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妖奇譚~怪異の来る探偵事務所と、人間をやめかけた男~ ※次回更新5月  作者: Tomato.nit
空の器

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空の器 19


綾戸の拳が男の顎を打ち抜いた瞬間、夜の通路に溜まっていた空気が一斉に弾けたように揺れた。


人の身体が本気で打ち上げられたときに生じる独特の浮遊感が、短い静寂となって通路に広がる。男の身体はそのまま宙へと持ち上がり、背後の街灯の光を横切りながら大きく弧を描いた。


確かな手応えだった。


綾戸は拳を引き戻しながら息を整える。曵奈の力で強化された身体でも、あれだけの打撃を連続して叩き込めば呼吸は荒くなる。それでも、戦闘としては完全にこちらの勝ちだった。ぬらりひょんの男は体勢を崩し、空中へ放り出されたまま落下するはずだった。


──はずだった。


だが、次の瞬間。


男の身体が、ぴたりと宙で止まった。


まるで時間がそこだけ止まったかのように、落下の途中で静止している。腕の角度も、身体の傾きも、そのままの姿勢で空中に固定されていた。


綾戸の目が細くなる。


「……は?」


曵奈が小さく呟く。


「え、なにそれ。落ちないよ?」


男は宙に浮いたまま、ゆっくりと顔をこちらへ向けた。顎に受けた衝撃の余韻が残っているはずなのに、その表情には先ほどまでの焦りが消えている。むしろ、どこか静かな観察の目をしていた。


「ここまでやるとは、正直誤算でしたよ」


男は肩をわずかに回しながら言う。


「ですが、こちらは計算通りです」


綾戸は肩を鳴らした。


「何言ってやがる。落ちないなら落とすまでだ。さっさと降りてこい」


視線は逸らさない。


だが、胸の奥に小さな違和感が芽生え始めていた。


この男は逃げ腰だった。戦闘の途中でも余裕はあったが、それでも明確に綾戸を避けていた。それなのに、今のこの態度はどうにも妙だった。まるで戦闘の結果そのものが問題ではないかのように振る舞っている。


男は小さく笑う。


「いえいえ」


静かな声だった。


「正真正銘、今こそ私は貴方と戦う理由がなくなりましたから」


その言葉と同時に、男の身体の輪郭がゆっくりと揺らいだ。


街灯の光の中で、男の影が足元から広がり始める。通路の壁、地面、そして背後の建物へと影が滲み出すように伸び、やがて男の身体そのものが影へ溶け込むように薄れていった。


「おい」


綾戸が一歩踏み出す。


「逃げる気か」


男はまだ宙に浮いたまま、わずかに肩をすくめた。


「逃げる、という表現は正確ではありませんね」


その声は、すでにどこか遠くから聞こえてくるようだった。


「役目が終わった、と言った方が正しい」


綾戸の眉が動く。


「役目だと?」


男は答えない。


ただ、視線だけがこちらを見ていた。


そして静かに言う。


「もう入った頃でしょう」


その言葉が落ちた瞬間。


綾戸の背筋に、冷たいものが走った。


「……何がだ」


男の口元がわずかに歪む。


「虚巣です」


静かな夜の通路に、その言葉が落ちる。


「あなた方の──空の器に」


次の瞬間、男の身体は完全に影へと溶けた。


宙に浮いていた輪郭が崩れ、夜の通路に広がる影へ混ざっていく。街灯の光の下に残ったのは、ただの暗がりだけだった。


綾戸はその場に立ち尽くした。


数秒の沈黙。


曵奈が小さく言う。


「……今のって」


綾戸は答えない。


頭の中で言葉を繋げていた。


虚巣。


空の器。


蒼良。


そして──この男。


ゆっくりと息を吐く。


「……時間稼ぎか」


低い声だった。


曵奈が息を飲む。


「え?」


綾戸は苦く笑った。


「やられたな」


戦闘では勝った。


だが、それはこの男にとって重要ではなかったのだろう。


あの男の目的は、綾戸を倒すことでも、逃げ切ることでもなかった。ただこの場所に綾戸を引き留めること。それだけが必要だった。


綾戸は空を見上げる。


団地の上には夜空が広がっている。静かな夜だった。だが、その静けさの奥で、何かが確実に動いている。


曵奈が慎重に言う。


「ねえ綾戸……もしかして」


綾戸は頷いた。


「完全にしてやられた」


それでも、焦りはなかった。


綾戸はポケットから携帯を取り出す。


「ただな」


通話ボタンを押しながら呟く。


「戦略ならこっちにもあるんだよ」


曵奈が首を傾げる。


「どういうこと?」


綾戸は口元を歪めた。


「囮を追うのは囮の役目ってことだよ」


その少し前。


夜の空気は静かだったが、そこに集まった四人の間には張り詰めた緊張が漂っていた。


団地の一角にある空き駐車場の端で、竜胆は腕を組んだまま立っている。街灯の白い光がアスファルトを照らし、風が吹くたびに遠くの電線がかすかに鳴った。少し遅れて到着した鈴と朔夜は、美香から状況を聞き終えたばかりだった。


