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キャリントン・イブ  作者: 伊阪証


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第四章-価値は等しく安いもの

鉄の輪が、机の上で乾いた音を立てた。

それは取っ手だった。水桶や粉桶につけるような、ありふれた形の輪だ。だが、置いた者は素手で触れていない。二本の木棒で挟み、布の上へ転がし、輪が止まるより先に一歩下がった。机を囲んでいた者たちも、誰一人として笑わなかった。

「おい、なんだよこれ、ただの水桶の取っ手じゃねえか。わざわざそんなものを素手で触るななんて、大袈裟だろ。」

若い回収役が言った。言い方は軽いが、声は軽くない。視線は輪へ寄っている。金属だ。使える。直せる。そう思った顔だった。

顔を布で覆った男が、すぐに棒の先で輪を机の中央から端へ押した。

「まだあれを道具の顔で見ているのか。そんな目で触るな、怯えているなら先に引き下がる理由を相手に見せろ。」

「何すんだよ、どこからどう見てもありふれた鉄の輪だろ!使える金属を拾って何が悪いんだよ、触った奴が死ぬなら使い道もへったくれもないだろ。」

「そうやって『使えるもの』に見えるから、何も知らねえ馬鹿が素手で掴んで、気付いた時には内臓から腐って死ぬんだよ。」

「おい、またその見えない死神の話かよ、聞き飽きたんだよ、それっぽい格言でいちいち脅してんじゃねえよ!」

「脅しではない、現実だ、人間はな、目の前で人が溶けるまで便利な道具に勝手に手が出る生き物なんだよ。あなたもその片方に加わりたいか。怯えているなら先に引け。」

若い男は口を閉じた。出かけた手を、腰の後ろへ回す。前なら誰かに叩かれていた動きだ。自分で止めた分だけ、部屋の空気は少しだけ荒れずに済んだ。

資料室には、古い持ち場から持ち帰られた紙と器具の写しが広げられていた。地図ではない。炉の配置図でもない。細長い塔の断面、太く低い槽の図、液量の表、濃度の欄、働いていた者の移動線、床に残った白い結晶の位置。机の隅には、煤けた古い紙片が一枚置かれている。硝酸ウラニル溶液、濃縮度十八・八、沈殿槽、臨界。読める者が読んでも、読めない者が眺めても、そこにある数字の嫌な重さだけは変わらなかった。

アルフォンソは、細長い塔の図に木札を置いた。

「本来は、こちらだ。だが、実際に残っている線は違う。」

老人が頷き、細い指で図の縁をなぞった。もちろん紙には触れない。指は浮いている。

「細い。量が入らないし、入りすぎない形をしている。」

「仕事は遅いだけで終わらせるな。」

片腕の女が言った。彼女は書き板を脇に挟み、筆を濡らさないまま待っている。

「遅いから安全だったんだ、早さを欲しがった瞬間に人が近づきすぎる。」

若い回収役が鼻を鳴らした。

「遅いから嫌われたの間違いだろ、現場の連中は待つことを一番嫌がる。」

顔を覆った男が返す。

「両方だ、嫌われた安全ほど現場で最初に捨てられるから厄介なんだ。」

その言葉で、部屋にいた何人かの目が太い槽の図へ動いた。背が低く、口が広い。水を溜める桶にも、酒を混ぜる桶にも見える。そこへ、危険な溶液が流し込まれた。紙の上の線だけなら、何も起きない。だが、線が現場の仕事台と床の汚れと、青白い閃光の証言につながると、ただの器が急に人を殺す形になる。

「バケツだ、それを省くと後ろの者が同じ失敗をする。だが道具に見えるものほど一番危ない、手を出すな。」

若い男がぽつりと言った。

片腕の女がすぐに睨む。

「笑うな。そう言わないと誰かが手を伸ばす。笑える余裕があるなら、まず戻る道を見直ししろ。」

「笑ってねぇよ、で終わるな。」

「笑いそうな口だった、そういう顔のまま近づく者が一番危ない。」

「口まで見るのか、で終わるな。」

「手元より前に顔へ出るな。」

彼は渋い顔で口を結んだ。笑いたかったわけではない。たぶん、信じたくなかったのだ。こんなものが原因になるのか、という逃げ道を、笑いの形で一度だけ探した。それを許すと、現場で桶を軽く見る。軽く見た手は近づく。

アルフォンソは古い仕事表を読み上げさせた。読み役は、言語の違う二人だった。一人は旧文明の文字に強いが、容器名の訳が荒い。もう一人は現場の器具に強いが、古い数値を読むのが遅い。二人の間に、細長い塔と貯塔と沈殿槽の札が並べられている。同じ言い回しを使うと混ざるから、言葉ではなく形の札で分けた。

「細い塔は量が入りにくいからまだましだと、後ろの者に分かるように言え。」

一人が言う。

「細い塔だけ見て終わるな、入りすぎない形だから危険を増やしにくいと言え。」

もう一人が札を持ち上げる。

「貯める塔は中身を集める場所だから、覗くなと分かる言い方にしろ。」

「貯める塔は人の目を呼ぶから、近づくなという理由まで言え。」

「広い槽は覗きたくなる形をしている、そこを甘く見たら顔から死ぬと言え。」

「広い槽は器に見えるから危ない。」

若い回収役が小さく息を吐いた。

「子どもの勉強みたいだな。」

「子どもの勉強なら、間違えても死なないぞ」と老人に低く念を押され、パヴェルは「やるよ」とだけ短く応じた。

会話はそれで止まった。言葉が通じにくいことは、誰も面白がらない。怒鳴っても速くならない。形、札、指差し、復唱。それで遅くなる。遅くなるが、混ざるよりましだった。混ざった瞬間、細い安全な容器と、広く危ない容器が同じ物になる。

片腕の女が、沈殿槽の図に三つの印を置いた。

「高濃度だ。近づけば終わる、まず距離を空けろ。」

一つ目の札。

「広い器だ。見た目に騙されるな、触れば内側からやられる。」

二つ目。

「水だ。だが救いじゃない、濡らした分だけ面倒が広がる。」

三つ目。

「水まで敵なのか」と眉を寄せる若い男へ、「敵じゃない。置き場所が悪いだけだ。説明を削ると手が伸びる」と冷静な声が返された。

老人が冷却水の配管図を重ねる。沈殿槽の周囲を、水が囲んでいる。冷やすための水だったのだろう。だが、その水が別のものも返す。中性子という言葉を、資料室の全員が同じ精度で理解しているわけではない。だから老人は、難しい言葉を長くは使わなかった。

「飛び出したものを、水が押し返す、押し返されると、中でまた当たる。当たり続ける。」

「火種を桶の内側へ戻すみたいなものか。そう思えば、まだ足を止めやすい。」

若い男が言う。

老人は少し考えた。

「雑だが、足を止めるには足りる。」

「褒めた、って何だ。言い逃げるな、今ここで言え。」

「雑だと言った。足を止める理由を添えろ。」

「足りるとも言った、そこで調子に乗らなければな。」

「調子に乗るな、で終わるな。」

短い笑いが出かけ、すぐに消えた。笑っている場合ではない。だが、こういう小さなやり取りがなければ、全員の手が硬くなりすぎる。硬くなった手は、次に危ないものを掴む。

アルフォンソは、床に残った白い結晶の写しを机へ出した。

「回収する物を決める。全部は持ち帰らない。」

片腕の女が筆を構えた。

「床の付着物、乾いた結晶、汚れ布、桶の外側と内側の残り。槽周辺の床泥と冷却水系に触れた工具濡れた外布。靴底の白い粉。」

「桶の中を見るか、で終わるな。」

若い回収役が聞く。

顔を覆った男が即答した。

「見ない。見たくなるから見ない、線を越えないためだ。」

「残ってるか分からないだろ。」

「顔を近づける理由を作るな、覗き込むための理屈は後からいくらでも生える。」

「棒で倒せばいい、で終わるな。」

「倒す、覗かない、入れば袋ごと落とす、入らなければ外側を包んで落とす。中身が見えないまま捨てる。」

若い男は嫌そうに息を吐いた。

「見たいものを捨てるのか。」

「顔を捨てるより安い、見たいものを諦めるだけで済むなら十分だ。」

それで終わった。見たい欲は残る。中に何があるか知りたい。どれくらい残っているか確かめたい。だが、確かめるために顔を寄せるなら、その情報は高すぎる。

老人が、青白い閃光の証言紙を広げた。紙はひどく短い。雷のような青、目の奥が焼ける、倒れた者、吐き気、声が出ない。書いた者は専門家ではないのだろう。だが、専門用語が少ない分だけ、その場の身体が残っていた。

