空の器 13
零課から綾戸の端末へ連絡が届いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
事務所の奥にある古びた椅子へ深く身体を沈めたまま、彼はスマートフォンの画面を眺め、露骨に顔をしかめる。
「……なんだそりゃ」
思わず声が出た。
画面に表示されたメッセージは、あまりにも簡潔だった。
調査協力。
各地の“ちょうどいい感じの無人の場所”を見張れ。
それだけである。
綾戸は数秒間、画面を見つめたまま固まっていたが、やがてゆっくりと息を吐いた。
「雑だな、おい」
誰に言うでもなく呟く。
しかし文面の大雑把さとは裏腹に、内容自体は十分理解できた。団地で確認された現象――人の中へ場所が入り込もうとする、あの奇妙な兆候。もし同じことが他でも起きているのなら、人の寄りつかない場所を張り込むしかない。
理屈としては、確かに間違っていない。
「……もうちょい言い方あるだろ」
スマートフォンを机へ置き、綾戸は軽く首を回した。
利根川たちは別の場所を担当しているらしい。零課のメンバーもそれぞれ散開しているようで、今回の配置を見る限り、彼は珍しく単独行動ということになる。
「まあいいか」
綾戸は立ち上がった。
どうせやることは決まっている。人が来る可能性のある場所を張ればいい。そして、夜中に人がわざわざ来る理由など、だいたい一つしかない。
肝試し。
「学生の考えることはだいたい同じだからな」
ぼやきながらパソコンを開く。
検索。
SNS。
動画サイト。
都市伝説まとめ。
夜の探索動画。
心霊、廃墟、肝試し――そんな単語でタグを辿っていくと、候補は驚くほど簡単に見つかった。人が立ち入れる程度に荒れ、しかし完全には封鎖されていない場所。動画の撮影や噂話のネタになる程度に“雰囲気のある場所”。
そういう場所は、意外なほど多い。
「こういう時は助かるな」
綾戸は苦笑する。
情報源はSNS。
そして、そのSNS事情にやたら詳しい怪異が、事務所には一体いる。
「SNSに詳しい怪異ってなんだよ……」
自分で言って、自分で呆れる。
だが作業は早かった。夜までには候補は三か所に絞り込まれ、零課へ共有される。配置もすぐに決まり、綾戸が担当する場所も確定した。
古い工場跡地。
郊外の外れにあり、街灯も少ない。建物は半ば崩れかけ、壁の塗装は剥がれ、窓ガラスはほとんど割れている。動画投稿者が肝試しに訪れるには、ちょうどいい舞台だった。
そして夜。
綾戸は工場の外壁の影へ背を預け、地面へ腰を下ろしていた。
コンクリートの壁は夜気を吸って冷たい。吹く風は弱く、空気はどこか沈んでいる。遠くの道路から車の音がかすかに届くが、それ以外はほとんど何も聞こえない。
建物は巨大な空洞のように闇を抱えている。
かつては機械の音や人の声が満ちていたのだろうが、今はその痕跡すら薄く、ただ広い空間だけが残されている。
「……来るかね」
腕時計を見る。
二十三時を少し回ったところだった。
学生が動き出すには、ちょうどいい時間だ。
そして。
二十三時三十分。
綾戸は小さく息を吐いた。
「ビンゴ」
遠くの闇の中で、光が揺れている。
懐中電灯。
スマートフォンのライト。
人数は三人――いや、四人。
近づくにつれ、笑い声がはっきりしてくる。明らかに場違いなほど明るい声だった。夜の静けさの中では、その騒がしさが逆に異物のように浮き上がる。
「ここマジでやばいらしいって!」
「お前それ動画のネタだろ!」
「いや、マジだって!」
「やめろって怖ぇよ!」
典型的な肝試しの空気だった。
綾戸はスマートフォンを取り出し、マップを開く。一番近い味方の位置を確認する。
「……鈴か」
距離は数百メートル。十分近い。
短いメッセージを打つ。
《当たり》
送信。
数秒後、既読がつく。
それで十分だった。
綾戸は再び学生たちへ視線を戻す。
