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キャリントン・イブ  作者: 伊阪証


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第三章-収益なし

鉛片を継ぎ合わせた小部屋は、雨戸を閉めた昼間のように薄暗かった。壁に貼られた板は不揃いで、隙間には灰色の粘土が詰められている。高価な金属をこんな使い方で潰すのは、ユスティティアでも医療区画くらいだと聞かされていたが、寝台に押し込まれている本人にはありがたみより息苦しさの方が先に来た。


パヴェルは毛布の下から手を出し、枕元に置かれた紙へ指を伸ばした。届く前に、横から細い棒が伸びて紙を遠ざける。


「その紙に触るな。今のあんたの目で文字なんか追ったら、一瞬で頭痛がぶり返すぞ」


椅子に座っていた女医が言った。彼女は白衣ではなく、洗いすぎて灰色になった厚布を重ねている。手元の板には、体温、脈、鼻血、咳、皮膚の斑点、食事量が細かく書き込まれていた。人間を見ているというより、壊れかけた道具の歪みを毎朝測っているような顔だった。


「……これくらいの文字、寝たままだって読めるわ。俺をいつまでここに閉じ込めておく気だ」


「目が泳いでいるのが何よりの証拠だ。そうやって無理に字を読んだ奴から順に、次は起き上がり、廊下へ這い出て、そのまま倒れて外の連中の足を引っ張るんだよ。これ以上、現場の回収役たちの介護の手間を増やすんじゃない」


「……患者の気力をへし折る、とんだ最悪の医者だな」


「それだけ口が回るなら、まだ内臓は溶け落ちていない。最悪の段階( threshold )には程遠いな」


「へえ、それはどうも。死にかけの男を労う言葉としては、最高にありがたいよ」


「お前を労っている時間など、この資料室(医療区画)のどこにもない。私はただ、壊れかけた道具の歪みを測って記録しているだけだ」


彼は舌打ちして、毛布を顎まで引き上げた。部屋の外では足音がいくつも行き来している。急いでいない足音、布を引きずる音、木箱を置く音、誰かが低く咳をしてすぐ黙る音。次の現場が来ている。分かっているのに、起き上がれない。起き上がらせてもらえない。前回、地の底へ危険物を押し返して戻ったあと、熱は下がらず、血の色も悪かった。自分が役に立つかどうか以前に、自分を連れていけば戻り線の荷物が一つ増えるだけだと、医療区画の連中は誰より早く判断した。


扉が開き、片腕の女が顔だけ出した。彼女の肩には記録板が吊られている。前回より紙束が薄い。捨てる紙を増やしたのだろう。


「読ませたか」


「読ませていない」


「読めるか」


「読ませれば読む顔だ」


「なら駄目だ」


二人はそれだけで話を済ませた。パヴェルは寝台の上で眉を寄せる。


「何の話だよ」


片腕の女は一度だけこちらを見た。


「緑の灯だ」


「は?」


「閉じた証拠ではない。閉じろと命じた証拠だ。お前が読む必要はない」


それだけ言って、扉は閉じた。


小部屋の中に、しばらくその言葉だけが残った。緑の灯。閉じた証拠ではない。閉じろと命じた証拠。意味は分かる気がした。分かる気がするだけで、詳しくは分からない。彼は起き上がりかけ、女医に棒で毛布の上から押し戻された。


「寝ろ」


「今の、たぶんまずいやつだ」


「ここで起きる方がまずい」


「俺がいなくても分かるのかよ」


女医は一瞬だけ、心底面倒そうな顔をした。


「当たり前だろ」


その言い方があまりに平然としていたので、パヴェルは黙った。腹は立つ。だが、少しだけ息が楽になった。自分がいなくても回る。それは置いていかれることでもあり、自分が中心ではないという救いでもあった。


資料室では、古い制御盤の写しが机を埋めていた。


紙には丸い計器、弁の番号、配管の曲がり、補助給水、逃し弁、圧力、炉心水位、非常注水といった語が並んでいる。前回のような地層図ではない。深い穴へ落とす道でもない。今回は線が多すぎた。水の線、蒸気の線、命令の線、戻りの線。しかも、そのどれもが同じ場所を通っていない。見れば見るほど、紙の中で機械が嘘をついているようだった。


アルフォンソは制御盤写しの前に立ち、片手で顎を押さえていた。年齢の割に背筋が伸びている。だが、目の下には濃い疲れがあり、指先は紙に触れる寸前で止まっている。触らない癖が全員に移っていた。


「もう一度」


彼が言うと、計器担当の男が板を読み上げた。


「主給水停止。補助給水、初期閉止。圧力上昇。逃し弁へ開命令。圧力低下。逃し弁へ閉命令。表示灯、閉」


「実際は」


「閉じていない可能性が高い」


若い技術者がすぐ口を挟んだ。


「表示は閉です」


顔を布で覆った年配の男が、彼を見ずに答える。


「表示が閉と言っているんじゃない。閉じろと送った命令が戻っている」


「制御盤では閉扱いです」


「盤の都合だ。弁の都合ではない」


若い方は口を噤んだ。悔しそうではあるが、反発だけで噛みつく顔ではない。彼は計器を信じているのではなく、計器の読み方を守ろうとしている。そこを馬鹿にすれば、次に本当に必要な表示まで捨てることになる。


アルフォンソは二人の間へ紙片を置いた。緑の灯と書かれた古い注記。その横に、命令戻り、位置確認なし、と小さく追記されている。


「灯は捨てない。意味を変える」


若い技術者が目を上げた。


「意味を、ですか」


「そうだ。これは閉じた証拠ではない。閉じる命令が出た証拠として扱う。実際の弁は、熱、湿気、音、排気で見る」


片腕の女がその言葉を書き留めた。筆先は速い。けれど、いつもより強く紙を押している。文字が少し太い。


老人が別の資料を広げた。炉心水位の記録だった。数値だけ見れば水はある。むしろ高く見える。だが、その横に泡、蒸気、見かけ水位、露出燃料という単語が並んでいた。


「水位も信用しすぎるな」


若い回収役が、壁際でぼそりと言った。


「水があるって書いてるのにか」


老人は棒で紙の一点を叩いた。


「水に泡が混じる。泡が増える。見かけの水位は上がる。満ちているように見える。だが炉心を冷やす水が足りているとは限らない」


「じゃあ満水を怖がって水を止めたら」


「燃料が出る」


「最悪だな」


「最悪なのは、正しい教育を受けた者ほど止めることだ。満水にしてはいけないと知っているからな」


部屋が一段重くなった。


無知な者の失敗なら、怒れば済む。だが今回は違う。水を入れすぎるな、圧力を見ろ、表示を見ろ、手順を守れ。正しい教えの一部が、壊れた条件と噛み合って、人を間違った方向へ押している。


