第七章-全滅
報告を持ってきた男は、門の前で吐いた。
胃の中身ではなかった。黒い水と、煤と、血の混じった唾だった。口の端から垂れたものが石畳に落ちると、医療担当がすぐに布を被せた。水で流さない。靴で踏ませない。男の肩を支える者も、背中をさすろうとして止められた。触れば安心する。安心した手は、次にどこを触ったか忘れる。
「炉が、奥の炉が真っ二つに割れやがったと、そこら中にあの呪われた黒い破片が飛び散って、火がどうしても消えねえんだよ…っ。」
男はそう言った。
誰も聞き返さなかった。聞き返すと、男はもう一度息を吸う。黒いものを吐いた喉へ、もう一度言葉を押し込むことになる。片腕の女が、男の口元に近づきすぎない位置で書き残し板を開いた。筆先だけが動く。炉、爆発、黒い破片、火、倒れた者、煙、屋根、地下の水。男の言葉は短く、順番も崩れていたが、崩れた順番の中にあるものだけで十分だった。
アルフォンソは、報告者の背後に積まれた荷を見た。壊れた屋根材の欠片、黒い石に見える燃焼材、白い粉がついた布、焦げた金属片、灰にまみれた靴。そのどれも、持ち帰るには近すぎた。だが、門の外へ捨てれば誰かが触る。黒い破片は燃え残りに見える。金属片は使えるものに見える。屋根材は道具に見える。そう見えるものほど、人の手を呼ぶ。
「その燃え残りを、素手で拾い上げた馬鹿はどこにいる。…何人があの輝く瓦礫に触った。隠さずにすべて吐き出せ。」
アルフォンソが聞いた。
「知るかよ。黒い破片はただの燃え残りに見えたんだ、金属のクズは使える道具に見えたんだよ!そう見えるからみんな手を伸ばしちまったんだ…っ。」
報告者は首を横へ振ったあと、すぐに縦へ小さく動かした。本人にも分からないのだろう。誰が拾ったのか。誰が落としたのか。誰が持って逃げたのか。爆発のあとに、物が道に散れば、人はそれを見てしまう。使えるかもしれない、売れるかもしれない、家へ持ち帰れるかもしれない。その一瞬の考えが、あとで肺や骨や血を壊す。
「黒い破片を、子どもが持とうとしてた。止めた奴が倒れた。」
片腕の女の筆が止まった。
「黒い破片。持ち出し防止、最優先。」
「地下はまだ息をしてる。覗くな、吸い込んだら終わりだ。」
「水が下へ行ってる、どこへかは分からない、熱くて近づけない。建物の下で、まだ音がする。」
「火は消す火じゃない。焦って近づけば、先に喉が焼ける。」
「消えない、砂をかけた、水も入れた。水を入れたところは、煙が白くなってあとで人が倒れた。」
医療担当が報告者の顎を少し上げさせた。目の焦点、鼻の奥、喉の腫れ、手の震え。彼はまだ喋れる。喋れるから、安全ではない。喋れる者ほど、無理に説明しようとする。
「もういい。今は感情を吐くな、決めた手順だけで動け。」
アルフォンソが言った。
報告者は何かを言おうとしたが、医療担当が口元へ布を置いた。止めるためではない。吐いたものを受けるためだった。彼はそれを見て、ようやく喋るのをやめた。
紙室には、もう三つの席が空いていた。
ひとつは、古い言葉を繋ぐ席。ひとつは、道と戻る道を切る席。ひとつは、人を前から下げる席。椅子は残っている。机も残っている。札も、筆も、古い紙も残っている。だが、そこに座るべき者はもう座れない。座れば、周囲が頼ってしまう。頼れば、判断が遅れる。だから椅子は空いたままにされていた。
その空席を見ないように、若い回収役が黒い破片の入った箱を見た。
若い回収役が「これ、黒鉛か」と問うと、顔を布で覆った男が「名前を先に決めるな。炉だからといって決めるな」と返す。
「炉だから、決めるな。」
「じゃあ何て書く。嘘になる言葉なら刻むな、事実だけ寄こせ。」
片腕の女が短く言った。
「黒い燃焼材、高濃度疑い、手で触るな。拾わせるな。」
若い男は頷いた。黒鉛という言葉を使えば、知っている気になれる。知っている気になれば、次に近づく。そういう罠は何度も踏みかけてきた。今度の相手は、それを許さない。
壁に広げられた地図は、炉の周囲だけでは足りなかった。建物、煙の流れ、屋根材の飛散、排水溝、地下水へ向かう低地、避難路、近い村、道、林、川。線が多すぎる。どれも削れない。炉心由来の破片を見る者、黒い燃焼材を人から遠ざける者、煙と風を見る者、地下水側を見る者、避難を下げる者、戻る道を作る者、医療を見る者、書き残しする者。札を並べていくと、手元の人員札がすぐに尽きた。
「外周は薄い。薄い場所ほど油断して、真っ先に持っていかれる。」
若い回収役が聞いた。
「前線で兼ねるのか」と若い男が聞くと、アルフォンソは答えた。
その言い方で、部屋の空気が少しだけ重くなった。外周を切ったのではない。切らざるを得なかった。警備だけをする者を置く余裕はなかった。盗みに来る者、家族を探しに戻る者、黒い破片を拾う者、金属片を持ち帰る者。それを止める役は必要だ。必要だが、炉心側と地下水側と煙と医療を見たあと、別に置ける人間がいない。
顔を布で覆った男が、壁の地図を見た。
「戻る者を止める棒は持つ。だが、外周だけを見る目はない。」
「盗む奴は出るぞ」と若い回収役が苦い声で言い、「盗むものを見せない。拾いたくなるものを先に潰す」と返されても、「それで足りるか」という問いにアルフォンソは答えなかった。足りない。誰もが分かっていた。だが、足りないから作戦をやめるわけにはいかない。足りないまま、切るしかない。
廊下の奥の医療区画で、パヴェルはその話を聞いていた。
聞かされていたわけではない。扉の外の足音、札の音、短く交わされる言葉が、熱のこもった部屋へ流れてくる。身体はまだ寝台に縛られている。天津の火傷は、皮膚の上だけで終わっていない。肩は固まり、右腕の一部は他人のもののように鈍く、息を深く吸えば喉の奥に焼けた薬品の味が戻る。
それでも、彼の目は天井ではなく、閉じた扉を見ていた。
「起きるな。寝台から落ちたら、次は二度と戻らない。」
医療担当が言った。
「起きてない。起き上がる気もない、今は我慢してる。」
「起きる顔だった。そういう目をしてる奴ほど、勝手に線を越える。」
「顔で禁止される人生にも慣れてきた。」
「慣れるな。」
彼は小さく笑いかけ、痛みでやめた。
「炉だってって何だ。ごまかすな、ここで言え――今動かなければ遅れる。」
「聞くな。聞いた瞬間に足が前へ出る、その癖が死ぬ。」
「聞こえた。だから次は忘れろ、余計な言葉は足を止める。」
「なら忘れろ」「無茶言うな」という言葉が短く跳ね、医療担当は返さなかった。彼女は傷の布を見ていた。焦げた皮膚、薬油、固定具、張りつきかけた衣類を切った跡。彼が現場へ出られる体ではないことは、布が一番よく知っている。
パヴェルは、記憶の中から何かを探そうとしていた。炉。黒い燃焼材。旧文明の大型事故。近づいた者が倒れる。地下水。屋根。煙。そこまでは繋がる。だが、別の何かが喉の奥で引っかかった。あの土地。後の時代。戦争。占拠。塹壕。地雷。不発弾。断片だけが浮かび、すぐ煙のように散る。ニュースを継続して見たわけではない。寝台に固定される前から、この世界で手に入る情報は穴だらけだった。現代の記憶も、毎日の報道ではなく、拾い読みと断片の寄せ集めでしかない。
「まだ何か残ってる。」
彼は言いかけた。
医療担当が顔を上げる。
「何だ。言葉を飲み込むな、声に出せ。」
「いやと言うなら、否定。」
