空の器 18
団地の裏手に伸びる細い通路は、夜になると別の場所のように静まり返る。街灯はあるにはあるが、古いオレンジ色の光は頼りなく、建物の壁に貼り付いた影ばかりを濃くしていた。綾戸はその影の中を走っていた。
普通の人間なら、足場の悪い夜道を全力で走ることなど出来ない。だが綾戸の身体は、人のそれとは少し違う。コートの裾が夜風に翻り、足が地面を蹴るたび、周囲の空気が遅れて揺れる。曵奈の力が身体に重なっている今、影の奥へ伸びるこの奇妙な通路は、むしろ走りやすいくらいだった。
「この空間、嫌な感じするね」
コートの襟元から、曵奈の声が落ちる。声は小さいが、綾戸の耳にははっきり届いた。
「普通の路地じゃないよ。影が奥で繋がってる」
「虚巣の通り道ってところか」
綾戸は速度を落とさず答える。
目の前には、もう一つの影があった。人の形をしているが、光の当たり方がどこかおかしい。街灯の下を通っても、その輪郭はわずかに曖昧なままだった。
コツ。
乾いた足音が夜に響く。
コツ。
その音は、歩いている男自身のものというより、この影の通路そのものが鳴っているように聞こえた。
男が、立ち止まった。
静かな夜の中で、ゆっくりと振り返る。
顔が見えた瞬間、綾戸の目が細くなる。
見覚えがあった。
紅の高校。
夜の校舎。
ぬらりひょんの力を使う男。
あの時は、不覚を取った。怪異の正体を見切れないまま、戦いは終わった。だが今は違う。
男は綾戸の顔を見た瞬間、露骨に嫌そうな顔をした。
「……厄介ですね」
溜息をつくような声だった。
「一度姿を見られた相手というのは」
綾戸は肩をすくめる。
「だろうな。俺もそんな相手の尾行は御免被る」
男は少し首を傾げ、困ったように笑った。
「でしたら、ここは見逃してはいただけませんか。幸い私は今、あなた方には用がない。そもそも、今回は完全に偶然出くわしました」
「そっちになくても、こっちには大ありなんだよ」
綾戸の声が低くなる。
「前の借りを熨斗つけて返してえんだよ」
男は両手を軽く上げ、肩をすくめた。
「いえいえ、結構です。そのまま、又貸しでもなんでも好きにお使い下さい」
「うるせえよ!」
言葉が終わる前に、綾戸の身体が前へ弾けた。
地面を蹴った瞬間、影が一拍遅れて追いかけてくる。曵奈の力が身体に重なり、空気が裂けるような加速が生まれる。普通の視界では追えない速度で距離を詰め、綾戸の拳が男の胸元へ一直線に突き込まれた。
だが男は、まるで最初からそこにいなかったかのようにするりと身体をずらした。
拳は空を切る。
しかし綾戸は止まらない。
踏み込みを変え、すぐさま肘を振り抜く。さらに回転を加えて後ろ蹴り。連続する打撃はどれも人間の反応速度を明らかに超えていた。
男はそれを紙一重で避け続ける。
ぬらりひょん。
存在を滑らせる怪異の力が、攻撃の軌道からわずかに身体を外していた。だがそれでも完全ではない。
綾戸の拳が男の肩をかすめた。
鈍い音。
男の身体が半歩揺れる。
「……おや」
男は肩を軽く払った。
「思ったより速いですね」
綾戸は答えない。
次の瞬間、地面を蹴ってさらに距離を詰めた。
拳。
膝。
掌底。
速度を活かした連撃が、逃げ場を削るように男へ迫る。影の通路の壁へ追い込む形になり、男の足が一瞬だけ止まった。
その隙を逃さない。
綾戸の拳が男の腹へめり込んだ。
衝撃。
男の身体が後ろへ弾かれ、数歩よろめく。
綾戸が低く言う。
「どうした。今日は逃げ足鈍いじゃねえか」
男は腹を押さえながら、少し困ったように笑った。
「……困りましたね」
ゆっくりと息を吐く。
「本当に使いたくなかったのですが」
その瞬間だった。
男の身体から、濃い怪異の気配が溢れ出した。
ぬらりひょんは本来、気配を消す怪異だ。存在を希薄にし、視線の外へ滑り落ちる。しかし今、男の周囲には逆に濃密な妖気が満ちていた。
綾戸が眉を上げる。
「なんだそりゃ。別の怪異の力か」
男は静かに笑った。
「ご名答。あなたとやり合うには、これでは少々役不足ですから」
言葉と同時に、男の姿が掻き消えた。
次の瞬間。
綾戸の腹に鋭い衝撃が突き刺さる。
ゴフ。
息が一瞬で押し出された。身体が宙へ浮き、そのまま数メートル後ろへ吹き飛ぶ。背中が地面に叩きつけられ、砂が夜空へ舞った。
「綾戸!大丈夫?!」
曵奈の声が飛ぶ。
綾戸は顔をしかめながら身体を起こした。
「……ああ。かすり傷だ」
コートの胸元を払う。
「お前のおかげでな」
衝撃の瞬間、曵奈の影が身体を覆い、威力のほとんどを受け止めていた。だが、その代償のように、コートの布地には無数の裂け目が走っている。
綾戸はそれを見て眉をひそめた。
「……切り傷?」
曵奈が慌てて言う。
「痛いけど平気!今はあいつに集中!」
綾戸は立ち上がる。
だが今度は男の方が速かった。
姿が揺れ、瞬きの間に距離を詰めてくる。
拳が振るわれる。
綾戸が腕で受ける。
衝撃。
