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キャリントン・イブ  作者: 伊阪証


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第八章-死蔵

片腕の女は、書き残し板の最後に書いた「片付け継続」の文字を、何度も見直した。

作戦とは書けなかった。隊列とも書けなかった。指揮とも書けなかった。炉心側、地下水側、避難側、不発弾疑い地点、戻り点。その言葉を並べることはできるが、それらをまとめて動かす頭はもうない。アルフォンソの覆い布はまだ戻り場の端にあり、三人の幹部の札は遠い紙室で戻されないままになっている。監視班の名も揃わない。誰が死んだのか、誰が煙に消えたのか、誰が避難者を追って帰らなかったのか、誰も最後まで追えなかった。組織という形は、そこで終わっていた。それでも、片付けだけは終わっていない。

黒い燃焼材の一部は隠された。地下水側へ向かう汚れた流れは、完全ではないが少し鈍った。避難者の一部は戻らなかった。不発弾疑い地点のいくつかは踏ませずに済んだ。だが、炉心由来の高濃度物質がまだ一つ残っている。それは子どもが拾えるような小さな破片ではなく、かといって建物の奥へ封じられているほど遠くもない。崩れた構造材と黒い泥の間に引っかかり、地下側へ落ちる経路と生活側へ出る浅い道の境目に残っていた。そこへ行けば死ぬ。放っておいても、いずれ誰かが死ぬ。近づけば身体が削れる。遠ざかれば漏れる。どちらを選んでも、人が減ることだけは変わらなかった。

顔を布で覆った男は、残った外布を数えた。乾いたものが四枚。端に煤を含んだものが二枚。薬品泥に触れた疑いがあるものは使えない。黒札は、切れ込みの形が残っているものだけで七枚。縄は二本。片方は焼けた繊維が混じり、強く振れば切れるかもしれない。棒は五本あるが、そのうち二本は先が割れている。医療担当は布と水を見て、使える水を別へ置き、触らせない水の近くへ誰も寄らないよう足で札を押した。水を欲しがる者は多い。だが、飲む水と冷やす水と触れてはいけない水を間違えれば、それだけで終わる。

若い回収役は、黒札の束を受け取って顔を歪めた。

「これで足りるのか」という問いに顔を布で覆った男は外布の端を結びながら、「足りない。足りると考える方が危ない」と返す。「またそれか」という言葉は、もう口に出なかった。

「足りないまま行くのか。」

「足りないから、残す場所を決める。」

若い男は言い返そうとして、黒札の切れ込みを指でなぞった。踏むな、拾うな、近づくな。札は言葉ではなく形で分けられている。煙の下では文字を読むより、指先で形を確かめる方が早い。だが、その指先も鈍り始めている者がいる。札すら、いつまで役に立つか分からない。

戻り場は、もう線ではなかった。

片腕の女は、地図の上に三つの点だけを置いた。ひとつ目は外布を落とす場所。ふたつ目は靴底と口元を見せる場所。みっつ目は倒れた者を一度だけ横へ寄せる場所。三つを結べば線に見える。だが、彼女は線を引かなかった。点と点の間は安全ではない。歩ける保証もない。地面の下には爆発物が残っているかもしれない。炉側からは黒い粉が流れ、地下側からは汚れた水が上がり、煙は低く折れてくる。戻る道という言葉を使うと、人はそこを道だと思う。道だと思えば、歩き方が雑になる。だから彼女は、書き残しに「一時戻り点は三つ。道と言えば人が寄る。」と書いた。

「戻れない者が出る。」

顔を布で覆った男が言った。

誰も驚かなかった。驚かないことが、ひどかった。

「戻れない者が持つ物を先に決める。袋を持ったまま倒れたら、袋は引かない。外布ごと封じる。札を置けずに倒れたら、次の者が札だけ置く。戻り点を塞ぐ者は、動かせるなら横へ寄せる。動かせないなら戻り点ごと捨てる。倒れた場所と捨てる物が分かる札だけ残せ。」

若い回収役の喉が動いた。

「人間より袋を優先するのかよ」と若い回収役の喉が動き、「袋が漏れれば、人間が増える」と返された。

「そういう意味で言ってない。」

「そういう意味で返している。」

彼は顔を背けた。怒りの置き場がない。言葉にすれば、決めた手順に負ける。決めた手順の方が冷たいのではない。決めた手順の方が、ここでは正しい。それが腹立たしいのだろう。

片腕の女は、追加で書いた。

戻れない者が出ても漏れない形で行く。

その一文を書いたあと、筆先が少し止まった。硬すぎる。だが柔らかくすると嘘になる。誰かが死ぬかもしれない、ではない。戻れない者は出る。その前提で袋の位置を決め、札の置き方を決め、倒れた体をどう扱うかを決める。死を嘆く前に、死んだ後に漏れないようにする。ユスティティアが最後に残したものは、そういう決めた手順だった。

後方の崩れた戻り点の近くで、パヴェルは支え木に背を預けていた。寝台から無理に移されたわけではない。本人がそこまで来た。医療担当は止めたが、完全には戻せなかった。彼の右肩と腕はまだ固められ、首の皮膚は処置布で覆われている。歩けば息が乱れ、立てば膝が震える。だが、目だけは現場を追っていた。黒札の切れ込み、外布の枚数、一時戻り点の位置、高濃度物質が残る方角。全部見えている。見えているから苦しい。

「やめろじゃない。言われたくないなら、最初から決めた手順を守れ。」

声は小さかった。煙に負けるほどではないが、現場を止めるほどでもなかった。

若い回収役が彼を見た。顔を布で覆った男は見なかった。見ると止まるからだ。

パヴェルはもう一度言おうとした。

「それは、生きるための決めた手順じゃない。」

今度は、顔を布で覆った男が答えた。

「漏らさないための決めた手順だ。」

それだけだった。パヴェルは、返せなかった。返せるはずがなかった。生きるためではない。漏らさないため。言葉にすれば残酷だが、ここで漏れれば、もっと多くの人間が死ぬ。戻る道を守る組織は、線を失っても、最後には漏れを止める形へ変わる。それを理解してしまうから、彼は止められない。

「死ぬぞ。足を止めろ。」

やっと出た声は、誰に向けたものでもなかった。

顔を布で覆った男が、外布を肩へかけた。

「納得しているなら足を止めろ。分かったふりで前へ出るな。」

「分かってるならそれでいいだろ」と言いかけた声に、「分かっているから、倒れた後の袋を決めてる」と先回りされる。

その返しで、パヴェルの表情から怒りが抜けた。怒れなくなった顔だった。相手が無謀なら怒れる。狂っているなら止められる。命令で動いているなら、その命令を壊せる。だが、彼らは分かっている。死ぬと分かっていて、漏らさないために動いている。そこに割り込む言葉がない。

