空の器 15
同じ頃、廣守探偵事務所では、昼下がりのゆるやかな時間が流れていた。
窓の外では、通りを走る車の音が遠くに溶けていく。夏でも冬でもない穏やかな午後で、強すぎない日差しがブラインドの隙間から差し込み、室内の空気をほんのりと温めていた。光はテーブルの上に落ち、そこに置かれた皿や書類の端を淡く照らしている。
事務所の中は、いつも通り少しだけ散らかっていた。
テーブルの上には袋の開いたお菓子がいくつか並び、誰かが読みかけた本が積まれ、メモ用紙とペンが無造作に置かれている。決して整頓された空間ではないが、不思議と落ち着く空気があり、誰かの生活がちゃんと息づいている場所だった。
ソファの上では曳奈が足を投げ出し、背もたれに体重を預けながらのんびりしている。机の横では奏灯が書類を軽くまとめており、その近くでこんが腕を組んで偉そうに座っていた。
そして、その中心に蒼良がいた。
蒼良はテーブルの上に置かれたクッキーを、じっと見つめている。
しばらく見て、また少し首を傾げて、もう一度見る。
その様子を横から見ていたこんが、腕を組んだまま言った。
「どうしたのじゃ。食べぬのか? 食べぬのなら、わらわが頂くのじゃが」
蒼良は少し考え、それからゆっくり口を開いた。
「……これは」
一度言葉を区切り、真面目な顔で続ける。
「食べてもいいもの?」
その問いに、曳奈が思わず吹き出した。
「なにそれ。毒入りのお菓子みたいな聞き方」
蒼良はきょとんとしている。
曳奈はソファの上で体を起こし、テーブルに肘をついた。
「お菓子だよ。普通のお菓子。食べ物。あたしはおせんべいの方が好きだけどね」
奏灯も横から頷いた。
「大丈夫だよ。甘くておいしいよ。昨日、鈴さんが買ってきたやつ」
蒼良はクッキーを手に取る。
指先で少しだけ重さを確かめ、匂いを嗅ぎ、それから小さくかじった。
ぱき、と軽い音がした。
蒼良はしばらく黙って味を確かめる。
それから、ゆっくりと言った。
「……甘い」
こんが満足そうに頷く。
「そうじゃろう。甘いものは良いものじゃ」
曳奈は足をぶらぶらさせながら蒼良を眺めていた。
「蒼良って、ほんと不思議な子だよね」
蒼良が顔を上げる。
「そう?」
「うん。なんていうかさ、普通のことにちゃんと疑問持つっていうか。逆に普通の人が流しちゃうことを、ちゃんと考えるっていうか」
蒼良は少し考えた。
クッキーをもう一口かじりながら、ゆっくり言う。
「普通がよくわからない」
その答えに、奏灯がくすっと笑った。
「僕もたまにそう思うよ」
曳奈がすぐに突っ込む。
「いや奏灯は普通だよ。ちょっと天然なだけで」
「天然じゃないよ」
「天然だよ」
そんなやり取りを、蒼良は静かに見ていた。
少し離れた机のところでは、鈴が帳簿を整理している。書類をめくりながら、二人の会話をちらりと見て、穏やかに言った。
「そのうち慣れますよ」
蒼良が振り向く。
「何に?」
鈴はペンを置きながら答える。
「人の生活というものに、です。大体のことは、そうやって少しずつ慣れていくものですから」
蒼良はその言葉を繰り返す。
「生活」
その響きを、どこか大事そうに口の中で転がすようだった。
ちょうどその時、事務所の扉が軽くノックされた。
コンコン、と控えめな音。
鈴が顔を上げる。
「はい」
立ち上がって扉を開くと、そこには中年の女性が立っていた。少し困ったような表情で、周囲をうかがうようにしている。
「すみません……ここ、怪異の相談って……」
鈴は穏やかに会釈する。
「ええ、そうです。どうぞ」
女性は少し安心した様子で中へ入ってきた。
事務所の中を見回す。
ソファでくつろぐ曳奈。
腕を組んで座るこん。
机の横で書類を持つ奏灯。