「光はそれではない。」

アルフォンソが言った。

「光が出た条件を追う。高濃度、広い器、水だ。写しは残せ、だが現場へ戻すな。」

「光った場所へ行くのか」と声を潜める若い男に対し、「近づかない。手を伸ばす口実を先に潰すんだ」と即座に方針が示された。

「遠目で足りる。床と道具だけ拾え。」

片腕の女が、仕事者の導線を示す線へ小さな札を置く。

「桶を運んだ道、こぼした場所、拭いた布、槽へ向いた足跡。戻れなかった者の位置を拾えばどこで人が迷ったかは読める。」

「死人の足跡を読むのか。そこまでやるなら、生きてる者の逃げ道まで見ろよ。」

「生きている足でな、死人の跡を追うのに死人を増やす必要はない。」

誰も返さなかった。言い方は荒いが、その通りだった。死んだ者の近くへ寄るのではない。死んだ者が残した導線だけを使う。近づけば、同じ線へ入る。

次に、水側の図が出された。冷却水の配管、低い溜まり、床の傾き、排水穴。水を抜けば止まるかもしれない。だが、ここに近代的な装備はない。資料に残るような、二人一組で突入し、弁を壊し、短時間で水を抜く仕事をそのまま再現できるわけではない。ユスティティアが持っているのは、木棒、布袋、縄、外布、書き板。いつもの貧しい道具だけだ。

「水を洗浄に回すな。触れた面が増えるだけだ。」

老人が言った。

「水は反射材にもなる、汚れも広げる。濡れている場所を、綺麗な場所と思うな。」

若い回収役が口を歪める。

「乾いてても粉、濡れてても駄目。先に退け。じゃあどこ歩くんだよ。」

顔を覆った男が棒の束を持ち上げる。

「駄目じゃない場所を探す、なければ作る。そこまで来てようやく足を止めろ。作れなければ帰る。」

「帰る選択肢、あるのか、手を伸ばす前に引け。」

「帰らない奴の後始末は面倒だから先に下がれ」と促され、「優しさがねえな」とパヴェルが毒づくも、「優しさで水は抜けない。気の毒がっている間に濡れた場所が広がるんだ」と一蹴された。

人員札が並べられた。

資料照合。容器形状。導線復元。回収。水側見直し。書き残し。接近阻止。損耗見直し。札は、前の現場より少し細かく分かれている。事故の理解が増えたからではない。分けないと混ざるからだ。容器名が混ざる。水の意味が混ざる。光と青い砂が混ざる。言語が違えば、同じ物を違う名前で呼ぶ。違う物を同じ名前で呼ぶ。命令は短くなるほど速いが、短すぎると間違う。

片腕の女が見直しした。

「広い槽を桶と呼ぶな。名前を縮めると手順まで縮む。」

若い男が不満そうに言う。

「見に行くな、近づいた奴から倒れるぞ」という警告に、「現場で見ないと分からないなら、じゃあ何て呼べばいい」とパヴェルが問い返す。

老人が三つの木札を指で弾いた。

「細い、貯める、広い。そう呼べば足が止まる。」

「雑だな。雑なやり方ほど後で仲間を殺す、そこは直せ。」

「雑でも間違いにくいなら使う、上品な名前で死ぬよりましだ。」

アルフォンソは最後に、持ち場跡の簡略図へ黒い線を引いた。入口、仕事台、桶の跡、こぼれた場所、広い槽、冷却水跡、青白い閃光の証言位置。線は、最短距離ではない。むしろ遠回りだ。だが、危険な条件が重なる場所を避けている。

「最初に見るのは桶ではない」と言われた若い回収役が「じゃあ何から見るんです」と顔を上げると、「床だ。聞いた者が逃げられる形にしておけ。足元を間違えれば、そのまま持ち帰りになるからな」と教え込まれた。

「床だ、それを省くと後ろの者が同じ失敗をする。疑うなら見ろ、足元から死神は移る。」

「人は桶を見る、桶を見れば手が出る。床を見れば、どこへ行ったか分かる。」

顔を覆った男が頷いた。

「道具を見る前に、足跡だな。そこから人の出入りが分かる。」

「そうだ、道具は人を呼ぶ。足跡は人を止める。」

パヴェルはいない。資料を読む声もない。誰か一人が現代の言葉で言い当てる場でもない。ユスティティアは、残された紙と物と床から、仕事がどう壊れたかを読んでいる。うまく読めるから安全なのではない。読んでもなお、近づくほど危険になる。

アルフォンソは、広い槽の図に置かれた三つの札を見た。

「高濃度、広い器、水。」

片腕の女が続ける。

「この三つを近づけない。」

老人が言う。

「残っているなら崩す、触れないなら避ける。拾えるものだけ落とす。」

若い回収役が、机の端の鉄の輪をもう一度見た。今度は手を出さなかった。

「桶が嫌いになりそうだ。」

顔を覆った男が棒を肩へ乗せる。

「嫌いで済むなら安い。相手が逃げられる形にして出せ。」

「好きになるよりはいいだろ。」

「好きな道具で死ぬ奴は多い。」

「また景気の悪いことを言う。どうせなら筋の通る悪口にしろ。」

「景気よく仕事を変えた連中の資料を読んだばかりだろ。」

若い男は、今度こそ何も言い返さなかった。

出発前、片腕の女が書き板を閉じた。そこには、まだ一行しかない。

高濃度の液を、広い器へ集め、水で囲んだ。

短い。だが、それ以上長くする必要はなかった。その一行で、人間が何を簡単にしすぎたかが分かる。何を戻さなければならないかも分かる。

アルフォンソが扉へ向かった。

「物を拾いに行くな。置き方を崩しに行け。」

その言葉で、全員が道具を持った。棒は武器ではない。袋は収穫用ではない。水は味方ではない。桶は道具ではない。

持ち場跡へ向かう列は、いつもより少し遅かった。言葉を合わせる分だけ遅い。札を見直しする分だけ遅い。けれど、速さを求めて壊れた手順を読んだばかりの者たちに、その遅さを笑う者はいなかった。

持ち場跡の入口は、低い石段の先にあった。

扉は外されている。壊されたのではない。外す必要があったから外された形だった。蝶番の跡には古い錆が残り、床には扉を横へ引いた擦り傷がある。誰かが逃げるために開けたのか、誰かを入れるために外したのかは分からない。だが、急いだ跡ではなかった。急ぐ者は扉を壊す。これは、壊す余裕がない者が、手順の中で邪魔な物を外した跡だった。

