3話 路地裏の殺人
タクシーを降りる頃には、すっかり酔いが醒めてしまっていた。
いつの間にか雨もやんでいて、濡れたアスファルトが街灯を鈍く照らしている。
少しぐらい乗っても良かったかな、なんて思わなくもないけれど、酒気帯び運転はさすがにダメだよね。
そんなことを考えながら、明美ママに教えてもらった住所へ向かって歩いていた。
そのときだった。
うっすらと、ドサッという鈍い音が耳に届いた。
最初は、酔っ払いが路上で転んだのかと思った。夜も遅い時間だし、誰かが物を落としただけかもしれない。
けれど、風に乗って、かすかに血の匂いが流れてきた。
……血?
足を止め、音がした方向へ意識を向ける。
耳も鼻も、櫻華の先生方に鍛えられたおかげだと思う。探偵をするにあたって、五感を鍛えておいて損はないと言われ、櫻華の技を身につける以上に厳しい訓練を受けさせられた。
おかげで、こういうわずかな異変にも気づけるようになった。
もっとも、もう一度修行だと言われたら、今度こそ絶対に拒否するけど。
さすがに血を流している可能性がある以上、見て見ぬふりをするわけにもいかない。
音と匂いを頼りに、路地の奥へと向かった。
そのとき、誰かが地面からゆっくりと立ち上がろうとしているのが見えた。
助け起こそうとしているのかと思った次の瞬間、そばに立っていた男性が、相手の喉元に手刀を突き入れた。
「っ!」
思わず息を呑む。
あの動き……。
形こそ変形しているものの、櫻華の技によく似ている。
私が現れたことに気づいたのか、喉元に手刀を突き入れた男性は、すぐさまこちらを振り返った。そして、倒れた相手をその場に残したまま、逃げ出そうとする。
「待ちなさい!」
声を張り上げて追おうとしたものの、街灯が切れているせいで相手の顔はよく見えない。
それでも逃がすわけにはいかない。
すぐに男性との距離を詰めようとしたが、相手はポケットから何かを取り出し、こちらに向かって投げつけてきた。
反射的に身構える。
投げられた物体は、私の進路の先の地面にぶつかった。
直後、白い煙がむくむくと立ち上り、あっという間に周囲を覆い始めた。
「煙幕!?」
視界が一気に遮られる。
煙が薄れるのを待って周囲を見回したときには、すでに不審な男性の姿はどこにもなかった。
倒れている男性のそばに駆け寄ると、すぐに手遅れだとわかった。
呼吸もなく、身体からはすでに力が抜けている。先ほど目の前で起きた光景が、頭の中によみがえった。
その場でスマホを取り出し、玲奈に電話をかける。
「玲奈、今いい?」
「今日来るの? 来るのなら早く来てね。ご飯もまだでしょ。準備しないといけないから」
いつもの調子で返してくる玲奈に、少し申し訳ない気持ちになる。
「お誘いはうれしいけど……」
そこで言葉を止めた。
私の声の調子がおかしいことに気づいたのか、玲奈の声が一変する。
「何かあったのね。今度は何が起きたの?」
「私の目の前で殺人が行われた。来てもらえる?」
「もちろん。貴女はそこにいて。場所は?」
「千種区の、〇〇」
「了解。そこなら五分以内に行くわ」
電話が切れた。
五分以内って、さすがに無理でしょ。
そう思っていたのだけれど、本当に五分でやってきた。
絶対にパトランプもサイレンも鳴らしていなかったはず。ということは、絶対にスピード違反だよね。
「綾、大丈夫?」
到着するなり、玲奈が心配そうに駆け寄ってきた。
「私は大丈夫。それより、こちらがご遺体。さすがに何も触ってないよ」
倒れている男性を指し示す。
こんな場所で不用意に遺体に触れたら、犯人だと疑われる可能性だってある。現場の状態を変えないためにも、余計なことはしていない。
玲奈はすぐに遺体の状態や周囲の様子を調べ始めた。
その間、私は少し離れた場所で周囲を警戒することにした。先ほどの犯人が戻ってくる可能性もある。玲奈が調べているところを襲われたら危険だから。
玲奈もすでに応援を要請していたらしく、それから十分ほどで、ほかの警察官たちも現場に到着した。