アルフォンソは息を吐いた。


「この現場で一番危ないのは、知らない者ではない。少し知っている者だ。もちろん、我々も含む」


誰も言い返さなかった。言い返せば、自分は違うと言うことになる。ここでそれを言える者はいない。


資料室の奥から、木箱が二つ運ばれてきた。中には棒、布袋、外布、縄、薄い灰布、それから口元を押さえるための湿らせない布が入っている。湿らせた布は楽になるが、何を吸うか分からない。今回は水ではなく、空気が敵になる。


片腕の女が箱の中身を確認した。


「袋は十六。外布は八。棒は九。戻り線用の布は四。水は持ち込まない」


若い回収役が眉をひそめる。


「洗えないのか」


「洗わない」


「前も聞いたな、それ」


「忘れたなら後ろへ回るか」


「覚えてる。嫌なだけだ」


「嫌で済めば安い」


顔を布で覆った男が、汚染対象を書いた紙を読み上げる。


「換気孔の布。排気路の濡れた付着物。凝縮水を吸った外布。持ち出された工具。床泥。制御室側へ流れた可能性のある埃。希ガスは拾わない。拾おうとするな。ヨウ素は布と湿りに乗る可能性あり」


「ガスを拾う馬鹿がいるかよ」


若い男が言った。


年配の男は目だけで彼を見た。


「見えないものを見つけると、人は捕まえたくなる」


「どうやって」


「瓶を被せる。布を振る。穴を塞ぎに行く。余計なことはいくらでも思いつく」


若い男は口を閉じた。自分ならしない、と言いかけた顔だった。言わなかっただけ、朝より賢い。


アルフォンソは人員札を並べた。今回は前ような破棄走破が中心ではない。札の位置も違う。制御盤記録を見る者。現実の熱と湿気を見る者。排気と換気の経路を見る者。汚染布や工具を落とす者。戻り線を作る者。呼吸、目、咳、吐き気を確認する者。接近阻止。後方損耗。前線の数は少ない。


「計器を見る者と、現実を見る者を分ける」


若い技術者が顔を上げた。


「同じ者が見た方が早いのでは」


「早い。だから分ける」


「早いと駄目なんですか」


アルフォンソは制御盤写しの緑灯を指した。


「早い者は、見たいものから見る。盤を見た後で壁に触れば、閉じたはずの弁として壁を見る。壁を見た後で盤を見れば、熱いはずの弁として盤を見る。どちらも混じる。混じった判断は綺麗に見えるから危ない」


若い技術者は黙った。今度は悔しそうではなく、考えている顔だった。片腕の女がその顔を見て、小さく付け加える。


「反論は現場前に出せ。現場で出すな」


「……では、今出します」


「言え」


「表示を完全に切ると、圧力変化に遅れます。命令記録として残すなら、表示係は必要です。ただし、表示係が弁判断を口にすると混じります」


アルフォンソは頷いた。


「採用する。表示係は数値だけを読む。判断語を禁じる。『閉』『開』『安全』『危険』は言うな。数字と灯の色だけ」


若い男が小さく言った。


「喋るのも面倒な現場だな」


顔を布で覆った男が返す。


「楽に喋れる場所は、たいてい死体置き場だ」


「本当に景気悪いことしか言わねぇな」


「景気がいいと近づく」


資料室の壁際に、古い工具が並べられた。前の調査隊が炉区画近くから持ち帰ったものだ。持ち帰ったと言っても、部屋の中には入れていない。外の石台に置かれ、布を被せられている。鉄の把手、錆びた鉤、弁を回すための輪の一部。どれも濡れた跡があり、乾いた白い筋が残っていた。


「これを誰が触った」


アルフォンソが聞く。


「二人。どちらも今朝から咳」


片腕の女が答えた。


「前線には出さない」


「本人たちは不服です」


「不服なら生きている」


若い回収役が嫌そうに顔を歪めた。


「その確認、嫌だな」


「死んだ者は文句を言わない」


「やめろって」


「やめない。覚えろ」


会話は荒い。だが、荒さの下で作業は止まらない。工具は棒で向きを変えられ、袋の口へ転がされる。布ごと落とす。把手を見たい者がいても、誰も近づかない。古い工具は情報を持っている。だが、情報より人を優先する。今回は特にそうだった。表示が嘘をつく現場で、物へ顔を近づける者は長く持たない。


老人が換気経路の写しへ赤い糸を置いた。炉区画から逃し弁、排気路、凝縮が起きやすい曲がり、制御室側の扉、無人の深い排気穴。一本の線が、途中で二股に分かれている。人がいる側と、いない側。


「目的は三つ」


アルフォンソが言った。


「表示と現実を分ける。呼吸側へ流さない。棒と袋で扱えるものだけ落とす」


片腕の女が書く。


「扱えないものは」


若い男が聞いた。


「吸わない」


「答えになってるようでなってない」


顔を布で覆った男が布袋を閉じた。


「ガスは拾えない。だから道を変える。人の肺を袋にするな」


その言い方で、若い男の顔が変わった。冗談を返さなかった。袋という言葉が、急に自分の胸の中と繋がったのだろう。


外では風が止んでいた。風が止むと、空気は動かない。動かない空気は安全ではない。溜まる。見えないものほど、溜まる場所で人を待つ。


出発前に、アルフォンソは緑の灯の写しをもう一度見た。紙の上では、正常を示すはずの印が丁寧に描かれている。昔の誰かは、それを見て安心したのかもしれない。安心して、水を止めたのかもしれない。正しい手順を守ったつもりで、炉心から水を奪ったのかもしれない。


彼は紙を閉じた。


「緑は安全ではない」


若い技術者がすぐに言った。


「命令の記録です」


「そうだ」


老人が棒を取り、片腕の女が記録板を外布で包む。回収役は袋を腰へ結ばず、手元から離した棒の先に吊らない形で持つ。袋を大事にしすぎると抱える。抱えれば胸に近い。今回は胸が一番まずい。