四人は工場の中へ入っていく。ライトが壁や鉄骨を照らし、壊れた窓の隙間から白い光が揺れる。
その瞬間だった。
空気が、ほんのわずかに変わった。
「……来るぞ」
綾戸は小さく呟く。
学生の一人が建物の奥へ進んだ。
その背後で。
壁の影が、ゆっくりと動いた。
人の影ではない。
建物の形。
屋根。
壁。
窓。
そんな輪郭が、影の中から浮かび上がる。
学生の背後で、静かに。
ゆっくりと。
「……おい」
綾戸の目が細くなる。
影が、人の影と重なった。
そして。
入り込もうとする。
学生の一人が急に立ち止まった。
「……え?」
懐中電灯の光が震える。
呼吸が乱れる。
「なんか……寒……」
次の瞬間。
「入ってくるな!!」
叫び声が、空っぽの工場に反響した。
綾戸はすでに立ち上がっていた。
「やっぱりか」
影はまだ完全には入り込んでいない。
しかし確かに、人の背中へ染み込むように重なっている。
学生はその場で震えていた。呼吸が浅く、目は焦点を失いかけている。
綾戸は歩きながら、腰の武器を抜いた。
綴桴。
黒い刃が夜の空気を静かに裂く。
学生の仲間たちは突然現れた綾戸に完全に固まっていた。
「動くな」
短く言う。
「すぐ終わる」
影はじわじわと入り込もうとしている。
綾戸はそれを観察する。
しかし、そこからは何も感じない。
声も。
意思も。
「やっぱりお前、喋らねぇのか」
小さく呟く。
綴桴は声を読む武器だ。人の思い、物に残った記憶、そういうものを引き出す。しかし、この影には意思がない。
ただの現象。
ただの場所。
だから。
綾戸は刃を振り抜いた。
斬ったのは影ではない。
背後の壁だった。
鈍い音が響く。
その瞬間、綾戸の視界がわずかに揺れた。
声ではない。
言葉でもない。
だが確かに、何かが流れ込んでくる。
古い空気。
人のいた記憶。
笑い声。
生活。
そして――長い空白。
誰もいなくなった部屋。
閉じられた扉。
使われない窓。
積もる埃。
「……ああ」
綾戸は小さく呟く。
「そういうことか」
それは怪異の声ではない。
家の記憶だった。
空いた場所。
そこに巣ができる。
何かが住みつく。
それが今、学生へ入り込もうとしている。
「悪いが」
綾戸は再び綴桴を構える。
「ここは満室だ」
刃が振り抜かれる。
影の境目。
人の影と建物の影。
その境界を断ち切る。
空気が裂けた。
黒い輪郭が学生の身体から剥がれ落ちる。
それは床へ落ちることなく、壁の影へ戻り、そして静かに消えた。
学生が膝から崩れる。
「は……はぁ……」
呼吸が戻る。
綾戸は小さく息を吐いた。
その時。
背後から静かな声が聞こえた。
「皆さん、大丈夫ですか?」
振り返ると、鈴が立っていた。
夜の闇の中でも、落ち着いた声だった。
学生たちは一斉にそちらを見る。
鈴は軽く会釈する。
「この辺り、老朽化した建物が多いので」
柔らかな口調で続ける。
「夜に入ると影や音で錯覚が起きやすいんです」
学生たちの顔が少しだけ緩んだ。
鈴は優しく言う。
「今日はもう帰りましょう。怪我がなくてよかったです」
四人は慌てて頷き、工場を出ていった。
その背中を見送りながら、綾戸はぼそりと呟く。
「……助かった」
鈴が隣に並ぶ。
「決まらなかったんですか?」
「うるせぇ」
即答だった。
鈴は小さく笑い、壁の影を見る。
影はもう、ただの影に戻っている。
だが。
鈴は静かに言った。
「これ、ここだけの話ではなさそうですね」
綾戸も頷く。
「ああ」
工場の暗がりを見渡す。
同じような場所はいくらでもある。
空いた建物。
忘れられた場所。
人のいなくなった空間。
綾戸はスマートフォンを取り出し、短いメッセージを打った。
《確認。人に入ろうとする》
送信。
さらにもう一行。
《切り離しは可能》
画面を閉じる。
夜の工場には、もう何もいない。
だが。
この事件は、まだ始まったばかりだった。




