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キャリントン・イブ  作者: 伊阪証


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第六章-沈黙の蜜

寝台の脇に置かれた砂時計は、半分も落ちていなかった。


パヴェルはそれを横目で見て、腕を動かそうとした。動かない。動かしてはいけないのではなく、動かす前に体が拒んだ。右肩から腕にかけて、布と薬油と添え木で固められている。焼けた場所は痛い。けれど、痛まない場所の方が気味が悪かった。自分の体なのに、そこだけ返事をしない。


「……その紙に触るんじゃないよ。今のあんたの目で文字なんか追ったら、一瞬で頭痛がぶり返すよ」


医療担当が言った。椅子に座ったまま、針仕事の手も止めていない。視線もこちらへ向けていない。それなのに、パヴェルの指が枕元の紙へ伸びかけた瞬間だけ正確に刺してくる。


「クソ、触ってねえよ! 指先がちょっと掠めそうになっただけだろ!」


「いいや、触る顔だったね。あんたのその余裕のない目つきは、一瞬で次の手順マニュアルをサボろうとするから分かりやすいよ」


「顔で患者の状態を決めるなって、ユスティティアの医療班あんたたちの間で流行ってんのかよ」


「あんたの鈍い手が動くのを待つより、その引き攣った顔を見る方が、何倍も正確で早いんだよ」


「……とんだ大袈裟な診察だな。人の神経を逆撫でする、嫌な便利さだよ」


「その便利さ(手順)があるから、半年前、路地裏で死にかけていたあんたが、今ここで不味そうに粥を口に押し込めてるんだ。文句があるなら這って出ていきな」


パヴェルは舌打ちした。布の下で肩が少し動き、痛みが遅れて来る。息を吸いかけて、浅く吐いた。深く吸うと胸が引き攣る。火傷だけではない。煙も吸っている。薬品の臭いもまだ喉の奥に貼りついている。港の黒い水と泥の臭いが、寝台まで追ってきている気がした。


廊下の向こうで足音が増えた。


医療担当の手が止まる。糸を切り、針を布へ刺してから立ち上がった。彼女は扉の方へ向かわず、まずパヴェルの額に手をかざした。熱を見る。目を見る。呼吸を見る。そこまでしてから、机の上にあった紙束を遠ざけた。


「……おい。誰か、新しい現場の報告班が詰所に来たのか」


「来るよ。……あんたの代わりに、あの見えない死神の泥を被りに行く連中がね」


「何の」


「寝ていれば関係ない」


「関係ないなら紙を遠ざけるな」


「関係ある顔をするからだ」


扉が開いた。入ってきたのは片腕の女だった。顔に煤はない。港から戻った直後のような荒れ方ではない。ただ、記録板を吊る肩が少し低い。疲労が布の下へ沈んでいる。


「読ませたか」


「読ませていない」


「聞かせたか」


「足音までは止められない」


「なら十分だ」


パヴェルは眉を寄せた。


「俺を荷物扱いするなら、せめて中身の説明くらいしろ」


片腕の女は彼を見た。見るだけで、しばらく答えなかった。


「旧研究炉跡。内部に入った者が戻れていない。熱、煙、白い粉、排水の汚れ。水を使った痕もある」


パヴェルの口が少し開いた。医療担当が即座に言う。


「起きるな」


「起きてない」


「起きる顔だった」


「もう顔禁止にしろよ」


「禁止しても出る」


片腕の女は、紙束を抱え直した。


「あなたは出ない。読まない。補助にも入らない」


「そこまで言うか」


「そこまで言わないと、あなたは紙を読む。紙を読めば起きる。起きれば扉へ行く。扉へ行けば縛る手間が増える」


「信用がない」


医療担当が短く言った。


「実績がある」


それで会話は終わった。片腕の女は扉を閉じた。足音が遠ざかる。パヴェルは天井を見上げた。何もできないことに腹が立つ。だが、何かできると思われる方がもっと危ないことも、少しずつ分かってきていた。彼がいなくても、ユスティティアは動く。むしろ、動かなければ困る。自分一人に支えられる組織なら、ここまで残っていない。


資料室では、三人の幹部が机を囲んでいた。


一人は、煤けた旧文明の記録を前にしている。髪は白く、目だけが異様に若い。文字を見る時の速さが、周囲の誰とも違った。古い英語、崩れた仏語、数字だけの試験表、記号化された炉の配置、手書きの修正。紙の時代も言語も違うのに、彼は一枚の皺と一つの略号から、別の資料へ橋をかけるように読んでいく。


一人は、壁へ貼った粗い平面図の前に立っていた。入口、炉室、修理ピット、排水路、換気ダクト、戻り線。彼は最短距離へ糸を置かない。むしろ遠回りの線ばかり見ている。戻る時に人が詰まらないか、外布を落とす場所が近すぎないか、咳をした者を横へ抜く余地があるか。道を作っているのではない。戻れる余白を作っている。


最後の一人は、人員札を並べていた。体力だけで見ない。言語札を読めるか、手振りを誤らないか、恐怖で手を出さないか、二分の合図で戻れるか、戻った後に靴底を見せられるか。若い者ほど入りたがる。強い者ほど残りたがる。だから、札の前で容赦がなかった。


「第一報」


片腕の女が読み上げる。


「旧研究炉跡。炉室側に熱。白い粉。濡れた布。焼けた金属片。排水路に汚れ。換気口側で煤。内部に入った者、短時間で戻れず。水を入れた痕あり」


人員札を並べる幹部が、すぐに言った。


「人数を増やさない」


若い回収役が壁際で顔を上げる。


「まだ何も言ってないですよ」


「言う顔だった」


「顔で決めるなって何回」


「手より早い」


顔を布で覆った男が、横で小さく笑った。若い回収役はそちらを睨んだが、反論は飲み込んだ。顔で止められるのにも慣れてきている。嫌な慣れだが、現場では役に立つ。


白髪の幹部が、古い記録を机へ滑らせた。


「燃料棒の過熱試験だ」


その声は静かだった。大きくないのに、部屋の端まで届く。言葉が硬いせいではない。彼の声は、不要な震えを持っていなかった。


「高温蒸気を想定した試験。開始後、数分で異常加熱。金属燃料材が破損。冷却水は蒸発。遠隔のクレーンで取り出そうとしている。修理ピットへ破片が落ちた。長さは、およそ腕一本半。発火している」