扉が開く。旧文明発電施設へ向かう通路は、乾いているのに湿った匂いがした。壁の奥に、まだ閉じていない何かがある。


誰も急がなかった。表示は正常と言っている。だからこそ、急がない。機械が平気な顔をしている時ほど、人間は疑って歩かなければならなかった。


通路の最初の扉は、閉じているように見えた。


錆びた蝶番も、歪んだ取っ手も、隙間から漏れる光もない。板を重ねた仮扉と違って、旧文明の金属扉は死んだ後も形だけは保っている。若い技術者が計器板の写しを胸に抱えたまま、一歩近づきかけた。すぐ横から、顔を布で覆った男の棒が足元へ入る。


「足を扉の前に置くな」


「開けるんですか」


「開けないために見てる」


「扉なのに?」


「扉は人を呼ぶ。呼ばれて返事をすると、だいたい中に入る」


若い技術者は嫌そうに口を閉じた。言い方は乱暴だが、言われた意味は分かっていた。ここでは入口に見えるものほど危ない。誰かが昔使っていた通り道は、今も通れるとは限らない。通れたとしても、通っていい理由にはならない。


壁際へ寄った老人が、扉の縁に薄い紙片を近づけた。紙は揺れなかった。風はない。だが、扉の下の石だけが湿っている。水たまりではない。指で触れば分かる程度の濡れ方だ。もちろん誰も指では触らない。棒の先に巻いた布をそっと置き、すぐ引く。布の端に、わずかに黄ばんだ湿りが移った。


「ここは通らない」


アルフォンソが言った。


若い回収役が首を傾げる。


「風、ないですよ」


「風がないからだ」


顔を布で覆った男が布を袋へ落としながら答えた。


「漏れてるのに動いてない。溜まる場所だ」


「見えないのが一番嫌だな」


「見えたら触る。どっちも嫌だ」


誰も笑わなかった。笑うと息を吸う。ここでは、軽口さえ短く切られる。


制御室へ向かう本来の廊下は塞がれていた。塞いだのは彼らではない。古い崩落で天井の一部が落ち、配管と石材が絡まって道を潰している。だが、潰れ方が完全ではない。人一人なら横向きで通れる隙間がある。若い回収役がその隙間を見た瞬間、片腕の女が記録板の端で彼の胸を押した。


「見ただけで入るな」


「入るなんて言ってない」


「肩が言った」


「肩まで喋るのかよ」


「現場ではよく喋る」


彼は悪態を飲み込み、半歩下がった。隙間の奥からは、乾いた金属の匂いと、湿った布の匂いが混じって流れている。風と呼ぶには弱い。けれど、何かがこちらへ来ている。アルフォンソは崩落の手前に赤い糸を置き、そこから無人排気穴側へ青い糸を伸ばした。


「制御室へは正面から入らない。排気側を先に見る」


若い技術者が計器写しを開く。


「表示上、排気側の圧は落ちています」


「数字だけ」


「……圧、低下。緑灯、点灯。逃し弁、閉命令戻り」


「よし」


アルフォンソは頷いたが、その顔には安心がない。数字を受け取っただけだ。若い技術者も、今度は「閉じています」とは言わなかった。言葉を飲み込む時、喉が小さく動いた。訓練で覚えた読み方を捨てるのではなく、言い換える。その手間が、彼の顔に滲んでいた。


排気側の細い通路へ入ると、壁が温かかった。手で触ったわけではない。近づくだけで頬に分かる。冬の石壁が持つ冷たさではない。奥に火がある温かさでもない。濡れた熱だ。壁の表面に、細い水滴が並んでいる。水滴は透明ではなく、うっすら黄色い。床には古い布が張り付き、そこだけ色が濃くなっていた。


「布から先に落とす」


顔を布で覆った男が棒を出した。


若い回収役が袋を開く。口を低くしすぎた。床の湿りへ近づく。片腕の女が横から短く言う。


「高い」


彼はすぐ袋を少し上げた。


「低くしろって前に言われた」


「泥は低く。湿りは高く。覚えることが増えて良かったな」


「良くはない」


「生きて帰る理由が増えた」


その返しに、若い男は苦い顔をしたが、袋の口は正しい高さで止まった。棒の先が布の端をめくる。めくった瞬間、湿った面が空気に触れ、嫌な匂いが濃くなった。誰かが息を吸いかける。


「止めろ」


老人の声が飛んだ。


吸いかけたのは若い技術者だった。本人も気づいたらしく、すぐ布で口元を押さえる。押さえた手が震えている。


「今のは」


「理由を聞くな。まず吐け。浅く」


彼は言われた通りにした。吐く方を先にする。吸うより吐く。肺を袋にするな、と出発前に言われた言葉が、ここで急に重さを持った。


湿った布は棒で剥がされ、袋へ落とされた。畳まない。絞らない。湿りを確かめない。布が袋の底に落ちた時、音はほとんどしなかった。それがかえって気持ち悪い。青い砂のように見えるものなら距離を取れる。湿った布は、ただの古布に見える。だから危ない。


通路の奥で、金属が小さく鳴った。


全員が止まる。計器写しを持つ若い技術者が、反射で紙を見ようとした。アルフォンソがそれを止める。


「紙は後」


「でも音が」


「音を聞け。紙を見るな」


若い技術者は唇を噛み、目を閉じる。通路の奥で、また小さく鳴った。一定ではない。圧が抜ける時の鋭い音でもない。何かが開いたり閉じたりしている音でもない。濡れた金属が、熱でわずかに歪んで戻るような音だった。


老人が壁の水滴を見て言う。


「閉じてない」


若い技術者は目を開けた。


「表示は」


途中で止まった。自分で止めた。アルフォンソはそれを見て、少しだけ頷く。


「数字」


「圧、低下継続。緑灯、点灯のまま。水位、高値」


「水位は判断語にするな」


「水位、目盛り上では高値」


「よし」


片腕の女が記録する。筆が走る音だけが、通路の湿った静けさに混じった。


制御室の裏手へ回る細い迂回路は、ほとんど使われていなかった。床に足跡がない。ないということは安全ではない。人が通らなかっただけか、通った者が戻らなかっただけか、床は答えない。先頭の男は石の継ぎ目を見る。水滴の流れを見る。埃の残り方を見る。棒の先で床を軽く叩く。乾いた音、濡れた音、空洞を含んだ音。その差だけで進む。


途中、古い工具が落ちていた。輪のついた鉄の把手だ。弁を回す道具だろう。若い回収役がそれを見て、ほんの一瞬だけ嬉しそうな顔をした。金属だ。使えるかもしれない。そういう顔だった。


