空の器 12
夜の団地は、驚くほど音が少なかった。
人の生活というものは、そこに人がいるだけで自然と音を生む。テレビの音、食器の触れ合う音、廊下を歩く足音、湯を沸かす気配、誰かの咳払い、風呂場の換気扇。そうした小さな生活音が幾重にも積み重なって、建物はようやく人の住む場所として形を持つのだと、利根川は昔どこかで聞いた気がする。
だが、目の前にある団地には、その音が薄かった。
外灯はちゃんと点いている。階段の踊り場に設置された蛍光灯も、いくつかはまだ生きていて、白く頼りない光を足元へ落としている。それでも建物全体はどこか暗い。単純に照明が足りないからではない。人の気配が圧倒的に足りないのだ。
車を降りた利根川は、目の前の棟を見上げて顔をしかめた。
「……嫌なとこだな」
本音が、そのままぼそりと口からこぼれる。
建物は古かった。コンクリートの壁には雨垂れの跡がいく筋も黒く伸び、手すりには薄い錆が浮いている。かつては白に近かったのだろう外壁も、今は埃と風雨を吸い込んで鈍い灰色に濁っていた。吹き抜ける風のたびに、どこかで何かがきしむ。金属が乾いて軋る音とも、古い建具が痩せた木を鳴らす音ともつかない。
美香は車のドアを閉めながら、周囲を見回した。
「人、いないわね」
「住人はいる」
竜胆が答える。
手元の資料に目を落とすこともなく言えるあたり、事前情報は頭にすべて入っているらしい。
「ただし、全体の三分の二は空室だ」
綾瀬がタブレットを操作しながら補足した。
「管理会社の最新記録でも、取り壊しの話は何度も出てます。ただ立ち退きが進みきらなくて、半端な状態で止まってるみたいです」
「残ってる住人も高齢者ばかり。夜になると、ほとんど外へ出ないそうです」
利根川がため息をつく。
「なるほど。肝試しにはちょうどいいってわけか」
「学生の考えそうなことよね」
美香が肩をすくめる。
「面倒なことをしてくれる」
竜胆はしばらく何も言わず、棟の上の方を見ていた。何かを探っているようでもあり、ただ建物全体の空気を読んでいるようでもある。その横顔には、勘が働いている時特有の、静かな硬さがあった。
やがて短く言う。
「行くぞ」
それだけで十分だった。
利根川が小さくぼやく。
「肝試しなんて学生の頃でもやらなかったのにな……」
「仕事よ」
美香が即座に返す。
「はいはい、そうとも言う」
利根川は両手を軽く上げて降参の仕草をしてみせるが、表情は冴えない。綾瀬が小さく苦笑する。
「利根川さん、怖いんですか?」
「怖いっていうか、こういうのは面倒なんだよ」
「何が違うんです?」
「怖いはその場の感情で済むだろ。でも面倒って思い始めると、終わったあとまでずっと嫌なんだよ」
「なんですかその理屈」
「大人の理屈だ」
「全然納得できません」
そのやりとりの間にも、竜胆はもうエントランスへ向かって歩き出している。
団地の入り口は半ば眠っていた。自動ドアはとうに故障しているらしく、後付けされたガラス扉だけが鈍く街灯を反射している。誰かが雑に貼った管理会社からの注意書きは端から剥がれかけていて、古い掲示板の中には数ヶ月前の自治会のお知らせがそのまま残っていた。
中へ足を踏み入れた瞬間、匂いが変わる。
外の湿った夜気とは違う。古い建材と閉め切られた空間の匂いだ。埃っぽさ、わずかなカビ、乾いた鉄、そして長く人が住んでいた場所にだけ残る生活の名残。洗剤や味噌汁や布団や畳のような、はっきりとは言えない“暮らし”の残り香が、ごく薄く混ざっている。
しかし、それらはどれも弱かった。
まるで建物そのものが、少しずつ中身を失いながら立っているみたいだった。
「……こういう匂い、嫌いじゃないけど好きにもなれないのよね」
美香が低く呟く。