言葉がつながらなかった。炉の事故と、その土地の戦争が、ひとつの作戦情報として結びつかない。危ないかもしれない、というぼんやりした感覚だけでは、人を動かせない。動かせるだけの言葉にするには、地名も時期も、どの戦争で、何が残り、どこへ埋まったかが要る。彼はそれを持っていなかった。
扉の向こうで、アルフォンソの声がした。
「警備専任は置かない。前線働いていた者が接近阻止を兼ねる。」
パヴェルは、胸の内側が小さく冷えるのを感じた。何かが違う。だが、それが何かを言葉にできない。言葉にできない危険は、現場では危険として扱われにくい。アインシュタインの声が、記憶のどこかから遅れて戻ってくる。漏れは、思想より先に人を殺す。
彼は口を開きかけた。
医療担当がすぐに言った。
「喋るなら短く」と制され、「外周がまだ薄い。人を割く余裕がない」と続く。
「何だ。言葉を飲み込むな、声に出せ。」
「外周は薄い。塞ぐ札も足りない。」
「みんな分かってる。」
そう言われると、もう続かない。分かっている。人が足りない。彼が言えることは、その程度だった。その先の不発弾という言葉は、まだ形にならなかった。
現場へ向かう列は、いつもより広く、いつもより薄かった。
密集しないためではない。単純に、人員を割られているからだ。炉心側へ行く者、煙を見る者、地下水側へ向かう者、避難を下げる者、黒い破片を人から遠ざける者。どこも少ない。どこも足りない。戻る道を作るための縄はあるが、それを守る目は足りない。
建物の輪郭が見えた時、誰も声を出さなかった。
炉の上部は、壊れたまま空へ開いていた。火は赤く燃えているというより、黒いものの下で白く灼けている。煙は高く上がらず、風で押し潰され、地面に沿って流れる。屋根材らしき破片が散り、黒い塊があちこちに落ちている。人が拾える大きさだった。子どもでも持てる。だから一番悪い。
若い回収役が棒を握り直した。
「拾わせない。使えそうに見えるほど危ない、手を出させるな。」
顔を布で覆った男が頷く。
「拾う前に怒鳴るな、怒鳴ると見る。まず隠せ。」
「隠すものが多すぎる。」
「だから手を止める。」
避難者の一部は、まだ戻ろうとしていた。家族を探す者、家畜を連れ戻そうとする者、戸口へ置いた荷を取りに戻る者。黒い破片を見ていた少年を、若い回収役が無言で止めた。棒で手元ではなく視線の先を遮る。少年は怒る前に、遮られた視界で立ち止まった。そこへ別の者が外布を投げ、黒い破片を隠す。触る理由を消す。見せないことで止める。
「触るなと言え。優しい言葉で誤魔化すほど、手が伸びる。」
後ろから誰かが言った。
顔を布で覆った男が短く返す。
「言えば、何をと聞かれる。」
「じゃあ何だ。綺麗な言い方に逃げず、次の一手を決めろ。」
「見えなくしろ」と一言で決定が下された。最初の戻る道は、建物の西側へ置かれた。煙の流れ、風、黒い破片の散布、避難路、地下水側へ向かう低地を避けた結果、そこしかなかった。縄が張られ、外布の落とし場が作られ、咳をした者を横へ抜く場所が決まる。だが、いつもの線ではない。足場が悪い。地面は古い土で、ところどころに硬いものが埋まっている。石か、瓦礫か、金属か。見直しする時間はない。掘れば粉が舞う。叩けば音が響く。通るしかない。
片腕の女が、地面を見て眉を寄せた。
「地中、硬い。下に何かある。」
「建材か。」
「分からないで済ませるな。分からないなら、近づくな。」
アルフォンソは炉側を見た。黒い煙が低く流れ始めている。地下水側の者が、もう移動を求めている。避難側からも声が来る。どこかを選ばなければ、全部遅れる。
「仮線で置く。長く勝手に勝手に使うな。」
それが限界だった。
最初の爆発は、誰も驚かなかった。炉の側で音がした。建物内部の何かが崩れ、火が息を吐き、黒い破片が少し飛んだ。全員が身を低くし、黒札を置き直し、煙の向きを見た。予想の範囲だった。ひどいが、読める範囲だった。
二度目は、違った。
炉から離れた、戻る道のさらに外側で地面が割れた。音が遅れて来るのではなく、地面そのものが先に跳ねた。土が持ち上がり、古い金属片が斜めに飛び、縄が切れ、黒札が空へ舞った。熱ではない。炉の息でもない。地面の下から殴られたような爆発だった。
若い回収役が転がった。顔を布で覆った男が彼の襟を掴み、戻る道の内側へ引く。戻る道は、もう内側と呼べる形を失っていた。縄が切れ、外布の落とし場に土がかぶり、靴底を見る場所へ破片が刺さっている。
「何が爆ぜた」と誰かが叫んだ。
アルフォンソは、爆発した場所を見ていた。炉から離れすぎている。風の流れとも合わない。建材が破裂したにしては、破片の形が違う。飛んできた金属片のひとつが、炉材ではない。古い軍用品のような曲がりと厚みを持っている。
片腕の女が、破片へ近づきかけた若い人員を棒で止めた。
「触るな、触りたくなる形をしている物ほど先に捨てろ。」
「炉材じゃないが、だから触るな。理屈より先に手が出る、それが人間だ」と即答する。
地面の割れ目から、焦げた金属と土の臭いが上がった。黒い煙とは違う。炉の臭いでもない。古い火薬のような、乾いた腐敗のような臭いだった。
アルフォンソの顔が変わった。「この土地は」と途切れた問いを老人が低い声で引き取った。
「炉の前に、戦場だったのか。」
その言葉が出た瞬間、地図が別のものになった。
炉の地図では足りない。煙の地図でも足りない。地下水の地図でも足りない。戻る道の下に、爆発物があるかもしれない。黒札を置く場所にも、地中の危険があるかもしれない。避難路も、外周も、仮に安全だと思っていた地面も、すべて疑わなければならない。
若い回収役が、血の混じった唾を吐き捨てた。
「不発弾か、それとも古い地雷か。」
誰もすぐには答えなかった。答えたくない言葉だった。だが、誰も否定もしなかった。
アルフォンソは一瞬だけ目を閉じ、すぐ開いた。
「配置を割る」とアルフォンソが言い、片腕の女が切れた縄を見て「人が足りない」と応じる。「足りないまま割る。炉心側。地下水側。避難側。外周。不発弾疑い。この五つだ」と畳み掛けた。
「四つでも足りない。だから五つに割る。」
「五つだ、他は削れない。」
その声に、迷いはなかった。迷っていないのではない。迷う時間が死んだだけだった。
若い回収役は、爆発で崩れた戻る道を見た。戻る道はいつも、最後の頼りだった。外布を落とし、靴底を見せ、咳を隠さず、名前を呼ばれる前に息を整える場所。それが、炉から離れた地面の下から吹き飛ばされた。
「戻る場所が要る」と顔を布で覆った男が言った。
「作り直す。」
「また爆ぜたら引き直す。また作る」「それで足りるのか」という問いに、誰も答えなかった。
「足りない、だから割る。」
若い男は彼を見た。
顔を布で覆った男は、壊れた縄を拾わず、新しい縄を取り出した。
「足りないまま、やる。」
その言葉が、起きたことの全部だった。
炉だけを見れば死ぬ。地面だけを見ても死ぬ。煙だけを見ても死ぬ。不発弾だけを見れば、高濃度の破片が人の手に渡る。地下水だけを見れば、避難が遅れる。避難だけを見れば、黒い燃焼材が生活側へ入る。
アルフォンソは、五つに割るには薄すぎる人員札を見た。それでも札を割った。炉心側、地下水側、避難側、外周側、不発弾疑い地点。札は足りない。手も足りない。目も足りない。だが、どれかを空にすれば、そこから漏れる。
遠く、医療区画の寝台で、パヴェルは音だけを聞いた。
炉の爆発ではない音だった。遅れて、胸の奥が冷えた。あの断片が、ようやく形を取り始める。戦争。占拠。地雷。不発弾。だが、音がしたあとに気づいても遅い。彼は体を起こそうとし、固定具が軋んだ。