若い回収役が中を覗こうとした瞬間、顔を布で覆った男が棒を横へ出して「床から見ろ」と制した。「中、見えますよ」と不満をもらす彼へ「目は勝手に奥へ行き、足がその後を追う」と警告し、「信用ねえな」というボヤきにも「信用していないから、まだ使えるんだ」と冷徹に返した。

彼は唇を曲げたが、足は止めた。入口の石に置きかけた靴を戻し、腰に結んでいた袋を少し後ろへ回す。袋が扉の縁に触れないようにするだけで、動きが一つ遅くなる。遅い。だが、速さを求めて壊れた現場へ入るのに、速さを自慢する者はいなかった。

先頭の地面を見る者が、入口から一歩も入らずに床を見た。白い粉がある。粉というより、乾いた液が薄く固まり、割れて縁だけ白くなったものだった。水で流せば消えそうに見える。掃けば取れそうにも見える。だから危ない。簡単そうな汚れほど、人に余計な手を出させる。

老人が棒の先を床へ近づけた。

「払うな。余計な動きで粉を立てたら、全員まとめて吸う。そこで初めて足が止まる。」

若い回収役が顔を上げ、「まだ何もしてませんよ」と抗議するも、「今にも払う顔だった」と即座に切り捨てられる。

「顔で決めるのやめろよ」という反論にも「手より早い」と切り返され、周囲で小さく息が漏れた。笑いになり切る前に消える。床の白いものが近すぎた。片腕の女は書き板を胸に抱え、入口の外から白い痕の形を写す。板を床へ置かない。筆の先だけが動く。

「垂れ跡、入口側ではない。奥から手前へ二本、拭き取り跡あり」との記録報告に、若い男が「誰かが拭いたのか」と息を呑む。

顔を覆った男が答えた。

「拭きたくなるだろうが、触る口実を先に捨てろ。普通は拭く現場こそ、普通の手が死ぬ場所なんだ。怖さは札に落とせ」と教え込む。

最初の白い結晶は、削らなかった。棒で剥がせる量ではあるが、表面が軽すぎる。削れば舞う。老人は一度見て、すぐに外布を使う判断をした。外布を床へかぶせる。手で置かない。棒二本で端を送り、白い痕の上に布を落とす。布が沈むほどの湿りはない。だが、布の下に白いものが隠れただけで、若い回収役の顔が少し歪んだ。

「結晶そのものは取らないのか」と訊く若い回収役に、「布で覆って隠すという形で『取った』のだ。そこまで見れば十分だ」と老人が応じる。

「人の手から外した。もうそれで分かるだろ。」

片腕の女が書き板から目を上げずに言った。

「見えなくするためじゃない。触る理由を消すためだ。」

「屁理屈みたいだな。」

「屁理屈で足が止まるなら使う。怖さは札に出せ。」

布ごと袋へ落とす。袋は地面に置かず、棒で口を支えたまま少し浮かせる。粉の時は低くしすぎない。泥とは違う。濡れたものとも違う。同じ袋でも、相手によって持ち方が変わる。若い回収役はその違いが気に入らない顔をしていたが、言われる前に袋の角度を変えた。腹立たしい学習ほど、現場では役に立つ。

中へ入ると、持ち場の広さが見えた。大きな部屋ではない。むしろ、人が肩をぶつけずに動ける程度の、普通の持ち場だった。壁際には仕事台があり、床には丸い跡がいくつも残っている。桶を置いた跡、足を踏み変えた跡、液をこぼして拭いた跡、重いものを引きずった跡。派手な破壊はない。だからこそ、嫌だった。爆発で壁が吹き飛んでいれば、誰でも危ないと分かる。ここは、人の手順だけが静かに壊れている。

アルフォンソは入口から部屋全体を見ず、床の線だけを追った。仕事台から白い痕、そこから丸い跡、さらに太い槽へ向かう擦れ。線は単純だった。単純だから、よくない。

「台から桶。桶から広い槽。」

片腕の女が復唱する。

「細い塔は使われていない。」

言葉の通じにくい男が、細い札を持ち上げて首を振った。別の者が広い札を床の丸い跡へ向ける。見直しは遅い。けれど、誰も急がせない。溶解塔、貯塔、沈殿槽という言葉は、舌が違えば簡単に崩れる。崩れた言葉で命令を出せば、桶と槽が同じものになる。

若い回収役が小声で言った。

「細く見えるものは、貯める、広い。これで足りるのかよ。」

老人が答える。

「難しい名で間違えるよりいい」「子どもみたいだ」という軽口を制し、「子どもも大人も危ない物へ顔を入れるからこそ、札を使うんだ」と諭す。

その返しで、若い男は黙った。

最初の桶は、仕事台の下に倒れていた。金属の輪が片方外れ、内側は見えない。見たい形をしていた。どれだけ残っているのか、白い結晶があるのか、液が乾いた跡があるのか。情報は中にある。だが、情報が中にあると分かった瞬間、顔が近づく。

顔を覆った男の「桶を倒すぞ」という指示に、「もう倒れてる」と若い男が即答した。

「向きを変える。覗くな。」

「中を見ずに片付けするのか。」

「見るために顔を売るな、目を寄せる理由を折れ。」

二本の棒が桶の縁へ入る。ひっくり返すのではなく、内側をこちらへ向けないまま横へ転がす。床が鳴った。薄い金属の音だった。若い回収役の目が、ほんの一瞬だけ輝く。価値がある音だ。まだ使える音だ。すぐ、片腕の女が言った。

「惜しいと書け。拾い直そうとする手を止めるためだ。」

「何だ、その『え』は。言い逃げるな、今ここで言え――今動かないと次の手が出る。」

「惜しい物は、人を呼ぶ。だから破棄と書く。」

若い男は、反論しかけてやめた。

「捨てがたいなら、捨てる理由を先に言え。惜しさは人を呼ぶ。」

「危ない理由まで渡せ」という指示に「嫌な言葉だな」とボヤくも、「嫌で済めば安い。ここでは嫌がる方がむしろ正しい」と返された。

桶は外布で包まれた。外布を使うのは痛い。残数が減る。戻る道の片付けにも使う。だが、桶を裸で運べば、誰かが後で持ち上げようとする。包んで形を殺す。道具らしさを消す。使えそうな物を、使いたくない物に変える。

床の白い結晶は、三か所に増えた。仕事台の脚元、桶の置き跡、広い槽へ向かう途中。どれも量は多くない。多くないから厄介だった。大量なら近づかない。少量なら片付けできる気がする。若い回収役は、一度にまとめようとして袋を大きく開いた。

「小さくするなら、袋を重くしないためだと先に言え。」

片腕の女が言った。

「残量は少ししかない」と片腕の女が告げると、「少しなら、袋も小さく使え」と指示が飛ぶ。

「何度もやる方が時間は食う。だが、手を伸ばされるよりはましだ。」

老人が横から言う。

「袋を重くするな。重くなると、手が勝手に助けたがる。」

若い男は袋を見た。自分の手も見た。たぶん、助けるだろうと思った顔だった。袋の口を小さくする。棒の先で結晶の縁だけを外布へ落とし、布ごと袋へ入れる。掃かない。削りすぎない。白い痕は少し残る。残す。残した場所には黒い札を置く。完全に消したつもりになるより、残った場所を避ける方が安全だった。

部屋の奥、広い槽は低く沈んでいた。

近づく前から、全員の動きが変わった。音が減る。足が遅くなる。若い男の軽口も止まった。槽は壊れていない。縁は残っている。周囲には配管の跡があり、床には水が残っていた形がある。今は乾いている場所もあれば、底だけ湿っている場所もある。冷却のための水だったのか、洗浄のための水だったのか、今は区別がつかない。だが、資料の三つの札が、ここで同じ場所へ集まった。