若い回収役は、パヴェルを見てから黒札を握り直した。

「俺が行く、そこは俺が見る。」

「行かせない」と顔を布で覆った男の返事は早かった。

「まだ動ける。近づくな。」

「動ける顔だ。戻れる顔じゃない。」

「また顔で判断するのかよ」「手より早いからだ」というやり取りの後、若い男は少しだけ笑った。笑ったあと、喉が揺れて、笑いはすぐ消えた。

「じゃあ何をするんだ」という問いに「二つ目の点に立て、戻った者の手を見ろ、袋を引こうとしたら止めろ。倒れた者が札を握っていたら、札だけ受け取れ。体へ先に手を出すな。」

「それを俺にやらせるのか。」

「あなたが走るよりましだ。」

若い男の顔がひどく歪んだ。だが、彼は頷いた。走りたがる者に、走れない場所を任せる。残酷だが、必要だった。彼は二つ目の戻り点へ向かい、足元の地面を確かめながら立った。そこは安全ではない。ただ、戻ってきた者の手を止めるには、そこに誰かが必要だった。

片腕の女は、最後の片付けを地図へ置いた。高濃度物質そのものを指す札は使わない。指せば、そこへ目が集まる。目が集まれば、足が行く。彼女は周囲の焼け方、黒い泥の曲がり、避けられている地面、地下側へ落ちる浅い筋を書き残し、それを直接描かずに、周囲だけで位置を囲った。

「見ないで読む。見るために近づくな。」

彼女が言うと、老人が頷いた。

「周りだけ見ろ。近づくな。」

「周りで読む。近づくのは外布を落とす者だけ。」

「誰だ、外布を持つのは。」

顔を布で覆った男が、外布の束を持ち上げた。

「それなら、俺が行く。ここで止める手が足りない。」

医療担当が彼を見た。

「戻れる保証はない。戻る線を残せ。」

「保証のある場所なら、もう終わってる。」

「咳を隠すな」「隠せるほど上手くない」と言葉が交わされる。

「倒れるなら外布の外だ。」

「外布の外で倒れる。そこなら止める手が入る。」

「袋は持たない。外布だけだ。」

「持たない。触るのは外布だけ。」

「水は使わない。触れさせるな。」

短い見直しが続く。会話ではなく、互いの体へ決めた手順を打ち込むような見直しだった。少しでも長くすれば、呼吸が削れる。少しでも省けば、現場で迷う。

その時、遠くから足音がした。

ヴィクトリアだった。

彼女は走っていない。走れば止められると分かっている歩き方だった。けれど、足は早い。医療区画にいるはずの者が、崩れた戻り場まで来ている。ユスティティアの者たちは一瞬だけ彼女を見たが、誰もすぐには声を出さなかった。彼女は作戦の者ではない。決めた手順を共有しているわけでもない。だからこそ、止める言葉を選ぶ必要があった。

パヴェルが顔を上げ、「来るな」と言った。さっきより強い声だった。強いというより、初めて相手を選んだ声だった。

ヴィクトリアは、彼を見た。彼の火傷、固定された腕、喉で折れた声、戻り点を見つめる目。次に、外布を持つ男を見た。黒札を持つ若い回収役を見た。書き残し板を抱える片腕の女を見た。誰も正気を失っていない。誰も命令に操られていない。みんな、自分が何をしているか分かった上で、死ぬ側へ歩いている。

彼女は、何も聞かなかった。

聞けば、誰かが説明する。説明すれば、息を使う。息を使えば、動きが遅れる。それが分かったのか、ただパヴェルの顔で十分だったのか、彼女は黙ったまま戻り場の端へ立った。

片腕の女が短く言う。

「ここから先へ出ないで。」

ヴィクトリアは頷いた。従ったように見えた。だが、その目は外布の束ではなく、パヴェルを見ていた。彼が止めたいのに止められないことを、彼女だけが違う場所から見ていた。現場の理屈を全部知らなくても分かる。このままだと、残った者たちは最後まで歩く。止まるべきだからではなく、終わらせるまで止まらないから。

顔を布で覆った男は、最初の外布を持った。

「一時戻り点は三つ、外布は四、黒札は七、袋はなし。戻れない者は戻れない前提で片付ける。」

片腕の女が繰り返す。

「戻れない者が出ても漏れない形で行く。」

若い回収役が、二つ目の点から言った。

「戻れるなら戻れ。戻れないなら、ここで止める。」

顔を布で覆った男は、ほんの少しだけそちらを見た。

「戻れるならな。だから、道ではなく点にしている。」

パヴェルが口を開いた。今度こそ止めようとした。だが、言葉が出なかった。死ぬな、では足りない。行くな、では足りない。戻れ、では足りない。全部、現場の必要に潰される。

遠くで、炉の火が鈍く鳴った。地面の下も、わずかに返事をしたように低く震えた。誰も安全とは言わなかった。誰も成功とは言わなかった。

顔を布で覆った男が、一歩目を出した。

その一歩は、作戦の始まりではなかった。もう作戦ではない。

組織でもない。

ただ、漏れを止めるための最後の片付けが始まっただけだった。

顔を布で覆った男は、外布を棒の先に掛けたまま、しばらく動かなかった。

止まっていたのではない。足を置ける場所を探していた。地面は焼けて黒く、泥は乾いたところと湿ったところが混じり、低く流れる煙が膝の高さで折れている。高濃度物質そのものを見てはいけない。見れば距離を詰めたくなる。だから彼はそれではなく、周囲の焼け方、黒い泥の曲がり、崩れた構造材の影、避けられて残った土の形を見ていた。近づくほど、熱ではない嫌な圧が皮膚の上へ乗ってくる。火傷とは違う。煙とも違う。見えない重さが、布の上から喉を押す。

若い回収役は、二つ目の一時戻り点に立っていた。そこは安全ではない。ただ、戻ってきた者の手を止めるには、そこに誰かがいなければならなかった。足元には割れた石があり、少し右へ寄れば黒い泥、左へ寄れば古い金属片が半分だけ土に埋まっている。彼はそれを見ないようにしながら、顔を布で覆った男の手元だけを見ていた。助けるためではない。助けようとする自分の手を止めるためだった。

片腕の女は、書き残し板にそれそのものを描かなかった。円も印も置かない。周囲だけを書く。焼けた構造材、黒い泥、地下側へ落ちる浅い筋、生活側へ向かう低い土、煙の折れ、外布を送れる角度。中心を描くと、そこへ目が吸われる。目が吸われれば、足が行く。足が行けば、戻れない。

「左ではない。右へ寄せろ。」

彼女が短く言った。

顔を布で覆った男は、外布をほんの少し右へ寄せた。

「そこでもない。風が戻る。」

「なら、一呼吸待つ。」

「待つと浴びる」「今落とすと外れる」と状況が読まれていく。

会話はそこで切れた。彼は吸わずに待った。煙が一度、黒い泥の表面を撫でるように流れ、すぐ折れた。その瞬間、棒の先が下がった。外布は空中で少し膨らみ、黒い泥の縁へ落ちる。直接かぶせるには遠い。けれど、手で押す距離ではない。彼は棒を伸ばしすぎず、布の端だけを押した。外布が危険な塊の一部を隠す。完全ではない。だが、直接見える面が減った。

