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妖奇譚~怪異の来る探偵事務所と、人間をやめかけた男~ ※次回更新5月  作者: Tomato.nit
空の器

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空の器 17


夜の静けさが、家の中へ深く沈んでいた。


深夜の住宅街は、昼とはまるで別の場所になる。遠くの幹線道路を走る車の低い唸りが、地面の奥をかすかに震わせ、ときおり風が通り過ぎて電線を細く鳴らす。その音は頼りないほど小さいのに、静まり返った夜の中では妙にはっきりと輪郭を持っていた。


だが、その静けさの中で――蒼良の部屋だけが、どこか空洞のように感じられた。


ついさっきまで、そこには人がいた。


布団の上には身体の重みが残した皺がまだわずかに残っている。掛け布団の端は床へ落ちかけ、寝返りを打った途中の形のまま止まっていた。枕のへこみも、シーツのずれも、そこに眠っていた者の不在をかえって生々しく示している。


だが、その主は、もうどこにもいない。


飯島美香は、床へ落ちた影をじっと見つめていた。


窓から差し込む街灯の光が、室内に長い影を落としている。その黒は、本来なら夜の中にいくらでもあるはずの、ごくありふれたものだった。だが、どうしても普通の影には思えない。


脳裏に焼きついている光景が離れなかった。


蒼良の身体が、ゆっくりと沈んでいった。


まるで水面の下へ引かれるみたいに。


抵抗する暇もなく、叫ぶ間さえなく、影の奥へ――。


美香は小さく息を吐いた。胸の奥には、ざらついたまま固まりきらない感情が残っている。焦り。怒り。理解の追いつかなさ。だが、それらに呑まれるわけにはいかなかった。


今ここで、取り乱すのは一番まずい。


蒼良が消えた直後、空を掴んだまま固まっていた自分の手を、ようやくゆっくり下ろす。指先には、ついさっきまで確かに触れていた体温の記憶だけが残っていた。


「……嘘でしょ」


誰に向けた言葉でもなく、かすれた声が部屋へ落ちる。


返事はない。


その代わり、床に沈む影の奥から、硬いものがどこかを叩くような、小さな音が響いた。


コツ。


美香の背筋に冷たいものが走る。


その一音が、ただの物音ではないと分かった。さっきまで蒼良が見ていた夢の向こうと、今この部屋が、まだ完全には切れていない。そんな理解が、理屈より先に身体へ来る。


それでも、美香は後ずさらなかった。


むしろ、一歩だけ前へ出る。床の影を見下ろしながら、胸の中で呼吸を整える。


「落ち着け……」


自分へ言い聞かせるように呟く。


ここで感情のまま動けば、また何かを見落とす。零課で学んできたことは、こういう時のためにある。


ポケットから携帯端末を取り出す。指先は落ち着いているつもりだったが、画面の上へ乗せると、わずかに震えているのが分かった。呼吸を一度深く入れ替え、それから最短の番号を押す。


数回の呼び出し音。


夜の部屋には、その電子音すらやけに大きく響いた。


やがて通話が繋がる。


「……俺だ」


竜胆の声だった。


低く、短い。眠りを断ち切られた直後のはずなのに、不思議なほど輪郭のある声だった。その落ち着きに触れた瞬間、美香は自分の中で張り詰めていた糸がわずかに緩むのを感じた。