医療担当が飛びつく。
「動くな。」
「外周は見えてる。だが薄い。」
「納得しているなら、その顔で前へ出るな。足を止めろ。」
「違う、地面だ。あそこ、たぶん。」
言葉の先で、痛みが来た。肩から首へ走り、息が止まる。医療担当は彼を押さえ込み、額に手を当てた。
「今言うな。息をしろ」「言わなきゃ」「もう爆ぜた」という言葉が、息と一緒に短く漏れる。
その一言で、彼の顔が変わった。
責められてはいない。誰も責めていない。けれど、彼の中では何かが落ちた。知っていたかもしれない。繋げられたかもしれない。いや、できなかった。情報はなかった。体も動かなかった。言葉にできなかった。それでも、できなかったことだけは事実として残る。
現場では、二度目の戻る道が張られていた。
張られた瞬間から、そこも疑われていた。地面の下が分からない。放射性物質の位置も分からない。煙の向きも安定しない。それでも、線がなければ戻れない。戻れなければ、誰も次へ入れない。
片腕の女が、新しい書き残し板を開いた。前の板は爆発で角が欠けている。
「炉心側と地下水側、避難側と外周側、不発弾疑い。戻る道は再設置する。警備専任はない、だから前線が兼任する。」
筆が一瞬止まる。
「この計画は、もう成立していない。」
アルフォンソは言った。
「それでも動かす。書き残しは、成立していない計画を動かすと書け」とアルフォンソが続ける。
片腕の女は、言われた通りに書いた。短い一文だった。だが、その場にあるすべての歪みが入っていた。
成立していない計画を、動かす。
黒い煙がまた低く流れた。炉の火は消えていない。地面の下には、まだ何かが眠っているかもしれない。戻る道は一度消えた。人員は五つに割られた。警備だけを見る者はいない。全員が、何かを兼ねるしかない。
壊れる音は、まだ始まったばかりだった。
二本目の縄は、一本目より低く張られた。
高く張れば見やすい。見やすい縄は、人の目を安心させる。だが、さっきの爆発で切れた縄は、目立つ高さにあった。飛んだ破片がそこを持っていった。低く張れば足を引っかける危険がある。高く張れば破片に切られる。どちらも正しくない。片腕の女は、結び目を作る男の手元を見ながら、書き残し板に「暫定戻る道。」と書いた。安全線とは書かなかった。安全ではない。ただ、そこを失えば誰も戻れない場所だった。
若い回収役は、切れた縄の残りを見ていた。端が焦げている。刃物で切れたのではない。爆風で持っていかれたのでもない。熱い金属片が絡み、引きちぎったような切れ方だった。炉から離れた場所で、それが起きた。足元の土が、もうただの土ではなくなっている。踏めばいい場所、置けばいい場所、膝をつけばいい場所、そういう区別が全部壊れた。
「安全じゃない線を戻る道って呼ぶのか。」
彼が言うと、顔を布で覆った男が、土を踏まないように横へ回りながら答えた。
「戻れるなら戻る道だ。」
「戻れなかったらって何だ。ごまかすな、ここで言え――忘れた頃に人が触る。」
「それなら、作り直す。」
「それなら、また爆ぜたら。」
「また作り直す。」
「それで人が足りると思ってるのか。」
「それなら、足りない。」
即答だった。若い男は一瞬言葉を失った。慰められると思っていたわけではない。それでも、足りないという言葉が真正面から来ると、喉の奥が詰まった。
顔を布で覆った男は、切れた縄を拾わなかった。拾えば使い道を探す。使い道を探すと、焦げた場所を触る。触れば、また誰かがそれを手伝う。彼は新しい縄だけを結び、古い縄には黒札を置いた。
「じゃあ、なんでやるんだよ。」
若い回収役の声は低かった。
「足りないまま漏らさないためだ。」
それだけで、会話は切れた。切れた方がよかった。長く話すと、煙を吸う。
地図は、すでに地図ではなくなりかけていた。炉の位置、建物の残骸、煙の流れ、黒い燃焼材の散布、地下水へ向かう低い土地、避難路、戻る道、不発弾疑い地点。線が重なりすぎ、札が足りなくなり、片腕の女は黒札の角を切って種類を増やした。丸い切れ込みは炉心由来。斜めの切れ込みは地中爆発疑い。穴二つは踏むな。穴三つは拾うな。説明を書けば読む者が寄る。形だけで避けさせるしかなかった。
アルフォンソは地図の前に立っていた。立っていること自体が、もう仕事になっているように見えた。彼は炉側を見て、地下水側を見て、避難路を見て、外周を見て、不発弾疑い地点を見た。五つを見るには、目が二つでは足りない。情報調査の席も、ルート設計の席も、人事判断の席も空いたままだ。誰かが代わりに座れば、その席の機能まで戻ったように錯覚する。だから誰も座らない。だが、座らない分だけ、アルフォンソの肩へ全部が乗る。
「割合を切る」と彼が言った。
片腕の女が筆を構える。
「正確な数ではない。」
「作戦用でいい。四割が地中の爆発物、五割が炉心由来、残りが火災と崩落煙での避難失敗だ」と告げられ、若い回収役が「そんな適当な」と顔を上げるが、アルフォンソは見なかった。
「適当にしないと動けない。正確に測る時間があれば、人が減る。」
「でも、四割では足りない。」
「放射性の破片を避けた先で地面が爆ぜる、地面を避けた先に黒い燃焼材がある。煙を避けると地下水側へ落ちる、地下水を避けると避難路を塞ぐ。数字は目安だ。安全地帯がないことだけ分かればいい。」
若い男は黙った。数字そのものではなく、逃げ道がないという言葉が刺さったのだろう。
最初に崩れたのは外周だった。
炉側から少し離れた道で、黒い破片を拾おうとした子どもがいた。指先が伸びる。若い回収役が走りかけ、顔を布で覆った男が彼の肩を押した。
「怒鳴るな。触るぞ、怒鳴れば子どもが反応して視線が黒い破片へ向く」と制されて、若い男は歯を食いしばり棒を伸ばした。子どもの手ではなく、黒い破片と子どもの視線の間を塞ぐ。別の者が外布を投げる。黒い破片が隠れる。子どもは初めて、目標を失って足を止めた。そこでようやく、避難誘導の者が腕を引く。泣き声が上がった。若い男はその声に顔つきしかけたが、顔を布で覆った男が短く言った。
「泣ける距離で止めた。」
「理解しているなら、その顔で前へ出るな。足を止めろ。」
「足が前へ出かけてる。」
「分かってても嫌なんだよ。」
「嫌で手が止まるなら、残せ。」
彼は返さなかった。黒い破片の上の外布へ黒札を置いた。拾うな。近づくな。見るな。札には何も書かない。ただ、形だけが嫌な意味を持つ。
別の道では、焼けた金属片を大人が持ち上げようとしていた。道具に見えたのだろう。曲げれば使えそうな厚みだった。避難誘導に出ていた者がそれを見つけ、避難列を一瞬だけ止めてしまう。その間に後ろの人が詰まる。詰まった人の一部が、煙の低い道へ押し出される。たった一つの金属片で、人の流れが曲がった。
「外周が足りない」と書き残ししながら片腕の女が言い、「分かっている」とアルフォンソが早く返した。だが、その次が遅れた。早かったが、その次が遅れた。彼は炉側の札を見てから、地下水側を見た。
「回収役を二人、接近阻止へ。」
「炉心側が薄くなる。」
「黒い燃焼材は隠せ、拾わせない方を優先する。見えている破片より、拾う手の方が速い。」
「地下水側は」「一人減らすな、切るな」「医療は」「咳を隠した者から順に下げる、煙を吸った者を先に、軽い火傷は後回し」と指示が続いた。
片腕の女は書きながら、アルフォンソの顔を見た。彼の返事は正しい。だが、返事の間に、一拍ずつ空白が増えている。