顔を布で覆った男が、すぐ棒を横へ出した。


「拾うな」


「拾わねぇよ」


「今、値段を見た」


「金属だぞ」


「金属だから罠だ」


「全部罠扱いか」


「こんな場所に残っている金属を、誰も拾わなかった理由を先に考えろ」


若い男は顔をしかめた。考えたくない理由が、そこにはあった。前に誰かが拾おうとして倒れたのかもしれない。あるいは、近づけないほど汚れているのかもしれない。道具は価値がある。価値があるものほど、人を引っ張る。


「袋へ落とす」


アルフォンソが決めた。


「使わないんですか」


若い技術者が言う。


「使うために拾うな。誰かが使わないように落とす」


棒二本で把手の角度を変え、布袋の口へ転がす。重い。袋の底が沈む。若い回収役が支えようと手を伸ばしかけたが、今度は自分で止めた。顔を布で覆った男が目だけで見た。


「今のは賢い」


「腹立つ褒め方だな」


「褒められるうちは悪くない」


把手を入れた袋は、その場で二重にされた。持ち帰るためではない。無人排気穴の手前にある深い工具廃棄穴へ落とす。今回の地の底は、前のような処分層ではない。人が使う側から外すための穴だ。ガスは落とせない。だが、汚れた物は落とせる。


制御室の裏壁に近づくと、熱が強くなった。壁そのものが呼吸しているように、湿って乾いてを繰り返した跡がある。緑の灯が示す「閉」は、ここでは何の慰めにもならなかった。閉じている弁の壁が、こんな濡れ方をするはずがない。


若い技術者が、声を押し殺して言った。


「閉じていません」


アルフォンソはすぐに返す。


「判断語は誰の役だ」


彼は息を詰めた。叱責ではない。手順だった。彼は一度目を閉じ、言い直す。


「壁面温度、上昇。湿り、継続。金属音、断続。緑灯、点灯。閉命令戻りあり」


老人が頷いた。


「弁は開いたままと見る」


今度は誰も止めなかった。現場を見る役が判断した。表示係ではない。役割が分かれているから、言葉が通る。


次に問題になったのは、制御室側の扉だった。扉の向こうには、人がいた痕跡がある。古い椅子、倒れた板、乾いた紙片。誰かがここで計器を見ていた。ここで緑の灯を見た。ここで水位を見た。ここで安心したか、混乱したか、怒鳴ったか、祈ったか。そんなものは資料に残らない。残るのは表示と手順だけだ。


若い回収役が扉の隙間を覗きかけた。


「見るな」


片腕の女が言った。


「中に何があるか」


「顔を入れて見るものは、今はいらない」


「でも制御室だろ」


「制御室だからだ」


アルフォンソは扉を開けるかどうか、すぐには決めなかった。地図を見て、排気経路を見て、壁の湿りを見て、戻り線の距離を測る。計器板そのものを見たい欲は全員にある。だが、それを見るために誰かが吸えば、見る意味が減る。


「開けない」


若い技術者が顔を上げた。


「制御盤を見ないのですか」


「写しはある。現物を見る理由は、現物でしか分からないことがある時だ。今は壁が答えている」


「でも」


「でも、は戻ってから出せ」


彼は黙った。納得していない顔だった。だが、足は前に出ない。納得より先に足を止める。ユスティティアの現場では、それが先だった。


排気経路の分岐点へ向かう途中、床に濡れた筋が続いていた。凝縮水だろう。棒で触ると、薄い膜が割れ、下の灰色の泥が見えた。ここは袋へ入れる。水として扱わない。布を吸わせる。吸わせた布を落とす。水で流さない。前回と同じく、綺麗にするのではない。切り離す。


若い回収役が布を出した。


「これ、吸わせすぎると重い」


顔を布で覆った男が答える。


「重くなる前にやめる」


「残るぞ」


「残る。肺に入るよりいい」


「全部それだな」


「全部それだ」


湿った筋は三枚目の布でようやく薄くなった。完全には消えない。消すまでやれば、布も人も足りない。記録板に「残」と書かれる。残すという文字は、現場の敗北ではない。生きて戻るための線だった。


分岐点では、空気が二つに分かれていた。片方は人がいる側へ戻る。もう片方は無人の深い排気穴へ向かう。昔の設計では、どちらにも意味があったのだろう。今は一方だけが使える。人のいない方へ逃がす。人のいる方は塞ぐ。ただし完全に塞げば、圧が別へ逃げるかもしれない。ここでも、閉じ切るのではなく、流れを変える。


「布を詰めるな」


老人が言った。


若い男が困った顔をする。


「塞ぐんじゃないのか」


「塞ぎ切らない。人側を嫌がる形にする」


「空気に嫌がらせするのか」


「そうだ」


「できるのかよ」


「人より素直だ」


顔を布で覆った男が、短く笑った。布のせいで音は小さい。棒で湿った外布を押し、通路の角に斜めに置く。空気の道を完全に閉じるのではなく、向きを変える。袋で泥を落とし、乾いた板片を使わず、外布だけを犠牲にする。板片は硬すぎる。落ちれば音が出る。誰かが気づく。布は黙って汚れる。


作業の途中、若い技術者が咳をした。


小さい咳だった。本人はすぐ口を押さえた。全員が止まる。止まり方が、嫌だった。大きな失敗を見た時ではなく、見えない線を踏んだ時の止まり方だった。


「吸ったか」


アルフォンソが聞く。


若い技術者は首を振りかけたが、途中で止めた。


「分かりません」


「いつから喉が痛い」


「分かりません」


「目は」


「少し」


片腕の女が前線札を外した。


「後方」


彼の顔が変わった。


「まだ数字は読めます」


「読めるうちに下がれ」


「表示係が抜けます」


「代わる」


「でも」


「でもは戻ってからだ」


前と同じ言葉が、ここでも使われた。違う現場でも、同じ線は残る。動けるうちに下げる。倒れてから下げれば、運ぶ者が要る。彼は悔しそうに計器写しを握りしめたが、やがて別の者へ渡した。渡す指が少し震えていた。


若い回収役が横を向く。


「最悪だ」


顔を布で覆った男が返す。


「まだ喋ってる」


「それ、慰めか?」


「確認だ」


「本当に嫌な慰めだな」


「慰めではない」


表示係が下がった後、別の者が数字を読む。声が少し硬い。数字だけ。灯の色だけ。判断語は出さない。閉じた、開いた、安全、危険。その言葉が喉まで来るたびに、紙を持つ指が止まる。言葉を削るのは、道具を削るより難しい。


