2話 消えた足取りを追って
名古屋中区の伏見の一等地のマンションが、八代さんが暮らしている場所だった。
歌舞伎の御園座とか、世界最大のプラネタリウムドームと言われている名古屋市科学館にも近い。
一階に入るとコンシェルジュスペースが見えた。
専用ドアとかなら住人と一緒に入ることが出来るんだけど、管理人が見えるんだったら忍び込むことが出来ない。
私はマンションからいったん出て、笹原さんに電話をした。
「ねえ、目的の家に来たけどコンシェルジュが居て先に進めないんだけど、もしかして私に屋外から忍び込めっていうの?」
「出来ないのか?」
彼は淡々とそう言ってきた。
「出来ないわけじゃないけど」
「冗談だ。八代に用件があるって言え、そして俺の名前を出せばいい。今日の夜にお前が行くことは伝えてある」
「そういう事は先に言ってよね」
「忘れていた。用件はそれだけか?」
いつもの感じじゃなくて、気配が強く感じられる。
「ごめん。そちらも厄介事の用だね」
「あぁ、今日は連絡が取れないと思ってくれ。用件ならノルクマークのママに言ってくれ」
「了解」
ノルクマークという店は、実際にはない。
おそらく、笹原さんの愛人がやっている店のことだろう。そこにいるママに伝えろということなのだから、よほど大変な事態になっているらしい。
私は言われたとおり、コンシェルジュへ向かった。
私はそれ以上考えず、言われたとおりコンシェルジュへ向かった。
「紫微綾だけど、笹原さんから話が来ていると思う」
「紫微様、お待ちしておりました。こちらが610号室の鍵でございます」
コンシェルジュは音もなく滑らかな動作で、重厚なカウンターの上にトレイを差し出した。
その上に置かれていたのは、まさに歴史あるホテルのルームキーそのものだった。上品なアンバーのアクリル角棒には、ゴールドの箔押しで『610』の数字が刻まれている。
手に取ると、指先に吸い付くようなアクリルの滑らかな質感と、心地よい重みが伝わってきた。
「何かご入用のことがございましたら、何なりとフロントまでお申し付けください。どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
深々と一礼するコンシェルジュの声を背に、私は手の中のキーホルダーを軽く握り直した。カチリ、と真鍮のリングが立てた小さな金属音が、高級感漂う静かなロビーに心地よく響いていた。
すごいプロ意識の塊だと思った。
あんなふうに渡されたのでは、赤の他人が受け取ったなんて誰にもわからない。
それにしても、どうして笹原さんの名前で渡されたのか、よくわからない。
とりあえず、部屋で調べるとしようか。
多分、女性の部屋だから私に頼んだんだと思う。男の部屋だったら、問答無用で自分の部下に調べさせていたはずだ。
……そんなに甘い男だったかな?
何だろう。何かが引っかかる。
でも、笹原さんが私に罠を仕掛けるとは思えないし、とりあえず仕事をこなすとしよう。
部屋に入ると、貧乏な自分の部屋とは違って、すごく綺麗な空間が広がっていた。
まるでホテルの一室みたいだ。家具や調度品も整っていて、こんな部屋に住めるなんてうらやましい。
室内を一通り調べて回ると、財布などの貴重品がまったく見当たらないことに気づいた。
そして、もう一つ気になったのが、飾られていたピンク色のバラだ。花はすっかりしおれていた。
ここまでしおれているということは、三日から四日は水を与えられていないのかもしれない。
部屋の雰囲気や、きちんと片づけられた室内を見る限り、そんなずぼらな人には思えない。それに、笹原さんも彼女のことを真面目だったと言っていた。
そんな人が、バラに水をやらずに出かけるだろうか。
だとすれば、彼女はここに戻ってきていないんじゃないか?
こういう現場の状況から推理するのは、凜の方が向いているんだよね。
私はどちらかというと行動派だから。でも、千景には連絡を入れてみてもいいかもしれない。情報屋の彼女なら、何か知っている可能性もある。
部屋に鍵をかけ、マンションのコンシェルジュに鍵を返した。
そのまま愛車のベスパにまたがり、彼女がよく通っている栄の飲み屋へと向かった。
スナック明美。
栄の喧騒から少し離れた裏路地。年季の入った雑居ビルの二階に、その店はあった。
一階の階段口には、真鍮の枠に囲まれたアクリル製の看板が掛けられている。少し丸みを帯びた昭和風の文字で書かれた『明美』の二文字が、蛍光灯に照らされ、夜の闇に白く浮かび上がっていた。
雑居ビルの階段を上り、二階までたどり着くと、突き当たりに重厚な木製のドアが現れた。中央には小さな磨りガラスの覗き窓があり、そこから暖色系の明かりがほんのりと漏れている。
私は普段、バーや凜、玲奈の家で飲むことが多いので、こうした店にはあまり入ったことがない。一見さんを拒むような独特の艶っぽさと、どこか怪しげな雰囲気が扉の向こうから漂ってくる。
私は小さく息を吸い込み、真鍮のドアノブに手をかけた。
ドアを開けると、外の肌寒さを忘れさせるような暖かな光が出迎えてくれた。
店内には、緩やかなカーブを描くバーカウンターがあり、席は六つほど。その奥にはベルベット調のソファが並ぶボックス席も設けられている。落ち着いた内装からは、長年この場所で営業してきた店ならではの雰囲気が感じられた。
カウンターの向こうには、二人の女性がいた。
