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キャリントン・イブ  作者: 伊阪証


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第五章-天命

港湾の方角から来た馬は、泡を吹いていた。

乗っていた男は、門の前で落ちるように降りた。片方の頬に火傷があり、眉毛の端が焦げている。息は荒いが、走ってきた息ではない。熱い空気を吸った者の息だった。門番が支えようとした手を、男は振り払わず、ただ自分の胸元から折れた札束を引き抜いた。札には倉庫番号と積荷名が書かれているはずだったが、泥と煤で半分が読めない。

「港が、あの一帯が丸ごと吹き飛びやがった、っ!壁も屋根も、何もかも一瞬で消えちまったんだよ!」

それだけ言って、男は膝をついた。

ユスティティアの詰所はすぐに開いた。誰も男を囲まない。囲むと息を奪う。医療担当が肩を押さえ、顔を横へ向けさせ、水ではなく乾いた布を口元に当てた。煤を吸った者に、いきなり水を飲ませない。彼らはもう、水が味方の顔をして裏切る場面を何度も見ている。

アルフォンソは札束を受け取らず、机の上に置かせた。素手で触らない。煤、薬品、血、何が付いているか分からない。片腕の女が棒の先で札を一枚ずつ広げ、読める箇所だけを別紙へ写す。倉庫、硝酸、綿、金属、石灰、薬品、火薬。語はある。数がない。位置もない。倉庫番号と積荷名が噛み合っていない。

「その顔の火傷、どこで浴びた。爆発の瞬間、どんな光を見た。順に言え。」

老人が聞いた。

膝をついた男は、口を開いたまま数秒遅れて答えた。

「光なんて、そんな生ぬるいもんじゃねえ。昼間みたいに世界が真っ白に塗り潰されたんだ!音が響くより先に、目の前の建物の屋根が、一瞬で消し飛びやがったんだよ!」

「倉庫の中にあった、あの『青い粉』はどうなった!飛び散ったのか、それともまだ奥で燃えているのか!」

「知るかよ、そんな粉のことなんて、煙と一緒に、あの不気味な光がそこら中に飛び散ったんだ…!おいと俺はもう触ってねえ触ってねえぞ。」

「金属筒、鉛の箱、危険標識は。」

男は首を振った。首を振るだけで痛むのか、顔をしかめる。

「箱なんて見てない、倉庫ごと、地面ごと飛んだ。水をかけたら、また爆ぜた。」

その一言で、室内の手が止まった。

水をかけたら爆ぜた。

アルフォンソは札束から目を上げた。最初の報告だけなら、旧文明の兵器か、放射性物質を含む保管物の破裂を疑う。地面が抉れ、死体が残らず、光が昼のように見え、熱が長く残るなら、核物質かそれに近いものを想定して動くのが早い。拾われる前に奪い、封じ、捨てる。そういう初動になる。

だが、水で悪化したという言葉は、違う扉を開ける。

顔を布で覆った男が、壁際の木箱を開けた。棒、袋、外布、縄。いつもの道具だ。若い回収役が袋の数を数えかけ、途中で止まる。

「港全部相手に、この数か。」

「足りると思うな、港全部を相手にするなら人も布も水も足りないと最初から言っておけ。」

老人が言った。

「じゃあ何で持つんだ。」

「持っていないと、拾うべき物が出た時に手が出る。」

若い男は、嫌そうに頷いた。道具が足りないから持たない、ではない。足りない道具でも、手よりはましだ。けれど、港湾倉庫群を相手に、棒と袋で何かを拾う姿は、どう考えても貧しい。貧しいが、手で拾うよりはまだ生き残る。

資料室には、古い倉庫管理の写しが広げられた。管理表には危険物名が並ぶ。ニトロセルロース、硝酸アンモニウム、金属ナトリウム、カルシウムカーバイド、毒性物質、酸化剤、可燃物。文字だけなら整然としている。倉庫ごとに番号もある。だが、男の持ってきた札束と照らすと、すぐに崩れた。番号が違う。量が違う。混ぜてはいけないものが近い。書き残しには離れているはずのものが、現地では同じ区域で爆ぜている。

片腕の女が筆を止めた。

「紙が負けているなら、札に書かれた名より実物の置かれ方を見ろ。」

若い回収役が顔を上げる。

「紙が何だってんだ。言い逃げるな、ここで言え。」

「実物に負けている。紙にある通りに置かれていない。」

「何を見るか先に言え、火と水と風のどれが次に人を殺すのかを外すな。」

老人が机の上へ、焦げた小さな石片を置いた。報告の男の服についていたものだった。水で濡れた跡があり、その周囲だけ異様に白く吹いている。

「水のあと、燃え方、二度目の爆ぜた中心、風。倒れた者の向きと足の止めどころが見えなければ意味がない。倉庫名ではなく何と噛み合うかを見る。」

「顔つきって、また水か。」

「水だけではない。熱で崩れるもの、水でガスを出すもの、火で走るものと隣を爆ぜさせるものと毒を吐くもの。名前より先に何と噛むかだ。迷うなら、水と火と風の通り道を先に切れ。」

パヴェルは部屋の隅で聞いていた。まだ前線に戻しきられていない。火傷でも見えない毒でもない熱が、体の奥に残っているような顔をしている。だが、今回の現場は広すぎた。港、街区、山裾、風、貯水、倉庫群。壁の内側で札を並べるだけでは足りない。彼は資料ではなく、机の上に置かれた粗い地形図を見ていた。倉庫群の背後に山があり、谷があり、古い貯水の跡がある。街区側は平たい。風は港から内陸へ入る。

「見えない毒じゃないのか。」

若い回収役が聞いた。

アルフォンソはすぐには答えなかった。鉛箱や金属筒、旧文明標識の見直し札を一枚ずつ裏返す。見つかっていない。青い砂もない。誰かが拾って価値を感じるような小型の拾う物もない。あるのは、爆発した倉庫と、何が入っていたか分からない積荷と、水で悪化した痕跡だけだ。

「まだ断つには早い。ただ、拾う相手は見えていない。」

「火事場泥棒はなしってことか。」

顔を布で覆った男が言った。

若い男がぎょっとしてそちらを見る。

「言い方の問題じゃない。事実を隠す言葉なら要らねえ。」

「危ない粉の入った箱なら、誰かが持つ前に奪う。泥棒でもやる。今は奪う物がない。」

アルフォンソは頷いた。

「拾う物を探して奥へ入る動きは切る。鉛箱、筒、標識を追う者は下げる。」

「じゃあ何をしに行く。」

「火の行き先を選びに行く。」

その言葉は、部屋の中で重く落ちた。火を消す、ではない。止める、でもない。行き先を選ぶ。選べるほど人間が偉いわけではない。ただ、何もしなければ火と爆発は勝手に街区を食う。どちらへ逃がせば人が減らないか、そこだけは選ぶ余地があるかもしれない。

現地へ向かう列は、いつもより広がっていた。密集しない。港湾側の風が何を運ぶか分からないからだ。棒と袋の箱は少ない。代わりに、地図、風を見る布、熱で歪んだ金属を避ける長棒、毒臭を書き残しする板、倒れた者の位置を写す札が増えた。回収班は先頭に出ない。先頭にいるのは、地形を見る者と、風を見る者だった。

道中から、空は黒かった。

煙ではない色が混じっている。黒、灰、白、時々黄ばんだ筋。火事の煙だけではない。薬品が燃えた臭いが、風の薄いところで喉に刺さる。近づくほど、地面に散った破片が増えた。木片、瓦、曲がった鉄、焦げた布、白く吹いた粉、溶けた何かが固まった塊。若い回収役は金属片を見るたびに顔が動く。使えそうなものが多すぎる。だが、誰も拾わない。拾う現場ではなくなっている。

