1話 笹原からの依頼
夜の雨音は、どうしてこんなに心地いいんだろう。
窓の外では、絶え間なく降り続く雨が街の音を包み込んでいた。アスファルトを叩く雨粒の音も、軒先から滴り落ちる水音も、重なり合って不思議と耳に心地いい。窓ガラスに目を向ければ、街灯の明かりが雨に滲み、濡れた道路にぼんやりとした光の筋を作っている。
こんな夜は、温かい飲み物でも片手に、何も考えずに過ごすのが一番だ。
それなのに、せっかくの感傷をぶち壊す奴がいるのは、私としてもげんなりしてしまう。
「綾さん、聴いてます?」
「聴いているけど」
「雨音いいなって思ってますよね。本当にお仕事がないと、事務所なくなっちゃいますよ」
「貴女にも給料を渡さないといけないしね」
「私、貰ったことないですし。高校生ですから要りませんって。それに押しかけ助手ですし」
「舞も、額に青筋が立つほど怒ってると禿げちゃうよ。この雨音を聴いて、少し落ち着きなって」
「女子高生に向かって青筋とか言わないでください。作ってませんし、禿げませんって」
舞は眉を吊り上げ、頬を膨らませながら私を睨みつけた。何か言い返したそうに唇を開きかけたものの、結局、言葉を飲み込むと、小さく息を吐いて窓の外へ視線を向けた。
どうやら、まだ怒っているらしい。
私はそんな舞の様子を横目に、椅子の背もたれに身体を預けた。そもそも、そんなに怒るような話でもないと思うんだけど。せっかくの静かな夜なんだから、もう少し雨音を楽しめばいいのに。
窓ガラスを伝う雨粒が、街灯の光を滲ませながら、いくつもの筋を描いて流れ落ちていく。時折、風に煽られた雨が窓を強く叩き、その音が事務所の静けさに変化を与えていた。
「お客さんが来ないんだから仕方ないでしょ? 道で会った人に『おい、お金渡せ』って言うわけにもいかないし」
「それはカツアゲですって。玲奈さんに迷惑がかかっちゃいますよ」
葛城玲奈。愛知県警の警部補で、私にとっては姉みたいな人。
舞の言うとおり、道行く人から無理やりお金を巻き上げたりすれば、玲奈に迷惑がかかるのは間違いない。冗談で言っているだけとはいえ、警察関係者に知られたら笑い話では済まなくなる。
それに、照井さんまで出てきたら面倒なことになる。あの人が絡むと、お説教でどうなるかわかったもんじゃないからお断りしたいぐらい。
「お客が来ないなら、世間は平和ってことだからまぁいいよね。私の懐はツンドラだけど」
「凛さんからお仕事を貰わないんですか?」
「毎回貰ってたら申し訳ないでしょ。家賃もこの間払ったから、あと二、三か月は滞納しても大丈夫だと思うんだけど」
「普通は滞納しちゃダメなんです。仕事だと有能なのに、どうして私生活はこうも破滅的なんですか?」
「そうかな。それより、そろそろ帰る時間じゃない?」
「そうですね。まだ二十時ですけど、これ以上遅いと、警察の補導につかまった時に、塾の帰りじゃ通じなくなっちゃいますしね」
「嘘はよくないと思うよ」
舞は呆れたように肩を落とした。
どうやら、私の生活態度については、まだまだ言いたいことがあるらしい。とはいえ、これ以上追究されても困るので、話題を変えさせてもらった。
それにしても、塾の帰りという言い訳か。高校生らしいと言えば高校生らしいけど、補導を心配するくらいなら、もう少し早く帰ればいいのに。
まあ、私がそれを言っても説得力はないか。
そんな軽口を叩き合っていた時、雨音の向こうから、規則的な足音が聞こえてきた。最初は雨粒がどこかに当たった音かと思ったけれど、耳を澄ませてみると、どうやら違う。雑居ビルの階段を、一段ずつ踏みしめながら上ってくる音だった。
このビルの二階にある探偵事務所を訪れる客は、たいてい階段を使う。足音はゆっくりと近づいてきており、随分と重い足取りに聞こえた。
私は窓の外から視線を外し、事務所の入り口へと目を向けた。
「どうしたんですか? そんな真面目な顔して」
さっきまで私に文句を言っていた舞が、不思議そうにこちらを見ている。どうやら、彼女にはまだ足音が聞こえていないらしい。
