空の器 14
第二十九話 虚巣
翌日、零課の一室には昼の光が静かに差し込んでいた。
公安のフロアにある部屋は、相変わらず外から見れば無愛想な空間のままだ。だが、昼の時間帯だけは窓から入る光が書類の端をやわらかく照らし、積み上がったファイルや地図の輪郭に薄い陰影を落とす。そのせいで、ここがただ怪異を扱うためだけの場所ではなく、実際に人が働き、考え、迷い、判断を下すための部屋なのだと、わずかに思い出させてくれる。
その机を挟んで向かい合っているのは、竜胆と美香。そして、その前に座っているのは綾戸と朔夜だった。
綾瀬は少し離れた位置で記録用の端末を開き、会話の流れを追えるよう準備を整えている。いつもの零課に、珍しく廣守探偵事務所の空気が少しだけ流れ込んでいた。
竜胆が紙コップのコーヒーを机へ置く。
「……この面子、懐かしいな」
何気ない言い方だったが、その一言には少しだけ昔を振り返る温度があった。
綾戸が眉を上げる。
「だな。何年ぶりなんだか」
美香が肩をすくめ、小さく笑う。
「少なくとも“平和な顔合わせ”って意味では、ずいぶん久しぶりよ」
「平和、ねえ」
綾戸は机の上の紙コップへ視線を落とす。
「最初の頃は、顔を合わせるたびに誰かが機嫌悪かった記憶しかねえけどな」
「誰かって誰のことかしら」
「主にそっち側だな」
綾戸はあっさり言った。
美香は目を細めたが、怒るより先に呆れたような笑いが漏れた。
「そうよ。最初の頃、こんな感じでよく顔合わせてたわ。情報の取り合い、現場の押し付け合い、どっちが先に突っ込むかで揉める、の繰り返し」
「押し付け合いじゃない。そっちが勝手に突っ込んでただけだ」
竜胆が淡々と訂正する。
「ほら、そういうところ」
美香がすぐに返した。
綾戸は少し考えるように目を上へ向けた。
「ああ……そういえば、美香さんに酒は飲ませないって、その頃に誓った気がするな」
「なによそれ」
「覚えてないのか? あんた、あの時――」
竜胆がすぐに割って入った。
「やめろ。仕事の話が終わってからにしろ」
美香が小さく吹き出す。
「ね? こういうところが全然変わってないのよ」
綾瀬は端末の陰で少し困ったように笑っていた。彼女にとっては、今目の前でやり取りをしているこの空気そのものが新鮮だった。今でこそ零課と廣守探偵事務所の距離感は落ち着いているが、そこに至るまでには、もっと荒っぽく、もっと警戒心の強いやり取りが積み重なっていたのだろう。
怪異の情報を巡って顔を合わせ、意見をぶつけ、現場で衝突し、それでも最後には同じ方向を向いていた。そんな時期があったことを、この短いやり取りだけでも十分に感じさせた。
朔夜はその一連の懐旧に特に加わることもなく、静かに茶を口に運んでいる。相変わらず背筋はまっすぐで、無駄な感情の揺れを顔には出さない。
やがて竜胆が話を戻した。
「で、昨日の件だ」
声の温度が一段落ちる。
「報告は読んだが、詳しく聞かせてくれ」
綾戸は頷いた。
「場所は工場跡地。肝試しに来た学生が四人。そのうちの一人に、影が入り込もうとした」
美香が腕を組んだ。
「寄生型?」
「いや」
綾戸は首を振る。
「違う」
少し間を置く。
「綴桴で触ってみた」
竜胆が視線を上げた。
「あの武器か。創造物に残った声を読むってやつ」
「そう、それ」
綾戸は椅子の背にもたれながら続ける。
「影は空だった。何もない。声も、意思もない。ただ入り込もうとしてる現象だけがあった」
美香が眉をひそめる。
「でも現象は起きてる」
「だからおかしい」
綾戸は机を指で軽く叩いた。
「そこで、影じゃなくて――壁を叩いた」
竜胆が目を細める。
「建物か」
「そう」