爆心に近い倉庫群は、倉庫と呼べる形を半分失っていた。屋根はない。壁は外側へ倒れたものと、内側へ吸われたように崩れたものが混じっている。地面は抉れ、ところどころに水をかけた跡がある。その水跡の周りだけ、地面が異様に荒れていた。燃え残りが増え、白く泡立ったような塊があり、黒い筋が放射状に伸びている。

老人が膝をつかず、棒で水跡の外側を指した。

「ここで悪化している。」

「水で薄める気か。薄めたつもりで広げるだけだ、やめろ。」

「水で何かが起きた。」

片腕の女が書き残しする。

「水顔つき疑い、水素、アセチレン、毒性ガス。熱暴走。」

若い回収役が顔をしかめる。

「疑い、多すぎるだろ。」

「多すぎるから、名前で動かない。」

顔を布で覆った男が答えた。

「どう動くかを先に言え、水を入れない場所と人を下げる場所を間違えるな。」

「水を入れない場所を増やす、火を送る場所を選ぶ。人を寄せない。拾わない。」

「拾わない仕事ばっか増えるな。」

「拾うと死ぬ物が増えたからだ。」

爆心地の中央へ向かおうとした者はいなかった。向かう理由がない。鉛容器もない。金属筒もない。危険標識も残っていない。青い砂もない。異様な熱はあるが、放射性物質を見つけた時の嫌な一点ではなく、広く、化学臭と火の熱が重なっている。倒れた者の位置も、見えない毒源へ向かっている形ではなかった。水をかけた場所、煙を吸った場所、爆風が抜けた場所で倒れている。

アルフォンソは最初の回収札を外した。

「核ではないと見る。」

若い回収役が息を呑む。

「断つのかじゃない。断つしかないなら、ここで腹を括れ。」

「危ない粉の入った箱は見えていない。拾う動きは害が大きい。」

「でも、核爆発級って。」

「核ではないが、街を消すだけの力はある、その違いで安心する者が出ないように言え。」

パヴェルが地図から顔を上げた。

「核じゃなくても、街は消える。」

その声は大きくない。けれど、列の数人が振り返った。彼は爆心ではなく、倉庫群の背後の山を見ていた。山裾に古い谷があり、その奥に水を抱えた跡がある。街区側へ行けば、人がいる。倉庫群の中心へ戻れば、残った危険物がさらに爆ぜる。山側へ逃がせば、山は燃える。山は無傷では済まない。だが、街区よりは人が少ない。

「山を見るな、見た顔のまま走れば街より先にあなたが焼ける。」

老人が言った。

「見ているだけの顔ではない、足が先に山へ向いている。」

「見ている顔じゃない」という指摘に、「今それ言うなよ」と苦く返しながら、パヴェルの足はまだ動いていない。自分でも分かっているのだろう。足が行きたがっている。動けば、止める前に何かを変えるかもしれない。変えた結果、戻れないかもしれない。

アルフォンソは地図を受け取り、山側、街区側、倉庫群、爆心、水跡を一枚に写させた。風を見る布が、港から山へ斜めに引かれている。火の音はまだ続いている。時々、遠くで小さな破裂が起き、鳥の群れが煙の上を狂ったように曲がる。

「隊列を変えるなら、拾う者を後ろへ下げて風と熱を見る者を前へ出せ。」

片腕の女が札を並べ直す。

「回収は後ろ、風、地形、熱と倉庫残量と水跡を前へ。街区側へ行く者を止める。山側の抜けを見る。」

若い回収役が、自分の札を見て少しだけ口を曲げた。

「仕事が取られたと嘆くな、拾う仕事が消えたなら生きて戻る者が増える。」

顔を布で覆った男が言う。

「仕事がなくなったなら喜べ。」

「なくなってねぇだろ。」

「なら文句を言うな」と切り返され、「理屈が雑だな、雑でも足は止まる」とやり取りする間に、若い男は渋々札に従った。

それでも、若い男は札に従った。袋を前へ出さない。棒を持っているが、拾うためではなく、人が拾おうとする手を止めるために持つ。

爆心地の向こうで、また鈍い音がした。大きな爆発ではない。だが、倉庫の一部が内側から膨らむように光り、すぐ煙に呑まれた。火は消えていない。消えないどころか、場所を探しているように動いている。

アルフォンソは静かに言った。

「回収する物はない。逃がす向きを間違えれば街が消える。」

その言葉で、全員の視線が爆心から外れた。地面の抉れ、燃え残り、白い粉、溶けた金属。その一つ一つを拾う場ではなくなった。見るべきものは、火がどこへ行きたがっているか、爆発がどこへ抜けたがっているか、水を入れたらどこが暴れるかだった。

港からの熱風が、一度だけ強く吹いた。黒い煙の下で、山側の木々がざわめく。街区の方からは、人の声が薄く聞こえた。逃げる声か、探す声か、祈る声か、もう分からない。

パヴェルは、その声の方を見なかった。山を見ていた。

まだ動いていない。

けれど、誰より先に、火の逃げ道を見つけてしまった顔をしていた。

煙は、上へ逃げていなかった。

港の火は空へまっすぐ伸びるものだと思っていた者が、最初に足を止めた。黒い柱になるはずの煙が、低いところで潰れ、倉庫と倉庫の間を這っている。風が押さえつけているのか、熱が足りないのか、薬品が混じって重くなっているのか。どれでも危ない。上へ逃げないものは、人の鼻と喉へ来る。

老人が布片を棒の先に結び、胸の高さではなく、膝の高さへ下げた。布は港から街区へ向かって揺れたあと、急に山裾へ吸われるように曲がった。

「上の風と下の風が違う。」

片腕の女が書き残し板を開いた。

「煙は街区。熱は山側。」

若い回収役が煤けた地面を見たまま言う。

「火って、そんな器用に分かれるのかよ。」

顔を布で覆った男が返した。

「器用なのは火じゃない。地形だ。」

足元には、爆風で削られた跡が残っていた。倉庫の壁は一方向に倒れていない。外へ開いた場所もあれば、内側へ潰れた場所もある。最初の爆発で飛んだ破片と、後から内側で膨らんだ破片が混じっている。一直線に逃げたのではない。火も爆風も、出口を探して何度も向きを変えていた。

アルフォンソは、爆心へ向かわなかった。中央に行けば、何かが分かるかもしれない。だが、中心を見ても人は救えない。今必要なのは、どこから何が出て、どちらへ行きたがっているかだった。

「一つ目は水で暴れた場所だ、そこを火事と同じ顔で見るな。」

片腕の女が、黒く抉れた地面へ札を置く。そこは倉庫二棟分がまとめて消えた場所だった。金属の骨組みが飴のように曲がり、地面は茶色と黒に焼け分かれている。

「二つ目は水で大きくなった場所だ、一つ目より人の手を呼びやすい。」

別の札が、少し離れた白く荒れた地面へ置かれる。水をかけた跡があり、その周囲だけ泡立ったように石が砕けていた。壁は外へ倒れ、焼けた袋の残骸が細かく散っている。

若い回収役が札の間を見た。

「一つ目より、二つ目の方が汚い。」

老人が頷く。

「水で起きたか、水で大きくなった。」

「水って、本当に面倒だな。」

「水は悪くない。置き場所が悪い。」

「またそれかじゃない。何度でも言う、使えそうに見えるものほど危ない」と釘を刺され、「だから何度でも要る」と若い男は頷いた。水の札は三つに分けられたままだった。飲む水。洗う水。触るな水。港で使うにはまだ雑に見えるが、雑だから早い。違う言葉を使う者にも通じる。触るな水の札だけは穴が二つ開いている。煙の下で色が見えなくても、指で区別できるようにしてあった。