若い回収役が顔をしかめた。


「金属が燃えるんですか」


「燃えるものは燃える。金属という名では止まらない」


「水は」


「遅い。あるいは、届かない。届いても汚す。資料では、慌てて水を入れた痕がある。収まったとは書いていない」


片腕の女が筆を止める。


「換気は」


白髪の幹部は、別の紙を開いた。換気ダクトの図だった。


「開いたまま固着している。煙が施設内へ戻り、外へも出た。燃えているものだけではない。燃えたものが運んだ粉も見る」


顔を布で覆った男が低く言った。


「火を消す話じゃないな」


「火だけなら、火の話で済む」


白髪の幹部は、紙の端を押さえた。指は紙に触れていない。


「これは炉室の奥を見る仕事ではない。奥を見たい人間を止める仕事だ」


部屋が静かになった。


炉室の奥。燃料棒。落ちた破片。発火した修理ピット。聞けば見たくなる。見なければ分からない気がする。分からないまま閉じるのは、記録を扱う者にとって最も嫌な判断だ。だからこそ、白髪の幹部は最初にそこへ釘を打った。


ルート設計の幹部が、地図の最短路に黒い線を引いた。


「ここは採らない」


若い回収役が、思わず聞く。


「近いのに?」


「近いからだ。熱が濃い。粉が戻る。人が並べない。戻りで詰まる」


「じゃあ遠回りですか」


「遠回りではない。戻れる道だ」


その言い方で、若い男は黙った。近い道と正しい道は同じではない。これはもう何度も叩き込まれている。叩き込まれていても、近い線を見ると足がそちらを選びたがる。


人事判断の幹部は、人員札を二枚だけ前へ出した。


「最初は二人」


壁際にいた三人が顔を上げる。誰が選ばれたかではなく、二人だけという数に反応した。


「少なすぎる」


若い回収役が言う。


「多すぎるよりましだ」


「二人で倒れたら」


「二人なら引ける。六人倒れたら六人を見捨てるか、さらに六人を入れる」


「……嫌な算数ですね」


「現場の算数は、たいてい嫌だ」


白髪の幹部が、砂時計を机へ置いた。大きなものではない。二分の砂が入っている。砂の色は黒い。見落とさないためだろう。


「これは入れる時間ではない」


彼は言った。


「戻れる時間だ」


若い回収役が眉を寄せる。


「同じでは?」


「違う。二分先まで進めることではない。二分以内に戻り線へ入り、外布を落とし、靴底を見せ、咳を隠さないことまで含める。行ける者ではなく、戻れる者だけを入れる」


顔を布で覆った男が、若い男の方を見た。


「聞いたか」


「聞いたよ」


「行ける顔だった」


「戻る顔に直した」


「少し賢い」


「もう腹立たないくらい慣れた」


「それは危ない」


「何でだよ」


「慣れた時に手が出る」


若い男は口を開け、閉じた。確かにそうだった。何度も見てきた。慣れた道具、慣れた袋、慣れた札、慣れた水。慣れたものほど危ない。


白髪の幹部は、若い二人のやり取りを聞きながらも、資料から目を離さなかった。彼の手元には、古い提言集のような紙片も混じっていた。だが、彼はそれを中央へ置かない。むしろ、端へ追いやる。読める者ならありがたがりそうな名前や署名の残った紙も、他の作業表と同じ扱いだった。


片腕の女がそれに気づいた。


「その紙は使わないのか」


「使わない」


「古い権威の署名がある」


「署名は、戻り線を作らない」


彼は顔を上げなかった。


「提言を残すな。手順を残せ。名を信じるな。漏れを潰せ」


その言葉で、資料室の空気が少し変わった。彼が誰の名を指しているのか、誰も聞かなかった。彼はたまにこういう言い方をする。古い世界の名を、敬意より先に警戒で扱う。知っているから縋らない。読めるから信じ切らない。そういう態度だった。


老人が静かに言った。


「昔から、それを言っている」


白髪の幹部は、ほんの少しだけ口元を動かした。


「昔は、もっと酒がまずかった」


「酒の話か」


「研究室ではなかった。酒場だった。王族の男が、途中で席を立たなかった。科学者でもない男が、最後まで聞いた。あれだけで、十分珍しかった」


トルステンの名は出なかった。だが、部屋の何人かは分かっていた。悪い酒場で、悪い未来を語り、笑えない夢を組織の形へ変えた男たち。その片方は、もう戻れない。もう片方は、まだ資料の前に立っている。


長い回想にはならなかった。白髪の幹部はすぐ紙へ戻った。


「回収対象を絞る」


片腕の女が筆を構える。


「炉室手前の汚染布。通路の外布。持ち出されかけた工具。換気の戻りを示す布。人が触りそうな軽い破片。排水側は位置記録のみ」


「燃料棒は」


若い回収役が聞いた。


「対象外」


「見えても?」


「見えても」


「触れそうでも?」


「触れそうなら、そこが入りすぎだ」


「修理ピットは」


「対象外」


「炉室奥は」


「対象外」


「白い粉は」


「舞う床は対象外。踏むな。払うな。見つけたら黒札」


若い男は、ひとつ聞くたびに顔を渋くした。全部できないように聞こえるのだろう。だが、全部やろうとする者から死ぬ。資料室にいる全員が、それをもう知っていた。


水の札も並べられた。飲む水、洗う水、触るな水、火へ向けるな水、蓋になる水。だが、白髪の幹部はそれを見て、二枚だけを前へ出した。触るな水。使う水。


「増やしすぎるな」


片腕の女が問う。


「天津の札を捨てるのか」


「捨てない。出す札を減らす。炉室前で五枚は多い。迷う。迷ったら吸う。吸えば戻らない」


「では」


「水は、使うか使わないか。使う場合は医療側だけが判断する。現場では基本、触るな」


老人が頷いた。


「単純化」


「単純にしなければ、二分で死ぬ」


若い回収役は、黒い砂時計を見た。砂はまだ落ちていない。落ちていないのに、もう息苦しい。あれがひっくり返ったら、言い訳も反論も一緒に落ちる。


人事判断の幹部が、選んだ二人の前へ立った。


「合図は声ではない」


彼は札を見せる。戻れ。落とせ。触るな。咳。止まれ。五つだけ。札の形は全部違う。文字が読めなくても分かるように、角や穴を変えてある。


「聞き間違えるな、ではない。聞かなくて済むようにする」


選ばれた一人が頷く。


もう一人が、緊張で喉を鳴らした。


「二分、持ちます」


人事判断の幹部は、すぐに首を横へ振った。


「持たせない。戻らせる」


「はい」


「はい、では足りない。戻り線に入るまでが仕事だ」


「はい」


「咳を隠すな」


「はい」


「怖い時ほど、物を見るな。足元を見ろ。戻り線を見ろ」


「はい」


若い回収役が小さく言った。


「洗脳みたいだ」


顔を覆った男が返す。


「洗えない場所へ行くからな」


「うまいこと言ったつもりか」


「戻ってから笑え」


それもまた嫌な冗談だった。けれど、二人の肩からほんの少し力が抜けた。力が抜けた分だけ、手が出にくくなる。


ルート設計の幹部は、最後に戻り線を確認した。入口、外布落とし場、靴底確認、咳をした者の横出し、汚染布の袋、記録板の位置、医療側の待機場所。行くための線より、戻った後の線の方が長い。