「分かる」
利根川が頷く。
「まだ“いた”感じが残ってるのが一番厄介なんだよ」
エレベーターは使えなかった。綾瀬が表示パネルを見上げる。
「故障中ですね。管理会社の記録でも一年以上停止したままみたいです」
「四階だろ。階段で十分だ」
利根川が先に立つ。
コンクリートの階段は薄くざらつき、踏みしめるたびに微かな粉っぽさが靴裏へ伝わる。踊り場には、誰かが置いたまま忘れていった古い自転車のタイヤが立て掛けられていた。錆びた傘立て、ひびの入った植木鉢、取っ手の取れたプラスチックケース。使われなくなった物が、使われないまま残されている。
綾瀬がライトを向けながら言う。
「なんか、全部そのままですね」
「捨てるのも、片づけるのも、住んでる人間がいるうちはやりにくいんだろ」
利根川が答える。
「管理ってのは、完全に空になるまではだいたいこうなる」
「詳しいわね」
美香が言う。
「警察やってると、嫌でも空き家案件に付き合わされるからな」
「役に立つじゃない」
「褒め方に棘があるな」
四階まで上がるころには、廊下の空気が少しだけ冷たく感じられた。
竜胆が足を止める。
その視線の先に、問題の部屋があった。
四〇三号室。
ドアには黄色い立入禁止テープが貼られている。学生たちが肝試しと称して入り込み、そのうち二人が心身喪失状態で運ばれた部屋だ。
利根川が鼻を鳴らす。
「警察の雑な仕事が残ってるな」
「お前も警察でしょうが」
美香がすかさず言う。
「現場担当じゃないんで」
「便利な逃げ方ね」
竜胆は何も言わずテープを剥がし、ノブへ手をかけた。扉は少し引っかかりを残しながら、重たく開く。
部屋の中は暗かった。
綾瀬がライトを向ける。
狭いダイニング、古い流し台、その奥に襖で仕切られた和室。どこにでもある団地の一室だ。ただし、長く使われていない。床には薄く埃が積もり、壁紙は端から浮き上がり、天井の隅には黒ずみが溜まっている。
利根川が中へ一歩入って室内を見回した。
「……荒れてないな」
「そうね」
美香も続いて入る。
「暴れた形跡はない」
家具は何もない。割れたガラスも、引きずられた跡も、争った痕跡も見当たらない。ただ、入口のすぐ内側、そこにだけ靴跡が比較的濃く残っていた。
綾瀬がライトを低く向ける。
「ここです」
「被害者の一人が倒れていた位置」
利根川がしゃがみ込む。
「入って、すぐ倒れたのか」
「厳密には数歩進んでからです」
綾瀬がタブレットを確認しながら答える。
「もう一人は廊下側、扉のすぐ前。ほぼ出口の位置です」
「どっちも逃げようとしたように見えるわね」
美香が呟く。
竜胆は室内をゆっくりと歩き始めた。壁際、押し入れ、窓際。どこにも大きな乱れはない。だが足取りは慎重だった。何かを探すというより、部屋そのものの輪郭を確かめるような歩き方だった。
やがて和室の敷居で足を止める。
「……妙だな」
利根川が顔を上げる。
「何が」
「怖がるだけなら、ここまでになる前に帰る」
竜胆は和室を見渡したまま言う。
「わざわざ部屋の中まで入って、揃ってこうなるのは不自然だ」
「何か見た?」
美香が問う。
「そう考えるのが自然だろう」
そう答えたものの、その声には確信が混じっていない。見た、というより、何かが起きた。その結果として学生たちは壊れた。そんな響きだった。
その時、綾瀬が和室の隅を照らして言った。
「こっち、少し変です」
全員の視線がそちらへ向かう。
壁の角。天井と壁紙の境目。そのあたりに、黒ずみがあった。カビにも見える。だが輪郭が妙に曖昧で、濡れているわけでもないのに、影のようにも見える。
利根川が眉をひそめる。
「シミ?」
「違う」
竜胆が即座に否定する。
綾瀬が息を呑んだ。
「反応ありますか?」