だが、穴の開いた札を持った男が、焼け跡の水溜まりを見て一瞬迷った。洗う水の札を持つ者が、別の言葉で何かを言う。短い言葉が噛み合わない。二人の視線が水溜まりへ行く。

片腕の女が、棒で二人の札を叩いた。

「黒だ。色でごまかせば誰かが近づく、その黒が一番人を殺す。」

穴の開いた札が前へ出る。二人は同時に頷いた。会話はそれで終わった。細かい説明はない。水を見た時に何をするかだけが決まればいい。言葉のズレをほどいている時間は、煙が吸っていく。

倉庫の残骸から、白い粉が吹いている場所があった。風で舞うのではなく、熱で乾いて、細かく崩れながら縁に溜まっている。若い回収役は袋を出そうとして、途中で止めた。

顔を覆った男が見る。「なぜ止めた。拾う仕事でないなら、何を捨てるのかまで決めろ」と問われ、「拾ったら何と混ざるか分からないから止めた」と答える。「少し賢い。だがそこで満足するな、次で死ぬ。今は腹立たないか? 合っているからな。合っているならそのままやり方に落とせ、口先で終わらせるな」と一気に続ける。

袋は出されなかった。代わりに黒札が置かれ、風の方向だけ書き残しされる。粉を取れば情報になるかもしれない。だが、取るために人が近づく。近づいた者が倒れれば、情報より先に人が減る。

爆心地の外縁には、倒れた者の跡がいくつもあった。焼けた者、爆風で飛ばされた者、煙を吸った者、毒で倒れた者。死因が一つではない。だから、倒れ方も一つではない。爆心へ向かって倒れている者もいれば、水跡から離れようとして倒れている者もいる。倉庫の入口で折り重なった者は、助けに入ったのだろう。そこには荷車の跡もあった。誰かが水を運んだのか、逃げる人を乗せようとしたのか、もう分からない。

「これ、見えない毒じゃないんだよな。」

若い回収役が低く言った。

老人は、倒れた位置を見たまま答える。

「それだけで安心するな。」

「安心していないと言うなら、顔まで緩ませるな。」

「顔が少し安心した。」

「顔で決めるなって。」

「手より顔の方が早い、安心した顔は周りの足まで近づける。」

若い男は言い返さなかった。核ではないと分かった瞬間、どこかで助かったと思ってしまう。だが、目の前には別の死因がいくつも転がっている。見えない毒でないから安全ではない。危険の名前が変わっただけだ。

倉庫管理の札は役に立たなかった。まったく役に立たないわけではない。何が置かれていたか、候補は増える。だが、どこにあるかは違う。あるはずの区画が空で、空のはずの区画が爆ぜている。番号札は焼け残っていても、積荷は移されている。書類上の秩序は、爆発の前にすでに壊れていた。

片腕の女が、焼けた札束を見て言った。

「名前で追うな、燃えるか水で暴れるか毒を吐くかで分けろ。」

「何で追うかを先に言え、名前ではなく人を殺す動きで追う。」

「顔つきだ。名前で追うな、顔つきだけで追え。」

アルフォンソが代わりに答えた。

「燃える、水で暴れる、熱で爆ぜる、毒を吐く。融けて流れる。今はそれで分ける。」

若い回収役が倉庫の方を見た。

「雑だな。雑なやり方ほど後で仲間を殺す、直せ。」

「細かい名を信じて死ぬよりいい」という言葉に、「それもそうか」と素直に頷く。「納得が早くなったな」「嫌でも慣れるんだよ」と短く応じ、倉庫群の奥で小さな破裂音が続いた。

倉庫群の奥で、小さな破裂音が続いた。木材が爆ぜる音ではない。密閉されたものが熱で裂ける音だ。しばらくして、別の区画から低い火柱が上がる。火柱は高く伸びず、横へ走った。隣の倉庫へ向かっている。

「熱が入っているなら、運んだ場所を全部吐け。」

老人が言った。

「どこへ持ち込んだ。運んだ場所を全部言え、隠すな。」

片腕の女が札を置く。黒煙の区画、白く吹いた区画、融けた金属の流れ、倒れた者の位置、二つ目の爆心。線を結ぶと、倉庫群の中央ではなく、街区側へ少し寄っていた。

若い回収役が顔を上げた。

「街の方へ抜けるのか」と問われ、「このままなら、な」と片腕の女が短く応じる。「水をどこに入れるかで決まる、救いに見えるからこそ一番人を殺す。」

「水は入れない、濡らしたつもりで危ない物を街へ広げるな。」

「火を消す顔で近づくな、消す火と逃がす火は別だ。」

「消す火ではないなら、見るだけで終わらせて人を寄せるな。」

「じゃあどうすんだよ。」

誰もすぐに答えなかった。問いが正しいほど、答えは遅れる。

パヴェルは、少し離れた場所で地図を見ていた。港の地図ではなく、山裾まで含む粗い地形図だ。倉庫群の背後に、古い谷がある。谷の奥に水を抱えた地形がある。普段なら役に立たない水だ。閉じた窪地、岩盤の割れ、雨の後にだけ水音がするような場所。そこへ火が行けば、山は燃える。だが、街区側へ爆風が抜けるより、人は減らないかもしれない。

老人が彼の横に立ち、「見るだけにしろ」と一言制した。「それなら、見ているだけの顔ではない。足が先に山へ向いている」と即座に返される。

「見るだけの顔ではない。」

「そういうの、流行りすぎだろ。」

「流行るほど役に立つ。」

パヴェルは地図から目を離さなかった。

「火はあっちへ行きたがってる。見に行く理由を潰せ」というパヴェルの言葉に「火に意思などない。地形がそうさせてる。山側の谷と爆風の抜けが合ってる。倉庫の壁は街側へ倒れてるけど、熱は山の方へ引っ張られてる。風も下だけ曲がってる。」

老人はすぐに否定しなかった。地図を見て、布片を見る。山側の木々は煙の下でざわめいている。街区の方には、避難しきれていない人の声がまだ残っている。

「山が燃えると言えば人が戻る、街を燃やさないために何を捨てるかまで言え。」

老人が言った。

「街が燃えるよりはましだ。」

言った瞬間、パヴェルの顔が少し歪んだ。自分で言って気分が悪くなったのだろう。山を燃やしていいなどと思っているわけではない。ただ、どちらかへ行く火を、どちらへ行かせるかの話になっている。

アルフォンソが二人の間へ来た。

「まだ決めるな、あなたが走る形で決めれば止める側が二人分になる。」

パヴェルは顔を上げた。

「決めないで済むならな。」

「決めるとしても、あなたが走る形ではない。」

「走っていないと言うなら、足が先に行く癖をここで止めろ。」

「足が先に行っている。」

彼は舌打ちした。だが、足は動かさない。ユスティティアの者たちは、その顔を見ていた。誰も彼を中心に据えていない。だが、彼が見た線を無視もしない。地形図に灰色の糸が置かれる。倉庫群から山側の谷へ。別の赤い糸が街区へ。黒い糸が倉庫中央へ戻る。どれも嫌な線だった。