「炉の奥より、入口が混む」


彼が言った。


「だから入口を広くする。戻った者を褒めるな。話しかけるな。質問するな。外布を落とし、靴底を見せ、咳を見る。それから名前を呼べ」


片腕の女が記録する。


「名前は最後」


「そうだ。先に名前を呼ぶと、返事をしようとして吸う」


若い回収役が、思わず息を止めた。


「名前も危ないのか」


「使い方が悪ければ」


白髪の幹部が、炉室奥の資料を閉じた。


「この場所で一番危ないのは、炉の奥ではない」


部屋の全員が、彼を見た。


「奥を見に行きたくなる人間だ」


誰も笑わなかった。誰も反論しなかった。みんな、自分の中にその人間がいると分かっていた。知りたい。見たい。確かめたい。持ち帰りたい。直したい。救いたい。その気持ちのどれもが、現場では人を奥へ押す。


外で、鐘が一度鳴った。出発の合図ではない。砂時計をひっくり返す合図でもない。準備が終わったというだけの音だった。


選ばれた二人が外布を受け取る。棒を持つ。袋は小さい。持ち帰るためではなく、落とすための袋だ。若い回収役は入口側へ回され、戻ってきた者の手を止める役になった。不満そうではあったが、もう「行ける」とは言わなかった。


白髪の幹部は、最後に資料の束を紐で閉じた。提言の紙は中へ入れない。別の端へ置いたままだった。


片腕の女がそれを見る。


「本当に使わないのか」


彼は短く答えた。


「名で炉は冷えない」


そして、黒い砂時計がひっくり返された。


黒い砂が落ち始めた。


研究炉跡の入口は、外から見る限り、ひどく静かだった。港の火のように煙を吐き、地面を抉り、人の声を遠くからでも壊す場所ではない。低い建物の壁は残り、扉も半分だけ開いている。割れた窓から煤が薄く垂れ、軒の下には乾いた白い粉が縁を作っていた。だから余計に悪い。危険が大きく見える場所は、人を遠ざける。危険が建物の形を保っている場所は、人に入れそうだと思わせる。


最初に入ったのは、突入班ではなかった。ルート設計の幹部が入口の手前に立ち、足元を見て、戻ってくる者の足がどこへ乗るかだけを確かめた。入る線は細く、戻る線は広く取る。外布を落とす場所は入口から近すぎてはいけない。戻ってきた者が勢いで踏む。遠すぎてもいけない。そこまで外布を着たまま歩く。靴底を見る場所、咳をした者を横へ抜く場所、記録板の位置、汚染布を入れる袋、使った棒を捨てる場所。炉室へ向かう前に、入口の外だけで、床は札と布と縄で半分埋まった。


若い回収役が、その様子を見て顔をしかめた。


「まだ入ってないのに、もう帰る準備か」


顔を布で覆った男が答える。


「帰る準備ができていない場所へ入るな」


「言い返しにくいな」


「言い返しやすい理屈は、だいたい現場で折れる」


「それも言い返しにくい」


「少し賢い」


「腹立つ言い方まで戻ってきたな」


軽口はそこまでだった。砂時計の黒い砂が、半分にも届かない速度で落ちている。あの中に入っているのは二分ではない。戻ってきて、外布を落とし、靴底を見せ、咳を隠さず、名前を呼ばれる前に息を整えるまでの時間だった。行ける時間ではない。戻るために残された幅だった。


人事判断の幹部が、二人の前に立った。選ばれた者は、どちらも若くはない。だが、強そうな者でもない。合図の札を見た時の反応、手を出しかけて止める速さ、恐怖を誤魔化して喋りすぎない癖、戻り線で足を止められるか。体力より、戻るための癖で選ばれていた。


「合図を声で聞くな」


彼は札を一枚ずつ見せた。戻れ。落とせ。触るな。咳。止まれ。角の形が違い、穴の数が違う。文字が読めるかどうかではなく、見た瞬間に体が止まるかどうかで作られている。


一人が頷いた。


もう一人が言った。


「二分以内に戻る」


「違う」


人事判断の幹部は即座に遮った。


「二分以内に、戻り線で処理を受ける」


「戻り線で処理を受ける」


「もう一度」


「二分以内に、戻り線で処理を受ける」


「よし。咳を隠すな」


「隠さない」


「何か見えても、拾うな」


「拾わない」


「見たい時ほど、足元を見る」


「足元を見る」


同じ言葉を繰り返すたび、二人の肩から余計な硬さが少しずつ抜けた。勇気を出すための復唱ではない。余計な勇気を出さないための復唱だった。


白髪の幹部は、入口の壁に残った煤を見ていた。旧資料の束は片腕の女が持っている。彼は手元に置かせなかった。紙を持つと、紙を見てしまう。紙を見れば、目の前の壁から一瞬離れる。そこまで分かっている動きだった。


「換気の戻りがある」


彼は言った。


片腕の女が、壁の煤の形を見る。


「上へ抜けていない」


「途中で戻っている。外へ出た分もある。だが、建物の中にも返っている」


若い回収役が入口の奥を見た。


「煙が戻るって、煙突の意味がないじゃないですか」


「意味が壊れたから、事故になる」


白髪の幹部は、短く答えた。


「名を信じるな。煙突という名でも、煙を捨てるとは限らない。扉という名でも、出られるとは限らない。資料という名でも、現場ではない」


片腕の女の筆が止まった。


「それも記録するか」


「しなくていい。戻り線を広くした方が残る」


言葉より手順。彼は何度もそうする。読める言葉を減らし、残る手順を増やす。古い名前や署名が書かれた紙を、彼が机の中央へ置かない理由もそこにあった。


砂時計が伏せられた。


二人が入った。


入口を越えた瞬間、建物の静けさは別の形になった。外の空気はまだ動く。中の空気は重い。熱が壁に残り、床の白い粉は乾いているのに湿った臭いがする。炉室へ向かう通路の壁には、濡れた布が貼りついていた。誰かが顔を覆ったのか、扉の隙間を塞ごうとしたのか、もう分からない。布の端は焦げ、中央は白っぽく乾いている。突入班の一人が棒で指した。もう一人が袋を広げかける。


外で、片腕の女が札を上げた。


落とせ。


袋は低くしすぎない。泥ではない。濡れた布でもない。乾いて粉を抱えた布だ。棒の先で外布ごと剥がし、袋へ落とす。畳まない。絞らない。確かめない。袋に入った瞬間、戻る札が上がった。作業はひとつしかしていない。だが、砂はもう三分の一ほど落ちていた。


戻ってきた二人へ、誰も声をかけなかった。名前も呼ばない。外布を落とす。靴底を見せる。袖を見る。咳を見る。息が荒い方は横へ抜かれる。本人が「大丈夫」と言う前に、咳札が見せられた。彼は口を閉じ、浅く吐いた。