「戻れ。戻れるうちに背中を向けるのが一番早い。」

若い回収役が言った。

顔を布で覆った男は、返事をしなかった。返事をするには息が要る。彼は棒を持ったまま、一歩引いた。二歩目で足が遅れた。倒れたわけではない。咳もない。だが、外布から棒を離す指が、一拍だけ遅い。

若い回収役の手が上がった。

「手を出すな。今は布の外へ置け。」

顔を布で覆った男の声が飛んだ。かすれていたが、届いた。

若い回収役の手は、空中で止まった。指先が震えている。触れれば引ける気がする。腕を掴めば戻せる気がする。だが、彼が触ろうとしているのは、人間だけではない。布、棒、黒い泥、見えない粉、どこまでが安全でどこからが危険か分からない。助ける手が、別の漏れになる。

「戻れ、自分で動け。」

「戻ってる」と顔を布で覆った男は言い、二つ目の戻り点へ入った。若い回収役は手を出さず、先に棒の先を見た。汚れている。触れない。棒を捨てる位置へ向ける。次に男の手袋を見る。指先が遅い。外布の端を握っていない。袋は持っていない。袋を持たせなかった意味が、そこで初めて痛いほど分かった。「手袋を先に見ろ」と若い回収役が言った。

「脱がせるな。まだ触るな。」

医療担当の声が来た。

「脱がせない。見てるだけだ。」

「見て、下げろ。戻すな。」

顔を布で覆った男が、小さく笑ったように息を漏らした。

「戻す場所があるのか。」

「あるなら、戻してる。」

若い回収役の返事は、半分怒りで半分泣き声だった。彼は男の肩を見た。触らない。押さない。支えない。男が自分で一歩横へ出るまで待つ。待つことが、これほど苦しいとは思わなかった。

一つ目の一時戻り点は、そこで捨てられた。

低い煙が戻り、外布を落とすはずだった場所へ黒い粉が寄った。そこへ戻れば、口元の布を外せない。靴底も見せられない。咳をした者は隠す。隠させる場所は、戻り点ではない。片腕の女は、地図の上の点に斜線を入れた。

「一時戻り点、一つ破棄。」

「惜しいな」と若い回収役が漏らした。

「惜しい点ほど、戻った者を殺す。」

医療担当が返した。

若い男は、もう言い返さなかった。捨てるべきものが、道具から場所へ移っていた。場所すら、持ち帰ろうとしてはいけない。

地下側へ向かう浅い筋には、別の残存者が軽い木材を差し込んでいた。木材は細く、頼りない。あれで流れが止まるとは誰も思っていない。だが、重い瓦礫は置けない。地面の下に何があるか分からない。棒で押しすぎることもできない。押せば黒い泥が動き、粉が出るかもしれない。彼は木材を斜めに入れ、先端だけを泥に噛ませた。流れは止まらない。けれど、ほんの少し曲がった。

彼は戻る途中で吐いた。

吐いたものは、黒くはなかった。だが、彼は自分で外布の端を引き寄せ、吐いた場所へかけた。誰かに言われる前だった。胃液か、血か、煤か、見えない汚れを含んだものか分からない。分からないものは、分からないものとして覆う。彼はそのあと膝をついた。

医療担当が寄ろうとして止まる。

「動けるか。触るな。」

男は頷いた。声を出さない。声を出せば咳になる。彼は四つ這いにはならず、棒に体重を預けて二つ目の戻り点へ向かった。若い回収役がまた手を出しかけ、止めた。今度は自分で止めた。

「札を渡せ」と男がかすれた声で言った。

若い回収役は、彼の手ではなく、握られていた黒札を先に受け取った。体ではない。札が先。自分で決めたわけではない決めた手順なのに、手が勝手にそう動いた。受け取ってから、彼の肩が落ちる。

「人間より札を先に取るのかよ。」

自分で言った声が、ひどく嫌そうだった。

顔を布で覆った男が、少し離れた場所から答えた。

「札で人間を増やさない。」

若い回収役は目を伏せた。納得ではない。納得したら、自分の何かが壊れる気がした。ただ、決めた手順は守った。守ってしまった。

医療担当は、戻った者を治していなかった。分類していた。

戻せる者。戻せない者。触ってはいけない者。水を飲ませてはいけない者。布を剥がしてはいけない者。横に寄せるだけの者。見ない方がいい者。治療のための手は足りない。治療すれば時間を使う。その時間で誰かが黒い破片へ近づくかもしれない。地下側へ流れが進むかもしれない。だから、治す前に漏れない形へ分ける。

「ここへ寝かせるな。横へ寄せろ。」

医療担当が言った。

「そこしか空いてないなら、布ごとずらせ。」

「そこは三つ目の点へ戻る者が踏む。横へ、布ごと。体を持つな。」

「息があるなら、なおさら置くな。」

「息があっても、そこに置くな。戻り点まで下げろ。」

言葉は冷たく聞こえた。だが、置けば戻る者が詰まる。詰まれば咳を隠す。咳を隠せば、次の漏れになる。医療担当の目は、ひとりの体と現場全体の間を何度も行き来していた。人を救う手が、汚れを増やす手になる。彼女はそれを知っているから、顔を硬くしたまま分類していた。

パヴェルは、支え木に背を預けたまま、目だけでそれを追っていた。

顔を布で覆った男の指が遅れた。若い回収役が手を止めた。地下側の男が吐いたものへ布をかけた。医療担当が治療ではなく分類した。そのひとつひとつが、彼の喉を塞いでいく。彼は何度も声を作ろうとした。やめろ。戻れ。そんなのは違う。だが、どの言葉も現場の前で潰れる。

「そんなの、人間のやることじゃない。」

ようやく出た声は、思ったより大きかった。

若い回収役が振り向いた。顔を布で覆った男も、ほんの少しだけ目を向けた。医療担当は顔つきしなかった。彼女は布を剥がしてはいけない者を横へ寄せている最中だった。

若い回収役が、苦い顔で言った。

「人間が残したものだ。」

パヴェルは、殴られたように黙った。

その返しは、彼を責めてはいない。誰も彼を指していない。だが、人間が残したものを、人間が片付けしている。炉も、黒い燃焼材も、地下へ落ちる汚れも、不発弾も、見えない粉も、全部、自然の魔物ではない。誰かが作った。誰かが置いた。誰かが戦った。誰かが管理できなかった。その結果を、別の誰かが体で塞いでいる。人間のやることではないと言えば、人間が残した事実が返ってくる。