高濃度。

広い器。

水。

若い回収役が喉を鳴らした。

「これが、光った場所か。」

アルフォンソはすぐには答えなかった。青白い閃光の証言位置を示す札を、槽の縁ではなく、少し離れた床へ置く。倒れた者の位置、吐いた跡、後退した足跡。光そのものを見る場所ではない。光を見た者が、どこにいたかを見る場所だ。

「光を見に行くな。見に行けば、次は自分が呼ばれる。」

顔を覆った男が低く言った。

「言われなくても、か。」

「言われなくても行く者がいる。光は人を呼ぶ。」

「綺麗だったのか。だったら、なお悪い。」

若い男が言った瞬間、部屋の空気が固まった。本人も失言だとすぐに分かったふりをした。

片腕の女が、怒鳴らずに返す。

「綺麗かどうかで近づくなら、ここへ入るな。」

「悪いだけで済む話じゃない。」

「謝る相手は光を見た者だ、今はいない。その言い方でようやく止まる。だから手を動かせ。」

その返しは冷たかったが、止めなかった。止めると、その失言だけが残る。仕事の中へ沈める方がよかった。

槽の内部は見ない。縁の外側だけを見る。床の飛沫跡、縁へ向いた足跡、周囲の水跡。老人は水側見直しの札を少し下げた。近づきすぎない。水が敵なのではない。水がある位置が悪い。水は飛び出したものを押し返し、中でまた当てる。そう説明されたばかりなのに、床の水跡はただの汚れに見える。見た目ほど信用できないものはない。

水側の男が、濡れた低所へ近づきすぎた。

本当に半歩だった。靴の先が湿りの縁へ触れそうになっただけだ。だが、顔を覆った男の棒が足の前に入るより早く、アルフォンソが言った。

「札を外せと言うなら、外した先まで示せ。下げ先がなければ同じだ。」

水側の男は動きを止めた。

「触れていないだけで安心するな。近づいた時点で退く理由が要る。」

「近づいた事実を軽く見るな。目と足はもう入っている。」

「『見ただけです』や『まだ動けます』といった言い訳で逃げるな。見る位置そのものが悪いんだ」と厳しく断じた。

「動けるうちに下がれ。」

部屋の中で、誰も口を挟まなかった。水側の男はしばらく黙っていたが、自分で腰の札を外し、入口側へ戻った。怒っている。だが、戻る。そこに訓練があった。

若い回収役が小さく言う。

「厳しすぎないか、とは言わせない。」

老人が答えた。

「水を軽く見た者は、水のそばへ戻さない。」

「怪我してないだろ。だが、戻す理由にはならない。」

「怪我をしてから下げると、運ぶ者が要る。」

その言葉で、若い男は口を閉じた。何度も聞いた理屈だ。嫌でも覚える。嫌な理屈ほど、現場ではよく使われる。

槽の周囲で片付けできるものは少なかった。床の外側にある白い痕、仕事台側へ戻る足跡の一部、濡れた布、冷却水系に触れていたと思われる短い工具。槽の内側には入らない。縁の上にも顔を出さない。手を伸ばせば届く距離にあるものほど、棒で押して届かない場所へ変える。

若い男が工具を見た。

若い男が工具を見て「また金属か」と警戒すると、顔を覆った男が「また罠だ。だが全部捨てたら道具が残らない」と低く答えた。

「人が残るだけでは足りない。」

「そればっかりだな」「それしかないんだ」という諦念の混じったやり取りが漏れる。

工具は袋へ落とされた。工具の形が残っていると惜しくなるため、袋の上から棒で押し、柄の部分を曲げた。金属を壊す音に、部屋の何人かが目を伏せた。使えるものを壊すのは、飢えた時に食料を捨てるのに似ている。だが、汚れた道具を残せば、誰かが拾う。拾う者を責めるより先に、拾えない形へ変える。

導線の復元は、ほとんど終わっていた。

細い容器は使われていない。桶が使われている。桶から広い槽へ向かう。途中でこぼす。拭く。拭いた布を床へ落とす。さらに流し込む。水が周囲にある。光を見る。倒れる。後退する。助けに来る。誰かがまた近づく。

片腕の女が、それを一つずつ札で並べた。言葉ではなく、札と線で置いた。言葉が違う者も見れば分かるようにするためだった。若い回収役はその列を見て、顔を歪めた。

「早くするために、全部悪い方へ行ったのか。」

アルフォンソは少しだけ考えた。

「早くするためだけではない。慣れたし、前にも問題がなかった」と弁明するアルフォンソに、「仲間を庇うのか」と厳しい視線が向くも、「庇っていない。細かい理由を残さないと、後ろの者が同じ失敗を見落とすからだ」と語気強めに返された。

「馬鹿で済ませるなってことか。」

「馬鹿で済ませると、馬鹿ではない者が同じことをする。」

その返しに、若い男は黙った。馬鹿な事故だと笑えば、距離を取れる。自分たちは違うと思える。だが、ここに残っているのは、笑える馬鹿ではない。少し速くする。少し楽にする。少し慣れる。その少しが、広い器の中で臨界になる。

持ち場から出る前に、片腕の女が書き残しを読み上げた。

「白結晶、三か所し外布片付け二し床残し一し桶一、包み破棄。工具二し破棄し水側一名し前に出る札外し、広い槽し内部まだ見ていない。青白い閃光証言位置と槽外側と一致し聞いた者が逃げられる形にしておけ。通った跡台から桶し桶から広い槽。」

若い男が「残りすぎだろ」と低くボヤくと、老人が即座にたしなめた。

「近づかなかった分だけ残った。」

「悪いことみたいに言うな。説明を抜いた場所には人が寄る。」

「悪いことではない、良いことでもない。残ったということだ。」

その言い方は重かった。成功にも失敗にも逃がさない。残ったものは残ったものとして、地図と札に乗る。

戻る道へ向かう途中、若い回収役は一度だけ振り返った。広い槽は薄暗い持ち場の奥に沈んでいる。何も光らない。何も音を立てない。ただ、そこにある。そこへ高濃度の液を集め、水で囲んだ。人の手で。人が便利だと思った形で。

「見るな」と顔を覆った男が制した。「戻りたくなる顔だったか」「いや、考え込む顔だったから余計に駄目だ。考えるために足が止まる」とやり取りが続き、「それすら駄目なのか」とボヤく声に、「足元の話なら左か右かではなく、どこへ逃がすかまで言え」と徹底が求められる。若い男は「じゃあ歩くだけだ」と前を向いた。

戻る道の外で、外布が落とされ、靴底が見られ、袖が見られた。水側で下げられた男は不満を顔に残したまま、医療側へ回された。怪我はない。息も乱れていない。それでも、札は戻らない。

資料室へ戻ると、机の上に札が並べ直された。

片付けできる物。

近づかない物。

崩すべき配置。

塞ぐべき道。

捨てるべき道具。

下げるべき人員。

アルフォンソは広い槽の札と水の札を並べたまま、しばらく黙っていた。

「拾うだけでは足りない。」

誰も反論しなかった。若い回収役も、今度は何も言わない。

「水を切る。人が入る道を潰す。槽の周りを持ち場として使えない形にする。」

老人が頷いた。

「近づけば、またやり方が始まる。」

「間違っていない、だから次に手を出す者が分かるように言い直せ。」

片腕の女が、書き板へ最後の一行を書いた。

高濃度の液は残っていなくても、条件が残れば人が近づく。

その一文を見て、若い男が嫌そうに笑った。

「道具も場所も、人を呼ぶんだな。」

顔を覆った男が棒を箱へ戻した。

「呼ばれて返事をするからだ。怖さは、相手に見える形で持て。」

「じゃあ、返事しないようにするしかないか。」

「少し賢くなったな。余計な手出しをするな」とからかわれ、「腹立つ言い方だな」と返すも、笑いは短く出てすぐに消えた。仕事はまだ終わっていない。物は落とした。けれど、広い器と水の組み合わせは、まだあの部屋に残っていた。あれを崩さない限り、持ち場はまた誰かの手を呼ぶ。