「街区へ抜ければ避難路も井戸も食料も医療所も巻き込む。」

片腕の女が言う。

「避難路、井戸、食料倉庫、医療所を先に切れ。」

老人が続ける。

「中央へ戻れば、残った危ない物が人の動きに混ざる。」

「残った危険物が混ざる。」

顔を覆った男が言う。

「山側は山火事になるが、街に流すより人の数は少ない」と告げられ、若い回収役が「山火事、ってことか」と低く繰り返す。アルフォンソが「人は少ないだけでゼロではない、そこを忘れた顔で火を送るな」「ゼロの道はない。だから街区側の道を塞いで戻る者を止める」と続けた。

その言葉で、若い男は口を閉じた。選べる安全などない。あるのは、どの損害を選ばされるかだけだった。

小爆発がまた起きた。今度は近い。倉庫の一部が内側から光り、破片が斜めに飛ぶ。山側ではなく、街区側へ寄った。火の走りが変わり始めている。黒煙の下で、人の声が一段大きくなった。誰かが叫んでいる。戻るな、と言っているのか、助けを呼んでいるのか、音だけでは分からない。

「街区側の道を塞ぐ。」

アルフォンソが言った。

「人を何だ。言い逃げるな、ここで言え。今動かなければ遅れる。」

「人を下げる、火の道を潰す、戻る者を止める。倉庫へ入る者を殴っても止める。」

若い回収役が棒を握り直す。

「それなら仕事がある。」

顔を覆った男が言った。

「拾うな、何と混ざるか分からない物を手柄の顔で持ち帰るな。」

「拾わねぇよ。手を叩く。」

「それはいいが、手を叩くだけで調子に乗るな」と釘を刺され、「いいのかよ」という問いに「今だけはそれでいい、拾うより叩いて止める方が役に立つ。」

配置が変わる。回収班はさらに後ろへ回り、代わりに接近阻止と避難誘導へ散る。風を見る者は煙の高さを見る。地形を見る者は山側の谷を見直しする。水跡を見る者は、どこへ水を入れてはいけないかを札にする。毒臭を見る者は街区側の低い道を閉じる。倉庫中央へ戻ろうとした者が数人止められた。誰かを助けるつもりの者も、荷を取りに戻る者もいる。理由は違う。危険は同じだった。

パヴェルはまだ地図を見ている。

「山側へ行かせるなら、ただ火を送るだけじゃ駄目だ。」

老人が横から聞く。

「それなら、何を見るか先に言え、火と水と風のどれが次に人を殺すのかを外すな。」

「谷の水、普通なら地面に吸われる、でもあそこ、岩盤の割れが浅い。爆発で融けた金属と泥が流れたら地面が水を吸わないかもしれない。蓋になる。」

「蓋になると言うなら、火を消すのではなく覆って息を切ると分かるように言え。」

「火を消すというより、覆う、酸素を切る、全部じゃない。大半だけ。」

アルフォンソはその言葉を聞き、すぐには採らなかった。火を山へ送り、水と泥で覆う。言葉にすれば簡単だが、実際には山が燃える。人の手で被害の向きを作ることになる。

「山裾の集落を数えろ、下げられる場所と間に合わない場所を分けろ。」

片腕の女が地図を見る。

「二つ、片方は下げられる。片方は時間が薄い。」

「下げるなら走れる者だけを選べ、煙に弱い者を山へ向けるな。」

「誰を下げるかを言え、戻る者を止める言葉まで決めておけ。」

「走れる者、煙に弱い者は行くな、戻らせるな。理由は言うな。山が鳴るとだけ言え。」

若い回収役が目を見開いた。

「山が鳴るって何だ。言い逃げるな、ここで言え。」

「火と言えば見に行く、爆発と言えば荷を取りに戻る。山が鳴ると言えば、何か分からないから離れる。」

「騙すかどうかではなく、見に行かせない言葉を選べ。」

「行かせない、あなたが行けば危ない物より先にこちらの手が減る。」

その違いを、誰もすぐには飲み込めなかった。だが、飲み込む時間もない。人を下げる者が走る。街区側へ戻る者を止める者も走る。火に水をかけようとしていた男たちから桶を奪い、触るな水の札を突きつける。怒鳴られる。殴られそうになる。若い回収役は棒で桶を弾き飛ばし、相手に詰め寄られた。

「水をかけるな、火に見えても水で暴れる物まで混ざっている。」

「火だと思うな、火に見えるだけで水をかけた壁が消えている。」

「火じゃねぇ物まで燃えてんだよ。」

「何を言っているか分からなくても、あの壁が水で消えたのだけは見ろ。」

彼は一瞬言葉に詰まった。相手に通じない。専門語を出しても無駄だ。彼は焼け跡の水跡を指した。

「あそこを見ろ、水をかけて壁が消えてる、同じにしたいか!」

男の顔が変わった。理屈ではない。見えるものを見た顔だった。若い回収役は桶をさらに遠くへ蹴り、息を吐いた。

顔を覆った男が横を通る。

「よく止めた、今の一声で水を持つ手が一つ止まった。」

「褒め方、普通じゃん。」

「調子に乗るな、褒められた直後が一番足を出しやすい。」

「そっちは普通だな。」

小さなやり取りの直後、倉庫の奥で火柱が横へ倒れた。風が変わったのではない。爆発の抜け道が変わった。火が街区側へ走りかけている。山側の谷へ逃がすか、街区へ入れるか、もう紙の上で迷う時間は残っていなかった。

アルフォンソは地図を折らず、片腕の女へ渡した。

「山側を開けるなら、街へ戻る道を先に潰せ。」

パヴェルが顔を上げた。

「俺が行くと言う顔をやめろ、分かっている場所ほどあなたが一番近づく。」

「それなら、行かせない、あなたが行けば危ない物より先にこちらの手が減る。」

「分かってる場所がある。」

「行く者を替えろ。次は別の者だ。」

「間に合わないと言うなら、足ではなく言葉で場所を渡せ。」

その声は、強くなかった。強くないから余計に嫌だった。叫んでいるなら止めやすい。自分を英雄だと思っている顔なら殴ればいい。だが彼は、ただ距離と火の速さを見ていた。間に合わないと見ている顔だった。

老人が一歩前へ出た。

「足を出すな、あなたが一歩進むたびに止める者が二歩遅れる。」

パヴェルは答えなかった。

火の奥で、鈍い音がした。倉庫の別区画が膨らむ。空気が一瞬だけ引いた。誰もが息を止めた。

止める時間が、消えた。

止める時間が、消えた。

倉庫の奥で、空気が一度だけ凹んだ。煙が火へ吸われ、火が煙の下へ引かれ、地面の煤まで同じ向きへ撫でられた。誰かが息を吸った音がした。吸うな、と言う声は間に合わなかった。次の瞬間、倉庫の屋根が内側から持ち上がり、鉄骨の曲がる音が歯の奥を擦った。

パヴェルは走っていた。

最初の三歩は、誰の命令でもなかった。自分で決めたというより、足が先に空いた場所を選んだ。街区側へ抜ける黒い道が見えた。燃えた荷台、崩れた壁、割れた石積み、その隙間がまっすぐ人のいる方へ口を開けている。山側の谷は、煙の下でまだ半分塞がれていた。焼けた木材と曲がった金属片が絡み、火が入るには狭い。けれど、狭いからこそ少し動かせば、そちらが抜け道になる。

「前へ出るな、そっちへ行けば助ける側まで焼ける。」

老人の声が背中に刺さった。

止まれなかった。止まると、街区側へ抜ける。そう見えてしまった。見えたものを見なかったことにするほど、彼の足は賢くなかった。

熱風が横から来た。頬の産毛が焼ける臭いがした。彼は崩れた荷台へ肩をぶつけ、半分燃えている車輪を蹴った。車輪は動かない。もう一度蹴る。今度は、鉄の輪が外れ、荷台の側板が斜めに落ちた。街区側へ開いていた隙間へ、板と土と焼けた袋が崩れ込む。防壁ではない。爆風を止められる厚みはない。ただ、まっすぐ抜ける形ではなくなった。

