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妖奇譚~怪異の来る探偵事務所と、人間をやめかけた男~ ※次回更新7月  作者: Tomato.nit
空の器

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空の器 11

第二十五話 入り口


公安零課のフロアは、昼間であってもどこか薄暗い。


窓がないわけではない。だが、建物の構造上、外の光は深く差し込まず、届く頃にはすっかり角を失っている。照明は常に点いているのに、それでも部屋の奥には微かな影が溜まり、資料棚やモニターの隙間に沈殿していた。壁には地図が何枚も貼られ、無機質な机の上には書類の束と機材が並んでいる。怪異を扱う場所というのは、どうしてもこういう空気になるのかもしれないと、利根川はぼんやり思った。


彼は机に肘をつき、手元の資料をぱらぱらとめくりながら、大きくため息をつく。


「……なあ」


紙の端を指先で軽く弾くように揺らす。


「これさ。うちに回ってきたってことは、どうせそっち絡みなんだろうけど」


もう一度、さっきより長いため息。


「いい歳して俺たちも肝試し行かないとダメなのか?」


向かいの席で報告書を読み返していた美香が、肩をすくめた。


「仕方ないでしょ。仕事なんだし」


「いや、仕事なのは分かってる」


利根川は顔をしかめる。


「分かってるけど、これどう見ても学生のバカ騒ぎ案件だろ。肝試し、深夜の廃墟、友達同士で乗り込んで、途中で誰かがビビって空気悪くして、そのままパニック。ほら、よくあるやつ」


「普通ならね」


美香が短く返す。その声音には、軽く流しているようでいて、すでに違和感の核心へ触れている硬さがあった。


そこで横から声が入る。


「でも、変ですよね」


綾瀬だった。


彼女はモニターの前に座り、表示された報告書をスクロールしている。目の前の画面には、被害者の供述と警察から回された医療記録が並んでいた。


「場所も時間もばらばらなのに、その後の結果だけが全部同じなんです」


利根川が眉をひそめる。


「結果?」


綾瀬は椅子を少し回し、モニターを三人にも見える角度にずらした。画面には被害者一覧が並んでいる。大学生、高校生、専門学校生。男女混合。年齢は十代後半から二十代前半に集中しているが、それ以外に目立った共通項は見つからない。


「全員、病院に担ぎ込まれています」


綾瀬が言う。


利根川は鼻を鳴らした。


「パニック発作とか過呼吸じゃないのか」


「最初はそう思われました」


綾瀬は次の画面を開いた。医療記録の抜粋が表示される。


「でも、身体的異常はなし。薬物反応もなし。外傷もなし。血液検査も脳波も、異常らしい異常はほとんど出てないんです」


スクロールが止まる。


「ただし」


綾瀬が指先で一行を示す。


「全員、同じ状態になってます」


利根川が少し身を乗り出した。


「どんな?」


綾瀬は言葉を選ぶように一拍置いた。


「心身喪失状態、という表現が一番近いです。意識はあるのに、まともに会話が成立しない。呼びかけには反応することもあるけど、質問に対する答えになっていない」


「それで?」


「同じ言葉を、ずっと繰り返しています」


利根川が眉を寄せる。


「同じ言葉?」


その時、後ろから低い声が差し込んだ。


「“入ってくるな”」


竜胆だった。


いつの間にか背後に立っていたらしく、片手に別の資料を持ったままこちらを見ている。


「被害者のほぼ全員が、同じことを言っている」


利根川は腕を組んだ。


「入ってくるな、ね」


紙の上に視線を落とし、鼻先で笑う。


「誰が?」


竜胆は肩をすくめた。


「それが分かれば苦労しない」


そう言って資料を机に置く。


綾瀬がすぐに地図表示へ切り替えた。画面上には赤い点がいくつも散っている。都内と近郊、そのさらに外側まで含め、ぱっと見ただけでも関連性が薄い。


「発生地点です」


利根川が画面を見つめる。


「……ばらばらだな」


「ええ」


綾瀬が頷く。


「最初は模倣犯的な集団パニックかと思ったんですけど、地点間のつながりも、被害者同士の接点もほとんど見つかっていません」


竜胆が指を一本立てた。


「一つだけ、ある」


三人の視線が集まる。


「場所だ」


利根川が怪訝そうに眉を上げる。


「いや、だから場所がばらばらなんだろ?」


竜胆はモニターを指差した。


「心霊スポットじゃない」


綾瀬が頷く。


「そうなんです。有名な廃病院とか、トンネルとか、そういう“出るって噂のある場所”は一つもありません」


利根川は改めて画面を見た。


確かにそうだった。寂れた団地、廃工場、取り壊し予定の倉庫、使われなくなったビル。どれもただ古いだけで、都市伝説めいた名所ではない。検索すれば写真好きや廃墟マニアが出てきそうな程度の場所ばかりだ。