「お客さんが来そうだから、お茶の準備を」
「え?」
舞は目を丸くした。
けれど、すぐに気を取り直すと、給湯スペースへ向かう。戸棚から茶器を取り出し、慣れた手つきで湯呑みを用意すると、電気ポットに手を伸ばした。
さっきまで仕事がないと嘆いていたのに、いざ来客となれば動きは早い。
私は椅子から立ち上がらず、入り口の方へ意識を向けた。
階段を上る足音は、もうすぐそこまで来ていた。
やがて、事務所のドアが開き、取り付けられた呼び鈴がカランと乾いた音を立てた。
入り口に姿を現したのは、サングラスをかけた黒スーツの男だった。雨に濡れた肩口は黒く色を変え、外から入り込んだ冷たい空気と一緒に、雨の匂いを事務所へ運んでくる。
名古屋を中心に活動する広域暴力団、神崎会の若頭、笹原徹。
私自身は彼の組の傘下に入っているわけではないけれど、何かと面倒を見てもらっている間柄だ。六月に人身売買組織「深淵」を潰した事件では、私自身が敵に捕まってしまったこともある。あの時、友人たちと一緒に助けに来てくれたのが、この笹原さんだった。
そんな人が、部下も連れずに一人で事務所を訪れるなんて珍しい。普段なら何人か従えていてもおかしくない立場なのに、今日はその姿がない。何より、サングラス越しにも伝わってくる雰囲気からして、遊びに来たわけではなさそうだった。
「一人なんて珍しいね」
「あぁ」
笹原さんは短く答えると、舞に一瞬だけ視線を向けた。それから、私に目で合図を送ってくる。
どうやら、舞には聞かせたくない話らしい。
「舞」
「はい、今お茶ができました」
給湯スペースでお茶を淹れていた舞は、こちらに背を向けたまま、いつもの明るい調子で返事をした。湯呑みを載せた盆を手に、こちらへ戻ってくる。
「笹原さんが私に話があるみたいだから、今日は帰っていいよ。いつものように送ってあげられないけれど。もしあれなら、外から玲奈か凛に連絡して迎えに来てもらってもいいから」
舞は盆を持ったまま、私と笹原さんを交互に見た。二人の様子から何かを察したのか、余計なことは尋ねずに小さくうなずく。
「お疲れさまです。それじゃ綾さん、おやすみなさい。笹原さんも」
「あぁ、悪いな。舞ちゃん」
「いえ」
舞は笹原さんに丁寧に一礼すると、事務所を出て階段を下りていった。私はその足音が遠ざかり、雨音の中へ溶け込んでいくのを待ってから、改めて笹原さんに向き直る。
「どうしたの、そんな深刻な顔して。今日は部下も連れずに、随分と物々しいじゃない」
「俺だって、たまには一人で動くことくらいある。それに、今日は雑談で来たわけじゃない」
「ご相談ですか?」
「あぁ」
笹原さんは舞が淹れてくれたお茶に手を伸ばすと、湯呑みを口元へ運んだ。ひと口含んでから、テーブルの上に静かに戻す。
すぐには話を切り出さず、何かを考えるように黙り込んでいる。普段から落ち着いた人だけれど、今日はいつにも増して口が重い。
私は急かすことなく、彼が話し始めるのを待った。
やがて、笹原さんはぽつりと言った。
「組の金庫番を務めていた女が、三日前から行方不明になっている」
「それ、重大じゃない」
「あぁ」
「その人を探せって話だろうけど、私のところに来る理由にはならないよね」
行方不明者の捜索は、探偵の仕事のひとつではある。けれど、それはあくまで一般人からの依頼を想定した話だ。
正確な人数までは知らないけれど、傘下の組織まで含めれば、神崎会は数千人規模の人間を動かせるはずだ。関東や関西の巨大組織が名古屋に攻め込んでこないのも、この組が目を光らせているからだと聞いたことがある。
そんな組織の若頭が、個人経営の貧乏探偵にわざわざ仕事を頼みに来る。普通に考えれば、ずいぶんと不釣り合いな話だった。
「この後、玲奈に会うのなら、そこでも聞くかもしれないが……殺しがあった」
「物騒だね」
笹原さんはスーツの内ポケットに手を入れると、一枚の写真を取り出し、テーブルの上を滑らせるようにして私の前に置いた。