地下水側へ向かった者は、地面の音を聞いていた。棒で叩くことすら危ない。強く叩けば地中の何かを刺激するかもしれない。弱く叩けば空洞を見落とす。掘ることはできない。重い瓦礫も落とせない。水を流すこともできない。高濃度の汚れ水が下へ向かえば生活圏へ広がる。だが、それを止めるために踏み込めば地面が爆ぜるかもしれない。
「止めるのは無理だ。」
地下水側の男が言った。
「遅らせろ」と老人が答え、「どれだけ」という問いに「分かるほど遅らせる時間はない」と返す。
「じゃあ、どう書く。」
「生活側へ向かう流れを少し鈍らせた、と書く。」
「それなら、それで足りるか。」
「足りない。だが、何もしないよりは遅い。」
外布を棒の先で押し、流れの浅いところへ置く。置いただけでは止まらない。瓦礫を乗せたいが、重いものを落とせない。軽い木材だけを上から斜めに入れる。泥が少し動く。動きすぎる前にやめる。完全に塞がない。完全に塞げない。黒札を置く。ここも安全ではない。近づくなという意味ではなく、近づけば何もかも悪くなるという印だった。
別の場所で、三度目の小爆発が起きた。
今度は大きくはなかった。だが、大きくない爆発ほど怖かった。地面の下に、まだ似たものがあると教えるだけの音だった。飛んだ土の中に、古い金属の破片が混じっていた。炉材ではない。誰かが拾おうとする前に、顔を布で覆った男が棒で弾き、外布を被せた。
「不発弾札が足りない。」
片腕の女が言った。
「黒札を切って種類を増やせ」「切りすぎると意味が混ざる」と意見が交わされる。
「三種だけ残せ、踏むな、掘るな。置くな。」
「火は消す火じゃない。焦って近づけば、先に喉が焼ける。」
「札では間に合わない。人を立てる。」
「警備班返事だけで済ませるなない。」
「知ってる」とだけ返って、その重さが場に落ちた。警備班はいない。置かなかったのではない。置けなかった。だが現場は、その理由を許してくれない。警備がいないなら、誰かが拾う。誰かが戻る。誰かが近道をする。誰かが地面へ重い荷を置く。
パヴェルは、寝台の上でその報告を聞いていた。
扉の向こうから声が途切れ途切れに届く。不発弾。地中。外周。戻る道。炉心。地下水。言葉が、彼の中で遅れて組み合わさる。胸の奥に、冷たい塊が置かれたようだった。知っていたかもしれない。いや、知っていたと言えるほどのものではない。ニュースを毎日追ったわけでもない。詳細な地図を持っていたわけでもない。自分がこの世界に来た時点で、その後の戦争情報をまともに保持していたわけでもない。それでも、断片はあった。ウクライナ。占拠。塹壕。地雷。不発弾。あの土地。炉の周辺。
彼は「伝えられたか」と小さく言った。
医療担当が、布を替える手を止めた。
「何を伝えた。」
「地面のことだ」「もう伝わった」「爆ぜてからじゃないか」「爆ぜる前に言える言葉だったか」と言葉が絞り出されては返ってくる。
パヴェルは答えられなかった。言える言葉ではなかった。地名も、時期も、危険の密度も、作戦へ変えるだけの形になっていなかった。だが、言えなかったことと、爆ぜたことは別々に心へ残らない。ひとつの塊になって沈んでいく。
「俺が行く、そこは俺が見る。」
「今それを言う体じゃない。」
「体の話じゃない」「今それを言う時間でもない」と押し戻される。
「じゃあ、いつだよ。」
医療担当は少し黙った。
「生きてから」という言葉がそれ以上を封じた。生きてから。今の現場にいる者たちに、それがどれほど遠い言葉か分かっているからだ。
現場の会話は増えていた。
増えたのは、通じるようになったからではない。言うべきことが増えすぎたからだ。黒い破片。黒札。地下水。水側。不発弾疑い。踏むな。進むな。戻れ。戻すな。拾うな。隠せ。似た音が煙の下で混ざる。別の言語の短い叫びが重なる。誰かが「黒」と言えば、黒札なのか黒い燃焼材なのか一瞬分からない。誰かが「水」と言えば、地下水なのか洗う水なのか飲ませる水なのか分からない。
片腕の女は札を増やそうとして、手を止めた。
「増やすと遅れる」と老人が言い、「減らすと混ざる」「位置で分ける、炉側の黒は破片、線側の黒は札。水は下を指す時だけ地下水。持つ水は手を上げる。」
「手振りが増えるな」「声よりましだ」と決まり、その場で決まった手振りは美しくなかった。片手を下げれば地下水。手の甲を上に向ければ触るな。拳を閉じれば拾うな。棒を横にすれば進むな。似ている。完全ではない。だが、声より速い。煙が喉を削る場所では、声を節約する決めた手順も命綱になる。
炉心側では、黒い燃焼材を外布で覆う仕事が続いていた。誰も拾わない。拾えば分かるかもしれない。重さも、熱も、形も、何から剥がれたのかも分かるかもしれない。だが、それを知るために持ち上げる手は、人の体を壊す。だから覆う。見えなくする。触りたい理由を消す。
若い回収役は、黒い塊のひとつへ外布を落とした。大きさは拳ほど。焼けた石にも見える。子どもなら宝物にするかもしれない。彼はそれを見ないようにしながら、布の端を棒で押さえた。
「これ、どれくらい悪いんだ。」
顔を布で覆った男が答えた。
「悪さを測るために近づくな。」
「そうじゃなくて、もっと詳しく――」という言葉を「悪いと分かるだけで足りる」と遮られる。
「足りないことばっかだな。」
「足りないまま触るな。」
その返しは冷たかったが、彼は頷いた。足りない情報を埋めたくなるほど、足が前へ出る。そういう場所だった。
避難側では、母親が家へ戻ろうとしていた。子どもが見つからないと言っていた。戻らせるな、と言うのは簡単ではない。戻せば死ぬかもしれない。止めれば、その子どもを置いていくことになるかもしれない。避難誘導の者は、言葉を失いかけた。そこへ、片腕の女が駆けつけた。
「子の名前は。」
母親は叫ぶように言った。
子の名と年を聞き、片腕の女が書き残しする。「探す者を出す。あなたは戻らない」と告げられ、「私が探しに——」と食い下がる母親に「あなたが戻ると探す者が二人増える」と返す。
「でも、その名ならまだ探せる。」
「あなたを探す者と、子どもを探す者だ。」
母親は泣きながら膝を折った。納得ではない。体から力が抜けただけだった。避難誘導の者が彼女を支え、煙の低い道から外す。片腕の女は子どもの名を書き、炉側とは別の札へ挟んだ。探す余裕があるかは分からない。だが、名前を聞かずに下げれば、母親は必ず戻る。
アルフォンソは、それを見ていた。見て、次の指示を出すまでに一拍遅れた。
片腕の女が顔を上げて「アルフォンソ」と呼び、彼はすぐ返した。
「地下水側を切るな、炉心側から一人避難側へ。外周は黒札だけ置いて戻れ。不発弾疑い地点へ重いものを置くな。」
正しい。まだ正しい。だが、正しさが遅れている。
顔を布で覆った男も気づいた。若い回収役も気づいた。誰も言わない。言えば、彼を下げる話になる。彼を下げれば、現場がさらに割れる。下げるべき人間を下げられない。ユスティティアが最も嫌う状態が、目の前で成立していた。
「休め」と老人が低く言った。
アルフォンソは首を横に振り、「休む場所がない」と返す。「場所ではなく、時間だ」と老人が続ける。
「時間もない。」
それきりだった。
承の後半、ユスティティアの者たちは、自分たちが死ぬかもしれないことを口にしなくなった。知らないからではない。分かりすぎていて、言う必要が消えたからだ。誰も勝てるとは思っていない。誰も安全だとは思っていない。撤退すれば自分だけは助かるかもしれないことも分かっている。その上で、黒札を置いた。外布を落とした。母親を止めた。黒い破片を隠した。地下水側へ行く人の足を止めた。不発弾疑いの地面へ重い荷を置く男を殴ってでも止めた。