「弱い」
竜胆は目を細める。
「だが、ある」
美香が近づく。触れはしない。ただ目を凝らす。
すると、その黒ずみがほんのわずかに揺れたように見えた。まばたきのせいかと思う程度の動き。だが、気のせいで済ませたくない種類の揺れだった。
美香は小さく舌打ちする。
「気持ち悪いわね」
利根川が立ち上がる。
「何なんだ、これ」
竜胆は答えなかった。代わりに、部屋の空気を読むように立ち尽くしている。やがて、ぽつりと呟いた。
「……入ろうとしているな」
三人が一斉に彼を見る。
「何が?」
利根川が問う。
竜胆は扉の方を見た。
「これだ」
「場所そのものが、入り込もうとしている」
綾瀬の顔に、分からないという困惑がはっきりと浮かぶ。
「場所が?」
「言い方の問題だ」
竜胆は視線を戻す。
「家に人が住むんじゃない」
「家の方が、人に住みつこうとしている」
その言葉に、部屋の空気がさらに一段冷えたように感じられた。
利根川が顔をしかめる。
「全然分からん」
「俺もだ」
竜胆はあっさり言う。
「ただ、この部屋の中にいると境目が曖昧になる」
壁の黒ずみを見る。
「中と外」
床の靴跡を見る。
「住んでいるものと、住まれる場所」
美香が静かに言った。
「それで、“入ってくるな”か」
竜胆ははっきりとは答えない。ただ、その沈黙は否定ではなかった。
綾瀬がタブレットへ記録を取りながら言う。
「でも、どうして急にこんな場所で?」
竜胆はすぐには答えなかった。
しばらくして、低く言う。
「急ではないのかもしれん」
「今までは、誰も気づかなかっただけだ」
利根川が廊下の方を見る。
「こんな団地、他にもいくらでもあるぞ」
「だろうな」
竜胆は頷く。
「だから妙なんだ。この程度の場所で、これだけ立て続けに発生するのはおかしい」
美香が目を細める。
「原因が別にある?」
竜胆は答えなかった。
だが、その沈黙は肯定だった。
その時だった。
廊下の方で、風が鳴った。
窓の隙間を抜ける細い音。その後に混じるように、コツ、コツと、小さな足音が響く。誰かが廊下を歩いているみたいな音だった。
四人が同時に顔を上げる。
「……聞こえたか?」
利根川が低く言う。
「ええ」
美香も頷いた。
綾瀬がすぐにライトを廊下へ向ける。
だが、足音はぴたりと止まっていた。
竜胆が静かに部屋を出る。
廊下は暗い。外灯の黄色い光が、細長く床へ伸びている。人の気配はない。
「住民か?」
利根川が後ろから言う。
「この時間に?」
美香が眉をひそめた。
竜胆は足音の聞こえた方へ歩いていく。廊下の先、曲がり角。その先を覗く。
――誰もいない。
並んだ扉の多くには、管理会社が掛けた札が残っていた。空室。立入禁止。養生テープで封じられたドアもある。
綾瀬が小さく呟く。
「……全部、空き家ですね」
利根川が廊下全体を見渡した。
さっきの足音だけが、妙に現実味を残している。
「気のせい、で済ませたくはないな」
「済ませられるなら、ここにいないだろ」
美香が言う。
竜胆はしばらくその場に立っていた。やがて、小さく言う。
「妙だな」
「今さらか?」
利根川がぼやく。
「今さらだ」
竜胆は珍しく素直に返した。
それから団地の外を見た。同じような建物が遠くまで並び、暗い窓と空いた部屋と、人が去った後の箱がいくつも重なって見える。そのすべてが、妙に静かだった。
まるで、この団地一つの問題ではなく、もっと大きな何かの気配が、建物と建物の隙間にまで薄く広がっているみたいだった。
利根川が隣で小さく言う。
「……嫌な予感がするな」
竜胆は、ほんのわずかに頷く。
「俺もだ」
そして、その予感がただの団地一棟で終わるものではないことを、誰もまだ言葉にはしなかった。