持ち場の空気は、床の高さで変わった。

白い粉を外布ごと落とした場所より先、広い槽の周りだけ、靴底の下の音が鈍い。乾いているように見えるのに、奥に湿りが残っている。水が見えるわけではない。光る水溜まりもない。ただ、棒で叩くと、乾いた床とは違う返りがあった。硬い音のあとに、薄い膜を叩いたような遅い響きがつく。

老人が棒を引いた。

「水側から切る。空気の向きも一緒に変えろ。」

若い回収役が顔をしかめた。

「白いのがまだ残ってる。見落とすな。」

「白いものは逃げないが、水は逃げる。先に動く方を止めろ。」

「逃げるって言い方、ほんと嫌だな。嫌な言い方でも、要点は分かる。」

「好きな言い方を探している間に流れる。」

男はそれ以上言わなかった。腰の袋を前へずらしかけ、自分で止める。袋は腰から離し、棒の先へ縄でつける。抱えない。吊らない。滑らせる。何度もやった動きなのに、床の湿りが見えた途端、手順が少し遅くなる。濡れた場所は、人に洗いたいと思わせる。洗えば綺麗になるという、普通の考えが先に出る。その普通が、ここでは邪魔になる。

片腕の女が札を三つ出した。

「飲む水、洗う水、触るな水。混ぜると危ない。」

「雑すぎるだろ」と呆れる若い男に、「通じればいい。使う場を選べ」と冷静に切り返す。

「通じるけどさ、で済ませるな。」

「通じる方を選ぶ。水という言葉だけでは足りない。」

言葉の違う二人が、それぞれ札を持ち上げる。飲む水の札には丸。洗う水の札には横線。触るな水の札には黒い斜め線。片方が洗う水の札を持ったまま、湿った床を指しそうになった。すぐ、もう片方が黒い札を重ねる。短い言葉が二つ飛び、通じなかった部分を札が埋めた。会話は増えたが、言葉が滑らかになったわけではない。手順の方が、言葉より先に人を合わせている。

「触るな水、だけで終わるな。」

若い回収役が呟いた。

顔を布で覆った男が言う。

「覚えたなら口に出すな。息が減るぞ」「厳しいな」「厳しい場所なんだ」と短く気を引き締める。

水側担当が、低所へ向けて棒を出した。水は残っていないように見える。だが、床の継ぎ目へ棒の先を入れると、灰色の泥がわずかに滲んだ。乾いた床の下に、湿った筋が残っている。そこへ人が入れば、靴底へつく。袋を置けば、底が濡れる。濡れた袋は重くなり、重い袋は手を呼ぶ。

「床を崩す。逃げ道を先に潰せ。」

「どこまで崩すんです」と問いかける声に、老人は「人の道だけ切る。水は全部は動かすな」と指示した。

「全部抜いた方がよくないか。」

若い男が言うと、老人の目が動いた。

「全部動かすと、白い粉も泥も動く。見えないものまで動く。」

「じゃあ半端に残すのか。」

「半端に残す。半端だと書き残す。」

片腕の女が、すでに書き板へ筆を置いていた。

「半端って書くのかよ。」

「足の位置を先に言え。そこを曖昧にすると全員が同じ泥を踏むぞ」「それも嫌な話だな」「嫌な言葉ほど残る。気持ちのいい言い方は危ない時ほど忘れられるものだ」と釘を刺した。

仕事は遅かった。棒で床の縁を叩き、崩れやすいところだけを選ぶ。外から持ってきた乾いた土袋を置き、湿った筋の人側だけを塞ぐ。塞ぐといっても、押し潰さない。押し潰せば泥が横へ出る。袋を置き、棒で腹を少しならし、上から崩れ石を一つだけ落とす。二つ落とせば重すぎる。一つでは足りないかもしれない。それでも一つで止める。力を足すより、足さない判断の方が難しい。

水側担当の一人が、半歩だけ前へ出た。

靴の先は濡れていない。床にも触れていない。だが、棒の届く位置を見ようとして、体の重心が低所へ寄った。

アルフォンソの声が飛ぶ。

「それなら、札を外せと言うなら、外した者をどこへ下げるのかまで言え。」

男は固まった。

「触れていないだけで安心するな。見た位置そのものが悪いんだ。足は入っていないから、そこで止まれ」と厳しく制止した。

「足より先に目が入った。」

持ち場が静かになった。責めるための静けさではない。全員が、その判断の線を見ていた。男は何か言い返そうとして、口を閉じる。腰の札を自分で外し、入口側へ戻った。手は震えていない。呼吸も乱れていない。だから戻されるのが悔しい。だが、濡れた床を軽く見た者を、もう一度水側へ置けない。

「まだ動けるだろ」と小声でもらす若い回収役に、「動けるから下げたんだ」と顔を布で覆った男が答える。「いい加減手順で覚えろ」「何度でも言ってやる」「嫌な理屈だな」「嫌で済んでるだけマシだ」と応酬が続いたが、その言葉に誰も笑わなかった。下げられた男は入口の外で、拳を握りかけ、すぐ開いた。爪を立てるなと言われる前に自分で止めた。その動きだけで、まだ現場の人間だと分かる。戻れないだけだ。

水側の片付けが終わると、広い槽の周囲へ移った。

槽そのものには近づかない。縁にも顔を寄せない。内側を見ない。周囲の足場を殺す。人が自然に立ちたくなる場所へ、倒れた棚板を置く。使えそうな工具は袋へ落とす。白い粉のある床は外布で覆い、布ごと破棄へ回す。槽へまっすぐ向かう導線を、持ち場の道ではなく、嫌な障害物の列に変えていく。

若い回収役が、槽の横に残った金属工具を見つけた。細い棒の先に輪がある。曲がってはいるが、直せば使える。彼はもう手を出さなかった。ただ、見た。見ただけで、顔を覆った男が言う。

「惜しいと思うなら捨てる理由まで言え、惜しさは人を呼ぶ。」

「惜しい物ほど人が拾う、だから壊すと分かる言い方にしろ。」

「なら捨てるぞ」「言うと思った」「言わせるな」という短文の応酬を切り捨てる。

工具は袋へ落とされた。落としてから、袋の上から棒で押す。金属が歪む音がした。部屋の何人かが顔をしかめる。道具を壊す音は、まだ慣れない。木ならまだいい。布ならまだいい。金属は違う。山を削っても、炉を持たない今の世界では満足に作れない。その金属を、使えない形へ曲げる。

若い男が「もったいねえな」と低くボヤくと、片腕の女が「もったいないから人が拾う。だから壊すのだ」と淡々と応じる。「そこまでは正しい。だから次に手を出す者が分かるように言い直せ」と指示され、「嫌な世界だな」「今さら気づいたのか」という自嘲が漏れた。

彼は笑いかけて、槽の方を見てやめた。

青白い閃光の証言位置には、誰も近づかなかった。倒れた位置の札、吐いた跡の札、後退した足跡の札を外側から置く。それだけで、中心が見えてくる。見えると近づきたくなる。だから、誰も中心を指ささない。指さすと、指の先へ目が集まる。目が集まると、足が行く。