それは勇敢さではなかった。仕事だった。
死ぬと分かった上での、仕事だった。
四度目の爆発は遠かった。だが、遠いはずの爆発で、アルフォンソの体が揺れた。爆風ではない。彼の内側で何かが切れたような揺れだった。片腕の女が手を伸ばす前に、彼は地図へ手を置いた。倒れないためではなく、最後の配置を切るためだった。
「炉心側、薄くしろ。」
声はまだ出ていた。
「地下水側は切るな、避難側を止めるな、不発弾疑い地点は踏むな。戻る道を、もう一度。」
そこで声が途切れた。
彼は膝から落ちた。倒れた音は小さかった。周囲の爆発や火の音に比べれば、あまりに小さかった。けれど、その場にいた者には、どの爆発より重く聞こえた。
若い回収役が飛び出しかけた。
顔を布で覆った男が彼を止めなかった。止めるべきか迷った。その迷いより早く、片腕の女が「黒札」と叫び、叫ばれた者が手元の札を地面へ落とした。倒れたアルフォンソではなく、不発弾疑いの地面へ。別の者が外布を炉心側の黒い破片へ被せた。さらに別の者が、地下水側の低い道へ縄を張り直した。誰もアルフォンソを軽く見ていない。誰も彼を見捨てたいわけではない。だが、彼自身が切った配置が、先に手を動かした。
片腕の女は、アルフォンソの横へ膝をついた。息を見た。脈を取った。目を見た。表情を変えなかった。変えなかっただけで、顔の色が落ちた。
「医療」という掠れた声が漏れた。
医療担当が走る。だが、その走る道も真っ直ぐではない。不発弾疑いの地面を避け、黒い燃焼材を避け、煙の低い場所を避け、切れた縄を跨ぐ。急ぎたい時ほど、道が曲がる。
若い回収役は、そこでようやくアルフォンソへ近づいた。近づいて、何もできなかった。彼の手には棒がある。黒札を置く決めた手順は知っている。外布を落とす決めた手順も知っている。だが、倒れた指揮者を戻す決めた手順は、手元にない。
顔を布で覆った男が、横で低く言った。
「見るな。」
「見なきゃ。」
「見て止まるな」という声に、若い男は歯を食いしばってアルフォンソから目を剥がした。炉心側の黒い破片が、まだ外布の隙間から見えていた。彼はそちらへ向かった。足が震えていた。だが、動いた。
片腕の女は、書き残し板へ書いた。
アルフォンソ、指揮不能。
その横に、次の行を書いた。
仕事継続。
その二行は、冷たく見えた。だが、冷たさではない。止まれば漏れる。全員がそれを知っていた。知っているから、倒れた者の横で、決めた手順が先に動いた。
黒い煙がまた低く流れた。地面の下には、まだ何かが眠っている。炉は開いている。地下水は待ってくれない。避難者は戻ろうとする。黒い破片は人を呼ぶ。
ユスティティアは、ついに頭を失った。
それでも、誰も仕事をやめなかった。
片腕の女は、アルフォンソの書き残し板を拾わなかった。
板は彼の手の横に落ちていた。土と煤が角に付いている。拾えば、彼の代わりに指揮を取る形になる。拾わなければ、最後の指示が散る。彼女は一瞬だけ手を止め、板ではなく、その上に書かれた行を声に出した。
「炉心側を薄くする。地下水側は切らない。避難側を止めない。不発弾疑い地点は踏まない。戻る道を作り直す。」
誰かが返事をしたわけではなかった。だが、動きは戻った。黒い燃焼材へ向かっていた者は、外布を一枚だけ落として下がる。地下水側の男は縄を握り直す。避難側の二人は、煙の低い道へ戻ろうとする者の前へ立つ。顔を布で覆った男は、倒れたアルフォンソへ行く道と炉心側へ行く道を見比べ、炉心側へ足を向けた。見捨てたのではない。見れば止まるからだった。
若い回収役は、その背中を見て歯を食いしばった。
「先に行くのかよ」と若い回収役が食い下がるも、「先に塞ぐ。アルフォンソが——」「彼の最後の指示だ」「最後って言うな」という言葉が背中越しに交わされ、顔を布で覆った男は振り返らなかった。
「言わなくても、最後になるものはある。」
若い男は殴りかかるように一歩出かけ、そこで止まった。足元の土が安全かどうか、もう誰にも分からない。怒りで踏み出す場所ではなかった。彼は喉の奥で息を潰し、別の外布を掴んだ。掴みすぎて爪が布へ食い込みかける。すぐ手を開く。布を破けば、その一枚で隠せるはずだった黒い破片が見えるまま残る。
二本目の戻る道は、煙で使えなくなった。炉の側から流れていた黒い煙が、低い風に押されて戻る道の上へ折れた。医療担当がアルフォンソへ向かう途中で足を止め、彼の顔を見るより先に、煙の下を通る者へ手を振った。
「そこを通るな」「戻る道だぞ」「もう違う」という三言が煙の中で交わされ、片腕の女が書き残し板の文字を削った。暫定戻る道。その隣に、新しく「一時戻る道。」と書く。暫定という言葉には、まだ少しの安定がある。今の線には、それもない。使える間だけ使う。煙が来れば捨てる。爆ぜれば捨てる。黒い破片が飛べば捨てる。線は命綱ではなく、切れる前提の細い糸になった。
三本目は黒い燃焼材に近すぎた。四本目は地下水側の低地へ寄りすぎた。五本目を張ろうとした時、地面の下で鈍い音が鳴り、全員の動きが止まった。爆発ではない。だが、鳴った。鳴った地面へ縄を張る者はいない。鳴らなかった地面が安全とは限らない。それでも鳴った地面よりはましだった。まし、という言葉だけで、人は動いた。
職能はもう形を保っていなかった。
回収役が避難者の腕を止め、避難誘導の者が黒い燃焼材へ外布を落とし、書き残し担当が煙の高さを見ていた。医療補助が不発弾疑いの札を置き、戻る道担当が子どもの手を棒で遮る。火傷をした男が袋の口を縛り、咳をしている女が札の角を切っていた。全員、自分の仕事だけをしていたら、どこかが空く。空いた場所から漏れる。だから、誰も自分の仕事だけをしていなかった。
その代わり、すべてが遅れた。
避難誘導の者が外布を落とすと、端がずれた。回収役が人を止めると、説明が足りず、相手が怒って煙の下で立ち止まった。医療補助が黒札を置くと、不発弾疑い地点との距離が近すぎた。書き残し担当が煙を見れば、書き残し板が止まる。ひとつ補うたび、別の場所が薄くなる。薄くなった場所をまた誰かが補う。その繰り返しで、人の輪郭が削れていった。
炉心側では、黒い燃焼材がいくつも見えていた。
手で拾える大きさが一番悪かった。大きすぎれば避ける。小さすぎれば見落とす。拳ほどの黒い塊は、拾いたくなる。何かに使えると錯覚する。若い回収役はそれを見つけるたび、外布を棒で送り、塊の上に落とした。覆う。端を押さえる。そこから離れる。三つ目を覆ったところで、手袋の中の指先が鈍くなった。
「背中を向けろ、下がる理由まで口にしなければ次の者が近づく。」
顔を布で覆った男が言った。
「まだ一つ見えてる。」
「見えてるから、次の者が行く。」
「俺が引く」と言いかけた者へ、「下がれ。下がる理由まで口にしなければ次の者が近づく」と押し戻す。
「分かっているなら、その顔で前へ出るな。足を止めろ。」
声が大きくなった。大きくした瞬間、彼は自分で口を閉じた。煙を吸う。怒鳴ると吸う。吸えば、仕事が減る。彼は外布の束を別の者へ渡した。渡す時に、手袋の指が一拍遅れた。それを自分でも見た。見たから、さらに何も言えなくなった。
地下水側では、軽い木材が足りなかった。