若い回収役が、思わず言いかけた。


「早くないか」


顔を布で覆った男が横目で見る。


「早いから戻った」


「まだ何も分かってない」


「分かった分だけ持って帰った」


「布ひとつだろ」


「布ひとつで戻った。炉の奥を見て戻らないよりは多い」


若い男は口を閉じた。分かりやすい成果を欲しがる自分に気づいた顔だった。布ひとつ。札ひとつ。戻った呼吸ひとつ。それを成果に数えなければ、この場所ではすぐに奥へ入りたくなる。


白髪の幹部は、戻った布を見ない。布に近づかない。片腕の女が距離を取って記録した内容を聞く。


「炉室手前、濡れた布。端焦げ。中央白化。壁煤、下側へ戻り。床粉、通路右。排水側、黒い筋」


「資料の換気経路とは違う」


ルート設計の幹部が図を見た。


「旧資料では左へ抜けるはずだ」


白髪の幹部は頷いた。


「資料は入口でしかない。煙は右へ戻っている」


「右を切るか」


「まだ切らない。二度目で戻りの強さを見る」


若い回収役が、また顔を上げた。


「二度目も二人ですか」


人事判断の幹部が見た。


「増やしたい顔だ」


「作業が遅い」


「遅い作業と、戻れない作業なら遅い方を選ぶ」


「分かってます」


「分かっているなら、増やすと言うな」


彼は歯を食いしばったが、それ以上言わなかった。


二度目の突入では、炉室手前の床粉に黒札を置いた。取らない。掃かない。水で流さない。札を置くためだけに、二人は入った。ひとりが棒で床を示し、もうひとりが黒札を落とす。札が軽すぎて、粉に触れる前にずれそうになる。手を出しそうになった瞬間、外から触るな札が上がった。手は止まった。棒で札の角だけを押す。数秒がかかった。数秒で砂が落ちる。


戻れ札。


二人は戻った。片方が戻り線で「布を」と言いかけ、別の言語で何かを聞いた。落とせ、という意味の手振りが出ていた。だが、彼は一瞬、持てと誤認しかけた。袋の口へ向かうはずの布へ、手が伸びる。


人事判断の幹部の声が飛んだ。


「止まれ」


手が止まった。止まったが、それだけで十分だった。


「札を外せ」


突入した男は、顔を上げた。


「持っていません」


「持とうとした」


「聞き違えました」


「だから外す」


「まだ行けます」


「行ける者を下げる。戻れない者は下げられない」


男は唇を噛んだ。言い返す言葉はあったはずだ。熱、恐怖、別の声、札、手振り。全部が重なった。彼だけが悪いわけではない。けれど、同じ場所へ戻す理由にはならない。彼は自分で札を外し、後方へ下がった。


若い回収役が小さく言った。


「厳しい」


顔を布で覆った男が返す。


「優しくして、布を持って帰るか」


「……いや」


「なら厳しいで済ませろ」


人事判断の幹部は、そのやり取りを聞いていないふりをした。聞こえているはずだった。ただ、反論を受けるための場ではなかった。彼は札を並べ直し、声の指示をさらに減らした。戻れ、落とせ、触るな、咳、止まれ。五つの札を入口の見える位置に固定する。声は使わない。必要な時だけ、短く一語。それでも足りなければ、入る者をさらに減らす。


「言葉が悪いのではない」


白髪の幹部が言った。


「熱が言葉を削る。恐怖が語順を曲げる。時間が意味を潰す。だから、札で先に潰す」


片腕の女が、そのまま記録するか迷ったが、筆を止めた。長い。だが、必要な内容だった。彼女は短く書いた。


声を減らす。札を増やす。


三度目の突入では、持ち出されかけた工具を曲げて落とした。工具は炉室手前の床にあった。長い柄と鉤がつき、何かを引くための道具に見える。使えそうな形だ。だから危ない。突入班は拾わない。棒で袋へ転がし、袋の上から柄を押し曲げる。金属が鳴る。部屋の外で若い回収役が目を伏せた。金属を壊す音には、まだ慣れない。


「惜しいか」


顔を布で覆った男が聞く。


「惜しい」


「なら捨てる」


「それ、何度聞いても嫌だな」


「何度でも要る」


工具袋は入口手前の破棄場所へ落とされた。持ち帰らない。調べない。何に使ったか分かるかもしれない道具でも、使える形で残せば誰かが手を出す。情報は失う。人は残る。ユスティティアの現場は、その嫌な交換ばかりだった。


四度目の前に、ルート設計の幹部が入口の配置を変えた。


「待機位置を下げる」


若い回収役が振り向く。


「まだ詰まってません」


「詰まってから下げると、戻る者が詰まる」


「戻る者が優先」


「そうだ」


彼は縄を張り直し、外布の落とし場を半歩横へ動かした。咳をした者を抜く場所も広げる。記録板の位置を壁際から離す。粉が戻る通路から、わずかに外す。地味な変更だった。だが、戻ってきた二人が重ならずに外布を落とせるようになった。


白髪の幹部は、換気図を見ながら現地の報告を受ける。


「右の戻りが強い。左は資料上の抜け。現地では使えない」


「資料を捨てるか」


片腕の女が聞く。


「捨てない。端へ寄せる」


彼は古い換気経路の紙を、机の中央から外した。


「中央に置くものは、今の煙だ」


言葉が静かに落ちた。資料を馬鹿にしていない。むしろ、彼ほど資料を読める者はいない。だからこそ、資料を中央へ置かない。その態度が、部屋の空気を締める。


四度目の突入では、換気戻りの布を置いた。薄い布片を棒の先に下げ、通路の右側で揺れを見る。布は奥へ吸われず、入口側へ戻った。建物の中で煙が回っている。外へ抜けているのではない。逃げたと思ったものが、人の通る側へ戻っている。


戻れ札。


突入班は戻った。ひとりが咳を隠そうとした。小さな咳だった。喉の奥で止められる程度のものだった。だが、人事判断の幹部は見ていた。


「札を外せ」


「咳は出ていません」


「隠した」


「咳そのものより、隠したことが悪い」


男は黙って札を外した。責められている顔ではなく、恥じている顔だった。咳をするのが怖かったのではない。外されるのが怖かったのだろう。その怖さが、咳を隠させる。隠した咳は、戻り線を壊す。


若い回収役は、それを見て自分の喉を押さえかけた。すぐに手を下ろす。


顔を布で覆った男が言った。


「触るな」


「分かってる」


「分かってる手が上がった」


「……悪い」


「戻れるうちに直せ」


突入班は、二度入った者が次々に下げられた。言葉を取り違えかけた者。咳を隠しかけた者。戻り線で足を止めた者。まだ歩ける。まだ喋れる。まだ役に立つ。だから下げる。これまで何度も使ってきた理屈が、研究炉跡ではさらに冷たく響いた。二分の中では、まだ、という言葉が一番危ない。