分岐の処置が終わる頃には、壁の湿りがわずかに変わっていた。人側へ流れる空気が弱くなり、無人穴側の布が震え始めている。成功とは言わない。誰も言わない。ただ、若い回収役が小さく呟いた。


「こっちに来る量は減った」


老人が頷く。


「それでいい。今日はそれ以上を言うな」


袋は三つ落とされた。湿った布、汚染工具、凝縮水を吸った外布。ガスそのものは拾っていない。拾えない。だから、人の肺を袋にしないための道を作っただけだった。


帰り際、アルフォンソは制御室の扉を一度だけ見た。開けなかった扉だ。中には、もっと詳しい記録があるかもしれない。もっと正確な計器もあるかもしれない。だが、今は開けない。情報は欲しい。欲しいからこそ、近づく。近づけば吸う。吸えば、記録する者が減る。


「戻る」


彼が言うと、誰も反論しなかった。納得ではない。納得している時間ではない。戻って、誰が咳をしたか、どこが湿っていたか、どの表示が何を示していなかったかを書かなければならない。


通路を戻る間、緑の灯の写しを受け取った新しい表示係が、小さく呟いた。


「閉じた証拠ではない」


顔を布で覆った男が振り向かずに言う。


「声に出すなら、それだけにしろ」


「閉じろと命じた証拠」


「よし」


それだけで会話は終わった。壁はまだ温かい。床はまだ湿っている。見えないものはまだ通路のどこかにいる。だが、少なくとも今、彼らは機械の顔色ではなく、壁の汗を見て戻っていた。


戻り線まで、あと三十歩というところで、奥の壁が鳴った。


誰も振り返らなかった。振り返りたい者ほど、足を止める。足を止めると空気を吸う。吸えば、今まで避けてきたものを胸に入れる。だから列は一度だけ揺れ、すぐに歩調を戻した。鳴ったのは金属ではない。もっと鈍い。水を失った太い管が、内側から撫でられたような音だった。


「止まるな」


アルフォンソの声が低く通った。


若い回収役が袋を引く手に力を入れかけ、横から棒で縄を押さえられる。


「強く引くな」


「鳴っただろ」


「鳴ったからだ。袋まで鳴らすな」


顔を覆った男の返事は短い。短いのに、苛立ちではなく手順だった。袋の中には湿った外布と古い把手が入っている。重さよりも、揺れが怖い。揺れれば布の中の湿りが動く。動けば袋の底へ集まる。底へ集まれば、引きずった時に裂け目を探す。


戻り線の手前で、下げられた表示係が座っていた。座らされたのではなく、座るしかなかったのだろう。布を口元に当て、肩を小さく上下させている。咳は止まっているが、目の端が赤い。彼は列を見つけると立とうとした。


「立つな」


片腕の女が言った。


「数字は読めます」


「今は数字を読むな。呼吸を数えろ」


「……それは仕事ですか」


「今のお前の仕事だ」


若い技術者は笑いそうになって、失敗した。笑いの代わりに浅い咳が出る。全員がそちらを見ないようにした。見ると、本人が強がる。強がれば、息を深く吸う。


その時、奥の通路から別の足音が来た。早い。早すぎる。新しい表示係が写しを胸に抱え、ほとんど走りかけて戻ってくる。彼は戻り線の前で止まるはずだった。だが、足の止まり方が悪い。肩で息をしている。顔を覆った男が棒を横に出し、胸の前で止めた。


「線を越えるな」


「水位が下がっています」


若い男の声は掠れていた。


アルフォンソが目を細める。


「数字だけ」


「水位、低下。圧、また上昇。緑灯、点灯のまま。補助注水、開命令。戻りあり」


「判断は」


「……まだ出していません」


「なら息を戻せ」


表示係はそこで初めて、自分が息を乱していることに気づいた顔をした。口元の布を押さえ、浅く吐く。誰も急かさない。数字が急がせる時ほど、人間の方は遅くなる必要がある。


老人が写しを受け取り、床に置かず、胸の高さで広げた。水位低下。圧上昇。補助注水の命令戻り。命令は戻っている。だが水が届いているとは書いていない。


「補助の弁は」


「表示では開です」


若い技術者が言い、すぐに自分で口を閉じた。


片腕の女が冷たく言う。


「表示では、を残したのは良い。開です、が余計だ」


「開命令戻りあり」


「それでいい」


彼は悔しそうに頷いた。たぶん、これまでなら正確に読めていたはずだ。正確に読んでいたからこそ、危ない。正確な言葉が、現実を少しずつ隠す。


奥で、また壁が鳴った。今度は長い。濡れた熱が通路の床を這うように、空気が重くなる。戻り線の布がわずかに揺れた。人のいる側へ流れている。


「さっきの布では足りていない」


顔を覆った男が言った。


「人側に戻ってる」


若い回収役の声から軽口が消えた。


アルフォンソは一瞬だけ制御室側の扉を見た。閉じたままの扉。中にはもっと情報がある。開ければ、どの弁がどの状態か、現物で見えるかもしれない。けれど開けた瞬間、溜まっていたものが人の側へ来る可能性がある。


「弁は直さない」


その一言で、数人の顔が上がった。


若い技術者が言う。


「確認もしないのですか」


「確認のために開けた扉が、人を減らす」


「でも、原因はそこです」


「原因が分かっても、手が届かなければ触るな」


「触らなければ、流れは」


「変える」


アルフォンソは赤い糸を取り、制御室側ではなく無人の排気穴側へ伸ばした。


「閉じない。直さない。人の側を嫌がらせる。無人側へ逃がす」


若い回収役が小さく呟く。


「空気に嫌がらせ、二回目だな」


顔を覆った男が返す。


「覚えたなら上出来だ」


「嬉しくねぇ」


「嬉しい現場じゃない」


戻りかけた列が、もう一度奥へ向きを変えた。全員ではない。咳をした者、表示係、靴底に湿りがついた者は戻り線の外で止められる。前へ行く数は減った。減った分だけ、残った者の背中が重くなる。だが、人数を増やせば吸う肺が増えるだけだ。


無人排気穴への分岐には、さっきより強い流れがあった。流れといっても、目には見えない。外布の端が震える。床の埃が動かないのに、壁の水滴だけが同じ方向へ伸びている。人側の通路へ戻る空気を、どうにかしてこちらへ寄せる必要があった。