そして、じっとこちらを見ている蒼良。
その視線に気付いた女性は、少し戸惑ったように言った。
「……あの」
蒼良は素直に尋ねた。
「あなたも怪異なの?」
女性は少し驚いたようだったが、すぐに小さく頷いた。
「やはり、皆様には分かるのですね。はい、私はのっぺらぼうです」
顔立ちは整っているが、よく見れば表情の動きが非常に少ない。声の抑揚だけで感情が伝わる、不思議な雰囲気の女性だった。
鈴は席を勧める。
「それで、ご相談というのは?」
女性は安心したように話し始めた。
「うちの近くの公園なんですけど……夜になると、ブランコが勝手に揺れるんです」
曳奈が眉を上げる。
「それだけ?」
女性は慌てた。
「い、いえ……それだけならいいんですけど、近所の子供が近づくと泣き出してしまって……」
鈴は静かに頷く。
話を聞く限り、深刻な怪異ではない。おそらく子供の霊か、あるいは残滓の類だろう。
こんが立ち上がる。
「ふむ。その程度なら、わらわが行けばすぐ終わる」
曳奈が言う。
「じゃあ行ってきなよ」
鈴は少し困った顔をした。
「……こんを一人で行かせるのは、さすがに」
こんが不満そうに言う。
「なんじゃそれは。わらわを信用しておらぬのか」
鈴は即答した。
「信用はしています」
一拍置いて続ける。
「ですが、結果がどうなるかはまた別問題です」
曳奈が笑う。
「それは確かに」
蒼良はそのやり取りを見ていた。
少し首を傾げて言う。
「行くの?」
鈴は蒼良の声に振り向き、穏やかな表情のまま頷いた。
「ええ。まずは現場を確認しておきましょう。大事になる前に様子を見るのも、仕事のうちですから」
その言葉を聞きながら、蒼良はしばらく考え込むように黙っていた。何かを測るように、あるいは自分の中で言葉を探すように、小さく視線を落としてから、ゆっくりと顔を上げる。
「……私も行く」
その一言に、曳奈がぱちりと目を丸くした。
「蒼良?」
少し身を乗り出すようにして、興味深そうに続ける。
「行きたいの?」
蒼良は迷う様子もなく、静かに頷いた。
「うん。見たい」
その答えを聞いて、こんが口元をゆるめる。
「ほう。面白そうじゃな。ようやく外の怪異にも興味が出てきたか」
鈴は少しだけ考え込むように視線を落とした。今回の相談内容からすれば、危険な現場ではない可能性が高い。むしろ子供の霊か残滓の類であれば、見守る程度で済むだろう。
それならば、蒼良が同行しても大きな問題はない。
「……まあ、いいでしょう」
鈴がそう結論を出すと、曳奈はぱっと立ち上がった。
「じゃあ決まりだね。久しぶりの外出だし、軽い散歩みたいなもんでしょ」
奏灯も穏やかに笑いながら頷く。
「僕も行くよ。人数が多い方が安心だしね」
こうして、事務所の面々はそろって現場へ向かうことになった。
扉の前まで歩いてきた蒼良は、そこでふと足を止めた。ほんの一瞬だけ振り返り、事務所の中を見つめる。
少し散らかった机。
食べかけのクッキー。
誰かが笑ったまま残した空気。
ささやかな生活の痕跡が、部屋のあちこちに残っている。その光景を蒼良は静かに眺めていた。
「蒼良?」
先に外へ出ていた鈴が、不思議そうに名前を呼ぶ。
蒼良は小さく頷き、すぐに扉へ向き直った。
「うん」
そして、ほんの少しだけ考えるように間を置いてから、ぽつりと呟く。
「……楽しみ」
その言葉の意味を、蒼良自身はまだはっきり理解しているわけではなかった。それでも、胸の奥のどこかが、かすかに温かくなる感覚だけは確かにあった。
――。
夕方になるころ、依頼された公園へと辿り着いた。
そこは住宅街の外れにある、小さな公園だった。広いわけではないが、昔からこの辺りの子供たちが遊んでいたのだろうと分かるような、素朴な遊具がいくつか並んでいる。