パヴェルは、それ以上言えなかった。

ヴィクトリアは、戻り場の端からその顔を見ていた。

彼女は炉の理屈を理解しているわけではない。高濃度物質の何がどれだけ危険かも、地面の下の不発弾をどう見分けるかも知らない。だが、パヴェルが止めたいのに止められないことは分かった。止めるべきだと思っているのに、止める言葉が全部押し返されていることは見えた。残存者たちが誰かの命令で歩いているのではなく、自分で死ぬ方へ足を出していることも見えた。

彼女は何も言わなかった。言えば、誰かが説明する。説明すれば、息を使う。息を使えば、また誰かが遅れる。

二度目の接近は、外布ではなく黒札と軽い木材で行われた。

向かったのは、若い回収役ではない。彼は戻り点に残された。代わりに、前線を何度も退かされてきた痩せた男が出た。帰ってくるつもりで行く顔だった。死にに行く顔ではない。だが、戻れない可能性を受け入れている顔でもあった。そこを間違えると、この場のすべてが嘘になる。彼らは死にたいわけではない。生きて戻れるなら戻る。ただ、戻れなかった時にも漏れない形にしてから進む。

男は軽い木材を棒で押し、地下側へ落ちる浅い筋の縁へ差し込んだ。強く押せない。不発弾疑い地点が近い。叩けない。引けない。泥が少し動き、高濃度物質の下の黒い筋がわずかに曲がる。足りない。だが、曲がった。彼は黒札を置く。札の向きが少しずれる。直すために手を出しそうになり、途中で止める。棒の先で直す。時間がかかる。戻る時間が減る。

「それなら、戻れ、戻れるうちに背中を向けるのが一番早い。」

若い回収役が言った。

男は戻った。戻り点の手前で一度だけふらつき、持っていた棒を落としそうになる。若い回収役の手が動きかける。今度も止まった。棒を拾わない。男の体も、まだ触らない。先に黒札が置けたかを見る。置けている。次に手を見る。空いている。袋はない。木材は置かれている。そこで初めて、彼は外布を介して男の肩を支えた。

支えながら、若い回収役の顔が崩れた。

「遅いんだよ。今は近づくな。」

誰に怒っているのか分からない声だった。

男はかすかに笑った。

「戻っただろ。文句は後だ。」

「戻ったなら、文句言うな。」

「それはそっちだ。まだ口を動かせるなら十分だ。」

短いやり取りだった。だが、その短さで十分だった。男はまだ生きている。喋れる。だから医療担当が水を見た。飲ませる水ではない。口を湿らせるだけの水。喉へ流さない。男はそれを理解し、舌だけを動かした。

片腕の女は、承の結果を書き残した。

直接見える面、減少。

地下側への筋、わずかに鈍化。

人が拾いたくなる形、一部消失。

黒札、最低限配置。

一時戻り点、二つ残存。

外布、残り二。

黒札、残り四。

医療、分類のみ。

分類のみ、という言葉で彼女の筆が少し止まった。医療が医療ではなくなっている。治療ではなく、漏れを増やさないための分け方になっている。けれど、書かなければ忘れる。忘れれば、次に「なぜ治さなかった」と誰かが言う。治さなかったのではない。治せる形が崩れていた。

三度目の接近が必要だと、誰もが分かっていた。

高濃度物質は完全には覆えていない。地下側の筋も残っている。生活圏側の浅い道も切れていない。黒札を置いても、火や煙や爆発でずれる可能性がある。一時戻り点は二つしか残っていない。外布は二枚。黒札は四枚。棒は割れたものを含めて三本。医療は分類しかできない。行けば戻れない可能性は、さっきより高い。

顔を布で覆った男が、もう一枚の外布を取ろうとした。

若い回収役が止めた。

「もう行くな。これ以上は前へ出すな。」

「なら誰が行く。行く者の名前を先に出せ。」

「俺が行く」「あなたは二つ目の点だ」と押し問答になる。

「代われ。戻った者の手を止める役を、そっちへ回せ。」

「代わったら、戻った者の手を誰が止める。」

「走りたい奴ほど、戻り点に立て。」

若い回収役は、外布から手を離した。離すのに、時間がかかった。離したあと、自分の手を見ていた。震えていた。その震えを握り潰さず、開いたままにした。握れば、次に何かを掴んでしまう。

パヴェルは、その光景を見ていた。

これ以上続ければ、全員が削れていく。分かる。ここで止めれば、片付けは未完で漏れる。それも分かる。どちらも分かるから、言葉が出ない。彼の中で、止める言葉と続ける理由がぶつかり、互いを砕いていく。喉の奥が鳴ったが、声にはならなかった。

ヴィクトリアだけが、違うものを見ていた。

顔を布で覆った男でも、若い回収役でも、片腕の女でもない。彼女は高濃度物質そのものを見ていなかった。正確には、見ようとしていなかった。彼女の目は、残った縄を見た。外布の残りを見た。パヴェルの体の位置を見た。それ物までの距離を見た。戻り点ではなく、振るための空間を見ていた。

彼女の中で、ユスティティアの決めた手順とは違う答えが形になり始めていた。

残存者たちは三度目の接近へ移ろうとしている。

パヴェルは声を出そうとして、出せない。

ヴィクトリアだけが、継続ではなく、一度で終わらせるための距離を測っていた。

三度目の接近は、誰も命令しなかった。

顔を布で覆った男が外布を取ろうとした時、若い回収役の手がまた動いた。止めるための手なのか、代わりに行くための手なのか、自分でも分からない手だった。彼はその手を途中で握り、すぐに開いた。握るな。掴むな。持ち帰るな。ここでは、手が何かを覚えた瞬間に人が減る。外布は残り二枚。黒札は四枚。一時戻り点は二つ。医療担当は治療ではなく分類だけを続け、片腕の女はそれを直接描かない地図の周囲へ、焼けた筋と黒い泥の曲がりだけを書き足していた。

パヴェルは、支え木に背を預けたまま口を開いた。

声は出なかった。

喉の奥がひりつき、息だけがこぼれる。やめろ、と言えば外布が残る。戻れ、と言えば高濃度物質が残る。死ぬ、と言えば、相手は死ぬと分かった上で外布を持っている。言葉が全部、現場の正しさに押し潰されていた。彼は自分の膝の上で動かない右腕を見た。天津の熱傷で固められた腕は、まだ自分のものの形をしているのに、必要な時に動かない。視界の端で、顔を布で覆った男が外布を肩へかけた。若い回収役が二つ目の戻り点で唇を噛んでいる。片腕の女は筆を止めない。誰も狂っていない。誰も間違っていない。だから、止められなかった。

その時、ヴィクトリアが動いた。

最初に見えたのは、彼女の手が縄へ伸びるところだった。止めるために誰かが声を出すより早く、彼女は焼けた縄の方ではなく、まだ繊維の芯が残っている方を取った。次に、パヴェルの前へ回った。彼は何をするつもりか理解する前に、体を引き上げられていた。火傷した肩に直接触れないよう、彼女は布と固定具の外側を選び、腰で重さを受け、膝を入れて背中へ乗せる。抱えるのではない。背負う。乱暴だった。だが、雑ではなかった。痛む場所を避けるための一瞬の選択だけがあり、説明はなかった。