だが、言葉はほとんど衝動のまま飛び出した。


「蒼良がいない」


そこで一度息が途切れる。


自分でも声が少し上ずっているのが分かった。美香は目を閉じ、影から視線を外さないまま言葉を継ぎ足す。


「影に飲まれた。部屋の中で、影が開いて……そのまま連れていかれた」


電話の向こうで沈黙が落ちた。


ほんの数秒。


だが、その沈黙のあいだに、美香の鼓動は余計に速くなっていた。言葉を失ったのか、状況を整理しているのか、そのどちらかも判別できないほど短い間。


やがて、竜胆の声が返る。


「落ち着け」


それは命令というより、切り落とすような一言だった。


「お前がその調子でどうする」


短い。だが、それだけで十分だった。


美香ははっと息を飲む。自分でも気づかないうちに肩へ力が入り、喉の奥までこわばっていたらしい。意識して、深く息を吐く。


「……影が動いた」


今度は静かに、事実だけを並べるように言う。


「床に落ちた影が広がって、蒼良の身体が沈んだ。水みたいに。触れたけど、掴めなかった」


もう一度、沈黙。


竜胆は短く言った。


「触るな」


「現場をそのままにしておけ」


少し間を置く。


「今行く」


通話はそれだけで切れた。


部屋は再び静寂に包まれる。


美香は端末を握ったまま、しばらく動かなかった。やがて、ゆっくりと膝をつき、影の近くへ身体を寄せる。竜胆に触るなと言われたばかりだ。それでも、本能的に何かを確かめずにはいられなかった。


手を伸ばす。


だが、触れる寸前で止める。


言葉は守るべきだと頭では理解している。それでも、指先が影の上へ漂う空気へ近づいた瞬間、美香は小さく眉を寄せた。


冷たい。


床の冷たさとは明らかに違う温度だった。表面だけが冷えているのではない。深い井戸の口が、見えないまま開いているような冷たさだ。底のない穴がそこにあり、部屋の空気が少しずつ吸われている気がする。


思わず手を引く。


同時に、部屋の空気がほんのわずかに重くなった。圧迫感ではない。むしろ、向こう側の空間がこちらへ滲み出してきたような、質の違う静けさだった。


――。


深夜。


住宅街の細い道路へ、一台の車が音を抑えて滑り込んだ。エンジンが止まり、夜の静けさがまた戻る。


ドアが開く音。


最初に降りてきたのは竜胆だった。コートを羽織り、短い歩幅のまま迷いなく玄関へ向かう。その背後で、もう一人の影が車から出る。綾戸だ。襟元を軽く整えながら、家の前で一度だけ周囲を見渡した。


古い団地群が並ぶこの一帯は、夜になると妙に静まり返る。遠くの窓に灯りは残っているものの、人の気配は薄い。昼間ならただの住宅地に見える場所が、夜には人の抜けた箱のように感じられる。


最近、この辺りでは妙な噂が流れていた。


夜中に廊下を歩く足音。


誰もいないはずの階段を上り下りする影。


ドアの前に、いつの間にか立っている気配。


だが、開けても誰もいない。


竜胆はその団地を一瞥し、何も言わずに玄関へ向かった。


扉が開く。


美香が顔を出した。


「こっちよ」


表情はすでに仕事の顔へ戻っている。目の奥に疲れと焦燥は残っているが、声は落ち着いていた。そこにいる二人も、その変化がぎりぎりの均衡の上にあることはすぐに分かった。


