを後方へ押し流すように通り過ぎ、車はやがて人家の少ない外縁部へと差し掛かる。街灯の間隔は徐々に広がり、道路の両脇には背の高い雑木林が続いていた。窓の外を流れていく景色は暗く、静かで、まるで世界そのものが息を潜めているかのようだった。
遠くの山の輪郭が夜空に黒く浮かび、その麓に古い施設の影が沈んでいる。コンクリートの塊のような建物の輪郭が、街灯のわずかな光を受けてぼんやりと浮かび上がっていた。
目的地――営業を停止した旧火葬場である。
竜胆はハンドルを握りながら、前方の門を視界に捉えていた。鉄製の門は鎖で固く閉ざされており、長いあいだ人が出入りしていないことが一目で分かる。門柱には色褪せた看板が残り、施設の名称がかろうじて読める状態でぶら下がっていた。敷地の周囲には雑草が伸び放題に広がり、舗装の隙間からも細い草が顔を出している。
竜胆はその様子を一瞥すると、アクセルをさらに踏み込んだ。
「掴まれ」
短い一言だった。
その言葉が落ちた瞬間、車内の空気がわずかに張り詰める。
助手席に座っていた美香は、思わずダッシュボードへ手を突き、前方を睨みつけた。
「ちょっと、門よ!? あれ鎖で閉まってるじゃない!」
竜胆は答えない。ただ、アクセルを踏み込んだまま、真っ直ぐ門へ向かって車を走らせる。
後部座席では、朔夜が静かにドアノブへ手を掛けていた。その動きに気づいた鈴が一瞬だけ視線を向ける。
「朔夜様?」
朔夜は小さく肩をすくめた。
「断る」
その言葉と同時に、パトカーのドアが開いた。
夜風が車内へ激しく吹き込み、次の瞬間、朔夜の身体が外へ躍り出る。地面へ着地した瞬間、砂利が弾け、長いコートの裾が風に翻った。
朔夜の手にはすでに刀があった。
月光と呼ばれる日本刀。
鞘から抜かれた刃が、夜の闇の中でわずかに光を反射する。
一歩踏み込み、腕を振る。
鋭い軌跡が闇を切り裂いた。
次の瞬間、鉄門が抵抗する間もなく斜めに裂ける。厚い金属が悲鳴を上げるような音を立て、切断された門が左右へ崩れ落ちた。
朔夜は軽やかに着地し、刃を軽く振って鉄粉を払う。
「無駄に揺れるのは御免だ」
その言葉が終わるころ、パトカーが裂けた門の隙間を突き抜けた。タイヤが砂利を弾き、車体がわずかに横滑りしながら敷地内へ滑り込む。
ブレーキが踏み込まれ、車は建物の前で止まった。
エンジン音が消えた途端、周囲は不気味なほどの静けさに包まれる。
目の前には、古い火葬場の建物が静かに佇んでいた。コンクリートの外壁は黒ずみ、窓の多くは内側から板で塞がれている。屋根の向こうには細長い煙突が突き出し、夜空へと溶け込んでいた。
明かりは一つもない。
ただ、夜風に揺れる木々の影だけが、建物の壁を這うようにゆっくりと動いている。
竜胆が車のドアを開けた。
その瞬間、奏灯が小さく呟いた。
「……いる」
誰に向けたわけでもない声だった。
しかし、その一言で全員の視線が自然と建物の影へ向く。
影が揺れていた。
風に揺れているだけではない。
まるで、生き物の呼吸のように。
竜胆は拳銃を抜きながら車外へ出る。
「行くぞ」
その言葉が落ちた瞬間だった。
地面の影が、ゆっくりと盛り上がる。
黒い染みが膨らみ、形を作り始める。腕が生え、肩が膨らみ、やがて人の形をした影がそこに立ち上がった。
影人型。
竜胆は迷いなく引き金を引いた。
銃声が夜を裂く。
弾丸が影の胸を貫いた瞬間、黒い身体が崩れ、霧のように散る。
しかしそれで終わりではない。
影は次々と地面から浮かび上がる。舗装された地面のあちこちから黒い腕が突き出し、人の形を作り始める。
その瞬間、奏灯の声が背後から飛んだ。
「左」
竜胆は反射的に振り向く。
影の腕が伸びかけた瞬間、弾丸がそれを撃ち抜いた。黒い腕が崩れ、形を失って地面へ溶けていく。
美香がその光景を見て眉を上げた。
「このぬいぐるみ、思ったより役に立つわね」
奏灯は少し困ったように笑う。
「ありがとう……でいいのかな」
竜胆は弾倉を確認しながら言った。
「便利だな」
「僕もそう思う」
影は次々に地面から浮かび上がるが、竜胆の銃と奏灯の未来視の組み合わせは驚くほど噛み合っていた。奏灯の短い警告に合わせて竜胆が射撃すると、弾丸は影の核を正確に撃ち抜き、黒い形は崩れ落ちる。
その横で、鈴が静かに巡煙簫を唇へ当てた。
低く長い音が夜に溶ける。
笛の旋律に合わせるように、淡い煙が地面を這い始めた。白い煙は足元から広がり、影の輪郭に触れる。
すると黒い形がわずかに歪んだ。
鈴が目を細める。
「影が通路になっています」
朔夜は建物の入口を見上げた。
「つまり、巣か」
火葬場の扉を押し開け、彼らは建物の中へ足を踏み入れる。
その瞬間、空気が変わった。
外よりも冷たい。
ロビーは広く、椅子が整然と並んでいる。受付カウンターの上には埃が積もり、壁の時計は長いあいだ止まったままだった。窓の隙間から入り込むわずかな光が、床に長い影を落としている。
だが、その影がゆっくりと動いていた。
まるで、建物そのものが呼吸しているかのように。
やがて彼らは奥の通路を抜け、炉前ホールへ辿り着く。
そこは天井の高い広い空間だった。
壁には火葬炉の扉が横一列に並んでいる。重たい金属の扉はすべて閉ざされ、長い年月の汚れが黒い筋となって残っていた。
その前で、影が爆発した。
床から無数の腕が伸びる。
影の手が一斉に彼らへ掴みかかろうとする。
朔夜は刀を抜いた。
月光が空気を裂く。
刃が弧を描いた瞬間、影の腕がまとめて断ち切られた。黒い霧が舞い上がり、床へと散っていく。
「鬱陶しい」
しかし、その直後だった。
床の影が一斉に広がる。
建物の構造そのものが歪み始めた。通路が曲がり、壁が動き、影が立ち上がって黒い隔壁を作る。
鈴が息を呑んだ。
「まずい……」
影が一気に膨張する。
次の瞬間、彼らは影の迷路に飲み込まれていた。
竜胆と奏灯は別の通路へ押し流される。
朔夜と鈴は炉の裏側へ引き込まれる。
そして美香は、一人だけ別の部屋へと押し出されていた。