「待て。今は背負うな。」

パヴェルの声は、そこでようやく出た。

ヴィクトリアは答えなかった。答えれば遅れる。彼女は彼を背負ったまま、戻り点を通らず、黒札の切れ込みと外布の落ちた位置を目で拾った。ユスティティアの決めた手順を理解しているわけではない。それでも、誰も踏んでいない地面、誰も立ち止まらない泥、片腕の女が直接描かなかった空白、パヴェルがずっと見ていた方向だけを繋げた。足は迷わなかった。速いが、走りではない。走れば踏み抜く。彼女は足を置くたびに体重を残さず、すぐ次へ移した。背中のパヴェルが重い。本来なら邪魔な重さだった。だが、彼女はその重さを、体の後ろへ置いたまま軸にした。

「それなら、それなら、戻れ、戻れるうちに背中を向けるのが一番早い。」

若い回収役が叫んだ。

顔を布で覆った男も動いた。

「縄を引くな」という声にも、ヴィクトリアは止まらなかった。聞こえていないのではない。止まる時間がなかった。彼女は高濃度物質そのものを見なかった。見ると足が遅れる。目を向けたのは、外布が半分だけ覆った黒い縁、地下側へ落ちる浅い筋、構造材の隙間、縄の輪を通せる一点だけだった。手袋も厚い外布もない。あったのは縄と腕だけだ。彼女は縄の輪を投げるように送った。一度目は、崩れた構造材の角に弾かれた。二度目を丁寧にやる余裕はない。彼女は輪を小さく作り直さず、そのまま手首の返しで角度を変え、黒い泥と構造材の間へ引っかけた。

縄がかかった。

完全ではない。結びでもない。引けば外れるかもしれない。強く締めれば中身が崩れるかもしれない。ユスティティアなら絶対に採らない固定だった。だが、投げる瞬間まで持てばいい。彼女の判断はそこだけに絞られていた。

パヴェルは背中で身じろぎした。

「やめろ、それは——」と言い切る前に、ヴィクトリアの腰が沈んだ。彼女は背負ったパヴェルの重さを後ろへ逃がし、縄を張った。高濃度物質は動かない。動かない方がいい。いきなり引けば崩れる。彼女は一度だけ小さく緩め、次の瞬間に体を回した。足を置く。腰を落とす。背中の重さを軸にする。縄が円を描く。高濃度物質は地面から剥がれるのではなく、黒い泥の縁を滑り、外布の端を巻き込みながら浮いた。

片腕の女の筆が止まった。

若い回収役が息を吸った。

医療担当が「息を止めろ。」と叫ぶ前に、全員が息を止めていた。

ヴィクトリアは二回転しなかった。一回で十分だったのではない。一回しか許されなかった。二回目へ入れば、縄が切れる。彼女の足も崩れる。背中のパヴェルも振られて落ちる。だから、縄が最も張った瞬間に、彼女は体を開いて放した。縄が手から抜ける。高濃度物質は外布と黒い泥を引きずりながら飛んだ。綺麗な弧ではない。重く、歪で、途中で崩れかけた。それでも、生活側へ向かう浅い道から外れ、地下側へ落ちる筋から外れ、不発弾疑いで誰も踏んでいない地面のさらに向こう、焼けた構造材の山の裏へ落ちた。

落ちた瞬間、小さく鈍い音がした。

誰も動かなかった。

顔を布で覆った男が最初に地面を見た。黒い泥の筋。外布の残り。地下側へ落ちる浅い流れ。飛んだ先。戻り点。彼はヴィクトリアを見なかった。見たかったはずなのに見なかった。見直ししなければ、彼女が何をしたのか分からない。成功か失敗か分からなければ、助ける人数を誤る。

「地下側は」とかすれた声で片腕の女が聞き、「切れた。札を戻すな」「生活側は」「残っていない」「飛んだ先は追うな」と確認が矢継ぎ早に交わされる。

「人は近づかない。今は。」

「不発弾は」「鳴っていない。踏むな」という確認が続く。

片腕の女は書き残し板を震える手で押さえた。筆先が板を叩き、黒い点を作った。彼女はそれを消さず、その横に書いた。

漏れ、停止。

その文字が置かれた瞬間、ヴィクトリアの膝が落ちた。

パヴェルを背負ったままだったため、彼女は前に倒れなかった。背中の重さが後ろへ引いた。だが、その重さを支える力がもう残っていなかった。彼女の顔から血の気が引き、次に赤みではない熱が頬へ上がった。呼吸が浅くなる。手が縄を離したまま震え、指先が遅れて縮んだ。吐き気を飲み込もうとして、飲み込めず、横を向いた。胃の中のものはほとんど出なかった。喉だけが痙攣し、涙が出た。彼女はそれを拭おうとしなかった。拭えば手が顔へ行く。手が何に触れたか、もう分からない。

パヴェルが背中で「ヴィクトリア」と呼んだ。

返事はなかった。彼女は立ち上がろうとした。立てなかった。足に力が入らず、膝が二度、地面を探した。地面は安全ではない。パヴェルはそれに気づき、動かない右腕ではなく、動く方の肩と足でどうにか体をずらそうとした。背負われている側が、背負っている者を支えようとする。形としては破綻していた。だが、彼にできることはそれしかなかった。

医療担当が叫んだ。

「その場で寝るな、膝を引け。手をつくな。」

ヴィクトリアは顔つきした。言葉を理解したのではなく、声の硬さに顔つきしたのだろう。手をつく寸前で止め、肘を内側へ入れた。パヴェルが背中から滑り落ちかける。彼は自分の重さが彼女を潰すことに気づき、足を地面へ出そうとした。だが、足を置ける場所が分からない。黒札も、外布も、地面の鳴りも、すべてが遅れて見える。

若い回収役が走りかけた。

顔を布で覆った男が止めた。

「足元を見ろ。走るな。」

「理解しているなら足を止めろ。前へ出るな、顔で押し切るな。」

「分かってる足じゃない。踏めば黒い筋へ落ちる。」

若い男は泣きそうな顔で足元を見た。黒い泥の小さな筋、飛んだ縄の端、外布の切れ端、不発弾疑いの切れ込み札。最短では行けない。行きたい相手は目の前で崩れているのに、まっすぐ行けない。彼は一歩横へずれ、さらに半歩戻り、ようやくヴィクトリアの近くへ入った。直接触れない。外布を使う。だが外布は残り少ない。使えば、他のものを覆えない。