重い瓦礫は置けない。落とした衝撃で地面の下が起きるかもしれない。掘れない。叩けない。踏み込めない。流れを止めるのではなく、生活側へ向かう筋を少し鈍らせるだけだった。外布を棒で押し、泥の縁へ差す。細い木材を斜めに入れる。そこへ黒札を置く。黒札が沈みかける。手で直したくなる。誰も手を出さない。
小さな爆発が、その近くで起きた。
大きくはなかった。だが、外布が一枚飛び、木材がずれ、地下水側の男が膝をついた。破片は当たっていない。爆風で足元を取られただけだった。彼は、飛んだ外布へ手を伸ばした。道具を失うのが惜しかったのだろう。あるいは、その外布が汚れを受け止めていると分かっていたのだろう。
顔を布で覆った男の声が飛ぶ。
「拾うな、持ち帰った顔をした瞬間に人が寄る。」
「まだ使える、だが拾うな。」
「落としたなら、そこが片付け済みだ。」
「でも、拾えば次が止まる。」
「拾えば未片付けになる。」
男の手が止まった。飛んだ外布は、泥の上に斜めに貼りついている。予定した位置ではない。だが、そこへ人が近づくよりはましだった。片腕の女が、震える筆で書き残しする。外布一、予定外片付け済み。片付け済みという言葉が、その場ではひどく乱暴に見えた。だが、それ以上近づかせないためには必要だった。
不発弾疑い地点は、点ではなくなっていた。
最初の爆発点から、古い金属片が出た。次の小爆発で、別の方向から土が上がった。硬い音のする地面が増えた。空洞音のようなものもある。炉の地図はある。煙の地図もある。避難路も、地下水の低地も分かる。だが、地面の下の戦争は地図にない。地図にないものが、足元を選ばせる。地図は、見るたびに頼りなくなった。
パヴェルは、後方の寝台で報告を聞いていた。
言葉が一つ届くたび、胸の中の冷たい塊が大きくなる。不発弾疑い。古い軍用品。地中爆発。警備なし。外周が薄い。彼は喉を開こうとして、声にならなかった。止めたい。何を止める。全部か。炉心側の外布か。地下水側の木材か。避難者の接近阻止か。どれも止めれば、別の場所が漏れる。止めるための言葉が、止めた後の被害に潰されていく。
「もう戻れ。」
ようやく出た声は、部屋の中で小さく落ちた。
医療担当が振り向く。
「誰に回す」「誰でもいい、今は止めろ」という短い問答が返ってくる。
「それで戻る現場じゃない。」
彼は目を閉じた。分かっている。分かっているから、声が弱くなる。相手が間違っていれば怒れる。狂っていれば縛れる。命令なら破れる。だが、彼らは正しい。正しい場所へ向かって、死ぬ方へ歩いている。止めれば、もっと広がる。分かる。分かってしまう。
避難側では、若い回収役が大人の男を棒で止めていた。
男は家へ戻ろうとしている。母親ではない。子どもでもない。荷を取りに行くと言っている。種籾がある、家畜がいる、戸板が必要だ、そんな言葉が煙の下で飛んだ。若い回収役は説明しなかった。説明すれば男が立ち止まり、煙を吸う。彼は棒を横にし、相手の胸へ当てた。
「戻るな、そこはもう地雷の口だ。踏み直せば終わる。」
「どけ」「戻るな、地面ごと割れる」「俺の家だ」「戻るな、踏み直したら終わる。戻る手を先に考えろ」という押し問答が繰り返される。
殴られそうになった。棒が揺れた。若い男は言い返さず、相手の足元へ外布を投げた。布の向こうに黒い破片が隠れている。何があるか見えない道へ、男は一瞬だけ足を止めた。その隙に、避難誘導の者が横から腕を引く。男は罵った。若い回収役は返さなかった。返す言葉がないのではない。返せば、相手がまた止まるからだった。
煙の流れが変わり、二本目の一時戻る道も捨てられた。
片腕の女の書き残し板には、線が増えすぎていた。彼女は古い線を消さない。消すと、そこが使えるように見える。使えない線として残す。地図は見にくくなる。見にくいほど、現場に近づいていく。綺麗な地図は、もう嘘だった。
アルフォンソは、横たえられたまま医療担当に見られていた。彼の顔は動かない。息は薄い。声は戻らない。片腕の女は何度もそちらを見そうになり、そのたびに書き残し板へ目を戻す。彼が生きているかどうかを知りたい。だが、それを確かめる役は医療担当がしている。彼女が見ると、手が止まる。手が止まると、札が遅れる。
「最後の指示を、もう一度だけ言え。」
顔を布で覆った男が言った。
片腕の女は喉を鳴らした。
「炉心側を薄くする。地下水側は切らない。避難側を止めない。不発弾疑い地点は踏むな。戻る道をもう一度作る。」
「もう一度、同じ手順で。」
「炉心側を薄くする。地下水側は切らない。避難側を止めない。不発弾疑い地点は踏むな。戻る道をもう一度作る。」
三回目は、周囲の者も口の形だけで合わせた。声にはしない。煙を吸うからだ。指揮官はいない。新しい代表もいない。残っている指示を、擦り切れるまで使うだけだった。
炉心側へ向かった女が、外布を落としたあと戻る道の手前で膝をついた。
倒れたのではない。少なくとも、最初はそう見えなかった。彼女は右手で黒札を持ち直し、置いた札の向きを直した。風でずれていた。ずれたままだと、踏むなと拾うなを間違える。膝をついたまま、札の切れ込みを正しい向きにする。そこまでしてから、彼女の肩が落ちた。
若い回収役が走りかける。
「待て、そこは危ない。」
顔を布で覆った男が止める。
「今度は何だよ、足元か。」
「足元を見ろ」と制され、若い男は足元を見た。戻る道の手前に、小さな金属片があった。炉材か、不発弾の破片か、何か分からない。踏めばどうなるかも分からない。彼は一歩横へずれた。ずれてから、膝をついた女へ向かう。遅れた。だが、その遅れで踏まなかった。
女はまだ息をしていた。彼女は自分の胸ではなく、札を指した。
「向きは?」という問いに若い回収役が「直ってる」と答えた。
「直ってるから、戻れ。」
「線はある、まだ使える」「一時でしかない」「一時でも残る」という応酬のあと、彼女は少しだけ頷いた。運ばれる時、黒札から手を離した。離すために膝をついたのだと、若い男はそこで理解した。戻るより先に、札を残した。自分が戻れなくても、次の誰かが踏まないように。
後方で、パヴェルはその報告を聞いた。
声を出そうとした。喉が開かない。止めろと言いたい。もう戻れと言いたい。札なんてどうでもいいと言いたい。どうでもよくない。分かっている。札がずれれば、誰かが踏む。誰かが拾う。誰かが戻る。彼女は正しい。だから何も言えない。
医療担当が彼の顔を見た。
「息をしろ」という言葉に、パヴェルは浅く吸った。浅く吐いた。声は出なかった。
現場では、誰も彼の方を見ていなかった。見ていないのは、無視ではない。見ると止まるからだった。後方で折れかけている男を見る余裕があるなら、目の前の黒札を置く。外布を落とす。子どもの手を止める。地下水側へ木材を差す。倒れた者を運ぶ前に、袋の口を閉じる。袋を閉じてから、人を引く。
ユスティティアは、もう組織の形をほとんど失っていた。
アルフォンソは戻らない。三人の幹部は機能しない。監視だけを見る者はいない。戻る道は一時線になり、職能は混ざり、札は切れ込みだらけになり、地図は見にくくなり、誰がどこの所属かも意味を失った。
それでも、決めた手順だけが残った。
黒札を置く。外布を落とす。拾わせない。水を分ける。踏ませない。咳を隠さない。戻れるなら戻る。戻れないなら、次の者が踏まない形だけ残す。
片腕の女は、書き残し板へ書いた。
組織指揮なし。決めた手順継続。
その文字は細かった。だが、消えなかった。