それでも作業は進んだ。炉室手前の汚染布は落ちた。床粉の位置に黒札が置かれた。工具は曲げられた。換気戻りの方向が分かった。排水側へ流れた汚れは位置だけ記録した。触らない。追わない。奥へ行かない。修理ピットの中は見ない。燃料棒らしき破片は、遠くに影だけが見えたが、誰もそれを確認対象にしなかった。


若い回収役が、つい言った。


「見えてるのに」


白髪の幹部が彼を見た。


「見えたものを全部知識に変えようとするな」


「知る必要はあるでしょう」


「ある。だが、知るために人を入れる必要はない」


その言葉で、資料室の誰もが一度黙った。知識を捨てる言葉ではない。知識を得る方法を間違えるなという言葉だった。彼が言うから重い。旧文明の言葉を読み、資料を繋ぎ、誰よりも知識に近い者が、奥へ行くなと言っている。


承の終わりには、研究炉跡の輪郭が見えていた。


燃料材は過熱した。冷却は追いつかなかった。損傷した金属燃料材が修理ピットへ落ち、発火した。換気は開いたまま戻り、煙と粉を建物へ返した。排水側にも汚れが出た。炉室奥は残っている。見ていない。触っていない。閉じられてもいない。だが、人が入り、拾い、持ち帰り、生活側へ運ぶ道は見え始めていた。


アルフォンソが、そこまでの記録を受け取った。


「回収では終わらない」


ルート設計の幹部が頷く。


「奥へ行く道ではなく、奥へ行けない形を作る」


人事判断の幹部が、外された札を見た。


「入れる者は増やさない」


白髪の幹部は、資料を閉じた。


「炉の奥を知る必要はある。だが、知るために人を入れる必要はない」


黒い砂時計は横に倒された。使い終わったのではない。確認の作業を止める合図だった。

この先は、見るために入るのではない。

入らせないために、閉じる作業へ変わる。


黒い砂時計は横に倒されていた。


砂は止まったのではない。誰かが止めた。確認のために入る時間は終わった、という合図だった。炉室の奥には、まだ見ていないものがある。修理ピットの底も、燃料材の破片も、排水路の奥も、誰も直接確かめていない。見ていないという事実は、資料室の空気を重くした。知らないものは怖い。だが、知らないものを知るために人を入れると、人が減る。白髪の幹部は、旧資料の束に指を置かず、紐だけを引いて閉じた。


「足りないまま閉じる」


片腕の女が、筆を持ったまま顔を上げた。


「情報が」


「足りるまで見ると、人が足りなくなる」


部屋の端で、若い回収役が息を飲んだ。反論の形をした声が喉まで来ているのが分かった。見なければ分からない。分からなければ、処理できない。その考えは間違っていない。間違っていないから危ない。正しい言葉は、人を奥へ送る力を持つ。


白髪の幹部は、閉じた資料を机の中央から外した。


「炉室奥、修理ピット、燃料材、排水路奥。確認対象から外す」


「捨てるのか」


若い回収役が言った。責めるというより、思わず出た声だった。


「捨てない。人で買わない」


顔を布で覆った男が、低く笑いのような息を吐いた。


「高い情報だな」


「高すぎる」


白髪の幹部は短く答えた。


ルート設計の幹部が、壁の図から最短路の糸を外した。炉室へ向かういちばん短い線は、黒い札で潰される。完全な封鎖ではない。壁を積む時間も、扉を打ちつける材料もない。そもそも、完全に塞げば、誰かが壊して見る。だから、通れるが通りたくない形にする。白い粉の残る床には外布を置く。換気戻りの通路には壊れた棚を斜めに倒す。排水側へ向かう細い通路には、棒で押した瓦礫を置き、足を乗せる気が削れるようにする。持ち出されそうな工具は袋へ落とし、袋の上から柄を曲げる。戻り線だけは広く残す。奥へ行く道を殺し、戻る道を殺さない。その差を間違えると、人は閉じ込められる。


「人が要る」


後方の一人が言った。彼は悪いことを言った顔ではなかった。実際、作業量は多かった。棚を動かす。布を落とす。黒札を置く。曲がった工具を処理する。換気戻りを見る。排水側の札を立てる。二人ずつでは遅すぎる。


人事判断の幹部は、机の上に置かれた人員札を動かさなかった。


「増やさない」


「でも」


「入れる人数ではなく、戻せる人数で切る」


「作業が」


「作業は残る。戻れない者も残る。どちらを残す」


後方の者は黙った。答えは決まっている。決まっているのに、言いづらい。残る作業は地図に書ける。残った人間は、戻り線で運ばなければならない。


閉鎖のための最初の突入は、確認の時より重かった。見るだけではない。置く。曲げる。倒す。動かす。ひとつひとつに時間がかかる。黒い砂時計が伏せられ、二人が入った。白い粉の床に外布を落とし、棒で端を押さえる。壊れた棚を動かそうとして、片方が力を入れすぎる。外から止まれ札が上がる。力を入れると粉が舞う。棚は動くが、空気も動く。動かない方がましな時がある。


戻ってきた二人の息は荒かった。靴底を見せ、外布を落とし、咳を隠さず、名前を呼ばれるまで黙る。ひとつ遅れれば、次の二人が入れない。作業は進んだ。進んだ分だけ、砂時計を見る目が険しくなった。


二度目の突入では、工具を曲げた。三度目では、換気戻りの通路に棚板を倒した。四度目では、排水側へ向かう床に黒札を置いた。確かに進んでいる。だから危なかった。人を入れれば、少し進む。その少しが、もっと入れればもっと進むという顔をしてくる。


若い回収役が、声を低くした。


「もう二人出せば、換気の棚は早い」


顔を布で覆った男が見た。


「早いな」


「じゃあ」


「戻り線も二人分増える。外布も増える。靴底を見る時間も増える。咳を見る目も増える。誰が見る」


「早いものは、戻る時に遅くなる」


若い男は歯を食いしばった。納得はしていない。だが、反論は飲み込んだ。彼の手は棒を握ったまま、前に出なかった。


白髪の幹部が立ち上がったのは、その後だった。


片腕の女が即座に顔を上げる。


「入るのか」


「煤の向きが、報告と合わない」


「他の者に見させる」


「語を拾うだけならできる。繋ぐのは今ここで切る」


彼は外布を受け取った。老いた体に見える。だが、立ち方に余分な揺れがない。隣でルート設計の幹部も立った。


「戻り線の幅を現地で見る。図では半歩足りない」


人事判断の幹部は、二人を見てから、自分の札を外して手に持った。


「なら俺も行く。入れる者を減らすために入る」


「三人は多い」


若い回収役が言った。


人事判断の幹部は首を横に振った。


「三人を入れるのではない。三つの判断を一度で切る。これを若い者三組に分ける方が多い」


それ以上、誰も止めなかった。止められなかった。英雄の顔ではない。悲壮な顔でもない。無駄に人を入れないために、自分たちが入る。そういう冷たい算数だった。


黒い砂時計が伏せられた。


三人は入口を越えた。白髪の幹部は壁の煤を見た。資料では左へ抜けるはずの煙が、右の低い通路から戻っている。彼は札を見ずに、手で短く合図を出した。資料違い。中央から外せ。片腕の女が外で書く。ルート設計の幹部は、外布落とし場から靴底確認までの幅を見た。戻った者が焦って足を横へ逃がした時、記録板の角へぶつかる。その半歩を直すため、外の縄をずらす合図を出す。人事判断の幹部は、突入班ではなく入口の外を見ていた。待機者の肩、若い回収役の握り、咳を飲み込んだ者の喉。入った中より、外の崩れを見ている。