色の褪せた滑り台。
砂の少し減った砂場。
そして、錆びかけた金属のフレームに吊られた二つのブランコ。
夕方の光はすでに傾き始めており、公園には人の姿がない。静まり返った空間の中で、風だけがときおり遊具を揺らしていた。
その光景を見た蒼良は、ふと足を止めた。
視線の先には、ブランコがある。
ゆらり。
ゆらり。
ゆっくりと前後に揺れている。
ただ、その動きは風に任せたものとは少し違っていた。どこか規則的で、まるで誰かが足を揺らしているような、不自然な揺れ方だった。
こんが腕を組んだまま言う。
「ほれ。おるな」
曳奈も目を細め、公園の奥を覗き込む。
「いるねー。しかも、結構はっきり」
奏灯も静かに頷いた。
「……ブランコに座ってる」
蒼良の目には、はっきりと見えていた。
小さな影が、ブランコに座っている。
まだ幼い子供の姿だ。足をぶらぶらと揺らしながら、何をするでもなく、ただそこに居続けている。
鈴はゆっくりと歩み寄り、少し離れた位置で足を止めた。
「こんばんは」
柔らかく声をかける。
その瞬間、影がびくりと揺れた。
透けた身体をした、小さな子供だった。
「……だれ」
か細い声が返ってくる。
鈴はしゃがみ込み、目線を同じ高さに合わせた。
「ここで遊んでいたんですか?」
子供は、ゆっくりとうなずく。
「……うん」
「おうちに帰れなくなったんですか?」
もう一度、うなずきが返ってきた。
その様子を見て、曳奈が後ろで小さく呟く。
「ほんとに迷子だね」
こんが鼻を鳴らす。
「放っておけば、そのうち薄れて消えるじゃろうが」
だが鈴は首を振った。
「それでは寂しいでしょう」
そう言ってから、再び子供へ視線を向ける。
「おうちは覚えていますか?」
子供は少し考え込むようにしてから、ゆっくりと腕を上げ、公園の外を指差した。
「……あっち」
住宅街の方角だった。
鈴は立ち上がり、振り返る。
「行きましょう」
その様子を見ていた蒼良が、静かに問いかける。
「……連れていくの?」
鈴は微笑みながら頷いた。
「ええ。帰る場所があるのなら、帰してあげないと」
その言葉を、蒼良は胸の奥で繰り返していた。
帰る場所。
その響きは、どこか不思議な重みを持っていた。
――。
やがて子供が指差した家の前に辿り着く。
古い木造の家だったが、荒れているわけではない。玄関先には小さな花が置かれており、誰かがきちんと手入れしている家だと分かる。
子供の影は、その家を見上げながら静かに立ち止まった。
「ここ」
その声は、もうほとんど風に溶けるほど小さい。
次の瞬間、影はゆっくりと薄くなり始めた。
「……ありがと」
かすかな声が残る。
鈴はその場で静かに頭を下げた。
「おやすみなさい」
子供の姿は、夕方の風の中へ溶け込むように消えていった。
――。
帰り道。
住宅街の道を歩きながら、蒼良はふと口を開いた。
「……どうして」
鈴が振り向く。
「何がですか?」
蒼良は少し考えてから、言葉を探すように続けた。
「助けたの?」
鈴は歩みを緩め、ほんの少しだけ考える。
そして、穏やかな声で答えた。
「困っていましたから」
理由は、それだけだった。
曳奈が肩をすくめる。
「鈴ってそういうとこあるよね」
こんが小さく鼻を鳴らす。
「まあ、悪くはない」
奏灯はやわらかく笑った。
「優しいんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、蒼良の胸の奥がまた少し温かくなった。
優しい。
その響きを、蒼良は静かに口の中で繰り返す。
「……優しい」
まだ、その意味を完全に理解しているわけではない。
それでも。
胸の奥に残った温かさだけは、確かに覚えていた。