遠くでまた、地面が鳴った。誰も安全とは言わない。誰も勝てるとも言わない。
間違っていないまま、壊れていく音がした。
医療担当は、アルフォンソの瞼を閉じなかった。
閉じるには、まだ早いという意味ではない。閉じるために手を使えば、その手を洗い、布を替え、触れた場所を書き残ししなければならない。今の戻り場には、死者へ向ける決めた手順すら余っていなかった。彼の胸は動かず、喉も鳴らず、瞳は煙と黒い空を映したまま止まっている。急性被曝か、毒煙か、爆風か、疲労か、心臓か、熱か。医療担当はどれか一つに丸をつけなかった。つけられなかった。ここでは原因がひとつである方が嘘だった。
片腕の女は、彼の名前を書かなかった。
先に書けば、そこで手が止まる。彼の死を書き残しの中央へ置けば、全員がそこへ目を引かれる。目を引かれた者は足を止める。足を止めれば、炉心側の黒い破片が見えたまま残る。地下水側の外布が浮く。避難路へ戻る者が増える。彼女は書き残し板の端に、ただ「指揮不能、回復なし。」とだけ書いた。死という言葉を避けたのではない。死を大きく書く余裕がなかった。
若い回収役は、まだ彼のそばにいた。
「閉じないのか」という声は、怒りにも責めにもなりきらなかった。何かをしなければならないのに、何をしても間違いになる声だった。
医療担当は、アルフォンソの首元から手を離した。
「今は閉じない」「死んでるだろ」という言葉が低く重なった。
「だから、今は閉じない。」
「意味が分からない。」
顔を布で覆った男が、横から低く言った。
「意味を分かる時間がない。」
若い男は振り向いた。殴りそうな顔だった。だが、拳は上がらない。上げれば布が落ちる。布が落ちれば、また誰かが拾うかどうかで迷う。迷うだけで、砂のない時計が落ちていく。
片腕の女が、アルフォンソの最後の指示を読み上げた。
「炉心側を薄くする。地下水側は切らない。避難側を止めない。不発弾疑い地点は踏まない。戻る道をもう一度作る。」
読み上げるたびに、言葉は少しずつ指揮ではなく決めた手順になっていった。誰も返事をしない。返事をすれば、それを命令として受けた誰かが立つ。立った者へ周囲の目が集まる。目が集まれば、その者は潰れる。だから、誰も新しい指揮官にはならなかった。残っている五つだけが、倒れた男の代わりに歩く。
監視班の見直しは、昼を過ぎても終わらなかった。
見直しできた者は少ない。戻り路の外で倒れていた者、煙の下へ入って戻らなかった者、避難者を追って姿が消えた者、黒い破片を拾おうとした人間を止めたまま爆発に呑まれた者。遺体がある者もいれば、布切れだけがある者もいる。名前を書ける者と、書けない者がいた。片腕の女は、「全滅。」とは書かなかった。見直しできない名前を、死体の数に押し込めることはできない。だが、実務上はもういない。外周だけを見る目は消えた。戻る者を止める専任も、拾う者を追う専任も、地面の違いを見る専任も消えた。
彼女は「監視、機能なし」と書いた。
若い回収役が、聞こえたのか聞こえなかったのか分からない顔で笑った。
「機能なし、か。便利な言い方だな。」
顔を布で覆った男が答える。
「便利な言い方でないと、書けないことがある。」
「死んだって書けばいいだろ。」
「死んだと書ける者だけならな。」
若い男は口を閉じた。言葉が残酷すぎたからではない。現実の方が、言葉より残酷だったからだ。
戻る道は、もう線ではなくなっていた。
外布を落とす場所がひとつ。靴底を見る石がひとつ。咳を隠させないために横へ向かせる壊れた柱がひとつ。倒れた者を一度だけ寄せるための凹みがひとつ。黒札を置くために棒で押せる距離がひとつ。そこから先へ行ってはいけない印がひとつ。点だけが残っている。点と点の間は、安全ではない。通るしかないから通る。線があるふりをするのをやめただけだった。
片腕の女は、書き残し板の地図から線を消さなかった。消せば、そこが使える場所に戻る。代わりに、線の上へ細かな斜線を入れた。使えない線。失われた線。煙に食われた線。爆発で壊れた線。黒い燃焼材へ近すぎた線。地下水側へ寄りすぎた線。地図は汚くなった。だが、綺麗な地図より正しかった。
炉心側から戻ってきた女は、手袋の指先を見ていなかった。
見ると、動かないことが分かるからだろう。彼女は黒い燃焼材の上へ外布を落とし、棒の先で端を押さえ、戻り点の手前で膝をついた。倒れたのではない、と彼女自身が主張するように、左手だけがまだ黒札を持っていた。札の切れ込みが逆を向いている。逆のままだと、拾うなと踏むなを間違える。彼女は膝をついたまま、札を直した。指先が動かないので、手首ごと押して向きを変えた。
若い回収役が駆け寄った。
「もういい、戻れ」という声に、女は息を吐いた。返事ではなかった。肺の中に残った煙を、少しだけ外へ出しただけだった。
「札はある」「それなら、直ってる」と確認が交わされる。
「見たって何だ。ごまかすな、ここで言え――今動かなければ遅れる。」
「見た。」
「なら、いい」という言葉と共に彼女は体を預けた。若い男は抱えようとして、直接触れないことを思い出した。外布を使う。棒を使う。腕の下へ通す。焦るほど、決めた手順が遠い。彼は歯を食いしばりながら、決めた手順通りに彼女を引いた。決めた手順通りでなければ、彼女の体も、自分の手も、戻り点も壊す。
地下水側では、男が吐いた。
吐いたものへ、彼自身が布をかけた。誰かに言われる前だった。胃液か、煤か、血か、薬品を含んだものか、もう分からない。分からないものは分からないものとして覆う。彼は口元を拭わず、棒で外布を押してから、生活側へ向かう流れの縁へ軽い木材を差した。木材はすぐ濡れた。止まらない。止まるはずがない。けれど、流れの筋が少し曲がった。
「足りない。だから埋めるな。」
彼は言った。
老人が近くで答えた。
「足りないまま残せ。埋めようとするな。」
「足りないって書け。隠すな。」
片腕の女はそれを聞いて、書き残しした。地下水側、完全遮断なし。生活側流入、わずかに遅延。足りず。
足りず。
その二文字は、現場のあちこちにあった。外布、足りず。札、足りず。医療、足りず。人員、足りず。情報、足りず。戻る道、足りず。けれど、足りないことは何もしない理由にならない。足りないまま、置けるものを置くしかなかった。
避難側で、若い回収役は大人の男を殴った。
殴ったと言っても、拳ではない。棒の腹で胸を押し、足を払うように道を外した。男は家族を探すと言っていた。見つからないのは本当なのだろう。目は血走り、声は割れていた。彼の理由は正しかった。正しい理由でも通せない。通せば、煙の低い道へ入り、黒い破片のそばを通り、不発弾疑いの地面を踏む。探される者が一人から二人へ増える。
「ふざけるな」と男が叫んだ。
若い回収役は言い返さなかった。言い返せば、男が立ち止まる。周囲が振り向く。黒い燃焼材を見る。だから返さない。棒を横にしたまま、男の視界を遮り、避難誘導の者へ顎で合図した。男は罵りながら引かれていった。若い男の手は震えていた。怒りのせいではない。あの男の言い分を、半分以上正しいと思ってしまったからだ。
顔を布で覆った男が横に来た。
「よく止めた。」
「褒めるな」「褒めていない。書き残しだ」と一言ずつ返す。
「書き残しなら、殴ったって書け。」
「書くだろう」「それでいい」と打ち切って、彼は次の外布を取った。慰めはいらなかった。慰められたら、その場で崩れる気がしていた。
不発弾疑い地点は、また増えた。