「……廃墟巡りか?」


利根川がぼそりと言う。


「肝試しの定番ではありますね」


綾瀬が応じた。


「でも、それだけじゃ片付かない点が一つあります」


彼女は地図を拡大する。


一点を指差した。


「ここ」


表示されたのは、都内の外れにある古い団地群の一角だった。


「ここは廃墟ではありません。普通の団地です」


利根川が目を細める。


「普通?」


「表向きは」


美香が口を挟んだ。


「でも、住人はほとんど残ってない。建て替え前で、空き部屋ばかりのはずよ」


竜胆が静かに頷く。


「つまり」


利根川は地図をもう一度見た。そして、ようやく腑に落ちたように呟く。


「寂れてる場所ばっかり、ってことか」


「人がいない場所」


竜胆が低く言う。


「人がいなくなった場所。使われなくなった場所。生活の痕跡だけを残して、中身が抜けた場所だ」


その言葉が落ちた瞬間、フロアの空気が少しだけ重くなった。


利根川は椅子の背にもたれたまま、天井を見上げる。


「……嫌な感じだな」


美香も頷いた。


「ええ。蒼良の件を見た後だと、余計にね」


利根川が目を向ける。


「空き部屋、空の器、低級霊」


「連想としては最悪だな」


「でしょ」


美香はファイルを閉じる。


「学生たちは“空いてる場所”に遊び半分で入って、その先で何かに遭った。そう考えると、筋は通る」


綾瀬が口を開いた。


「でも、“入ってくるな”っていう言葉だけ、まだ引っかかるんですよね。普通なら“出て行け”とか“見た”とか、そっちじゃないですか?」


「たしかにな」


利根川が顎に手をやる。


「追われた側の言葉ってより、守ってる側の言葉にも聞こえる」


その一言で、会話が少し止まった。


竜胆は机の上の写真に目を落としたまま、しばらく黙っていた。そして、短く言う。


「とりあえず」


その一声で、全員の意識が戻る。


「一番新しい現場に行く」


利根川が顔をしかめる。


「やっぱり行くのか」


竜胆はあっさり頷いた。


「当たり前だ」


「いや、そりゃそうなんだけどさ」


利根川は首の後ろを掻いた。


「肝試しか……学生の頃でもやらなかったのにな」


綾瀬が小さく笑う。


「仕事ですよ」


「はいはい」


利根川は立ち上がり、椅子の背に掛けていたジャケットを取る。


「で、場所は?」


綾瀬が画面を切り替えた。


表示されたのは現場写真だった。古い団地。夕方か夜か、外灯の明かりだけがぼんやりと建物の壁面を照らしている。窓のほとんどは暗く、ところどころにだけ薄いカーテンの影が見える。人が住んでいるのかいないのか、その境界だけがぼやけたような建物だった。


「ここです」


竜胆はその写真を見て、ほんのわずかに目を細めた。


理由はまだ分からない。ただ、その場所には妙な静けさがあった。廃墟の静けさではない。生活が一度あったことを知っている建物が、そこから何かを抜き取られたまま立ち尽くしているような、そんな静けさだった。


利根川も同じものを感じたのか、ジャケットを羽織りながらぼやく。


「こういう団地ってさ、一番嫌なんだよな」


美香が横目で見る。


「何が」


「病院とか学校は最初から怖いって分かるだろ」


利根川は写真を指差した。


「でも、団地って、人が普通に住んでた場所じゃん。生活の残り方が半端だから、逆に気持ち悪い」


綾瀬が少し考えるように言う。


「たしかに……家具とか、郵便受けとか、そういうのが残ってると嫌ですね」


「だろ?」


利根川は頷く。


「誰もいないのに、そこに人がいた形だけ残ってるのが一番嫌なんだよ。空いたばかり、って感じがして」


その言葉に、竜胆の視線がわずかに動いた。


「空いたばかり、か」


「何か引っかかるか?」


利根川が聞く。


竜胆は一度だけ写真を見直したあと、静かに言う。


「まだ分からん」


「ただ、これが“入り口”になってる可能性はある」


「入り口?」


綾瀬が聞き返す。


「場所が何かを生んでいるんじゃない」


竜胆は写真の暗い窓を指で示した。


「空いた場所が、何かを招いている」


利根川が低く口笛を吹きそうになって、途中でやめた。


「やめろよ、そういう言い方。余計行きたくなくなるだろ」


「行くんだけどな」


美香がさらりと返す。


綾瀬は端末に必要なデータを落とし込みながら、二人のやりとりに苦笑した。


「一応、近隣の聞き込み記録も入れておきます。夜になると建物の中から足音がするとか、人影が見えるとか、定番の証言はありますけど……決定打には欠けます」


「定番だからこそ厄介なんだよな」


利根川がぼやく。


「定番ってことは、誰でもそれっぽいこと言えるってことだから」


「でも」


綾瀬が言葉を継ぐ。


「今回の被害者たちは、全員その定番の手前で壊れてるんです」


「見た、じゃない」


「見てしまう前に、何かに触れてる」


竜胆は頷く。


「だから現場を見る」


言い切る声には迷いがなかった。


利根川は観念したように肩を落とす。


「分かったよ。じゃあせめて、夜になる前に一回周辺だけ見ようぜ」


「完全に日が落ちてからだと、普通に気分が悪い」


「お前、怖いのか」


美香が言う。


「怖いというか、面倒なんだよ」


利根川はジャケットの襟を直しながら返す。


「怖いと思いながら行くのと、めんどくさいと思いながら行くのだと後者の方が精神的に得だろ」


「その理屈はよく分からないわね」


「分からなくていい」


やりとりの間に、綾瀬は必要なファイルを印刷し、クリップでまとめて差し出した。


「現地用です。地図、被害者一覧、医療記録の要点、それと団地の管理会社から回ってきた図面」


利根川が受け取る。


「有能」


「どうも」


綾瀬は少しだけ照れくさそうに笑った。


竜胆は最後に、もう一度だけ現場写真へ視線を落とした。


古い団地。外灯。暗い窓。生活が抜け落ちた後の箱。


そこにはまだ、何かを引き寄せるだけの“空き”が残っているように見えた。


まるで、何かが住みついているみたいに。


あるいは――住みつくための入り口が、ずっと開いたままになっているみたいに。


「行くぞ」


竜胆が言う。


利根川はわざとらしく深く息を吐いた。


「はいはい。肝試し開始ってわけだ」


「仕事だ」


美香が即座に訂正する。


「そうとも言う」


三人が動き出す。


薄暗い零課のフロアに、足音が静かに響いた。


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