綾戸は頷いた。
「そしたら読めたよ。家の、というか……人がいなくなった場所の側の記憶って言うべきか」
部屋が少し静かになる。
綾戸はその感触を思い返すように、ゆっくり言葉を選んだ。
「古い生活の気配が残ってた。人の声、家具の軋み、食器の音、誰かがそこに居た時間の重なり。でも、その後に来るのは長い空白だ。誰もいなくなった部屋、使われない窓、閉じられた扉、積もる埃。そういうのが、建物の中に沈殿してた」
竜胆は腕を組んだ。
「……なるほどな」
小さく息を吐く。
「場所の方が本体か」
「多分な」
美香も黙って頷く。
「それで、その影は?」
「人の影と建物の影の境目を叩けば剥がれた、って感じだな」
綾戸は苦笑した。
「説明しろって言われても困るが、綴桴で境界を切ったら戻った」
「綴桴だから出来る芸当か」
竜胆が言う。
「まあな」
綾戸は肩をすくめる。
「少なくとも、普通の祓い方とは違う。あれは怪異そのものを斬ったってより、“人と場所が重なりかけてる境目”を外した感じだ」
綾瀬が端末に打ち込みながら、小さく眉を寄せた。
「つまり、怪異が人に取り憑くというより……場所が人を内側へ引き込もうとしてる?」
「そっちの方が近い」
綾戸は答える。
「影は入口だ。問題なのは、その向こう側にある“空いた場所”の方だろうな」
部屋がまた少し静かになる。
竜胆がコーヒーを一口飲み、その苦味を一度舌の上で確かめてから言った。
「……それで」
「事務所ではどう結論づけた?」
綾戸は軽く肩をすくめる。
「昨夜、事務所で整理した。俺と鈴と、こんと、あと朔夜」
「奏灯と曳奈は?」
美香が聞く。
「聞いてたよ。一応な。ただ、核心はこっちの四人で詰めた」
そこで自然と視線が朔夜へ向く。
当の本人は静かに湯呑みを置いた。
「影は、ただの入口に過ぎぬ」
低く落ち着いた声だった。
「本体は場所」
「そして、人を住まわせようとする」
一拍置く。
朔夜は淡々と結論を口にした。
「虚巣だな」
竜胆が眉を上げる。
「虚巣?」
美香も聞き慣れないらしく、わずかに首を傾げた。綾瀬に至っては、端末へ入力する指が一瞬止まっている。
朔夜は続ける。
「人の長く住まぬ家に憑く怪異」
「家そのものに宿る」
「付喪神とは違う。物が歳月を経て自我を持つのではなく、忘れられた場所が歪みを溜め、その空白へ何かが巣食う」
部屋の空気が、わずかに重くなった。
「家は、人が住まなければ朽ちる」
「だが、その前に空く」
朔夜の声は静かだ。
「空いた場所は、何かを呼ぶ」
「虚巣はそこに生まれる」
竜胆は小さく息を吐いた。
「……つまり、巣か」
「住人を欲しがる巣」
「そういうことだ」
美香が腕を組んだまま言う。
「だから人に入り込もうとするわけね」
綾戸が頷く。
「空き部屋を埋めるためにな」
「最悪の不動産ね」
美香がぼそりと漏らす。
利根川がいない代わりに、その場にいた全員が一瞬だけ黙ったあと、綾戸が鼻で笑った。
「言い方はともかく、本質は近いかもな」
竜胆はホワイトボードへ歩き、黒のマーカーを手に取った。そこへいくつかの単語を書き出す。
廃団地。
工場跡。
空き家。
廃校。
「……共通点は一つだな」
綾戸が言う。
「人がいない場所」
竜胆は頷いた。
「今回の被害報告とも一致する」
マーカーの先で文字を指す。
「心霊スポットでもなんでもない。ただ、人がいなくなった場所だ」
綾瀬が口を開く。
「逆に言えば、噂がないから入りやすいってことですよね。学生にとっても、配信者にとっても」
「有名な場所じゃない分、“自分たちだけの発見”みたいな顔もできるしな」
綾戸が言う。
「悪趣味な宝探しだ」