大きな爆発ではない。古い土が少し持ち上がり、黒札が二枚ずれただけだった。だが、それで十分だった。地面全体が、また少し敵になった。重い荷を置こうとした男を、医療補助が止めた。医療補助は本来、止血や咳を見るはずだった。今は棒で荷を払っている。払われた男は怒鳴った。怒鳴り声で数人が振り向き、炉心側の黒い塊を見かける。片腕の女が外布を投げる。外布は少し足りず、黒い塊の端が見えた。若い回収役が、そこへもう一枚重ねた。外布がまた減る。
医療担当は、アルフォンソの隣に長くいられなかった。
負傷者が多すぎる。煙を吸った者、火傷した者、爆風で耳が聞こえにくくなった者、吐いた者、意識が遅い者、指先の感覚がない者。アルフォンソの体を覆う布を置き、目だけを最後に見て、彼女は別の者の喉を見直ししに行った。彼女が離れたあと、若い回収役はアルフォンソの方を見ないようにした。見れば、なぜそちらを優先しないのかと思う。思った瞬間、手が止まる。
後方の医療区画で、パヴェルは報告を受けていた。
受けると言っても、誰かが説明するわけではない。扉の開閉、戻る者の声、医療担当の短い指示、片腕の女が読み上げる書き残しの断片が、彼のところへ届くだけだった。アルフォンソが戻らない。監視が機能していない。戻る道は点になった。地下水側は切れていない。黒い破片はまだ残る。不発弾疑い地点が増えた。彼はそれを聞くたびに、言葉を作ろうとした。
戻れ。
だが、戻れば黒い破片が拾われる。
もう行くな。
だが、行かなければ地下水へ流れる。
死ぬ。
死ぬと分かっているから、彼らは今の一点だけ片付けしている。
声が喉で折れた。出ない。医療担当が彼の呼吸を見た。
「息をしろ。」
彼は浅く吸い、浅く吐いた。
「止められない」という言葉だけが出た。
医療担当は、すぐには答えなかった。
「止める言葉がない時は、息をしろ。」
「それだけか」「今は」「嫌な答えだな」「生きて聞けるだけ、ましだ」という短い応酬が細い息と共に交わされる。
彼は目を閉じた。怒りたかった。誰かを責めたかった。自分を責めるのも違うと、頭では分かっている。現場の誰かを無能だと思えたら楽だった。狂っていると思えたら、止めろと叫べた。だが、彼らは正しい。正しいまま死へ寄っている。その正しさを否定できないことが、いちばん彼を削った。
現場では、片腕の女の書き残し板が限界に近かった。
板の余白がない。線は斜線で潰れ、札の種類は隅に小さく並び、消えた戻る道も残し、使える点も残し、倒れた者の位置も残す。彼女は新しい板を出そうとして、手を止めた。新しい板を出すために、今の板から目を離す必要がある。目を離した瞬間に、どの線がまだ使えるか分からなくなる。彼女は今の板の裏を使った。表と裏を行き来するたび、情報が遅れる。遅れても、書くしかない。
老人が彼女の横で言った。
「書き残し板に『作戦』なんて御立派な言葉は二度と勝手に勝手に使うな。そんなものはもう、この現場のどこにも残っちゃいない。」
「分かってるわよ。そんな都合のいい嘘、最初から一行も刻んでないわ。」
「『組織』の統制もそこから消せ。誰が死んで、誰が煙に消えたかも追えないのに、形だけに縋るな。」
「書けるわけがないでしょ。三人の幹部の札だって、あの紙室に戻されないまま、全員あっちの底に沈んだままなんだから…っ。」
「ならば、形なんてどうでもいい。今、生き残っている私たちの手元に、一体何が残されているかその事実だけを泥臭く板に刻め。」
彼女は筆を置きかけ、置かずに書いた。
片付け継続。
それだけだった。短すぎる。だが、それ以上は嘘になる。作戦ではない。組織の統制でもない。勝利へ向かう進行でもない。片付けが続いている。それだけが事実だった。
その下に、彼女はアルフォンソの最後の五つを小さく書いた。
炉心側を薄くする。
地下水側は切らない。
避難側を止めない。
不発弾疑い地点は踏まない。
戻る道をもう一度作る。
最後の行で、筆が止まった。戻る道。もう線ではない。彼女は「線。」の字の横へ、小さな点を五つ打った。外布を落とす点。靴底を見る点。咳を見る点。倒れた者を寄せる点。黒札を置く点。線を引けない場所に、点だけを置く。
「おい、これ、もう『戻る道』なんかじゃねえだろ。ただの、ただの全員で野垂れ死にを待つための場所じゃねえかよ…!」
若い回収役が、板を覗き込んで言った。
「そうよ。もう私たちを生かして引き返させてくれる綺麗で安全な『線』なんて、あの地獄には一本も引けないわ。」
「だったら、だったら何なんだよこれ、なんでそんな意味のねえ板に、チマチマと文字を書き残してんだよ!」
片腕の女は、しばらく考えた。
「もし、万が一にでも、誰かがここへ戻ってこれた時に、その足元が完全に崩れ落ちないようにするためのただの『点』よ。私たちはそれだけを地面に打ち付け続けるの。」
「長いんだよ。そんな回りくどい言い方、現場の連中には一文字だって届かねえよ…っ。」
「長くて上等よ、たった一言の標語で片付けるんじゃないわ!短く省略して誤魔化した分だけ、明日の仲間がまたあの『見えない死神』に気付かず、内臓から溶かされて死ぬんだから!」
彼は何も言わなかった。短い言葉に逃げたいのは、誰でも同じだった。けれど、この現場では、短くした分だけ何かが漏れる。
日が傾く頃、残った人員は数えられるほどになっていた。
数えられることが恐ろしかった。さっきまで、誰がどこにいるかを見直しする余裕もなかった。今は、少なすぎて数えられる。前線へ出せる者はさらに少ない。後方も無傷ではない。医療は追いつかない。書き残しは断片。地図は使い物にならない。札は足りない。外布も足りない。水は使えない場所の方が多い。黒い燃焼材はまだ残る。地下水側は完全には切れない。不発弾疑い地点は増えたまま減らない。
それでも、いくつかは残った。
黒い破片の一部は隠された。地下水側の流れは完全ではないが少し鈍った。避難者の一部は戻らなかった。不発弾疑い地点のいくつかは踏ませずに済んだ。黒札はまだ数枚残っている。外布も、数枚だけ残っている。残った者は、まだ動ける。動けるというより、動きをやめていない。
顔を布で覆った男が、アルフォンソの覆い布を見てから、片腕の女の書き残し板を見た。
「壊れたな」という言葉に、誰も何がとは聞かなかった。片腕の女が「壊れた」と答え、若い回収役が黒札の束を握って「終わってない、壊れたのに」と絞り出すと、「壊れたまま、続いている」と返された。
その言葉で、彼は顔を歪めた。泣きそうにも、笑いそうにも見えた。どちらにもならなかった。彼は黒札を一枚取り、角を指で確かめた。踏むな。拾うな。近づくな。もう何度も触った形だった。
「どこに置く」という問いに顔を布で覆った男が炉心側と地下水側の間を指し、「見えるか」「見える」「見えてるなら、まだ置ける」と続いた。
若い男は頷いた。足は重い。手も震えている。それでも、彼は動いた。黒札を持って、点から点へ移る。線ではない。道でもない。ただ、戻れる可能性の残骸を渡るように、彼は進んだ。
片腕の女は、書き残し板の最後にもう一行だけ書いた。
ユスティティア、組織機能なし。片付け継続。
その文字を書いた瞬間、彼女はようやく息を吐いた。
炉はまだ開いていた。
地面の下には、まだ何かが残っていた。
煙は低く、黒い破片は完全には隠れていなかった。
それでも、片付けは続いていた。
組織ではなくなった者たちが、組織の決めた手順だけを持って、まだ漏れを止めていた。