一人は、仕立てのいい濃紺のドレスを着こなした、四十代半ばほどの凜とした美人。もう一人は、その隣で少しくだけた笑顔を浮かべている若い女性だった。
その佇まいからして、ドレス姿の女性が明美ママなのだろう。私はそんな見当をつけた。
さらにフロアの隅には、黒いベストを着た若いボーイが一人、静かに氷の準備をしている。
時刻はまだ二十一時を回ったばかり。幸い、店内にほかのお客さんの姿はなかった。
私は少し気後れしながら、カウンターの端に腰を下ろした。すると、隣にいた若い女性がドレス姿の女性に声をかけた。
「明美ママ、おしぼりお願いします」
やっぱり、あの人がママか。
ママと呼ばれた女性は、ハスキーでいて耳に心地よい声で「はーい」と返事をすると、温かいおしぼりを私の前に差し出した。
「いらっしゃい。初めてのお客さんね。何にしましょう?」
「まずはビールをお願いしてもいい?」
ママは手慣れた動作でビールとおつまみを出してくれた。
自分で酌をしようとビール瓶に手を伸ばすと、ママが先に瓶を手に取った。どうやら、私に手酌をさせるつもりはないらしい。
「お疲れ様」
ママが瓶を傾けると、トトト、と小気味いい音を立ててグラスに黄金色の液体が満ちていく。泡の比率まで完璧だ。さすが、こういう店で長く働いているだけのことはある。
「どうぞ。ゆっくりしていってね」
差し出されたグラスを受け取り、一口喉に流し込む。冷えたビールが喉を通り、先ほどまで張り詰めていた気持ちが少しずつほぐれていくようだった。
一息ついたところで、用意していた写真を一枚取り出した。
「八代さんって言うんだけど、知らない?」
ママの前に写真を差し出す。
ところが、写真を目にした瞬間、彼女の表情がわずかに変わった。ほんの一瞬だったけれど、緊張が走ったのを見逃さなかった。
「貴女、刑事さんじゃないよね。そんな派手な刑事さんがいるわけないし」
ママは写真から私へと視線を移し、少し探るような目を向けてきた。
革ジャンに革のパンツを着ているだけなのに、派手と言われると悲しいものがある。
「探偵よ」
隠していても、変に勘ぐられるだけだ。ここは素直に本当のことを話しておく。
「綾ちゃんね。違う? 紫微綾でしょ、あなた」
今度はママの方から名前を言い当てられ、思わず目を丸くした。
「私を知っているの?」
「この近辺で貴女を知らないのはもぐりよ。銀と間違えるような、きれいな艶のある髪にその赤い目。そして探偵と言ったら、あなたしかいないわよ」
ママは楽しそうに笑いながら、私の髪と目を眺めた。
「変な風に有名になって恥ずかしいね」
少し苦笑いを浮かべ、肩をすくめてみせる。
「その有名人が、なぜ八代ちゃんを?」
「三日ほど行方不明だって聞いて、今探してるの。何か知らない?」
そう尋ねると、ママは隣にいた若い女性と、フロアにいるボーイへ視線を向けた。
二人とも心当たりがないのか、そろって首を横に振る。
「もしかして……」
ふと、ママが何かを思い出したように口を開いた。
「何か知っているの?」
「鈴木君なら知っているかも?」
「誰それ?」
聞き慣れない名前に、思わず聞き返す。
「恋人ではないけど、それに近い子よ。もしかしたら知っているかも」
ママは少し考えるように視線を上げてから、こちらに向き直った。
「教えてもらってもいい?」
「ええ、いいわよ。本当に行方不明だったら、彼も心配だと思うしね」
どうやら、話を聞く限りでは八代さんと親しい男性らしい。少しでも手掛かりがあるなら、会ってみる価値はある。
私はママから、その鈴木という男性の住所を教えてもらった。
話によると、以前、彼はこの店で酔いつぶれてしまったことがあるらしい。そのときママが介抱し、タクシーを呼んで帰したおかげで、住所を知っていたようだ。
「ママ、ここブランデー置いてある?」
ふと思い出して尋ねると、ママはカウンターの奥に目を向けた。
「どこのお店も、簡単なブランデーくらいは置いてあるわよ」
「VSOPのボトル置いておいて」
「あら、ヘネシーの方?」
ママが少し楽しそうに尋ねてくる。
「勘弁してよ。サントリーの方で」
ヘネシーなんて高級なお酒を頼めるはずがないでしょ。多分、ママもそれをわかっていて、わざと聞いているんだと思う。
あんなふうに笑いながら聞いてきたということは、最初からわかっていて私をからかっているんだよね。
まったく、油断も隙もない。思わず苦笑いしながら答えた。
さすがに、そこまで高いものを入れるつもりはない。
その後、ビールを軽く飲み終えてから会計をお願いした。
「有名人だし、ボトルを入れてくれたってことは、また来るんでしょ。一万円でいいわよ」
ママは伝票を確認しながら、にこやかにそう告げた。
「うん、今度は友人と来るよ」
「楽しみにしているわね」
軽く手を振るママに見送られ、いったんお手洗いへ向かった。顔を洗って気持ちを切り替えると、そのままスナックを後にする。
ところが、外に出てから大事なことを思い出した。
バイクで来ていることを、すっかり忘れていた。
今から飲酒運転をするわけにもいかない。仕方なく、ベスパは店の近くに置いておくことにした。
タクシーを呼び、ママから教えてもらった住所へと向かった。
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