戻れ札が上がる。


三人は戻った。外布を落とし、靴底を見せ、咳を待つ。白髪の幹部は咳をしなかった。ルート設計の幹部も咳をしなかった。人事判断の幹部は短く息を吐き、すぐ戻り線の外にいた者の位置を変えた。作業は進んだ。戻り線も整った。見ていた者たちの顔に、ほんの少しだけ「いける」という色が出た。


それがいちばん悪かった。


三人はもう一度入った。換気戻りの通路に壊れた棚板を倒し、工具を曲げ、白い粉の床へ札を落とす。ルート設計の幹部が現地で半歩ずらした線は、見事に効いた。戻ってきた突入者が詰まらない。咳をした者を横へ抜ける。外布を落とす場所も重ならない。人事判断の幹部が一人を下げる判断も速かった。白髪の幹部が資料と現場の差を分ける声も、まだ澄んでいた。


だから三度目が行われた。


今度は、排水側へ向かう理由を潰す作業だった。排水路そのものには入らない。奥は見ない。ただ、人が「流れたものを追える」と思う場所へ、黒札と障害物を置く。汚れた水の筋は、まだ床に残っている。そこへ顔を近づけたくなる。何が流れたのか、どこへ行ったのか、知りたくなる。知りたいから奥へ行く。その理由を殺す。


戻ってきた時、最初に崩れたのは白髪の幹部だった。


彼は旧資料の語を読み上げようとした。燃料棒、修理ピット、換気、排水、冷却水。言葉そのものは読めている。だが、語順が一度だけ入れ替わった。冷却水の記録を、排水側の記録へ繋ぎかけた。ほんの一瞬だった。彼はすぐに気づき、言い直した。片腕の女も、他の幹部も、若い回収役も、誰もその間違いを責めなかった。


責めるより先に、沈黙が落ちた。


白髪の幹部は、紙を閉じた。


「読める」


彼は言った。


「だが、繋げるな」


片腕の女の筆が止まった。


「まだ」


「まだ、が一番悪い」


「あなたが閉じるのか」


「閉じる」


彼は資料を自分の前から遠ざけた。誰かに奪われたのではない。自分で置いた。古い言葉を繋げる人間が、自分の橋を下ろした瞬間だった。


ルート設計の幹部は、その直後に半歩を誤った。


大きな失敗ではない。戻ってきた者が外布を落とす時、靴底確認の者と肩が重なりかけた。彼はすぐに縄を直した。事故にはならなかった。誰も倒れていない。布も破れていない。ただ、半歩遅かった。今までなら、戻る前に直していた。戻ってきた足を見てから直した。その差が、全員に見えた。


人事判断の幹部が彼を見た。


「札を」


ルート設計の幹部は、最後まで言わせなかった。自分で腰の札を外し、机へ置いた。


「間違えたのではない」


若い回収役が言った。止めたかったのだろう。


ルート設計の幹部は、静かに答えた。


「遅れた」


それだけだった。


四度目の突入は、三人ではなく二人で行われるはずだった。だが、入口側で咳を隠しかけた者がいた。喉が動き、口元の布が一瞬ずれた。これまでなら、人事判断の幹部の声が即座に飛んでいた。札を外せ。横へ抜けろ。戻るな。そう言うはずだった。


彼は、一拍見た。


本当に一拍だった。だが、その一拍で、周囲が先に気づいた。顔を布で覆った男が動きかけ、片腕の女の筆が止まり、若い回収役の肩が上がった。


人事判断の幹部は、自分で気づいた。


「今の一拍で、俺は人事ではない」


誰も言えなかった。言う前に、彼は自分の札を外して机へ置いた。手は震えていない。声も崩れていない。判断したのだ。自分を下げる判断だけは、まだ間に合った。


三枚の札が机に並んだ。


情報調査。

ルート設計。

人事。


札の持ち主は、全員立っていた。倒れていない。喋れる。歩ける。資料も見える。地図も見える。人の顔も見える。だから余計に残酷だった。死んだのではない。使えなくなったのでもない。だが、任せられなくなった。


若い回収役が、声を震わせた。


「まだ喋れるじゃないですか」


顔を布で覆った男が、低く返した。


「喋れることと、任せられることは違う」


「でも」


「その、でも、で人が奥へ行く」


若い男は黙った。目は札から離れない。三枚の札が、妙に小さく見えた。組織の頭が、小さな木片三枚で机の上に置かれている。


その後の作業は、急に不格好になった。


資料を見る者が、袋の口を縫った。袋を縫う者が、黒札の角を切った。後方で会計に近い仕事をしていた者が、砂時計を見た。戻り線にいた者が、汚染布の袋口を閉じた。専門で回す余裕はない。誰が何をするかが崩れ、手順だけが残った。手順がなければ混乱だった。手順があるから、歪んだ形でまだ動けた。


白髪の幹部は、資料を読まなかった。だが、黙ってはいなかった。手順の短い言葉だけを残す。


「提言を守るな。手順を守れ」


片腕の女が彼を見た。


「書くか」


「書くな」


「なぜ」


「名がつく。名がつくと、人が奥へ行く」


「では」


「戻り線だけ残せ」


彼はそこで一度、息を整えた。声はまだ澄んでいた。だが、前より少し遅い。言葉が、選ばれてから出てくる。彼自身もそれを分かっている顔だった。


「名は人を奥へ行かせる。手順だけが戻す」


片腕の女は、今度は書かなかった。書かずに、戻り線の図をもう一枚作った。言葉ではなく線。名ではなく位置。提言ではなく、外布を落とす場所と、咳をした者を抜く場所と、靴底を見る場所。その方が残ると、彼が言ったからだった。