後ろで若い回収役が叫んだ。

「何してんだ、そっちへ行くなと言われている理由くらい見ろ。」

答える余裕はなかった。答えれば息を吸う。息を吸えば喉が焼ける。パヴェルは腕で口を押さえ、別の隙間へ向かった。倉庫の壁材が斜めに倒れ、山側の谷を塞いでいる。熱で歪んだ金属板が、木材を押さえていた。触れば焼ける。触らなくても熱い。棒が要る。だが棒を持っていない。

彼は近くに落ちていた焦げた梁を足で押した。表面は炭化しているが、中はまだ重い。足裏に熱が伝わる。靴の底が嫌な柔らかさを持つ。梁は少し動いた。隙間ができる。火はすぐにそこへ舌を入れた。山側へ、黒い煙が吸われる。

「そっちへ行くな、戻る者を増やせば火より先に人が詰まる。」

若い回収役が追いかけようとした。顔を布で覆った男が、その胸元へ棒を入れて止めた。

「行くな、一人を追って二人焼くな。」

「あいつ一人を追うなら、止める方まで焼ける。」

「二人焼くな、助けたいなら戻る道を塞げ。」

「ふざけんな、見捨てる言葉に聞こえるから腹が立つんだ。」

「ふざけている顔か、ならその怒りで腕を止めろ。」

若い男は歯を食いしばった。棒を払いのけようとした腕が、途中で止まる。彼も見ていた。パヴェルのいる場所は、すでに人が入れる熱ではない。追えば、助ける前に倒れる。倒れれば、さらに誰かが行く。そうなれば、火より早く人が減る。

アルフォンソは叫ばなかった。叫ぶ声を使うより早く、配置を切った。

「街区側、下げろ、水を持つ者を止めろ、山裾へ走れる者を出せ。戻る者は縛ってでも止めろ。」

片腕の女が札を飛ばすように渡した。黒札、穴の開いた水札、避難線。言葉の違う者には、山を指し、耳を塞ぐ仕草をし、離れろと手で払う。山が鳴る。そう伝える。火だと言えば見に来る。爆発だと言えば荷を取りに戻る。何が起きるか分からないものとして遠ざける。

パヴェルは、山側の谷へ通じる狭い抜けをもう一つ見つけた。倉庫壁の根元が外へ倒れず、内側に折れている。そこへ熱が溜まっている。街区側へ抜けるにはまだ道がある。彼は焼けた袋の山へ向かい、足で蹴り崩した。袋の中身は分からない。蹴るのも危ない。だが手で触るよりましだった。袋が破れ、白い粉が舞いかける。彼は顔を背けた。喉が熱で閉じる。

爆発は、足元から来た。

地面が持ち上がったのではない。空気が横から殴ってきた。耳が潰れ、視界が白く跳ね、背中へ熱い砂利が刺さる。倒れたと思った時には、まだ膝が地面についていなかった。体が勝手に前へ出ている。火柱は街区側へまっすぐ行かず、斜めに曲がった。山側の谷へ吸われるように、黒い炎と破片が走った。

山が燃えた。

最初は、木の上だけだった。乾いた枝に火が入り、葉が裏返り、煙が緑を黒に変える。それから斜面が一気に明るくなった。火は登るだけではない。谷を下り、また横へ走り、別の尾根へ舌を伸ばす。鳥が飛ぶ。獣が斜面から転がるように逃げる。山裾の集落へ向かった者たちは、荷を置けと怒鳴り、戻ろうとする老人の腕を二人がかりで引いた。

若い回収役は、それを見ていた。棒を握った手が白くなっている。

「山が全部燃える」と声を絞り出す若い回収役に、顔を覆った男は短く「街よりは人が少ない」と答えた。

「納得しているなら、分かったふりで前へ出るな。」

「分かってる顔じゃない。」

「分かってても嫌なんだよ。」

その声に、誰も返さなかった。嫌なのは正しい。正しい嫌悪は、止める理由にはならない。

パヴェルはまだ戻らない。火の向きは変わったが、街区側の隙間が完全に死んだわけではない。燃えた荷台の横に、爆風で開いた新しい穴がある。そこから熱い破片が飛べば、人の方へ行く。彼は半分崩れた石積みに肩を当てた。石は熱い。服越しでも分かる。押せない。腕が滑る。焼けた布が石に張りつく。

痛みが遅れた。

いや、痛みが来なかった場所があった。右腕の外側が、熱いのに遠い。そこだけ自分の体ではないように鈍い。肩の内側と首は焼けるほど痛むのに、腕の一部だけが静かだった。静かな場所ほど、まずい。そうどこかで分かっているのに、体は動いた。

彼は石を押すのをやめ、足で崩した。靴底が溶ける臭いがする。石積みが崩れ、街区側の穴へ流れ込む。今度はきれいに塞がらない。だが、まっすぐな道は曲がった。爆風は嫌がる。そういう形になった。

「戻れ、追うなら火より先にあなたを縛る。」

アルフォンソの声が届いた。

パヴェルは振り向いた。振り向いた先で、山側の谷奥が鳴った。

火ではない。水だった。

山の奥に抱え込まれていた水が、爆発の衝撃で押し出されていた。清水ではない。黒い。灰と泥と融けた金属と薬品を抱えた、重い水だった。普通なら地面に吸われる。だが、斜面には融解物が薄く広がり、灰と泥が膜を作っている。水は吸われず、表面を滑った。滑るというより、黒い蓋が山から剥がれて落ちてくるようだった。

谷を下る流れが、火の上に乗った。

火は消えなかった。少なくとも、綺麗には消えなかった。蒸気が爆ぜ、泥が跳ね、燃えていた木々が黒い重みに潰される。酸素を奪われた炎が低くなり、横へ伸びる力を失う。燃えていた爆発物の一部が泥の下へ沈み、破裂音が鈍くなる。山は焼けている。尾根は赤い。だが、火の大きな舌は折れた。

若い回収役が息を呑んだ。

「それなら、蓋になると言うなら、火を消すのではなく覆って息を切ると分かるように言え。」

老人が低く言う。

「まだ近づくな。毒も熱も残る。」

「理解しているなら、分かったふりで前へ出るな。」

「分かってる足じゃない。」

「行かないと言うなら、足までこちらへ戻せ。」

言いながら、彼は一歩出かけていた。顔を覆った男が肩を掴む。今度は棒ではなく手だった。手で止めるほど、危なかった。

パヴェルが戻り始めた。

歩いていた。走ってはいない。足は動いている。だから余計にまずかった。服の右側が張りつき、肩から腕にかけて布が皮膚と一緒になっている。頬の片側は煤で黒いが、その下の皮膚は妙に白い。熱で赤くなっている場所と、赤くならない場所がある。赤くならない場所の方が悪いと、医療担当が見た瞬間に分かった。

「そこで止まれ、そっちへ行けば助ける側まで焼ける。」

彼女の声が出た。

パヴェルは止まらなかった。

「まだだ、街側へ抜ける煙が残っている。」

「そっちへ行けば助ける側まで焼ける、戻れ。」

「それなら、まだだ、街側へ抜ける煙が残っている。」

「止まれ、そっちへ行けば助ける側まで焼ける。」

声が割れた。怒鳴りではない。恐怖が先に割れた声だった。彼はそこでようやく膝をついた。膝をついた瞬間、体が傾く。若い回収役が飛び出しかけた。顔を覆った男が今度は止めなかった。ただし、走らせはしない。二人で外布を棒にかけ、熱い地面を避けるように近づく。