アルフォンソは札の外側で止まった。

「ここは見る場所ではない。目を伏せて下がれ。」

若い回収役が、少し遅れて頷く。

「見た奴が倒れた場所だもんな。」

「倒れた者の位置を見る。光の位置を見るな。」

「同じじゃないのか。そこを区別しろ。」

老人が首を横に振る。

「違う。倒れた者は外側に残るが、光は中心へ引く。」

その言葉で、若い男の足が半歩戻った。本人は気づいていない。体の方が先に理解した。

広い槽の周りは、完全には壊せなかった。槽は重く、床へ食い込んでいる。内側も見ない。縁を崩せば、白い粉が舞うかもしれない。周囲の水を全部動かせば、泥が広がる。だから、入る道を殺し、使えそうな道具を殺し、足元の白い痕を隠さず黒札で残す。安全にはしない。安全そうに見せない。

「黒札にするなら、生きている者を増やすためだと先に言え。」

若い男が言った。

「黒札が少ない方が怖い。」

片腕の女が返す。

「見落としてるなら、そこを先に潰せ。」

「そこは合っているが、それだけでは足りないから危ない理由まで言え。」

「じゃあ多い方がいいのか」という問いに、「多い方が面倒なんだよ」と即答する。

「良いことは一つもない。損しか残らない。」

「良いことを探していると近づく。」

持ち場の外へ運ぶ袋は四つになった。汚れ布、白い結晶を含む外布、工具、桶部品。工具の袋が一番重い。袋は吊らない。抱えない。地面を滑らせる。袋の底が床を擦る音が、やけに大きく聞こえた。

破棄穴へ向かう通路の途中で、その重い袋が岩に引っかかった。

若い回収役が無理に縄を引こうとした瞬間、顔を覆った男の棒がそれを押さえ、「引くな」と制した。「分かっている顔で済ませるな。次に動く者が聞けるように言え」「重いんだよ」「進めた方が早い」と反発する若い男に、「戻すなら、進むために戻るのだと周りに分かるように言え」と徹底させる。二度目は短く、誰も口を挟まずに袋は一歩分戻された。せっかく進めた距離を戻すだけで彼の肩が落ちたが、戻した分だけ袋の底が岩から外れる。棒の角度を変えて横から腹を押すと、袋は今度こそ進み、若い男は「進むために戻る、か」と小さく呟いた。

「ようやく覚えたか、今度は手を出すな」と顔を覆った男に言われ、「それも腹立つ言い方だな」と返すも、「腹を立てる余裕があるなら足元を見ろ」と一蹴される。

破棄穴は持ち場から離れた乾いた縦穴だったが、工具の袋は落ち方が悪く、中の金属が途中で引っかかって袋の口が斜めに止まった。若い回収役が息を吸いかけたところへ、アルフォンソが「見直しはしないぞ」と先に釘を刺す。

「押せる範囲は、そこまでだ。」

「棒で届くところまで。」

顔を覆った男が長い棒を出し、袋の下ではなく横腹を押した。金属が岩に当たって嫌な音を立て、もう一度押すも今度は動かない。「そこまでだ」という指示に若い男が「まだ見えてるぞ」と振り向くも、「見えてるから終わりなんだ。そこで切れ」と引導を渡された。

「落とし切れてない。」

「落とし切ろうとしたら人が近づく。」

「でも、で逃げるな。」

「予定外破棄で書き残せ。曖昧にすると次が死ぬ。」

片腕の女がもう筆を動かしていた。

若い男は悔しそうに穴を見た。見えているものを残すのは、見えないものを残すよりつらい。落とせる気がする。あと少しで済む気がする。そのあと少しが人を落とす。彼は歯を食いしばり、穴から目を逸らした。

「腹が立つな」と吐き捨てる若い男へ、「いい判断だ。腹立つ感情に引きずられて手元を荒らすなよ」と顔を覆った男が釘を刺す。

「戻れたなら、だいたい判断は合っている。」

水側へ戻ると、濡れた床の片付けが限界に来ていた。

人が通る側は切れた。だが、槽側の湿りは残っている。低所の奥へ行けば、もう少し崩せるかもしれない。けれど、そこは水と白い粉が近すぎる。袋を開ければ湿りを吸う。棒で押せば泥が出る。足を置けば、下げるどころでは済まない。

老人が見て、首を横に振った。

「残す。残し方まで決めろ。」

若い男はもうすぐには反論せず、「黒札を貼るなら、ただ怖がらせるためではなく生きている者を増やすためだと口に出せ」と自分に言い聞かせるように呟いた。「また札が増えるな」「生きている者が増える方を選べ。見栄を張るな」「事実を隠す言葉なら要らねえ」「とにかく選ぶんだ」と、現場の覚悟を固めるような対話が交わされる。

黒い札が置かれる。触るな水。広い槽。白い粉。人が立ちたくなる足場。近づけば、手順が始まる場所。札が増えるほど、持ち場は持ち場ではなくなっていく。使えない場所へ変わっていく。綺麗に片付けているのではない。使えないように壊している。

その後で、二人目が下げられた。

派手な症状ではない。吐いたわけでも、倒れたわけでもない。棒を受け渡す時、半拍遅れた。それだけだった。だが、その半拍で、相手の手が袋へ近づきすぎた。顔を覆った男が見ていた。片腕の女も見ていた。

「札を外した者をどこへ下げるかまで言え」という指示に、半拍遅れた男は最初は自分のことだと分からず「俺のことか」と呆然とする。「足場を見て少し遅れただけだ、まだ動ける」と弁明するも、「動けるうちに下がれ。それができない者から運ばれる側になるんだ。使えそうに見えるものほど危ない」と引導を渡され、「何度でも同じ手を使うんだな」と彼は唇を噛んだ。

男はしばらく黙った。怒りの行き場を探している顔だった。やがて、自分で札を外す。震えは見えない。声も普通だ。だから怖い。普通のまま、半拍だけ遅れた。その半拍を軽く見る者は、次に一拍遅れる。

若い回収役は何も言わなかった。言いたいことは顔に出ていたが、口には出さない。代わりに、袋の縄を持ち直す。自分の手を見直ししている。遅れていないか。強く握りすぎていないか。余計なことをしないか。

持ち場を出る頃には、持ち出す袋は減っていた。片付けできたからではない。諦めたからだ。残した場所に黒札を置き、倒木と壊した棚板で槽への導線を潰し、工具は曲げ、桶は包み、白い粉は外布ごと落とした。水は全部動かさない。動かせない。人の側だけ切る。

入口で、片腕の女が書き残しを読み上げた。

「白結晶、片付け二し残し一し桶一し破棄、工具二し破棄と一つ予定外。水側し人側切断、槽側湿り残しし黒札五し前に出る札し二枚外し。広い槽内部まだ見ていない。」

若い男が顔を上げた。

「まだ見ていない。いつか見るつもりなら、今は線を引け。」

アルフォンソは持ち場の奥を見なかった。

「見る理由が、人を減らす理由を上回れば。」

「そんな日が来るかよ。来ない方がいいに決まってる。」

「来ないならその方がいい、見る理由がないまま近づくな。」

戻る道へ向かう足は重かった。何かをやり切った軽さはない。残したものばかりが背中に貼りつく。槽は残った。湿りも残った。黒札も残った。けれど、桶は道具ではなくなった。工具も道具ではなくなった。水側の道は切れた。持ち場は、少しだけ人を呼びにくくなった。