閉鎖作業は、一応の形を得た。


炉室奥は見ていない。燃料材は拾っていない。修理ピットは閉じていない。排水側も完全には切れていない。換気戻りも完全封鎖ではない。だが、人が炉室奥へ行きたくなる最短路は潰した。換気戻りの通路には黒札と障害物が置かれた。排水側へ行く道は生活側から切った。持ち出されそうな工具は曲げた。白い粉の床は触れない場所として残した。戻り線だけは残した。


事故は消えていない。


人が事故を持ち出す道を潰しただけだった。


夕方、三枚の札は戻されなかった。


若い回収役は、まだそれを見ていた。顔を布で覆った男が横に立つ。


「見るな」


「見るくらいは」


「戻したくなる」


「戻せないのは分かってる」


「分かっている顔じゃない」


若い男は目を閉じ、深く息を吸おうとして、浅く吐いた。炉跡の空気がまだ喉に残っている。深く吸う気にはなれなかった。


「喋れるのに」


「喋れることと、任せられることは違う」


「二回目だ」


「何度でも要る」


部屋の奥で、白髪の幹部が静かに笑ったように見えた。声は出なかった。笑ったのか、疲れて口元が動いただけなのかも分からない。


黒い砂時計は、横倒しのまま机の端に置かれていた。もう測る役は終わった。だが、誰も片付けなかった。砂が落ちない形のまま、そこにある。進まない時間のようだった。

炉は残った。

汚染も残った。

奥へ行く理由は減った。

その代わり、ユスティティアの頭脳は、三枚の札になって机の上に残った。


戻り線の内側に、三枚の札が置かれたままだった。


情報調査。ルート設計。人事。文字だけなら、まだ何も終わっていないように見える。札の持ち主たちは全員生きていた。白髪の幹部は椅子に座り、片腕の女が読む記録を聞いている。ルート設計の幹部は壁の図を見ている。人事判断の幹部は、下げられた者たちの呼吸をまだ目で追っている。歩ける。喋れる。目も見える。けれど、机の上の札は腰へ戻らなかった。


若い回収役は、それが納得できなかった。納得できないまま、何度も三人の顔と札を見比べた。死んだ者の札なら分かる。倒れた者の札なら分かる。だが、三人は座っている。自分より静かで、自分より正しく見える。そう見えるから余計に、戻してしまいたくなる。


「まだ、できるだろ」


彼の声は小さかった。誰に向けたのか、自分でも決めていなかった。


顔を布で覆った男が、壁にもたれたまま答えた。


「できることと、任せることは違う」


「それ、何回言うんだよ」


「戻したくなくなるまで」


「戻したいに決まってるだろ」


「だから言う」


若い回収役は拳を握り、すぐに開いた。爪を立てるなと誰かに言われる前に、自分で止めた。炉跡から戻った者の中には、まだ咳を我慢している者がいる。外布を落とした場所には、白い粉を含んだ袋が並んでいる。入口の黒札は増え、排水側の道は壊れた棚と瓦礫で嫌な道に変えられた。作業は終わっていない。だが、確かに一つの形にはなった。人が奥へ行く理由は減った。


その代わりに、三人が削れた。


片腕の女が記録を読み上げる。声は平坦だった。平坦にしないと、途中で詰まるのだろう。


「炉室奥、未確認。修理ピット内部、未確認。燃料材、未回収。排水側、完全切断なし。換気戻り、完全封鎖なし。最短路、黒札と障害物。排水側生活導線、切断。持ち出し候補工具、曲げ破棄。白粉床、残置。戻り線、維持」


若い回収役が、吐き捨てるように言った。


「残ってばっかりだ」


白髪の幹部が、目だけを上げた。


「残したから、人が残った」


その声はまだ澄んでいた。けれど、言葉が出るまでに少しだけ間がある。その間を、部屋の全員が聞いてしまう。以前なら、彼の言葉は紙と紙の間を何の引っ掛かりもなく渡っていた。今は、橋を一本ずつ確かめている。


片腕の女は、その間も記録した。


「情報調査、複数資料連結を停止。ルート設計、距離判断停止。人事判断、単独判断停止」


人事判断の幹部が、小さく息を吐いた。


「停止、か」


「他の語が要るか」


「いや。停止でいい」


「停止は死ではない」


「死より厄介なこともある」


誰も返さなかった。生きているから、言葉が届く。届くから、残酷になる。


医療担当が三人を順に見た。熱、目、指先、呼吸、返答までの間。放射線だけではない。熱、粉塵、緊張、短時間の突入、繰り返した判断。どれがどれだけ削ったかは、その場では分からない。分からないものを、分からないまま戻すわけにはいかない。


「三人とも、前には戻さない」


若い回収役が顔を上げた。


「でも、後ろなら」


「後ろにも置き方がある」


医療担当は白髪の幹部を見る。


「読める範囲だけ。複数の紙を繋げない。一枚ずつ。人を急がせる場所では読ませない」


次にルート設計の幹部。


「図は見ていい。距離と時間を切る判断には置かない。戻り線の最終確認は別の者が見る」


最後に人事判断の幹部。


「人を下げる判断は、一人に任せない。札を二枚以上で切る。声が遅れたら、その場で別の者が切る」


人事判断の幹部は、少しだけ笑った。


「俺の仕事が、一番嫌われる形で残るな」


「良い形で残す余裕はない」


「それでいい」


彼は自分の札を見た。戻してほしい顔ではなかった。自分が戻れば、誰かを下げる声がまた遅れる。それを知っている顔だった。


白髪の幹部は、机の端に置かれた古い提言の紙へ目を向けた。誰もそれを中央に置かない。彼が置かせなかったからだ。紙には、古い世界の名と警告と、今では読める者の少ない言葉が残っている。人類が何を作り、何を恐れ、何を防ごうとして、防げなかったか。その痕跡だった。


「それを使うか」


アルフォンソが静かに聞いた。


白髪の幹部は首を横に振った。


「使わない」


「最後までか」


「最後までだ」


部屋が少し揺れたように静かになった。誰も動いていないのに、空気だけが位置を変えた。


白髪の幹部は、机へ両手を置いた。指先は少し震えている。本人がそれを見て、隠さなかった。震えを隠す手が、別の紙を間違えるからだろう。


「提言に縋るな。提言は、人を動かすには軽すぎる。名に縋るな。名は、人を奥へ行かせる。残すなら、戻り線を残せ。札を残せ。誰を下げるかを残せ。誰にも任せない方法を残せ」


若い回収役は、彼を見ていた。ずっと見ていた。何かを察した顔ではない。ただ、今まで聞いてきた言葉の重さが、急に別の場所へ落ちた顔だった。


白髪の幹部は続けた。


「漏れは、思想より先に人を殺す。漏れを塞ぐには、親しい者同士で甘やかしてはならない。親しくなければ、言葉は届かない。だが、親しいからといって、札を戻してはならない。共同体は、優しさのためではない。漏れを出さないためにある」


