空の器 20
着信画面を確認した鈴が眉を上げた。
「……綾戸様です」
朔夜が手を差し出す。
「貸せ」
鈴は素直に端末を渡した。朔夜は通話ボタンを押し、耳に当てる。
「お主、今どこにおる」
電話の向こうで少し間があったあと、綾戸の気の抜けた声が返ってきた。
「ん? 場所か。そうだな……」
その声を聞きながら、竜胆はすでにタブレットを開いていた。指先で画面を滑らせると、地図アプリの画面が広がる。現在位置が自動的に表示され、少し離れた場所にもう一つのマーカーが現れた。
「こいつが綾戸の端末だ」
竜胆が画面を示す。
夜の地図の上に、二つの光点が並んでいた。一つはここ、団地。もう一つはそこから少し離れた住宅地の縁だった。
朔夜はその画面を覗き込み、しばらく黙っていた。だがやがて、指先をゆっくりと動かし、地図の一点を示す。
「影の流れと気配を合わせれば、本体はここであろう」
竜胆が画面を拡大する。
そこに表示された施設名を見て、鈴が小さく声を上げた。
「……火葬場?」
鈴は思わず顔を上げる。
「なんでこんなところに?」
竜胆はタブレットを指で叩き、別の情報を呼び出した。施設情報が表示され、その横に小さく注意書きが出ている。
「ここに新しい火葬場ができる。そのせいで、ここは既に営業停止状態だ」
美香が肩をすくめた。
「つまり、廃棄された施設ってことね」
鈴はゆっくりと息を吐く。
「……なるほど」
視線を地図へ落としながら言葉を続けた。
「火葬場は、人が最後に入る場所です。そして今は使われていない。つまり“空いた場所”としては、これ以上ない条件になります」
朔夜が低く言う。
「虚巣にとっては都合が良すぎる場所だな」
そのとき、電話の向こうから不満そうな声が飛んできた。
「おい、こっちはさっぱり話が見えねぇぞ」
綾戸だった。
朔夜は軽く頬を掻きながら答える。
「お主は既にだいぶ無茶をしておろう。今日は大人しく指を咥えておれ」
「何言って――」
言い返そうとする綾戸の声に、今度は鈴が割って入った。
「朔夜様の言う通りです」
その声音は柔らかいが、まったく譲る気配がない。
「綾戸様が傷を負えば、こちらは嫌でも分かるんです。どうせ曵奈も聞いてるんでしょう? 帰ったら縫ってあげますから、じっとしてなさい」
電話の向こうで一瞬沈黙が落ちる。
朔夜と鈴の言葉は、単なる推測ではない。
朔夜は綾戸の式神という契約を結んでいる。すでに形式的なものになってはいるが、契約そのものは残っている。綾戸が大きく負傷すれば、その痛みは朔夜にもわずかに伝わる。
そして鈴もまた、かつて綾戸の影の隙間を自らの影で埋めた結果、朔夜と似たような状態になっていた。
つまり、綾戸がどれだけ暴れたかは、二人にはすでに筒抜けなのだ。
電話の向こうで、綾戸がぼやく。
「……ったく。余計な契約残しやがって」
そのとき、別の声が静かに混じった。
「大丈夫だよ。綾くん」
柔らかな声だった。
「蒼良は絶対連れて帰る」
電話越しとは思えないほど穏やかなその声に、綾戸の声が驚きに変わる。
「……おい。なんでそこに奏灯が居るんだ」
朔夜が肩をすくめる。
「今回は奏灯の力が都合が良い。こやつも蒼良を気にかけておるしな」
電話の向こうで綾戸が何か言いかける。
「だからって――」
しかしその言葉の途中で、朔夜はあっさりと通話を切った。
電子音が短く鳴り、静寂が戻る。
鈴が小さく笑う。
「相変わらずですね、朔夜様」
朔夜は携帯を鈴に返しながら言った。
「うるさいのは苦手でな」
竜胆はタブレットの画面を閉じる。
「行き先は決まったな」
夜の向こう、街灯の光の先に、使われなくなった火葬場が静かに横たわっている。
そこには、もう人は来ない。
だが今夜だけは違う。
影の奥で、何かが住人を待っていた。
――。
「乗れ」
短く言って、竜胆は駐車場の端に停めてあった車を指差した。
鈴が一瞬だけ目を細める。そこに停まっていたのは、見慣れた警察車両――白黒のパトカーだった。普段は静かに駐車場に置かれているだけの車両だが、今夜ばかりは事情が違う。
竜胆が運転席に滑り込むと同時にエンジンが唸りを上げ、次の瞬間、屋根の赤色灯がぱっと点灯した。夜の空気を裂くように赤い光が回転し始める。
「こいつを使うのは久しぶりだがな。こういう時には役に立つ」
そう言うや否や、竜胆はアクセルを強く踏み込んだ。
車体が前へ跳ねるように動き出し、タイヤがアスファルトを掴んで夜の道路へと飛び出す。瞬く間に景色が流れ始めた。街灯が一本一本後ろへ滑り、住宅街の家々の窓が帯のように流れていく。サイレンが鳴り響き、夜の静けさを押しのけるように車は加速した。
助手席に座った美香が、思わずダッシュボードを掴む。
「ちょっと! あんた運転荒すぎ!」
怒鳴る声にも、竜胆はまるで動じない。
ただ一言だけ、淡々と答えた。
「緊急事態だ」
それだけを告げると、竜胆は迷いなくハンドルを切る。車体が大きく横へ振れ、交差点を鋭く曲がった瞬間、サイレンの音が車内にまで反響した。窓の外では街の灯りが一筋の線となって流れていく。
後部座席では、対照的な光景があった。
朔夜はシートに身を預け、身体が揺れるままに任せながらも表情ひとつ変えていない。隣の鈴もまた、まるで静かな車に乗っているかのような落ち着いた顔をしていた。
朔夜が小さく呟く。
「こやつ、この状況を楽しんでおらぬか?」
鈴がわずかに微笑んだ。
「きっと、普段サイレンを鳴らすことがないからテンションが上がっているんでしょうね」
二人の会話は驚くほど落ち着いている。
その様子を見て、美香が呆れた声を上げた。
「なんであんたたち平気なのよ!」
そのときだった。
後部座席のもう一人が、静かに前を見据えながら口を開いた。
「次の交差点、右からトラック。気を付けて」
奏灯だった。
その声は落ち着いているが、内容は明らかにこの瞬間の光景を見ているかのようだった。
竜胆が短く答える。
「助かる」
言葉と同時に、さらにアクセルが踏み込まれた。
エンジンが唸り、車体がもう一段速度を上げる。遠くの交差点で、大型トラックのヘッドライトがゆっくりと曲がり始めていた。
竜胆は迷わない。
ハンドルをわずかに切り、加速したまま車を滑り込ませる。パトカーはトラックの進路のわずかな隙間を抜けるようにして前へ飛び出し、そのまま夜の道路を突き進んだ。
サイレンの音が街に響き続ける。
赤色灯の光が建物の壁を流れ、夜の住宅街が一瞬ごとに赤く染まっては消えていく。
その先にあるのは、営業を終え、静まり返った旧火葬場。
蒼良が連れ去られた場所へと、車は一直線に走り続けていた。