「触るな。布ごと引け。」

医療担当が言った。

「服が貼り付いていても剥がすな、皮膚ごと持っていく。」

「剥がすな。剥がしたら皮膚ごと持っていく。」

若い男の顔が青くなった。

「そんな顔をしても駄目だ、吸えば喉の方が先に負ける。」

「口を閉じろ。吸うな。」

彼は言われた通りにした。外布を棒で広げ、パヴェルの背中側へ入れる。直接抱えない。張りついた服に触らない。焦げた布の臭い、焼けた皮膚の臭い、薬品泥の臭いが混じる。若い男は一度吐きかけたが、歯を食いしばって止めた。吐けば布を離す。離せば、彼を落とす。

パヴェルはまだ意識があった。

「消えたかどうかを目で追うな、毒も熱も残っている。」

医療担当は答えなかった。答える代わりに、彼の目を見た。焦点はある。喉は焼けていない。呼吸は浅い。右腕の一部に顔つきがない。左肩と首は痛みに顔つきする。悪い。非常に悪い。けれど、生きている。

「動くな、動けるから危ないんだ。」

「動く余裕があるならならなおさら黙れ、傷が動きたがっている。」

「動けるから危ない。」

彼は笑ったのかもしれない。口元が少し歪んだ。だが、声は出なかった。

アルフォンソが戻り線を下げさせた。火災の熱がまだ来る。毒煙も低い。山側の黒い流れは火を押さえたが、薬品泥を運んでいる。誰も勝ったとは言わない。街区へ向かう火は鈍った。大きな爆発連鎖も折れた。だが、山は燃え、谷は汚れ、パヴェルは外布の上で動けなくなっている。

片腕の女が、震える手で書き残しを取った。

「街区側流れ込み、低下と山側火災、広域と黒泥流、火面被覆。爆発音し減少と毒煙し残り溶けたものと残り。負傷一し重度火傷。」

若い回収役が振り向いた。

「重い火傷だ、見るな、水をかけるな、布を剥がすな。」

医療担当が遮った。

「黙れ、水をかけるな、布を剥がすな、冷やす場所を選べ。薬を出せと清潔な布し火傷用の油し聞いた者が逃げられる形にしておけ。飲ませるな意識を見ろ。」

彼女の言葉で、人が動いた。泣く者はいない。叫ぶ者もいない。叫ぶ暇があれば布を持つ。水を持ってきた者は止められた。使う水と使わない水が分けられる。全身に浴びせる水ではない。熱を残した布を冷やす場所だけ、慎重に選ぶ。薬品泥に触れた箇所は別に扱う。火傷と毒と熱が混ざっている。雑に冷やせば、別のものが身体へ入る。

パヴェルは、外布に固定されたまま、山の方を見ようとした。

「見るな、見えないなら余計に見るな。」

老人が言った。

「見えないなら見るな、見ようとして顔を近づけるな。」

「それなら、見るな、見えないなら余計に見るな。」

「街だけは残ったが、あなたの体は残ったとは言えない。」

アルフォンソが答えた。

「残ったなら、残り火まで書け。」

それは慰めではなかった。報告だった。街は残った。山は燃えた。火は大きく死んだが、消えてはいない。そういう報告だった。

パヴェルは目を閉じた。意識を失ったのではない。痛みのある場所と、痛みのない場所を分けるように、顔がわずかに歪む。医療担当がすぐに顔を覗く。

「眠るな、返事ができるならまだ聞ける。」

「聞こえているからと言えるなら、まだこちらの声は届いている。」

「返事ができるなら、まだ聞ける。眠るな。」

「黙らせたいならと言えるなら、まだこちらの声は届いている。」

「今はそれで足りる、よく止めた手を忘れた頃に人が触る。」

若い回収役は、外布の端を握っていた。握るなと言われる前に、自分で手を開く。爪が布に食い込むところだった。彼は深く息を吸いかけ、止める。煙がまだある。浅く吐く。浅く吸う。

顔を覆った男が横から言った。

「それなら、よく止めた、今の一声で水を持つ手が一つ止まった。」

「何を止めたかではなく、手を止めたことだけ今は覚えろ。」

「手だ、そこだけはあなたが止めた。」

若い男は、自分の指を見た。それから、外布の上のパヴェルを見た。

「止められなかったものの方が多い。」

「戻ってから数えろ。」

「それなら、戻れ、追うなら火より先にあなたを縛る。」

顔を覆った男は答えなかった。答えられる立場ではない。代わりに、外布の端を棒へかけ直した。運ぶための形へ変える。抱えない。引きずらない。皮膚に張りついた服を動かさない。人を運ぶのに、袋を運ぶ時より怖いやり方が増える。

山側では、黒い泥と水がまだ流れていた。火はその下でくぐもり、時々鈍い音を立てる。爆発物が全部死んだわけではない。毒も消えていない。融けた金属も固まりきっていない。ただ、大きく街へ走る力は折れていた。

アルフォンソはそれを見て、短く言った。

「消したと書くな、大半を鈍らせただけだ。」

片腕の女が頷いた。

「大半を鈍らせたなら、街区側に残り火があると書け」「そうだ、街区側残り火なし、とは書くな」「山側で広く焼けたことも隠すな、山側広域焼失と残せ」と言葉が積み重なり、片腕の女は筆を走らせた。

彼女は書いた。書く手が震えていた。煤のせいか、熱のせいか、怒りのせいかは分からない。だが、文字は崩れなかった。

外布に固定されたパヴェルが、低く呟いた。

「山の心配をする体ではないが、燃えたことだけは書け。」

医療担当が言った。

「山の心配をする体じゃない。」

「心配するなとは言わないが、今は黙ってろ。」

「するなとは言ってない。口を開くなと言ってる。」

彼はまた少しだけ口元を歪めた。今度は笑いにはならなかった。痛みのある場所が増え始めている。痛みが戻る場所はまだましだ。痛みが戻らない場所の方が悪い。医療担当はそれを知っている。だから、痛がるたびに少しだけ安堵し、顔つきしない皮膚を見るたびに顔を硬くした。

運び出す前に、アルフォンソは山側をもう一度見た。火は完全には消えていない。消えていないが、倉庫群から街へ走る大きな道は潰れた。水と泥と融解物の蓋は、綺麗な救いではない。山を汚し、谷を潰し、後始末を何倍にも増やす。それでも、人の密集地を食う火は折れた。

「戻ると言う前に水の種類を分けろ、救いに見えるものが一番危ない。」

誰も反論しなかった。追う物はない。拾う物もない。中心へ見直しに行く者もいない。見直ししたい欲は、山の黒い煙と外布の上の火傷で、十分すぎるほど殺されていた。

戻りの列は、出発した時より遅かった。

重い袋ではなく、人を運んでいるからだった。

そしてその人は、動けると言ったせいで、誰よりも強く固定されていた。

戻り線は、倉庫群からかなり離された。

港の石畳はまだ熱を持っていた。靴底越しでも分かる熱ではない。足を置いたあと、少し遅れて骨へ届くような鈍い熱だった。黒い煙は山側へ折れ、街区の上を完全には外れていない。喉に薬品の味が残る。誰も水を求めなかった。喉が欲しがる水と、身体へ入れていい水と、火に向けてはいけない水が、もう同じものではなくなっていた。