「使え。札を見せろ。」

顔を布で覆った男が言った。

若い男は、残りの外布を広げた。

「もう足りない。これ以上は残っていない。」

「漏れは止まった。だから今は人へ回せ。」

その言葉で、彼の顔が歪んだ。漏れは止まった。だから、今度は人へ使える。そういう順番だった。そんな順番を受け入れたくないのに、受け入れなければ彼女へ触れない。

ヴィクトリアは、外布越しに支えられた時、初めて小さく声を出した。

「重い」という一言がパヴェルへ向けられたと分かるまで、一拍かかった。

パヴェルは返せなかった。謝れば彼女が息を使う。怒れば彼女が返す。だから黙って、背中から降りようとした。降りるだけで、彼の体は悲鳴を上げた。火傷の固定具が軋み、肩から首へ痛みが走る。膝が抜け、彼もまた外布の上へ手をつきかけた。ヴィクトリアが、震える手で彼の服を掴んだ。

「そこ、だめ」と喉の奥で切れた声が出た。

パヴェルは手を止めた。止められた。今度は彼女が彼を止めた。彼は自分の手を引き、体を傾けた。二人とも、ひとりでは立てない。パヴェルは片足で地面を探し、ヴィクトリアは吐き気を飲み込みながら彼の服を離さない。支えるというより、互いに倒れる方向を潰し合っていた。

片腕の女は、書き残し板にもう一度目を落とした。

漏れ、停止。

その横に、何かを書こうとして筆が止まった。ヴィクトリア負傷。パヴェル限界。残存者、外布一。黒札三。片付け成立。言葉はいくつもある。どれも足りない。彼女は結局、まだ書かなかった。今書けば、二人を見るのが遅れる。今度は見る必要があった。漏れは止まった。だから、ようやく人を見る番だった。

医療担当がヴィクトリアへ近づいた。近づく道もまっすぐではない。彼女は足元を見ながら、外布の端を踏まないように、黒い泥を避け、縄の残骸を越えた。ヴィクトリアの頬を見る。目を見る。呼吸を見る。手の震えを見る。短時間で出ている。早すぎる。耐性がない体が、慣れた仕事員の何倍も早く顔つきしている。

「水を寄こせ」と若い回収役が言った。

「どの水だ。飲ませる方か、冷やす方か。」

医療担当が即座に返す。

彼は歯を噛んだ。

「口じゃない。布と手を冷やすだけだ。触った場所は分からない。顔には使わない。」

「よし、浅い皿だ。桶は持つな。」

彼は走らなかった。走りたい足を殺して、浅い皿を取りに行った。戻った時、彼は水をヴィクトリアへ渡さなかった。医療担当へ渡した。決めた手順が先に出た。出てしまった。彼はそれが悔しそうで、少しだけ誇らしそうで、どちらの顔にもなりきれなかった。

顔を布で覆った男は、飛んだ先をまだ見ていた。高濃度物質は、生活側にも地下側にも戻っていない。不発弾は鳴っていない。黒い泥の筋は切れた。人が拾える位置でもない。完璧ではない。安全でもない。だが、これ以上残存者が一工程ずつ近づいて死ぬ必要は、今はなくなった。

彼は片腕の女へ短く言った。

「止まった。もう触れるな。」

片腕の女は頷いた。

「書いた。逃げたくなる事実ほど、板に残して次を殺さないためだ。」

「消すな。板は残せ。」

「消さない。触った場所を残せ。」

パヴェルはその言葉を聞いた。漏れは止まった。ヴィクトリアは崩れている。残存者はもう組織ではない。アルフォンソは戻らない。幹部も戻らない。それでも、止まった。彼の中で感謝と怒りと恐怖が同時に起きたが、どれも言葉にはならなかった。目の前のヴィクトリアが、吐き気を堪えながら彼の服をまだ掴んでいる。その指を、彼は動く方の手で外そうとした。外れなかった。彼女が掴んでいるのではない。離す力がないのだと、途中で気づいた。

「離さなくていい。掴んだままでいい。」

彼は言った。

ヴィクトリアは、目だけを少し動かした。

「重い。まだ動くか。」

「悪い。今はこれで勘弁しろ。」

「あとで文句は聞く。」

「何をだ、文句のほうをだ。」

「文句は後だ。今は手を外せ。」

その短い返しで、パヴェルの喉が詰まった。笑うことも、泣くこともできない。彼はただ、彼女の重さを半分受けようとして、自分もまた膝をついた。

医療担当が二人を見下ろし、低く言った。

「ここで寝るな。二人とも、まだ外だ。」

漏れは止まった。

だが、脱出はまだ終わっていなかった。

「ここで寝るな。二人とも、まだ外だ。」

医療担当の声は、二人の頭上から落ちた。叱る声ではなかった。叱る余裕がない声だった。ヴィクトリアは膝をついたまま、片手でパヴェルの服を掴んでいる。握っているというより、離す力がなくて引っかかっている形に近い。パヴェルはその手を外そうとして、途中で止めた。指先にどれだけ汚れが付いているのか分からない。外そうとすれば、彼女の手を動かす。動かせば、彼女が手をついた場所へ触れるかもしれない。触れた場所が安全かどうかは、もう誰にも即答できない。

「立てるか」と医療担当が聞いた。

パヴェルはヴィクトリアを見る。ヴィクトリアは唇だけで何かを言おうとしたが、吐き気が先に来て、言葉が喉の奥で崩れた。パヴェルは動く方の手で支え木を探した。近くにない。支え木は倒れたまま、黒い泥の筋の向こうにある。そこへ手を伸ばせば、今度は彼が落ちる。

「立つ」と彼が言うと、ヴィクトリアがかすかに首を横へ動かした。「無理」「そっちが言うな。浅いのは分かってる」「両方、どっちも無理だ」という言葉が短く積み重なった。

その返しで、彼は一瞬だけ息を詰めた。どちらかが支える形ではない。どちらかが倒れれば、もう片方も倒れる。彼はヴィクトリアの体重を受けようとして膝を立て、肩の固定具が軋む音を聞いた。痛みが首の後ろへ抜ける。ヴィクトリアは彼の服を掴んだまま、逆方向へ少し体を倒した。支えたのではない。彼が倒れる方向を変えただけだった。二人はそれでようやく半歩動いた。

若い回収役が外布を広げた。

「ここ、踏むな」と声が震えながらも指示は間違っていなかった。黒い泥の細い筋が地面の窪みをなぞっている。ヴィクトリアがそこへ膝を置きかけていた。パヴェルは彼女の肩を引こうとしたが、腕に力が入らない。代わりに彼の体が傾き、ヴィクトリアが服を掴む手に力を入れた。その少しで彼の膝が黒い筋から外れた。「離せ」とパヴェルが言った。

ヴィクトリアは、呼吸の間に短く返した。

「離したら倒れる」「どっちが」と言葉が短く返る。

「両方だ。だから離すな。」

若い回収役が顔を歪めた。笑いかけたのか、泣きかけたのか、どちらにもならなかった。彼は二人へ近づこうとして足を止める。最短で行けない。正面には切れた縄の端、右には外布の汚れ、左には不発弾疑いの切れ込み札がある。彼は一歩横へ逃げ、黒札を踏まないよう爪先を置き、外布の端だけを差し出した。