美香がぽつりと呟く。
「忘れられた場所、か」
その言葉のあと、少しだけ考えるような沈黙が落ちた。
そこで。
美香がほんの少し迷うように口を開く。
「……蒼良のことなんだけど」
綾戸と竜胆の視線が向く。
「何かあったのか?」
竜胆が聞く。
美香は少し考えながら、慎重に言葉を選んだ。
「最近、夢を見てるみたいなの」
「夢?」
綾戸が聞き返す。
「ええ」
美香は頷いた。
「誰かに聞かれるんですって。“空いてる?”って」
部屋が静かになった。
今度の沈黙は、さっきまでの分析の流れとは少し違う種類のものだった。
綾戸がゆっくりと眉をひそめる。
「……空いてる、ねぇ」
朔夜が目を閉じる。
「似ておるな」
竜胆が視線を向ける。
「何がだ?」
「虚巣の性質とだ」
朔夜は答える。
「空いた場所を求める」
「そして、そこへ入り込もうとする」
その一言で、蒼良という存在がこの話題の中心へ引き寄せられる。
空の器。
その言葉は、もうこの場の誰にとっても隠しようのない事実だった。
綾瀬が小さく息を呑む。
「じゃあ……蒼良さんは、虚巣にとって“入りやすい場所”にも見えてるってことですか?」
「そう考えるのが自然だろうな」
竜胆が答える。
だが、その答えには明らかに苦いものが混じっていた。
美香が静かに続ける。
「本人は、“空いてない”って答えたらしいの」
綾戸の視線が上がる。
「そうか」
それだけだったが、そこにはわずかな安堵があった。
「それでも」
美香は言う。
「夢の中で何度もそう聞かれるのは、気分のいいものじゃないわ」
「だろうな」
綾戸が低く返す。
「蒼良自身が、自分の中の空白を自覚し始めてるってことでもある」
竜胆はホワイトボードの文字列を見つめたまま言う。
「偶然だと信じたいな」
「蒼良の夢と、虚巣の発生が、まだただの類似でしかないと」
「……だといいけどな」
綾戸は椅子にもたれた。
「問題は、そういう“だといい”はだいたい外れるってことだ」
「縁起でもないこと言わないでくださいよ」
綾瀬が半ば反射的に言う。
「事実だ」
綾戸はあっさり返した。
「怪異ってのは、人間の希望に合わせて都合よく動いたことがない」
その言葉に、美香が少しだけ目を細める。
「でも、あの子はただの場所じゃないわ」
綾戸も頷く。
「分かってる。だから厄介なんだろ」
竜胆はしばらく黙っていたが、やがてホワイトボードへさらに線を引いた。
虚巣。
空いた場所。
蒼良。
その三つを結ぶように線を重ねる。
「少なくとも、これで方針は決まる」
全員の視線が集まる。
「虚巣の発生地点を洗う」
「人のいなくなった場所の変質を追う」
「同時に、蒼良の反応を観察する」
「並行調査、ですね」
綾瀬が確認する。
「そうだ」
竜胆は短く答えた。
「面倒だな」
綾戸がぼやく。
「今さらでしょ」
美香が返す。
「違いない」
綾戸は苦笑した。
窓の外では、昼の光が変わらず差し込んでいる。穏やかな、何事もない午後の光だった。
だが、その明るさとは裏腹に、部屋の中で話されている内容は着実に一つの形を取り始めていた。
人のいなくなった場所が巣になる。
そこに生まれる虚ろな怪異――虚巣。
そして、その性質にどこか似たものを抱えた蒼良。
平和な昼間の会議室で、その不吉な輪郭だけがゆっくりと定まっていく。
誰もまだ、決定的なことは言えなかった。
けれど。
この事件が、ただの廃墟巡りや肝試しの延長で終わるものではないことだけは、もう十分すぎるほど明らかだった。
竜胆は最後にコーヒーを一口飲み、低く言う。
「……始まったな」
その呟きに、誰も軽くは頷かなかった。
それぞれの沈黙が、その意味を理解していた。