片腕の女が筆を持ったまま固まっていた。


「書くな」


彼は言った。


「聞け。書くのは後だ。今書くと、きれいな文にする」


彼女は筆を下ろした。


白髪の幹部は、遠いものを見るような目をした。炉跡ではない。資料室でもない。悪い酒場の、煙たい席の奥を見ているようだった。


「研究室ではなかった。酒場だった。酒は悪かった。話はもっと悪かった。世界は既に壊れかけていた。王族の男がいた。科学者ではなかった。だが、途中で席を立たなかった。分からない言葉を、分からないまま捨てなかった。あれだけで、珍しかった」


誰も名を挟まなかった。


「私は、過去に同じ科学を見た友を失った。会話できる者も失った。残ったのは、紙と、危険物と、予想通り壊れた世界だった。だから、会話できる者に会った時、もう逃がしてはいけないと思った。彼は、理解したから立派だったのではない。理解できない場所で、聞くことをやめなかった。そこから、これが始まった」


アルフォンソは目を伏せた。トルステンの名は、まだ誰も出さない。出せば、別の痛みが部屋に増えるからだろう。


白髪の幹部は、ゆっくり息をした。喉が鳴る。咳ではない。だが、声を出すたび、体力が削れているのが見えた。


「世界は、予想通りに進んだ」


その言葉は、誰の胸にも優しくなかった。


「戦争は文明を砕いた。さらに次の争いでは、石でしか戦えなかった。農耕を支えた蜜蜂は、熱と毒と酔いと環境の崩れで生活できず、死に絶えた。農耕すら、再び育ちにくくなった。街は切れ、言葉は切れ、技術は切れた。だが、核だけは残った。私たちが残したものだけが、骨のように残った」


若い回収役が、何か言おうとした。だが、声にならなかった。


「私は、自分の言葉を信じていない。信じてはならない。言葉は、国家に使われる。恐怖に使われる。政治に使われる。計画は、提言者の手を離れる。私が完全に知らされなかったものも、私の名前の外で動いた。だから、名で止めようとしてはならない。名を掲げるな。提言を掲げるな。現場を見ろ。札を切れ。戻せない者を戻すな。拾うべきでない物を拾うな。水を一語で扱うな。奥へ行くな」


彼はそこで一度、言葉を切った。


医療担当が一歩寄りかけた。白髪の幹部は、手で止めた。大きな仕草ではない。だが、まだ自分の時間を切る権利だけは残っている、という手だった。


「……安心しろ。この資料室に残された最悪の現場は、もう片手で数えるほどしか残っていない」


部屋の空気が変わった。


それは明るい言葉ではない。だが、終わりがある言葉だった。無限ではない。いつまでも黒札を増やし、袋を縫い、戻り線で人を下げ続けるだけではない。残りは数件。その数を、彼だけが長く見ていたのだろう。


若い回収役が、乾いた声で聞いた。


「……嘘だろ。おい、本当に終わるのかよ……!? いつまでも黒札を増やして、袋を縫って、仲間を置いて帰るだけの地獄が、本当に、本当に終わるんだな!?」


白髪の幹部は、彼を見た。


「『本当に』などという生ぬるい言葉に縋るな。そんな余裕があるなら戻り線(生き残る手順)を一本でも多く増やせ。これは残った資料から逆算した、ただの冷徹な事実データだ。間違いなどいくらでもあり得る。だから確認をしろと言っている」


「だったら……っ」


「だがな、終わりがないと絶望して動く者が、現場で何をするか分かるか? 『どうせ全員死ぬんだ』と、人を雑に扱い、手順をサボり、簡単に仲間を見捨てるようになる。……終わりがあると思える者だけが、生きて連れ帰るための『戻り線』を、今ここで死に物狂いで作れるんだよ。お前はどちらの馬鹿になりたい?」


片腕の女の頬が、少しだけ動いた。泣いてはいない。だが、筆を持つ指が強くなっている。


白髪の幹部は、机の端の紙を見た。古い提言の紙ではない。三枚の札でもない。白い無地の紙だった。


「……最後だ。最後だけ、この不吉な名前をユスティティアの手順マニュアルとして使わせてもらう」


誰も止めなかった。


彼は背を伸ばした。老いた体が、ほんの一瞬だけ、別の時代の輪郭を持ったように見えた。研究室でも、大学でも、学会でも、国家の席でもない。煤と薬油と黒札の匂いが残る資料室で、彼は自分の名を出した。


「――アルバート・アインシュタインとして、ここにいる全員に告げる! だが、私の御立派な名前なんか絶対に信じるな! 私が遺した数式も、かつての歴史も、すべてを疑って、今お前たちの目の前にある『理不尽な死の境界( threshold )』だけを、マニュアルの文字だけで冷酷に測り続けろ!」


若い回収役が息を止めた。顔を布で覆った男も、動かなかった。片腕の女は筆を持っていない。アルフォンソは目を逸らさない。医療担当だけが、彼の呼吸を数えている。




誰もすぐには返事をしなかった。


返事をすると、誓いの形になる。誓いは綺麗すぎる。綺麗なものは、現場で折れる。だから誰も叫ばない。誰も立ち上がらない。誰も彼の名に頭を下げない。


最初に動いたのは片腕の女だった。


彼女は筆を取り、紙の中央ではなく、戻り線の図の下に小さく書いた。


残り数件。名ではなく手順で処理。


白髪の幹部は、それを見て少しだけ頷いた。


「それでいい」


それだけ言うと、彼は椅子の背へ体を預けた。意識を失ったわけではない。だが、もう前に出る力は残っていなかった。医療担当がようやく近づき、脈を取り、目を見た。彼は抵抗しなかった。


若い回収役は、三枚の札を見た。情報調査。ルート設計。人事。戻したい気持ちはまだある。けれど、その隣に別の紙が置かれた。残り数件。終わりがある。そう書かれた紙だった。


「終わるのか」


彼が言った。


顔を布で覆った男が答える。


「終わらせるんだろ」


「俺たちで?」


「他に誰がいる」


若い男は笑おうとして、失敗した。泣きそうな顔にも見えた。怒っている顔にも見えた。どちらでもよかった。彼は三枚の札へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「戻さない」


顔を覆った男が言った。


「分かってる」


「分かっている手か」


「今度は、分かってる手だ」


彼は札に触れなかった。


その夜、研究炉跡の奥はまだ残っていた。燃料材も、修理ピットも、排水側の汚れも、換気戻りも完全には消えていない。けれど、人が奥へ行く理由は減った。戻り線は図に残った。札は増えた。三人の幹部は戻らなかった。白髪の科学者は、自分の名を最後に一度だけ使い、その名に縋るなと言った。


誰も成功とは言わなかった。


ただ、残り数件という言葉だけが、黒い砂時計の横に置かれた。

砂は落ちていない。

それでも、終わりのある時間が、初めて部屋の中に入ってきた。


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