「これを掴め。手じゃなくて布。」

パヴェルは布を掴んだ。ヴィクトリアの手はまだ彼の服にある。医療担当がその上から別の布を挟んだ。

「直接握るな。離せないなら、布越しにしろ。」

ヴィクトリアは小さく頷いた。頷いたあと、眩暈で目を閉じる。閉じた瞬間に膝が落ちかけ、パヴェルが体重を受けようとして逆に崩れた。二人は一歩分だけ後ろへずれた。若い回収役が息を飲む。顔を布で覆った男が、低く言った。

「止まるな。止まる場所じゃない。」

その言葉で、二人は動いた。歩くというより、点から点へ体を移す仕事だった。ヴィクトリアが先に一歩出ると、パヴェルの膝が遅れてついてくる。パヴェルが足を出すと、ヴィクトリアの体が横へ流れる。互いに支えているのではない。互いの崩れる方向を潰し合いながら、少しずつ外へ押し出されている。

片腕の女は、書き残し板を抱えて二人の後ろを見た。飛ばされた高濃度物質は、生活側へ戻っていない。地下側へ落ちる浅い筋からも外れている。黒い泥の線は切れたまま。飛んだ先には人影はない。不発弾疑いの地面も鳴っていない。彼女はすでに書いた「漏れ、停止。」の文字を消さなかった。成功とは書かない。安全とも書かない。停止。それだけが、今この場で言える最大の言葉だった。

その横に、新しく状態を書いていく。

ヴィクトリア、短時間被曝症状。歩行不安定。吐き気。手指震え。

パヴェル、熱傷後遺症悪化。歩行不安定。顔つき遅延。

顔を布で覆った男、指先遅延。呼吸浅い。

若い回収役、震え。過呼吸手前。決めた手順維持。

医療担当、処置継続。疲労濃厚。

片腕の女、書き残し継続。判断補助不能。

判断補助不能、と書いた瞬間、彼女の指が止まった。自分のことだ。書かなければならない。自分はまだ書き残せる。だが、現場判断を肩代わりできる体ではない。ここで誤魔化せば、誰かが彼女を頼る。頼られれば、遅れる。遅れれば漏れる。彼女は筆を置かず、文字の横へ小さく線を引いた。戻せない機能は戻さない。残っているものだけを使う。

脱出路は、道ではなかった。

炉心側へ戻ることはできない。飛ばした先へも行けない。地下側へ下がれば、汚れ水の筋に寄る。避難路へ出れば、まだ戻ろうとする人間とぶつかり、二人の汚れを外へ広げるかもしれない。外周側は監視が消えている。誰が来るか分からない。結局、壊れた旧戻り点のさらに外を迂回するしかなかった。黒札で塞がれていた線の外側。普通なら選ばない場所。だが今は、人が少なく、拾う者も来にくく、地面の鳴りが比較的少ない。

若い回収役が先へ出ようとした。

「走るな」と顔を布で覆った男が言う。

「分かっているなら足を止めろ。前へ出るな、顔で押し切るな。」

「分かっている足じゃない。踏むな、ここは黒い。」

若い男は足を止めた。怒りで顔が歪む。だが、そのまま地面を見た。今まで止めてきたものを、自分が踏むわけにはいかない。彼は走りたい足を殺し、棒で地面の先を示した。踏むな。拾うな。止まるな。声に出すと息が削れる。だから棒と肩の動きだけで二人を誘導した。

パヴェルはヴィクトリアの呼吸を聞いていた。浅い。短い。時々、喉の奥で引っかかる。彼女は強がろうとしているのだろうが、強がるだけの余裕も減っている。彼は謝ろうとした。言えば、彼女が返す。返せば、彼女の呼吸が減る。だから言わなかった。言わない代わりに、彼女の掴んだ布を動く方の手で少しだけ支えた。

「それなら、重い。まだ離れない。」

ヴィクトリアが言った。

「さっきも言った。持ったまま文句を言うな。」

「まだ重い」「降りる、足を出す」と互いを引きながら進む。

「倒れるなら、ここで受けろ。」

「そっちが先に崩れる。」

「両方だ。だから止まるな。」

同じ答えだった。パヴェルは息を吐いた。笑うには喉が足りない。怒るには力が足りない。返す言葉を探して、やめた。彼女の膝が落ちそうになったからだ。彼は自分の足を無理に前へ出し、彼女の体が前へ崩れるのを横へ流した。支えたのではない。倒れる方向を少しだけ変えた。それだけで、二人はまた半歩進んだ。

残存者たちは、二人を護衛しなかった。護衛する人数も体力もない。顔を布で覆った男が前で足元を見る。若い回収役が後ろで、二人が何かを落としていないか見る。片腕の女は必要最低限だけ書き残しする。医療担当は二人の呼吸と足取りだけを見る。もう誰も全体を見ていない。全体を見る組織は壊れている。見ているのは、目の前の数歩だけだった。

その数歩を繋ぐ。

煙が低く来る。止まるな。

黒い泥が細く伸びる。右へ半歩。

切れた縄が足に触れる。跨ぐな、回れ。

ヴィクトリアが吐き気で止まる。膝を落とすな。

パヴェルの足が遅れる。布を引きすぎるな。

若い回収役の手が伸びる。直接触るな。

医療担当が水を見せる。飲ませるな、口を湿らせるだけ。

その繰り返しで、彼らは外へ出ていった。

途中、遠くに人影が見えた。

若い回収役が棒を構えた。顔を布で覆った男も足を止める。現役の監視班はもういない。避難者か、拾いに来た者か、敵か、判断できない。黒札を知らない者なら、助けようとして近づくだけで危険になる。片腕の女が書き残し板を胸へ寄せた。医療担当は水を隠した。水を見せると、誰かが求める。求められても、渡せる水とは限らない。

顔を布で覆った男が、片手を上げた。

今使っている手振りとは少し違う。古い形だった。指を二本折り、掌を伏せ、次に棒を横へ倒す。近づくな。足元を見ろ。水を出すな。昔のユスティティアで使われていた合図なのだろう。若い回収役は初めて見る顔をした。相手の影が止まった。

一拍遅れて、向こうから返事が来た。

同じではない。少し崩れた、古い手振り。だが意味は通じた。近づかない。足元を見る。水を出さない。

顔を布で覆った男の肩が、ほんの少し落ちた。

「引退組だ。手順を知ってる。」

若い回収役が呟いた。

「救援か、様子見か。」

「違うなら、どこが違うのか相手が逃げられる形で言え。」

顔を布で覆った男が言った。

「決めた手順を知っている人間だ。前には戻すな。」

近づいてきた者たちは、すぐには駆け寄らなかった。誰かを抱き起こそうともしなかった。まず足元を見た。次に黒札を見直しした。水を持っていた者は、医療担当を見るまで動かない。布を持つ者は、直接パヴェルやヴィクトリアへ触れず、二人の横に外布を広げた。倒れた者を見る前に、持っている袋や縄を見直しする。咳をした者に声を出させず、横を向かせる。動作で分かった。彼らは現場を取り返しに来た部隊ではない。装備も足りない。体力も若くない。だが、決めた手順を知っていた。