「布を増やすか」


若い回収役が聞く。


片腕の女が残数を見る。


「外布、残り三。戻り処理に二。使えるのは一」


「一枚で空気が言うこと聞くかよ」


「聞かせるんじゃない。こっちの方がましだと思わせる」


「空気にまで交渉すんな」


顔を覆った男が、古い工具袋を棒で押し出した。中身はすでに捨てる予定の把手と濡れた布だ。重い。これを分岐の人側に置けば、完全に塞がないまでも、通りにくくできる。ただし近づく必要がある。近づけば吸う。


「俺が置く」


若い回収役が言った。


「駄目だ」


即答したのは老人だった。


「何でだよ」


「さっきから喋りすぎだ。息が荒い」


「そんな理由か」


「ここでは十分な理由だ」


代わりに、顔を覆った男が前へ出た。彼はほとんど喋らない。喋らないから安全というわけではないが、少なくとも息の使い方を知っている。袋の縄を棒にかけ、身体から離して押す。分岐の角へ、袋を少しずつ滑らせる。床の湿りが袋の底へ絡む。布が重くなり、動きが鈍る。


「止まった」


若い男が言う。


「見えてる」


「手を」


「出すな」


二人の声が重なった。若い男は自分で言って、自分で黙った。拳を握り、すぐ開く。爪を立てるなと誰かに言われる前に、自分で止めた。


袋は角に引っかかった。引けば裂ける。押せば湿りが戻る。顔を覆った男は一度だけ棒を引き、袋を戻した。戻す。進むために戻す。その判断に、誰も口を挟まない。朝なら若い男が何か言ったかもしれない。今は黙っている。学習はしている。嫌な学習だが、生きる役には立つ。


二度目で袋は角に乗った。外布を一枚、上から斜めに落とす。棒で押さえ、端を踏まないように離れる。空気の流れが、ほんの少し変わった。人側の布が揺れなくなり、無人穴側の古布が震えた。


「来た」


片腕の女が言った。


「何が」


若い男が聞く。


「こっちへ逃げ始めた」


「見えるのか」


「布が見ている」


「詩人かよ」


「記録係だ」


その直後、制御室側の扉の向こうで何かが落ちた。金属音。人間が触れた音ではない。古い部品が熱で歪み、支えを失った音だった。全員の目が扉へ行く。


開ければ、分かる。


その誘惑が部屋ではなく通路全体に広がった。誰も口にしない。口にすると、誰かが賛成するかもしれない。賛成されると、止める言葉が一つ余計に要る。


アルフォンソが言った。


「開けない」


若い技術者ではなく、若い回収役が反応した。


「中で何か落ちたんだぞ」


「だから開けない」


「燃えてたら」


「燃えているなら、開けた時にこちらへ来る」


「じゃあ見殺しみたいじゃないか」


「誰をだ」


その問いで、若い男は止まった。中に誰かがいるわけではない。いるかもしれないと思ったのは、音がしたからだ。音がすると、人は相手を想像する。想像した相手を助けたくなる。だが、そこにいるのは古い機械の残骸かもしれない。あるいは、入れば助ける相手より先に自分が倒れるだけかもしれない。


顔を覆った男が低く言った。


「音は罠になる」


若い男は悔しそうに息を吐いた。


「何でも罠だな」


「そう思って歩け」


布で作った流れは完全ではなかった。人側へ戻る湿りは弱まったが、ゼロにはならない。床の凝縮水もまだ残っている。工具穴へ落とすべき袋は一つ増えた。外布は残り二枚。戻り処理に使えば、もう現場で切る布はない。


ここで欲を出せば、もう一箇所見られる。もう一枚剥がせる。もう少し流れを変えられる。だが、戻るための布がなくなる。


アルフォンソは短く決めた。


「終わりだ。戻る」


若い回収役が唇を開きかけた。今度は何も言わなかった。代わりに、顔を覆った男が袋を押す角度を変え、戻りの向きを作る。言葉より先に撤退の形ができる。それを見て、全員が動いた。


戻る途中、下げられていた表示係がまた咳をした。今度は短くない。咳は三つ続き、最後に彼は手を口へ持っていきかけた。片腕の女が棒で手首を止める。


「手で押さえるな」


彼は目を見開いた。苦しさで怒る余裕もない。布を口元へ戻し、浅く吐く。目の端に涙が滲んでいる。咳のせいか、悔しさか、どちらでも記録は同じだった。


「医療へ」


「まだ」


「まだだから」


その言葉は今日何度目か分からない。だが、誰も飽きた顔をしなかった。飽きる前に覚えなければならない言葉だった。


戻り線で、袋が一つ予定外に破棄された。底が湿りすぎていた。工具穴まで持つかもしれない。持たないかもしれない。持たない方に賭ける余裕はない。近くの無人排気穴側へ棒で押し、外布ごと落とす。中の工具は記録できない。確認もしない。見たいものを諦めるたび、記録係の筆が少し重くなる。


「袋一、予定外破棄」


片腕の女が書いた。


若い男が小さく言う。


「中身、何だったかな」


顔を覆った男が返す。


「知らないままの方が安全な中身だ」


「それ、便利すぎるだろ」


「便利だから残った」


通路の出口に近づいた時、壁の熱は背中側へ遠ざかっていた。遠ざかっただけだ。消えたわけではない。緑の灯は、たぶんまだ点いている。制御盤の上では、何かが正常な顔をしている。炉心の奥では、燃料が傷み、外へ出せないものが増えている。ユスティティアにできたのは、弁を直すことでも、炉を救うことでもなかった。


人の肺へ来る流れを減らした。


それだけだ。


それだけなのに、表示係が一人下がり、外布が尽きかけ、工具の情報を一つ捨て、制御室を開ける機会も捨てた。


資料室へ戻ると、誰もすぐには座らなかった。座る前に咳を見る。目を見る。手を見る。外布を見る。数字を見る。前線札を見る。札は一枚外され、もう一枚が保留になった。若い表示係の札には、赤い縁がつけられた。前線へは戻らない印だった。