外布の上に固定されたパヴェルが運ばれてきた時、戻り線の内側にいた者たちは一斉に近づかなかった。近づきたい顔だけが先に出て、それから全員が足を止めた。医療担当が手を上げる。止まれという合図ではない。待て、触るな、息を乱すな、布を剥がすな、その全部を一つに押し込んだ手だった。

「水だ。だが救いじゃない、濡らすほど最悪が広がる。」

若い回収役が反射で言った。

「どの水かを言え、冷やす水と広げる水を一緒にするな。」

医療担当の声が、即座に飛んだ。

彼は口を開けたまま固まった。飲ませる水、冷やす水、洗う水、触らせない水。足りないまま動けば、人を壊す。

「冷やす水、けど、泥のとこには使わない、口には入れない。布は剥がさない。」

「それでいい、持ってこい。走るな。」

彼は走りかけた足を止め、歩いた。速く歩く。走らない。戻ってきた時、桶ではなく浅い皿を持っていた。全身にかける水ではない。熱を残している場所を選んで、布の上から少しずつ当てるための水だった。

パヴェルは意識があった。あるから厄介だった。目が開いている。唇が乾いている。右腕の外側は妙に静かで、肩と首の方だけが細かく震えていた。痛い場所より、痛くない場所の方を医療担当は長く見た。焦げた布が皮膚に張りつき、剥がせば何を持っていくか分からない。服と肉の境目が、もう服の都合では決まらなくなっていた。

「動ける顔をするなならなおさら黙れ、傷が動きたがっている。」

彼が言った。

医療担当は、彼の顔を一度だけ見た。

「動けるならなおさら黙れ、傷が動きたがっている。」

「街の方は残ったが、あなたの体は残ったとは言えない。」

「残ったなら、残り火まで書け。」

アルフォンソが答えた。慰める声ではなかった。地図に置く札と同じ硬さだった。

「山の心配をする体ではないが、燃えたことだけは書け」という言葉に、老人が静かに「燃えた」と一言添えた。

パヴェルは目を閉じた。眠ろうとしたのではない。言葉を飲み込むために閉じたのだろう。医療担当がすぐに頬を叩いた。強くはない。だが、逃がさない叩き方だった。

「それなら、眠るな、返事ができるならまだ聞ける。」

「耳に刺さるがと言えるなら、まだこちらの声は届いている。」

「返事があるなら聞ける。眠るな。」

「うるさいと言えるなら、まだこちらの声は届いている。」

「そのままでいい、よく止めた手を忘れた頃に人が触る。」

若い回収役は、外布の端を持っていた。持つなと言われる前に手を開き、棒へかけ直した。直接握れば、揺れを止めたくなる。揺れを止めようとすると、張りついた布を引く。引けば皮膚まで動く。彼はそれを想像して、顔色を悪くした。

顔を布で覆った男が横に立った。

「吐くなよ、余計に人が寄ってくる。」

「言うな。余計に来る。」

「なら来る前に吐くな。」

「無茶を言うなと思うなら、火の中へ走る方がもっと無茶だと思え。」

「火の中に走るよりは簡単だ。」

若い男は、返せなかった。視線がパヴェルへ行く。行きすぎる前に、自分で足元を見た。追おうとした自分の足を思い出している顔だった。

戻り線では、全員が止められた。煙を吸った者、毒臭の下を通った者、水跡へ近づいた者、山裾へ走った者、街区側で桶を奪った者。放射性物質の付着を見る時とは違う。今は煤、薬品泥、熱で劣化した布、融けた金属の跳ね、喉、目、皮膚、靴底を見る。白い粉だけが危険なのではない。黒い泥だけが危険なのでもない。何が身体へ入ったか分からない時は、分からないものとして扱うしかなかった。

片腕の女が書き残し板を開いた。

「それなら、核ではないが、街を消すだけの力はある、その違いで安心する者が出ないように言え。」

彼女はそう書いてから、筆を止めた。続きが軽すぎれば、今見たものを軽くする。

アルフォンソが言った。

「核ではない、だが、核と誤るだけの規模、拾う物なし。鉛容器なしと筒なしと旧標識なし。青い砂なし。」

老人が続ける。

「水で悪化した場所あり、倉庫書き残しと実物、不一致。毒煙あり、溶けたものありし山側火災広域と短く済ませた分だけと人は危ない方へ歩く。街区側の大きな流れ込み低下。」

「消火とは書かない、火の向きを変えたと書く。」

顔を布で覆った男が言った。

片腕の女は頷いた。

「山側へ逃がし、泥と水の蓋で大半を鈍らせた。」

「それでいい、よく止めた手を忘れた頃に人が触る。」

「長いと言うな、短くすると嘘になるし、隠しすぎれば別の嘘になる。」

筆が走る。行は長くなった。だが誰も削れとは言わなかった。

若い回収役が、少し離れた場所で口を開いた。

「追わなかった、その結果だけ書け。追えば二人焼けた。」

誰に言ったのか分からない声だった。

顔を布で覆った男が「そうだ。追わなかった、その結果だけ書け。追えば二人焼けた」と静かに肯定し、「分かっているなら、分かったふりで前へ出るな」と続ける。

「目がまだ前へ行ってる。」

「分かってても腹立つんだよ、見に行く理由を潰せ。」

「なら覚えておけ。腹が立つ方が、次に走る前に止まる。」

若い男は、目を伏せた。褒められたわけではない。慰められたわけでもない。ただ、追わなかったことが仕事として書き残しされた。彼がしなかった行動に、初めて形が与えられた。

医療担当の声がまた飛ぶ。

「固定する、腕を動かすな、首も動かすな、布は切る場所だけ切る。剥がすなと水を増やすなし油を持ってこいし清潔な布。汚れた布と混ぜるな。飲ませるな。」

パヴェルがかすかに顔をしかめた。

「飲みたいなら余計に待て、口に入れる水を間違えれば喉までやられる。」

「まだだ、街側へ抜ける煙が残っている。」

「喉が焼けていてもまだ駄目だ、飲ませた水で悪くなる。」

「駄目なものは駄目だ。」

「鬼かと言うなら、鬼なら剥がしていると覚えておけ。」

「鬼なら剥がしてる。感謝しろ。」

「感謝する体力がない。」

「喋る体力はあるな。減らすな。」

彼は黙った。黙ったというより、黙らされた。口元が少しだけ歪む。笑いに近い。だが、笑うには皮膚も呼吸も足りなかった。

山側の書き残しは、さらに重かった。集落の一つは下げられた。もう一つは、荷を置かせるまでに時間がかかった。山へ戻ろうとした者が二人止められた。焼け残りを見に行こうとした者もいる。曲がった金属片を拾おうとした子どもを、若い回収役が怒鳴って泣かせた。泣かせたことを、彼は気にしていた。

「泣かせたのではなく、生きて泣くところまで戻した。」

「生きて泣いたなら、泣ける体を残したと言える。」

顔を布で覆った男が言う。

「便利に使いすぎだろ。道具を手放せない顔をするな」と言われ、「使えると知ってるから捨てられなかった、腹立つな」と若い男が漏らす。「腹が立つなら覚えている」と返され、彼は黙った。

黒札が増やされた。山へ入る道、薬品泥が下った谷、爆発物の残りが沈んだ可能性のある黒い流れ、焼けた金属片が散る尾根、倉庫群へ戻る道。説明は書かない。説明を書けば読む者が寄る。札は、読むためではなく、避けるために置く。壊れた荷台と焼けた梁も道へ置かれる。通れない壁ではない。通りたくない道に変える。