その瞬間、腕の表面に細い裂傷が走った。
まるで見えない刃で切られたような傷だった。
次の攻撃。
横薙ぎの拳。
綾戸が身体を捻ってかわす。
だが今度は頬に浅い切り傷が走る。
血が一筋流れ落ちた。
「……今の」
綾戸の目が細くなる。
男は静かに距離を取り、手を軽く振った。
「やはり貴方は危険だ」
空気が震える。
拳が振るわれるたび、目に見えない刃が空気を裂く。
風が遅れて鳴る。
綾戸は連続する攻撃を受けながら後退した。
避けても傷が増える。
受けても斬られる。
徐々に追い詰められていく。
曵奈が叫ぶ。
「これおかしい!殴ってるのに斬られてる!」
綾戸は息を整えながら男を睨んだ。
拳だった。
確かに、あの男は拳で殴っている。
だが。
曵奈は斬られている。
頬の痛みが、思考を繋げた。
綾戸が笑う。
「……てめえ」
低く呟く。
「その力、カマイタチか」
男は一瞬だけ目を細めた。
「ノーコメントです」
「だったら正解ってことだろうが!」
紅の高校。
あの夜の戦闘が脳裏を過る。
正体さえ看破すれば、怪異には対処のしようがある。
綾戸はコートの内側へ手を入れた。
取り出したのは、折り畳み式の警棒。
綴桴。
男が再び拳を振るう。
その拳に合わせて、綾戸も武器を振り抜いた。
空気の層が、裂ける。
見えない刃がぶつかり、風が散る。カマイタチの真空刃が、綴桴に叩かれて歪んだ。
男の表情が、初めて驚愕に歪む。
「貰った!」
その一瞬の硬直を逃さない。
綾戸の足が地面を蹴る。
身体が滑り込み、回転の勢いを乗せた蹴りが男の腹へ突き刺さった。
鈍い衝撃音。
男の身体が数歩後ろへ弾かれる。
夜の通路に、短い静寂が落ちた。
だが、それはほんの一瞬だった。
男は腹を押さえたまま、静かに息を吐く。苦しそうな様子はあるものの、その目はまだ冷静だった。
「……やはり危険だ」
低く呟く。
次の瞬間、男の姿が再び揺らいだ。
風が鳴る。
綾戸の背後へ回り込む気配。
曵奈が叫ぶ。
「後ろ!」
綾戸は振り向きざまに綴桴を振り上げた。
ガンッ。
空気そのものを叩いたような鈍い衝撃が腕へ返る。
だが、その瞬間。
目に見えないはずの何かが、わずかに歪んだ。
綾戸の視線が止まる。
「……なるほどな」
男が距離を取りながら、わずかに眉を動かした。
「気付きましたか」
綾戸は綴桴を肩に乗せ、軽く首を鳴らす。
「殴ってんじゃねえ」
ゆっくり言う。
「拳の前に、風の刃を飛ばしてる」
カマイタチ。
空気の層を圧縮し、真空の刃を作る怪異。
男の拳は、その刃を撃ち出すための“発射台”に過ぎない。
曵奈が言う。
「見えないけど……そこにあるってこと?」
「ある」
綾戸は短く答えた。
「だから斬れる」
男は静かに微笑んだ。
「理解が早い」
その瞬間、再び拳が振るわれる。
空気が裂ける音。
だが今度は違った。
綾戸は避けない。
綴桴を振り下ろす。
空間そのものを叩き潰すように。
バキン。
硬質な破砕音が夜に響いた。
見えないはずの刃が、砕け散る。
風が乱れ、通路の壁に渦を巻いた。
男の目が大きく見開かれる。
「……馬鹿な」
綾戸は笑った。
「見えねえ刃でもよ」
綴桴を軽く振る。
「そこにあるなら、折れる」
カマイタチの刃は、空気の層だ。
つまり――"形"がある。形がある以上、それは干渉できるし、壊すこともできる。
綾戸はその確信を得た瞬間、迷いなく前へ踏み出した。これまでは見えない刃を受け流しながら距離を測っていたが、今は違う。
防御のためではなく、相手を押し切るための前進だった。
男はその変化に気付き、即座に拳を振るう。拳の軌道に先行する空気の刃が綾戸へ向かって放たれるが、綾戸はそれを避けようとはしなかった。
振り上げた綴桴を空間へ叩き込むように振り下ろすと、目には見えないはずの風の層が衝突によって歪み、弾けるように散った。
さらにもう一撃、そしてもう一撃と、綾戸は連続して武器を振るう。
男の拳から放たれる刃は、そのたびに軌道を乱され、圧縮された空気の層が崩れて夜の通路へ拡散していった。
風が乱れ、壁際に積もった埃が巻き上がる。曵奈が思わず声を上げる。
「すごい……風そのものを叩いてる!」
綾戸は前進を止めないまま答える。
「叩いてるんじゃねえ。折ってんだよ!」
男との距離はみるみる縮まっていく。
これまで余裕を保っていた男の表情から、わずかに焦りが滲み始めた。
最後の抵抗のように、男は身体を沈めて拳を大きく振り抜く。
先ほどまでよりもはるかに強く圧縮された空気が、鋭い刃となって一直線に迫ってきた。通路の空気が軋み、風圧が周囲の影を揺らす。
だが綾戸は退かない。
真正面から綴桴を振り抜き、空気の層そのものへ打撃を叩き込む。衝突した瞬間、圧縮されていた風は形を保てなくなり、弾けるように崩れて周囲へ散った。押し返される風圧を突き抜けるようにして綾戸の身体が一歩踏み込み、その勢いのまま拳が男の顎へ突き上げるように打ち込まれた。