彼はそれを見て、唇を噛んだ。


「表示、読めます」


片腕の女が言った。


「読める。だから後方で読め」


「現場でないと」


「現場で読むと、次は読めなくなる」


その返しに、彼は黙った。悔しさで顔が白くなる。だが、札を奪い返す手は出なかった。出せば、その手がまた止められるだけだと分かっている。


アルフォンソは緑灯の写しを机に置いた。そこに、新しい注記が増える。


閉命令戻りあり。実閉鎖未確認。壁面熱、湿り、金属音により開放継続と判断。人側流入、一部低減。弁修理不可。制御室開放せず。


若い回収役が横から覗き、顔をしかめた。


「勝った感じが一つもないな」


老人が筆を置く。


「勝っていない」


「負けたのか」


「吸わせる量を減らした」


「それだけか」


顔を覆った男が布を外さないまま答えた。


「それだけで、何人かは明日も文句を言える」


若い男は少し考えて、嫌そうに頷いた。


「じゃあ、まあ、価値はあるな」


「文句の価値を軽く見るな」


そこで小さく笑いが起きた。表示係は笑えなかった。咳が出そうだったからだ。けれど、目だけが少し動いた。笑いに近いものだったのかもしれない。


パヴェルのいる鉛の小部屋には、まだ何も知らされていなかった。知らせる必要がない。知らせれば起きる。起きれば廊下へ出る。廊下へ出れば誰かに殴られる。そう言われた通りになるだろう。


資料室では、次の線が引かれていた。炉心側は扱えない。弁は直せない。制御室は開けない。見える表示は、命令の記録として残す。現実は、壁と湿りと音と咳で見る。


事故は、まだ終わらなかった。

ただ、機械の顔を信じて歩く者は、一人減った。

その代わり、人間の咳を記録する欄が一つ増えた。


戻り線の内側へ入れるまでに、袋が二つ落とされた。


一つは湿った外布を抱えた袋で、もう一つは工具の把手を入れたまま底が重くなっていた袋だった。工具は惜しい。誰もそれを口にしなかったが、目が一度だけそこへ寄る。金属は貴重だ。輪のついた把手なら、直せば別の現場で使えるかもしれない。けれど、使えると思った物ほど人の手を呼ぶ。手を呼ぶ物は、もう道具ではなく罠だった。


顔を布で覆った男が、棒の先で袋を押した。袋は石の縁に引っかかり、湿った音を立てて止まる。若い回収役が縄を引きかけたが、自分で止めた。朝なら誰かに止められていた。今は、肩が動く前に息を吐いている。


「引かない」


彼は、誰に言うでもなく呟いた。


顔を覆った男が短く返す。


「賢くなったな」


「腹立つ言い方だな」


「生きてるうちは腹も立つ」


袋は戻さず、押す角度だけ変えられた。湿った布の重みで底が伸びている。あと少し雑に扱えば裂ける。棒の先が布袋の腹を押し、別の棒が縁を殺す。袋はようやく石を越え、排気穴の暗がりへ滑り落ちた。音は思ったより浅かった。全員の顔がわずかに固まる。深く落ちていない。どこか途中で止まったのだ。


「確認しない」


アルフォンソが言った。


若い回収役が奥を見た。


「見えるかもしれない」


「見えたら、取りに行きたくなる」


「……そうだな」


彼は目を逸らした。逸らした先で、下げられた表示係が咳を噛み殺している。布の下で喉が動き、目の端が濡れていた。誰も「大丈夫か」とは聞かない。大丈夫かと聞けば、大丈夫だと返る。大丈夫だと返ったところで、咳は消えない。


戻り線では、最初に目を見られた。次に喉、指先、呼吸、靴底、袖、外布。水は使わない。湿った布は袋へ落とす。口元の布も、咳をした者は交換ではなく破棄になる。若い表示係はそれを聞いた時だけ顔を上げた。


「まだ使えます」


片腕の女は、布を見ずに答えた。


「使えるから捨てる」


「意味が」


「使える物を残すと、誰かが使う」


彼は口を閉じた。自分が使いたいと思ったから、返す言葉がなくなったのだろう。棒の先で布が外され、袋へ落とされる。彼は口元が空いた途端、息を吸いかけた。横から老人が手を上げる。


「浅く吐け」


若い男は言われた通りにした。吸うより吐く。肺を袋にしない。朝には言葉だったものが、今は身体に直接刺さる手順になっている。


資料室へ戻ると、机の上に緑の灯の写しが置かれていた。誰もそれを中央に置かない。中央に置けば、そこが現場の主役になる。主役にしてはいけない。あの灯は何かを教えたのではなく、何を教えなかったかを残しただけだ。


アルフォンソは立ったまま、写しの横へ新しい紙を置いた。壁の熱、湿り、金属音、排気の向き、咳、目の痛み、落とした袋、開けなかった扉。線は多いが、どれもきれいには繋がらない。計器の紙だけなら、まだ整って見えた。現実を横に置くと、整いはすぐに嘘臭くなる。


片腕の女が読み上げる。


「閉命令戻りあり。実閉鎖未確認。壁面熱あり。湿り継続。金属音あり。人側流入、弱化。無人穴側へ一部誘導。制御室扉、未開放。工具袋一、予定外破棄。外布六、破棄。表示係一、前線離脱」


若い回収役が椅子に座ろうとして、途中で止まった。誰も止めていない。自分で止まった。それから壁にもたれず、床にも座らず、足を広げて立つ。


「座っていいか聞いた方がいいか」


顔を覆った男が答える。


「聞く元気があるなら立てる」


「聞かなきゃよかった」


「少し賢くなったな」


「それも聞き飽きた」


「覚えるまで言う」


少しだけ笑いが起きた。すぐに消える。表示係が笑えないからだ。彼は椅子に座らされ、背中を壁につけず、少し前傾の姿勢で呼吸を数えさせられていた。目の痛みは増えている。咳は止まったが、止まったことが安心にはならない。止まるものは、あとで戻ることがある。


老人が彼の前に板を出した。数字ではなかった。灯の色と、壁の状態と、弁の命令欄が書かれている。


「読め」


表示係は布のない口元を引き締めた。


「緑灯、点灯。閉命令戻りあり。壁面熱、継続。湿り、継続。開放継続の可能性」


片腕の女が即座に言った。


「最後が余計」


彼は目を閉じた。


「壁面熱、継続。湿り、継続」


「それでいい」


「判断は」


「判断する者がする」


彼は板を見たまま黙った。喉が悔しさで動く。自分の役目を奪われたのではない。役目を細く切られたのだ。だが、細く切られた役目は、本人には切り捨てに近く感じるのだろう。彼は小さく咳をし、すぐに布を探しかけた。布はもうない。新しい布は渡されない。女医が横から乾いた紙を出し、口元の前に持たせた。