若い回収役が、入口の外で最後に振り返った。

「また誰かが入れば同じことが起きるぞ」と懸念する声に、顔を覆った男は「だから入る理由を減らした。残るのは境界だけだ」と答える。「危険がゼロになったわけじゃない」「ゼロにしようとすれば、こっちの命が先に減る。全部その繰り返しだ」と語り合い、彼は「じゃあ、戻るか」と前を向いた。「ようやく賢くなったな」「だからその言い方が腹立つんだよ」と短い笑いが漏れたものの、二枚外された札を見た瞬間にその笑いも消えた。

物は落とせる。道は潰せる。水は少しだけ切れる。

それでも、人の手が一度覚えた楽な手順は、場所に残る。

だから彼らは、持ち場を片付けたのではなく、持ち場ではないものへ変えようとしていた。

戻る道の前で、最初に止められたのは若い回収役だった。

本人は何も言われる前に両手を上げた。冗談めかした動きではない。手を体から離し、袖が触れていないことを見せるための姿勢だった。水側で下げられた男が、それを見て少しだけ顔を歪める。笑いたかったのか、腹が立ったのかは分からない。どちらにせよ、口は開かなかった。

「それなら、足の位置を先に言え、そこを曖昧にすると全員が同じ泥を踏む。」

片腕の女が言った。

若い回収役は右足を少し上げた。靴底に白い粉は見えない。けれど、見えないだけで終わらない。老人が棒の先で靴底の溝をなぞり、乾いた土を小袋へ落とす。水は使わない。洗わない。拭かない。落とした土は戻さない。靴が無事かどうかより、靴が次に何を連れてくるかを見る。

老人の「左足を上げろ」という短い指示に、彼は「はいよ」とだけ応じ、今度は文句を言わなかった。言わない分だけ、場に疲れが残った。言葉を減らしたのではない。余計な一言を出す力が少し削れていた。

顔を布で覆った男は、戻る道の外で工具袋を見ていた。穴の途中で止まった袋の書き残しを、彼はまだ頭から離せないらしい。袋の中身を見に行かなかった。押し切れなかった。捨てたのに落とし切れていない。そういう半端な結果が、いちばん舌に残る。

「顔色が悪いぞ」とからかう若い回収役に対し、顔を布で覆った男は「元からだ。布で隠していても顔に出るからこそ、こうして警告を言えるんだ」と平然と応じる。

少しだけ笑いが出た。水側で下げられた男は笑わなかった。棒の受け渡しが遅れた男も、笑いかけてやめた。自分の札が外されたまま、腰の空いた場所を指で探りかけ、途中で手を止める。もう札はない。ないものを触る癖だけが残っている。

片腕の女はそれを見逃さなかった。

「そこを触るな」という鋭い指摘に、男は目を伏せて「ただの癖だ」と弁解するも、「その癖で現場へ戻るな」と一蹴される。

「分かっているなら、黙らず声に出して手を止めろ。」

「分かっているなら、手を前に出せ。」

彼は言われた通りにした。指先に目立った震えはない。だが、ないから戻せるわけではない。女は指の動き、目の焦点、呼吸の間、返事までの遅れを見ていた。怒っている顔ではない。だが、優しくもない。優しさで札を戻すと、次に誰かの手が袋へ近づく。

「後ろへ下げるなら、水や白い粉から遠ざける意味まで言え」と求められ、「もう処分が決まったのか」「せめて明日の朝まで見てから決めろ」と反発が起きるも、「明日の朝まで経過を見る。だからこそ後方に下げる決定はもう決まったのだ」と厳然と返された。

男は口を閉じた。言い返す力はある。言い返せるから動ける。動けるからこそ下げられる。それをもう全員が知っていた。知っているのに、納得は毎回遅れる。

資料室へ戻ると、机の上には黒札が五枚並べられていた。広い槽の周囲、槽側の湿り、白い粉を残した床、青白い閃光を見た者が倒れた位置、工具袋が途中で止まった破棄穴。それぞれの札は同じ黒でも、意味が違う。触るな。入るな。覗くな。拾うな。近づくな。まとめてしまえば早い。けれど、早くまとめた言葉ほど現場で間違う。

アルフォンソは黒札の横へ、壊した工具の形を描いた。絵は上手くない。輪が曲がり、棒が折れ、道具としての形が死んでいることだけが分かる。

若い回収役が覗き込んだ。

若い回収役が覗き込んで「絵が下手だな」と笑うと、「分かればいい」と素っ気なく返される。

「分かるけどさ。これ、鍋の取っ手にも見える。」

「なら鍋の取っ手にも見えないように曲げる。」

顔を覆った男が言った。

若い男は少し黙り、それから嫌そうに頷いた。

「使えそうな形が残るのが駄目ってことか。」

「そこは合っている、だから次に手を出す者が分かるように言い直せ。」

「形まで完全に殺すのか」と息を呑む声に、「人を呼ぶ形ならな。呼び寄せる形そのものをやめろ」と念を押した。

片腕の女がその言葉を書き残しへ入れようとして、少し迷い、筆を止めた。長すぎるのだろう。彼女は別の紙へ短く書いた。

使えそうな物は、使えない形にする。

若い回収役がそれを読んで、唇を曲げた。

「嫌な標語だな」とボヤく彼に対し、「標語ではない。生き残るための現場のやり方だ」と淡々と返された。

その返しに、彼は何も言わなかった。標語なら聞き流せる。手順なら守らなければならない。

反省の場は、静かに荒れていた。

声を張る者はいない。机を叩く者もいない。だが、誰かが項目を読むたび、別の誰かの肩が動く。残した場所。近づきすぎた水側。半拍遅れた棒の受け渡し。途中で止まった工具袋。広い槽の内部未見直し。言葉の札を三つに分けた水。細い、貯める、広い。どれもその場で必要だった。必要だったが、必要になる前に決めておくべきものでもあった。

老人は水の札を三枚並べ、「この名称をこのまま使う」と決定事項として告げ、若い回収役が不満げに手を上げた。

「名前、もう少しましにしないか。呼びやすさで混乱を減らせる。」

「飲む水、洗う水、触るな水。ましだ。」

「触るな水って言い方、馬鹿みたいだろ。」

「馬鹿でも間違えにくい。」

「それ、反論しにくいな。だから余計に腹が立つ。」

「反論しにくいものを採った。」

別の言語を使う男が、黒い斜め線の札を持ち上げた。彼は短く発音し、もう一人が首を横へ振る。音が似ているのだろう。洗う水と触るな水が混ざる。片腕の女はすぐ、触るな水の札に穴を二つ開けた。触れば分かる形にする。暗い場所でも、言葉が違っても、指先で区別できる。

若い回収役がそれを見て、少しだけ感心した顔をした。

「『触るな』という札を、触って分かるようにするのか」と驚く彼に、「札そのものは触っていい。ややこしいが慣れろ」と即答する。

「ややこしいから穴を開けた。」

「なるほど。腹立つくらい分かる。」

小さな笑いが出た。棒の受け渡しが遅れた男も、少しだけ口元を動かした。だが、その腰にはまだ札がない。笑ったから戻れるわけではない。

アルフォンソは、沈殿槽の図を机の端へ移した。中央には置かない。中央に置くと、そこへ視線が吸われる。視線が吸われるものは、足も吸う。

「広い槽の内部は見ていない。」

老人が「見ていない、と残せ。それを省くと後ろの者が同じ失敗をする。『見られなかった』とは書くな」と指示すると、片腕の女は筆を止め、「違いは何だ」と問う。「『見られなかった』と書くと、見るべきだった形になる。『見ていない』と書く理由は、見るために近づく者を減らすためだ」と説かれ、若い回収役が「ずるい言い方だな」と口を挟むも、アルフォンソに「ずるいのは見たい方だ。合っているが、危ない理由まで言え」と即座に返された。彼は素直に認めた。少し前ならもう一言返していたかもしれないが、道具を捨て、札を外され、黒札が増えるのを見るうちに、余計な反発も少しずつ削れている。