三人は蒼良の部屋へ入る。


部屋の空気は、外よりも冷えていた。誰もいないはずなのに、呼吸が浅くなるような息苦しさがある。窓から差し込む街灯の光が床を照らし、その中に問題の影が沈んでいた。


綾戸は何も言わず部屋の中央まで進み、床の影を見下ろした。


どう見ても、ただの影だ。


だが、彼は迷いなくしゃがみ込んだ。


ためらいがない。経験でしかない速度だった。


「ここで開いたのね」


美香が低く言う。


「そう」


綾戸は短く返し、指先で影の縁をなぞるように近づけた。触れた瞬間、眉がわずかに動く。


冷たい。


床とは違う温度。空いた井戸口のような、深さだけを感じる冷たさ。


綾戸は小さく息を吐いた。


「……残ってるな」


竜胆が眉をひそめる。


「何がだ」


綾戸は口元をわずかに歪めた。


「声だ」


コートの内側から、折り畳み式の警棒を取り出す。


綴桴。


黒いそれを影の上へ軽く触れさせた瞬間、部屋の空気が微かに震えた。


まるで静かな水面へ小石が落ちたように、目には見えない波紋が広がっていく。


そして――。


遠くから響く声。


かすれた、幼いような、空洞の奥で反響したような声だった。


「……空いてる?」


美香の肩がびくりと揺れる。


竜胆の視線が鋭くなった。


綾戸は綴桴を持ち上げる。


「虚巣だな」


美香がすぐに顔を上げる。


「空き家に出る怪異なんでしょ。なんで、うちに」


綾戸は肩をすくめた。


「本体は場所だ」


少し間を置く。


「空いてる場所を探す。たまたまここだった、って言い方もできる」


「たまたまじゃ済まないでしょ」


美香の声音が一段低くなる。


「蒼良が狙われたのよ」


綾戸は影から視線を外さないまま言った。


「そうだな。で、狙われた理由はもっと単純だ」


竜胆が先に言葉を継ぐ。


「蒼良が空の器だからか」


「多分な」


綾戸は頷く。


「虚巣から見れば、空き部屋みたいなもんだ。人の形はしてるが、中にまだ“入り込めるかもしれない余白”がある」


美香は唇を噛む。


「優しさを覚えたばかりだったのに……」


その呟きに、竜胆が美香を見る。


「何かあったのか」


美香は短く説明した。昼のこと。公園で迷子の霊を帰したこと。鈴の“困っていましたから”という言葉を蒼良が覚えたこと。そして、その温かさを蒼良が確かに受け取っていたこと。


綾戸は顔をしかめる。


「最悪のタイミングだな」


「ええ」


美香が答える。


「“困っているものを助ける”が、蒼良の中で繋がった直後に、寂しいって言われた」


竜胆は低く息を吐いた。


「付け込まれたか」


「そう考えるのが自然ね」


その時だった。


床の影の奥で、小さな音が響いた。


コツ。


一歩。


また一歩。


誰かが歩いてくるような足音。部屋の中で鳴っているはずなのに、距離が妙に遠い。深い廊下の奥から響いてくるみたいに鮮明だった。


竜胆が顔を上げる。


「……この足音」


目を細める。


「あの団地で聞いたものと同じだ」


夜の廊下を歩く、誰もいない足音。追っても先には空いた部屋ばかりが並んでいた、あの違和感が脳裏へ蘇る。


綾戸がゆっくりと立ち上がる。


「俺は工場で足音なんか聞かなかったが」


口元がわずかに歪む。


「ってことは、きな臭ぇな」


美香がすぐに言う。


「追うわよ」


三人の空気が一瞬で変わる。


足音は、影の奥へと遠ざかっていくようでいて、どこかこちらへ寄ってくる気配もあった。


コツ。


コツ。


綾戸が耳を澄ませる。


「薄いが怪異の気配は確かにする」


少し間を置く。


「しかもこいつは……」


その瞬間、綾戸のコートがふわりと揺れた。


夜風でもないのに、布がゆっくりと動く。襟元の影がわずかに濃くなり、人の輪郭のような形を結ぶ。


そこから声が漏れた。


「うん。間違いない」


曵奈の声だった。


コートそのものが囁くように言う。


「ぬらりひょんの気配だよ」


竜胆の目が細くなる。


「……やはり絡んでるか」


綾戸は小さく笑った。


「やっぱりか」


振り返る。


「お前らは朔夜と鈴に連絡してくれ」


それから言う。


「こっからは、俺の仕事だ」


「一人で行く気?」


美香が食い下がる。


綾戸は肩越しにだけ笑った。


「影の奥まで潜るなら、曵奈がいる俺の方が向いてる」


「だが蒼良は――」


竜胆が言いかける。


「連れ戻す」


綾戸はそれを遮るように答えた。


「そのために行く」


次の瞬間。


綾戸の身体が前へ弾かれるように走り出した。


コートが風を切る。曵奈を纏った身体が、人間離れした速度で闇を裂く。部屋の影へ、床の奥へ、足音を追うようにその背中は夜の奥へ溶けていった。


残された美香が、半ば呆れたように呟く。


「……しばらく見ないうちに、随分人間やめちゃったのね」


竜胆は短く息を吐いた。


「ああ」


影を見たまま言う。


「あいつは、ああいう男だ」


それから視線を戻す。


「俺たちは俺たちの仕事をするぞ」


美香が頷く。


「了解」


彼女はすでに端末を握り、連絡先を呼び出している。鈴と朔夜、必要なら利根川と綾瀬にも伝えるべきだろう。事態はもう、家の中だけで収まる段階を越えている。


外では、夜風が電線を鳴らしていた。


そして。


影の奥で。


コツ。


足音は、まだ続いていた。


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