竜胆が口を開く。


「状況は伝えた通りだ。ぬらりひょんの男を綾戸が追い、蒼良は虚巣に捉えられたままだ」


鈴は静かに頷いたが、その視線は地面の一点を見つめたまま動かなかった。思考が高速で巡っているとき、彼女はよくこういう表情になる。隣で朔夜がゆっくりと息を吐いた。


「虚巣が蒼良を捉えた、か」


低い声だった。


「解せんな」


美香が腕を組んだまま言う。


「解せないってどういうことよ。現に影に引きずり込まれたのよ」


朔夜は首をわずかに振る。


「虚巣は人を“攫う”怪異ではない」


その言葉に、鈴が顔を上げた。


「そうですね」


静かな声で続ける。


「虚巣は、空いた場所に巣を作る怪異です。人に入り込み、住み着くことはあっても、物理的に連れ去るという性質は本来ありません」


竜胆が眉をひそめる。


「つまり、今回の現象は虚巣の性質と違うということか」


鈴は頷いた。


「ええ。虚巣は“空いている場所”を巣にする怪異です。家であれ部屋であれ、あるいは人の内側であれ、空いている場所に入り込む」


そこで鈴は一度言葉を止める。


その視線が、美香へ向いた。


「ですが、攫うとなると話が変わります」


美香の眉が寄る。


「……どう違うの?」


朔夜が答えた。


「虚巣は基本的に受動的な怪異だ。空いている場所を見つけ、そこへ入り込む。しかし今回は違う」


ゆっくりと言葉を区切る。


「蒼良を“連れて行った”」


その言葉が落ちると同時に、周囲の空気が少しだけ重くなったように感じられた。


竜胆が腕を組み直す。


「つまり、虚巣が単独で動いたわけじゃない」


「そう考えるのが自然でしょう」


鈴が言う。


「ぬらりひょんの男が関わっている以上、意図的に誘導された可能性が高い」


美香が小さく舌打ちした。


「つまり、最初から蒼良を狙ってたってこと?」


朔夜は少し考えるように目を細めた。


「いや」


静かに否定する。


「蒼良を“捕まえる”のが目的ではない」


鈴がその続きを引き取った。


「蒼良を“運ぶ”のが目的です」


竜胆が顔を上げる。


「運ぶ?」


鈴は頷く。


「虚巣は場所の怪異です。つまり、巣の中心は必ず“場所”にある。人を攫うなら、その場所へ連れて行かなければならない」


そこまで言うと、鈴は周囲の団地を見渡した。


古い建物が並んでいる。どこも人の気配が少なく、窓のいくつかには灯りもない。静かな夜の住宅街だった。


「問題は、その場所がどこかです」


美香が言う。


「そんなの、この団地じゃないの?」


鈴は首を横に振った。


「いえ。この団地なら、蒼良を影に引き込む必要はありません。虚巣は場所に憑く怪異ですから」


朔夜が小さく頷く。


「つまり、ここは入口に過ぎぬ」


竜胆が低く言った。


「影の通路か」


鈴はその言葉に反応した。


「綾戸様が追った道ですね」


竜胆は頷く。


「団地の影が妙に繋がっていた。あれは普通の影じゃない」


鈴の思考が一気に繋がった。


「……なるほど」


小さく呟く。


「影は通路なんですね」


美香が顔を上げる。


「通路?」


「ええ」


鈴は説明する。


「虚巣は“空いた場所”を巣にする怪異です。そして、ぬらりひょんは“境界を曖昧にする怪異”です」


その言葉に、朔夜の目がわずかに細くなる。


鈴は続けた。


「二つが組み合わさると何が起こるか。空いている場所と場所の境界が曖昧になる。つまり」


ゆっくりと言う。


「影を通路に出来る」


沈黙が落ちた。


竜胆が静かに言う。


「……蒼良は影を通ってどこかに運ばれた」


「そうです」


鈴は頷いた。


「そして虚巣は“巣”に人を住まわせる怪異です。つまり、その行き先には」


朔夜が言葉を継ぐ。


「空いた家がある」


美香が呟く。


「空き家……」


鈴は周囲の団地をもう一度見渡した。


そして、静かに言った。


「いいえ」


「もっと大きい場所です」


竜胆が視線を向ける。


「根拠は?」


鈴は落ち着いた声で答えた。


「蒼良を運ぶ理由です」


少し間を置く。


「人一人を影の通路で移動させるほどの手間をかけるなら、目的地は普通の空き家ではありません」


朔夜が小さく頷いた。


「巣が大きい」


鈴は言う。


「はい。おそらく、長く人が住んでいない建物です」


竜胆の目が細くなる。


「例えば?」


鈴は静かに答えた。


「廃団地」


「廃校」


「あるいは」


一拍。


「廃棄された施設」


夜風が吹いた。


遠くの電線が再び鳴る。


その音の向こうで、影が静かに揺れていた。





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