医療担当が来たのは、灯りが一つ落とされたあとだった。彼女は白い粉に近づいた者から順に見た。吐き気、喉、目、皮膚、指先、呼吸、返事の遅れ。水側で下げられた男は異常なしに見えたが、それは異常なしに見えるという扱いでしかない。「前には戻さない」と告げられ、本人は静かに息を吐く。「水を軽く見たからだ。軽く見たぶん寄られる」「その通りだ。だから次に手を出す者が分かるように言い直せ」「足元の話なら、左か右かではなく、どこへ逃がすかまで言え」「目に粉が入った」「目も札で止められたら楽だな」「黒い目札でも作るか」という短文の投げ合いに、「黙れ」と一喝が飛ぶ。水側の男は少しだけ笑ったが、その後に咳は出ない。医療担当はそれを見て板へ書き込んだ。

「後方水札、水側へは戻さない。札見直し、戻る道補助」

「水に近いんだか遠いんだか」「遠い場所で水の札を見る」「嫌な置き方だな」とボヤく声に、「生きて文句を言える置き方だ」と釘が刺される。彼は反論しなかった。受け入れたわけではないが、反論の置き場がなかったのだ。棒の受け渡しが遅れた男はもっと長く見られた。指先も目も正常で発熱もないが、同じ動きを二度やらせると二度目だけわずかに遅い。気づかれた瞬間、彼の顔色が悪くなる。「後ろに置く理由を口にしろ。前へ戻りたがる者を止めるためだ」と医療担当が告げ、「後ろへ下げるなら、水や白い粉から遠ざける意味まで言え」「前には戻さない決定は、いつまで続くんだ」と不満が漏れると、「戻す理由が、戻さない理由を超えるまでだ」と淡々と返された。男は息を諦めたような音で笑い、「一生戻らない言い方だな」「一生をここで決めるな。今日戻さないことだけを先に決めろ」と言葉を交わす。救いではないが、決めすぎないための線だった。ユスティティアは人を簡単に戻さないが、簡単に終わりとも書かない。その半端さに耐えるのが一番きつい。

薬包の箱も開かれた。誰も目を逸らさない。逸らせばなかったことになるからだ。若い回収役が薬包を見て口を引き結ぶと、顔を覆った男が「見るなとは言わない。見る必要があるが、軽々しく使うなとは言う」と諭し、「じゃあ先に言えよ」「遅いんだよ」という短い言葉を収束させる。薬包が箱へ戻される軽い音は、机の上のどの金属より重く聞こえた。

黒札の配置は最後まで揉めた。持ち場の入口に何枚置くか。老人が「入口に二枚だ」と言うも、若い回収役が「二枚だと何かあるって分かる」と首を振り、「一枚だと見落として足が入る」という懸念に対して、「じゃあ壊れた棚を足す。札は一枚で十分だ。棚で邪魔にして通れない形にする」と決着がついた。顔を覆った男が「通れなくはないが、通りたくない形だな」と頷き、「少し賢くなったが、そこで満足するな。次で死ぬぞ」と忠告する。片腕の女がその案を採り、危険だから近づくなではなく、近づきたくないから近づかない形へと落とし込んだ。

アルフォンソはそれを聞いて若い回収役を見やり、「ふん、そう言わないと誰かが手を伸ばす。あなた、死に物狂いで逃げ回る人間の動きだけは、随分とよく観察できているな」と評した。「チッ、皮肉まじりに言うんじゃねえよ。褒めるなら普通に『よくやった』って言えねえのかよ、クソジジイ」と顔を背ける彼に、「あなたのような浅薄な若造を正面から褒めてみろ。次の現場で調子に乗って決めた手順をサボり、あっさりと死に神に喰われるのがオチだ」と返す。「あんた、本当に一言一言が人の神経を逆撫でするな。反論できねえのが余計に腹立つわ」「ほらみろ、すぐ頭に血が上る。もう境界線は踏んでる、自覚だけ持て」「――乗ってねえよ、俺だって死にたくねえから、必死にしがみついてんだよ!」と怒鳴り合い、小さく笑いが起きた。

夜が深くなる頃、最後の書き残しが決まった。

便利な道具は、汚れると人を呼ぶ。

速い手順は、繰り返すと正規の顔をする。

水は、洗うものとは限らない。

見た目が元気でも、札は戻さない。

片腕の女は四つ目を書いたところで筆を止め、「この文言、新入りが読むにはあまりにも表現が硬すぎるわ」と漏らす。老人が「ならば、そこを削って少しは読みやすい綺麗な言葉に書き換えるか?」と問うも、女は「ダメよ。表現を柔らかくして削った分だけ、現場の連中はあの死の恐怖を忘れる。省略された嘘に逃げるようになるわ。残すならそのまま残せ」と首を振った。「ならばその醜い硬さのまま、一行も弄らずに残せ。読みにくさに苛立つくらいの頭がなければ、どうせあの現場では生き残れん」と老人も同意する。そこへ若い回収役が「『見た目が元気でも、札は戻さない』って、おい、この一文だけは絶対に消さずに残しておけよ。あそこで平気な顔して戻ってきた奴が次の日に急に血を吐いて死んだのを俺はもう見たくねえんだよ」と強い口調で言った。

全員が彼を見る。「何だよ、全員でこっち見やがって、俺が何か間違ったこと言ったか?」と戸惑う彼に、顔を覆った男が「いや、あなたのその足りない脳みそにしては、随分と現場の本質を突いた、賢い判断だと思ってな」と返す。「だから、その上から目線で人を小馬鹿にするような言い方をやめろって言ってんだよ!」と食って掛かるも、「あなたを甘やかす理由など、この組織のどこにもない。苛立っている暇があるなら、次の戻る道の見直しをしろ」とあしらわれ、「――クソが、本当に全員、関わりたくねえ性格の奴ばっかだな…っ、言い返したくなるのも分かるだろ」と悪態をつく。「生きている証拠だ。文句を言えるうちはまだ戻れる」「便利に使いすぎだろ、それ」と笑いが起きた。

書き板が閉じられ、黒札が紐でまとめられた。外した前に出る札二枚は戻されない。若い回収役が最後まで見届ける中、水側の男が「戻れるとそこで足を止めろ」「戻れないと困るのはそっちだろ。水の札、絶対間違えるぞ」と声をかけ、「間違えない。さっきまで触るな水に文句言ってた奴が何言ってんだよ」「文句は言う。だが間違えはしない、そこは折れない」「それならいい」と日常の会話が交わされる。完全ではないが、無でもない時間だった。

持ち場は片付いていない。広い槽も湿りも白い粉も残り、工具袋は穴の途中で止まり、何も綺麗になっていない。けれど、あの場所はもう持ち場として少し使いにくくなった。机の灯りが落とされる直前、アルフォンソは広い槽の図を裏返した。「見ない努力って面倒だな。だが面倒な方が事故は減る」と言う若い回収役に、顔を覆った男が「見る努力より安い。嫌いで足りるなら安いものだ」と応じ、最後の灯りが落ちる。

誰も「安全だ」とは言わなかった。誰も「終わった」とは言わなかった。ただ、明日の人間が同じ手順を始めにくいように、道具の形を殺し、札を増やし、水の名を分け、人を二人、前から下げた。それがその夜、ユスティティアの持ち帰ったすべてだった。


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