水の札も増えた。

飲む水。洗う水。触るな水。火へ向けるな水。蓋になる水。

若い回収役が札を見て、顔をしかめた。

「増えすぎだと思うなら、言葉ではなく形で分けろ。」

片腕の女は札の角を切り、穴の数を変えた。

「言葉ではなく形で分ける。」

「蓋になる水って、触っていいのか悪いのか。」

老人が答える。

「人が使う水ではない。地形が使う水だ。」

「それ、水って呼んでいいのか。」

「呼ばないと伝わらない、呼ぶと間違う。だから札を変える。」

「面倒で足が止まるなら使える、分かりやすい嘘で死ぬよりましだ。」

「面倒で足が止まるなら使う。見に行く気持ちを折れ。」

それ以上、誰も言わなかった。言語が違う者たちは、札の形を指で見直ししていた。穴、角、切れ込み。暗い煙の下でも、焦っていても、水を一語で扱わないための形だった。

アルフォンソは、最初の隊列の書き残しを見た。放射性物質の回収を想定した配置。爆心地への一点見直し。鉛容器、金属筒、青い砂、旧標識。どれも空欄になっている。

「隊列を寄せすぎた、第一報を信じすぎて切り替えが遅れた。」

彼が言った。

老人は否定しなかった。

「第一報なら疑っていい、だが疑いながら隊列を寄せすぎた。」

「疑うのはいい、隊列を寄せすぎた。切り替えが遅い。」

片腕の女が、黙って書く。

「見ていた者が、先に動いた。」

その文で、室内の空気が一度止まった。誰のことか、全員が分かっていた。パヴェルは外布の上で目を閉じている。眠ってはいない。医療担当が横で呼吸を数えている。

若い回収役が低く言った。

「街は残ったが、あなたの体は残ったとは言えない。」

「残ったと書くなら、残り火まで書け。」

アルフォンソは言った。

「だから書き残す。成果としても、失敗としても。」

「両方だ、成果だけにすれば次の者が真似をし、失敗だけにすれば止める手が消える。」

「両方だ。成果だけにすれば次の者が真似をし、失敗だけにすれば止める手が消える。」

「そんなの、どっちにすればいいんだ。」

顔を布で覆った男が答えた。

「次に同じことをさせない方だ。真似を止める線を書け。」

誰も反論しなかった。パヴェルの判断は、火の向きを変えた。街区への大きな流入を鈍らせた。山側の泥と水の蓋を呼び込んだ。だが、それを一人の度胸に任せた時点で、人員運用としては壊れている。街は残った。彼は一ヶ月、起き上がれない。どちらかだけを書くと、次に誰かが真似をする。

医療担当が、そこで顔を上げた。

「最低でも一ヶ月。それまではその寝台から指一本動かすんじゃないよ。」

パヴェルの目がうっすら開く。

「おい、一ヶ月って、何がだよ。何の期間の話をしてんだ。」

「あなたがその潰れかけた体で、勝手に起き上がるのを禁止する期間さ。」

「ふざけるな、長すぎるだろ、現場がどうなってるか分かってんのか!俺がいなきゃやり方が――。」

「これでもかなり短く見積もって言っているんだよ。あなたのその溶けかけた内臓の状態を見れば、本当なら一生寝ていろと言いたいところだね。」

「とんだ大袈裟な脅しを言ってくれる。嘘だろ、おい。」

「私があなたに都合のいい嘘を吐く理由が、この医療区画のどこにある?嘘を言って安心させたいなら、『三日で治るから現場へ戻れ』とでも言って、あなたを外で野垂れ死にさせているさ。」

若い回収役が、思わず顔を上げた。

「おい、一ヶ月もパヴェルを動かせねえって、マジなのかよ…!?」

「一ヶ月は決めた手順を守った時の最短だ。傷を動かせば延びるし、薬品泥に触れても延びる。包帯を早く剥がしても、余計な口を利いても同じだ。文句があるなら今すぐここから出ていきな。」

パヴェルはしばらく黙った。

「分かったよ、じゃあ、もう二度と余計な口は利かない。喋らなきゃ文句はねえだろ。」

「あなたの『喋らない』は、この資料室で一番信用できないね。」

「本当に、一言一言が人の神経を逆撫でするな。手厳しいことで。」

「その弱音も、壊れた道具としての書き残しにそのまま写すぞ。」

「――クソ、もういい。やめろ。」

少しだけ笑いが起きた。笑っていい場ではない。けれど、笑わなければ息が詰まる。医療担当は笑わなかったが、止めもしなかった。パヴェルの口元が動いた。痛みがある場所は動く。痛みのない場所は、相変わらず静かだった。

日が落ちる頃、彼は医療区画へ運ばれた。

石の廊下ではなく、布を敷いた板の上を通る。振動を減らすためだった。運ぶ者は四人。若い回収役もその一人になりたがったが、止められた。止められて、今回は従った。自分が力を入れすぎると分かっていたからだ。代わりに、彼は先回りして扉を開け、通路に残った水桶をどかした。水桶を蹴りたくなるほど邪魔だったが、蹴らなかった。中身が何の水か見直しする前に動かすなと、もう身体が覚えていた。

医療区画の奥、日常側に近い小部屋で、ヴィクトリアが待っていた。

誰かが呼んだのではないのかもしれない。あるいは呼ばれたのかもしれない。どちらでもよかった。彼女は作戦の書き残しを持っていない。現場の説明も聞いていない。部屋の入口で、寝台へ固定される彼を見ただけだった。

右腕と肩は布で覆われ、首の片側にも処置が続いている。顔の半分には煤が残り、髪の先が焦げて短くなっている。彼が何をしたかを知らなくても、何かから戻ってきたことだけは分かる。戻ってきた、という言い方さえ足りない。戻された、と言う方が近かった。

ヴィクトリアは近づきすぎなかった。医療担当が何も言わない距離で止まる。そこに立ったまま、しばらく彼を見ていた。責めない。泣かない。問い詰めない。問いが出れば、彼は答えようとする。答えようとすれば、体力が削れる。それを分かっている顔だった。

パヴェルが目だけを動かし、「何を見たか言え」「何がひどいか言え」と重ねる声に、「見た」「ひどい」とそれだけ絞り出す。医療担当が横から割って入った。

「黙れ、息だけ整えろ。」

パヴェルは小さく息を吐いた。

「ひどいってさ、で終わらせるな。」

ヴィクトリアは、ほんの少し眉を寄せた。

ヴィクトリアが「聞いたのはそっちだ、今は黙ってろ」と眉を寄せ、「そうだったな」と彼は口を閉じる。「今は喋るなと言われてる、口を閉じていろ」と医療担当がもう一押しした。

「うん、で済むならそれでいい。」

それきり、彼は黙った。黙っただけで、医療担当が少しだけ頷く。ヴィクトリアは寝台の横に座らない。手も握らない。触れていい場所がほとんどないからだ。代わりに、彼の視界に入る位置へ椅子を置き、腰を下ろした。そこにいる、と分かる距離だった。巻き込みたくなかった相手が、現場ではなく、戻る場所にいる。それだけで十分だった。

外の資料室では、最後の書き残しが閉じられていた。

核ではなかった。拾う物はなかった。奪うべき小型危険物もなかった。けれど、放置すれば街区が消えた。火は消したのではない。行き先を変えた。山は燃えた。谷は汚れた。街は残った。パヴェルは起き上がれなくなった。

片腕の女は、その最後の行を書いたあと、筆を置いた。

誰も安全とは言わなかった。

誰も成功とも言わなかった。

ただ、黒札を増やし、水の札を切り直し、山へ入る道を塞ぎ、街区へ帰す者を止め、寝台へ固定された一人の名を、前線から外した。


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