事情聴取ということで、現場で起きたことについて、いろいろと聞かれた。
笹原さんからの依頼については伏せておくことにした。仕事で家出人の捜索をしていて、その人の知人がこの先に住んでいる鈴木さんだから、話を聞きに行こうとしていた。そう説明したところだった。
「それって、鈴木友成さん?」
玲奈が不意に名前を口にした。
「なんで玲奈が知ってるの?」
「そこの彼が、その友成さんよ」
玲奈はそう言って、倒れている男性へ視線を向けた。
「えっ!」
思わず声が漏れた。まさか、目の前で殺された男性が鈴木さんだったなんて。
「綾、疑うわけじゃないけれど、何か知らないの?」
玲奈は私の顔をじっと見つめている。いつもの軽い調子ではなく、警察官として私の反応を確かめているようだった。
「なんで、そう思うの?」
「綾が追っている人の知人で、その人が無手の突きで殺されているのよ。何も知らないと言われた方が、かえって不自然でしょ?」
「信じてもらえないかもしれないけれど、本当に知らないの……」
そう答えるしかなかった。
ただ、その先のことは声に出さなかった。
あの型は間違いない。多少改良されてはいたけれど、櫻華の突きだ。それも、裏の。
櫻華流古武術は平安時代から続く古い武術で、武芸十八般すべてを修め、今なお進化を続けている実践武術だ。
道場には表と裏がある。
表は一般的な道場で、門下生を広く受け入れている。一方、裏については、警察や軍隊でも一部の人間に教えていると聞いたことがあった。
裏には、人を殺すことに特化した技術や暗殺の技術まであるという。そして警察などには、それらに対処するための技術を教えているらしい。
私があの突きを見抜けたのは、そこの無手術を修めているからだ。
あれは表で教えられている突きじゃない。相手の命を奪うことだけを目的とした、慈悲のない突きだった。
以前、鈴藍さんは、今の平和な世の中で暗殺稼業などしていないと言っていた。
けれど、私は門下生ではあっても家族ではない。わざわざ私に本当のことを話す必要なんてないだろう。
「そんなことで嘘をつくとは思わないから、信じるわ」
玲奈はそう言って、私の言葉を受け入れてくれた。
私自身、本当に何も知らない。そこに嘘はない。
だけど、疑問は残った。
鈴藍さんたちが、この事件に関わっていないのか。あの男が使ったのは、間違いなく櫻華の裏の技だった。もし櫻華が関わっていたとしたら、私はどうすればいいんだろう。
まさか、櫻華と戦うことになるの?
そんなことは考えたくもないけれど、確かめずにいるわけにもいかない。
明日にでも、鈴藍さんのところへ話を聞きに行こう。
「警部補」
少し離れたところから、若い男性警察官が玲奈に声をかけた。
「どうしたの、佐藤君?」
「いえ、この殺し、例の……」
言いかけた佐藤さんは、周囲にほかの警察官がいることを気にしたのか、言葉を濁した。
「似てるわね。向こうと連絡を取ってみて」
玲奈は現場から目を離さず、短く指示を出した。
「はい」
「もしかしたら合同調査になるから、上にも連絡を入れておいて」
「わかりました」
佐藤さんはすぐに返事をすると、足早にその場を離れていった。
私は玲奈に話を聞こうとしたけれど、どうやら今はそれどころではないらしい。次々と集まってくる部下たちに、玲奈はテキパキと指示を出している。
普段、こういう仕事をしている姿を見る機会なんてない。
いつもは気軽に話せる相手なのに、今は警部補として現場を仕切っている。その姿が妙に格好よく見えて、思わずドキッとしてしまった。
こんな状況じゃなければ、もっと素直に見惚れていられたのに。
私は声をかけるのを諦め、その場を離れることにした。
タクシーを呼んでもらい、まずはスナック明美まで送ってもらう。そこに置いていた愛車のベスパに乗り換えると、そのまま大須へ向かった。
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