若い回収役の顔から、力が抜けた。

助かったからではない。まだ助かっていない。だが、決めた手順を知っている人間が、外側にもいた。それだけで、彼の膝が一瞬だけ崩れかけた。すぐ持ち直す。崩れる場所ではない。

引退した女が、医療担当へ短く聞いた。

「飲ませる方は何だ。ごまかすな、ここで言え。今動かなければ遅れる。」

「まだと言う顔が一番悪い。できると言いたい足を止めろ。」

「冷やす方は何だ。ごまかすな、ここで言え。忘れた頃に人が触る。」

「手だけだ。顔は駄目だ。触った場所が分からない。」

「布はどうする」「剥がすな。触った場所が分からなくなる」と指示が続く。

「了解。顔には触れない。」

短い。余計な言葉がない。説明を求めない。医療担当は初めて、ほんの少しだけ息を吐いた。任せられるという意味ではない。説明に使う息を減らせるという意味だった。

ヴィクトリアは、外布の上へ誘導された。寝かせるのではない。寝かせると起こせなくなる。膝をつかせ、背中を支える形にする。パヴェルはその横へ崩れるように座りかけ、医療担当に止められた。

「座るな」「無理だ」「座るなら布の上、手は地面へつくな」と医療担当が畳み掛ける。

ヴィクトリアが、力の入らない手でパヴェルの服を引いた。彼は布の上へ体をずらした。二人の位置が逆になり、今度はヴィクトリアが彼の倒れる方向を止める形になった。彼女の顔色は悪い。吐き気も残っている。視界も揺れているはずだった。それでも、服を掴む手だけは離れなかった。

パヴェルは、その手を見た。

「離していい」「無理。担げ」という短い言葉が、二人の間で落ちた。

「力、入ってないだろ。」

「だから、離せない。」

彼は何かを言おうとして、やめた。彼女の言葉は、冗談の形をしているのに、体の状態をそのまま言っている。離さないのではなく、離せない。パヴェルは動く方の手で、布越しにその手の下を支えた。どちらが支えているのか、もう分からなかった。

片腕の女は、合流地点の外側で書き残し板を開いた。ここで書かなければ、書き残しは途切れる。だが書く言葉を間違えれば、残ったものの意味が変わる。

漏れ、停止。

高濃度物質、生活圏外。

地下側流入、現時点で停止。

不発弾疑い、継続。

炉心側、未片付け残存。

組織機能、喪失。

残存者、退避中。

引退者と合流。

彼女はそこで止まった。成功とは書かない。勝利とも書かない。安全とも書かない。だが、第八の片付けそれとして残っていた最後の漏れ止めは終わった。彼女は、最後の行へ筆を置いた。

片付け、完了。

老人がその文字を見て、小さく頷いた。

「見ろ。片付いたのは漏れだけだ。炉も泥も、まだ残っている。」

「分かっているわよ。私たちの手が届くのは、ここまでだもの。」

「割れた炉も、そこから這い出そうとする見えない死神も、あそこに残る。」

「それも板に刻んだわ。次が目を逸らさないようにね。」

「汚れた地面も、踏めば骨まで溶かされる黒い泥も、そのまま残る。」

「書いたわよ。逃げたくなる事実も、ここで潰れかけたことも、残したわ。」

「それでも、ここで筆を置くの。終わったことにはしないの。」

片腕の女は、筆を強く持ち直した。

「ええ。綺麗に終わらなくても、止めた事実だけは譲らない。この片付けは完了よ。」

それだけだった。完了という言葉の範囲を間違えないために、彼女はその直前の行を消さなかった。未片付け残存。不発弾疑い継続。組織機能喪失。その全部の下に、片付け、完了、と書いた。綺麗な終わりではない。だが、終わらせた一点はある。

パヴェルは、その書き残しを見ていなかった。見れば、何かが壊れる気がした。彼はヴィクトリアの手と、外布の端と、医療担当の指示だけを見ていた。止められなかった。ユスティティアの者たちも止められなかった。ヴィクトリアも止められなかった。アルフォンソは戻らない。幹部たちも戻らない。監視班も消えた。それでも、漏れは止まった。彼の無力と、現場の成果が同じ場所に置かれている。どちらかだけなら、言葉にできた。両方あるから、何も言えなかった。

ヴィクトリアが、彼の服を少し引いた。

「息を整えろ」というヴィクトリアの言葉に、彼は瞬きをした。

「そっちが言うな。浅いままだと、次の者が寄る。」

「してない、まだだ。」

「してる、喉が先に言ってる。」

「浅い。だから止まるな。」

「両方だ。だから少し吸え。」

その短い返しで、ヴィクトリアの口元が少しだけ動いた。笑いにはならない。だが、意識はある。パヴェルはそれだけを見直しし、浅く息を吸った。喉が痛む。胸も痛む。だが、息は入った。

引退した者たちは、二人を完全には抱えなかった。抱えれば、触れた場所が増える。代わりに、外布を重ね、棒を通し、歩ける分だけ歩かせ、崩れる方向だけを受けた。パヴェルとヴィクトリアは、最後まで互いに服を掴んでいた。預けきれないからではない。離す力がないからでもある。けれど、離れないことで、互いの倒れる向きが分かった。外から支える者たちは、それを崩さなかった。

背後では、煙がまだ低かった。黒札はまだ立っている。外布は汚れている。炉は眠っていない。地面の下にも、まだ戦争の残りがいるかもしれない。誰も安全とは言わなかった。誰も勝ったとは言わなかった。遠くで小さく何かが崩れる音がしたが、誰も振り返らなかった。振り返れば足が止まる。

片腕の女は、書き残し板を閉じる直前に、最後の一行を書いた。

ユスティティア、壊滅。片付け、完了。

その文字を書いたあと、彼女は板を胸へ抱えた。涙は出なかった。出す水分すら惜しいという顔だった。若い回収役がそれを見て、何かを言おうとしたが、言わなかった。代わりに、残った黒札を一枚だけ腰へ差した。持ち帰るためではない。次に誰かが踏みそうな場所があれば、置くためだった。

パヴェルとヴィクトリアは、外へ進んだ。

歩いているとは言いがたかった。運ばれているとも言いきれなかった。二人の手は布越しに重なり、どちらの力で支えているのか分からないまま、数歩ずつ外へ出ていく。背中の火と煙と黒札が遠ざかる。組織はそこに残らなかった。残ったのは、使い切られた決めた手順と、閉じられた書き残しと、終わらせたという事実だけだった。


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