「消えた金庫番もそうだが、組の人間が一人殺されてる。刃物も銃も使わず、素手でだ」
私は写真を手元に引き寄せ、じっと目を落とした。
写っていたのは、濡れたアスファルトの上に仰向けで倒れている男だった。首の付け根、喉元のすぐ下には、拳ほどもある黒ずんだ痣が浮かんでいる。強い打撃を受けた跡だろう。写真から確認できる範囲では、周囲に争った形跡も見当たらない。
これだけの一撃を受けたのなら、相手が何をしたのか理解する間もなかったのかもしれない。男は、自分の身に何が起きたのかさえ分からないまま倒れたのだろうか。
「詳しくは聞かないよ。面倒そうだし。それで、対象の人物の写真は?」
殺しの話まで聞かされると、ますます厄介な依頼に思えてくる。深入りする前に、まずは本来の依頼対象を確認しておきたい。
笹原さんは私の前に置いた写真を引き取ると、今度はスマホを取り出し、その画面をこちらに向けた。
「八代だ」
画面に映っていたのは、一人の女性だった。
てっきり男だと思い込んでいたから、少し驚いてしまった。金庫番という役目から、勝手に男性を想像していたらしい。
写真は温泉旅館の庭で撮影された集合写真のようだった。慰安旅行か、それとも店の関係者が集まった時のものだろうか。大勢が並んでいる中で、八代は端の方にひっそりと立っていた。
年齢は三十前後だろう。肩にかかる黒髪をゆるくまとめ、化粧も薄い。紺色の無地のワンピースに薄手のカーディガンという、どこにでもいそうな落ち着いた服装だった。
周囲の人たちが楽しそうに笑顔を見せているのに対し、彼女の口元には、ほんのわずかな笑みが浮かんでいるだけだった。しかも、視線はカメラではなく、その少し外へと逸れている。
手首には細い銀色の腕時計。指輪も見当たらない。極道の金を預かる立場にいる人間にしては、ずいぶんと控えめな身なりだった。
派手さはないけれど、服装にも身だしなみにも乱れはない。写真の中の彼女からは、数字を扱う仕事に就いている人らしい、几帳面で落ち着いた印象を受けた。
それにしても、彼女はどうしてカメラの方を見ていないんだろう。
撮影の最中に何か気になるものでもあったのか。それとも、たまたま視線を外した瞬間だったのか。画面の外にある何を見ていたのか、少し気になった。
「真面目な女だった」
笹原さんはそれだけ言うとスマホをしまい、スーツの懐に手を入れた。取り出したのは、ずっしりとした厚みのある封筒だった。彼はそれをテーブル越しに差し出してくる。
「こんなにもらえないって」
「勘違いするな。小遣いみたいなもんだ。ここの家賃に困って、またいつものメンバーに仕事を回してもらうつもりなんだろう。金の心配で仕事ができねえなんて間抜けすぎる。素直に受け取れ。成功報酬は一億でどうだ」
まったく、そんな風に見られてたなんて恥ずかしすぎる。
でも、身の丈に合わない金を持てば、身を滅ぼす。私としては、気楽に暮らせるのが何よりだ。
一億なんて大金が入ってきたら、税金の処理だけでも面倒なことになる。
裏金として受け取ったところで、後々面倒になるのは変わらない。それに比べれば、この封筒の厚みなら百万ほどだろう。これくらいなら、税金の始末もしやすい。
「一億もいらないって。笹原さんには六月の事件で、ピンチのときに助けてもらってるからね。必要経費はもらうけど、報酬はこれで十分」
「おい」
「暴対法とかで苦しいでしょ。私は個人で気ままにやってるから、これでいいの」
私は封筒に手を伸ばすことなく、笹原さんの顔をまっすぐに見つめた。
彼は何か言いたげにこちらを見ていたが、やがて観念したように一つ息を吐いた。
「……わかった。では頼む」
それから私は、八代さんの自宅と行きつけの店を教えてもらった。必要な情報を一通り確認し終える頃にも、窓の外の雨はまだ降り続いていた。
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