「押さえるな。前に置け」


「面倒ですね」


「面倒が残っているうちは生きている」


「それ、慰めですか」


「違う。診方だ」


彼は少しだけ笑った。咳は出なかった。そのことを、片腕の女が板へ小さく記す。笑えた、とは書かない。咳なし、とだけ書く。書かれなかった分だけ、人間がそこに残る。


反省は、責める場にはならなかった。誰かがそう決めたわけではない。責めるには、原因が一人の手に収まらない。表示を読んだ者が悪いのではない。表示の意味を取り違える余地が残っていた。扉を開けなかった者が臆病なのではない。開ければ人側へ流れたかもしれない。袋を予定外に捨てた者が失敗したのではない。持ち帰れば戻り線が死んだ。


それでも、失敗は消されない。


「表示係が判断語を出しかけた」


片腕の女が言った。


若い技術者は目を伏せた。


「次から表示係は数字と灯色のみ。判断語を出した時点で交代」


「制御室を開けなかったため、内部記録は取れていない」


老人が続けた。


アルフォンソが頷く。


「取れていない、と残せ。取らなかった、ではない。開ければ被害が増える可能性があった」


顔を覆った男が工具袋の欄を指した。


「工具は惜しかった」


若い回収役が即座に言う。


「言っていいのかよ」


「惜しいものを惜しくないと書くと、次の奴が拾う」


「じゃあ、惜しいけど捨てた、か」


「そうだ」


片腕の女はそのまま書いた。惜しいが破棄。記録としては妙な言葉だった。だが、その妙さが現場に近い。価値があるから危ない。使えるから捨てる。拾いたくなるから落とす。


「外布は足りない」


老人が言った。


「増やせるか」


「布そのものは増やせる。捨てる前提の厚みが足りない」


若い回収役が自分の袖を見た。


「服を削るか」


「削るなら先に言え。勝手に削るな」


「冗談だよ」


顔を覆った男が低く返す。


「冗談で済むうちに、布を縫え」


その場で何人かが頷いた。次に出るまで、袋より布が要る。金属ではない。工具でもない。まず布。見えないものを相手にする時、人間は布一枚の厚みで戻れるかどうかが変わる。


医療区画から女医が来たのは、記録が一段落した頃だった。彼女は表示係を見て、目、喉、指、呼吸、皮膚の色を確認する。最後に、板を読むように言った。


「灯の色は」


「緑」


「意味は」


彼は少しだけ間を置いた。


「閉じた証拠ではありません」


「何の証拠」


「閉じる命令が戻った証拠です」


「よし。熱は」


「壁で見る」


「水位は」


「目盛りだけでは決めない」


「よし」


女医はそこで板を閉じた。


「前線には戻さない。後方表示。声が掠れたら読むな。咳が戻れば休ませる。目の痛みが増えたら医療へ戻す」


表示係は唇を噛んだ。


「戻れる可能性は」


「後方には今戻した」


「前には」


「今聞くことではない」


「いつ聞けば」


「咳をしないで一晩眠った後」


彼は返事をしなかった。返事をしない代わりに、紙を受け取った。後方表示。前線ではない。だが、役が消えたわけでもない。慰めではなく運用だった。運用だから、優しくはない。けれど、捨ててもいない。


別の者は、もっと悪かった。排気側で短く息を吸いかけた若い回収役だ。本人は吸っていないと言い張ったが、喉の奥をしきりに気にしていた。女医は一度だけ彼に咳をさせた。咳は出ない。目も赤くない。だが、彼はずっと喉を鳴らしている。


「お前のその余計な『自覚』が、一番診断の邪魔になるんだよ」


女医が言った。


「……じゃあ、この喉の奥のピリピリした痛みは何なんだよ!? 俺、あそこで吸っちまったんじゃねえのか、おい!」


「落ち着け。あんたは今、ただ死の恐怖に呑まれて自分で喉を探り続けているだけだ。自分で喉を傷つければ、当然痛くなる。痛くなれば、あの『見えない死神』を吸い込んだ気になって、さらにパニックになる。そうやって勝手に自滅していく奴を、私は何人も見ているんだよ」


若い男は露骨に嫌な顔をした。


「……じゃあ、俺のこの怯えは、全部ただの気のせいだって言うのかよ!」


「その『気のせい』が、現場では一番タチが悪いんだ。恐怖で正気を失った奴から順に、マニュアル(手順)をサボって走り出すからね。お前がそんな馬鹿じゃないと、誰が保証してくれる?」


「俺だって、ユスティティアの回収役だ! 手順くらい守れるわ!」


「なら、さっきの現場で、お前が焦って汚染された袋に素手で触れかけた回数を、今ここで全員の前で読み上げてやろうか?」


「――クソ、もういい! 言うな、やめろ!」


周囲に小さな笑いが起きた。今度は彼も笑った。咳は出なかった。女医はそれを見て、板へ印を入れる。


「前線への復帰は許可する。ただし、一番焦りやすい表示係の近くには絶対に配置するな。お前のその怯えは、周囲の正気を一瞬で汚染する」


「おいおい、俺をただの動く病原体みたいに言うなよ。傷つくだろ」


顔を覆った男が言った。


「病原体の方がまだマシさ。お前は周りの空気に流されやすいからね」


「手厳しいね、本当に。俺のこの情けない性質は、どうやったら治るんだよ」


「自分の弱さをそうやって自覚できているうちは、まだマニュアル(手順)で踏みとどまれる。死にたくないなら、少しはマシな頭を使え」


「……治るのかよ、それ」


部屋の空気が、ようやく少しだけ人の部屋に戻った。だが、地図の上の線は消えない。緑の灯も、湿った壁も、開けなかった扉も、予定外に落とした袋も残っている。


アルフォンソは最後に、制御室側の扉へ黒い印を置いた。


「……この扉は、何があっても開けさせてはならない。絶対にだ」


若い技術者が顔を上げた。


「開けないって、いつまでですか……!? 中に取り残された連中はどうするんですか!」


「開ける理由など、最初からどこにもない。扉の向こうに『見えない死神』が閉じ込められているという事実――それだけで、私たちがこの扉を永久に閉ざし続ける理由としては十分すぎるほどだ。文句があるなら、代わりの手順を今すぐ持ってこい」


「曖昧です」


「曖昧で残す。明確にすると、誰かが試す」


老人が続ける。


「表示だけで安全と判断しない。壁、湿り、音、咳、目。五つを並べる。二つ以上が食い違えば、現実側を優先する」


片腕の女が書く。


「現実側、とは」


顔を覆った男が答えた。


「人間が嫌な顔をする方だ」


若い男が横から言う。


「それなら全部現実側だろ」


「だから生き残る」


笑いがまた起きた。短い。けれど、今度は誰もすぐに咳をしなかった。


夜が深くなると、パヴェルの小部屋へ女医が戻った。彼は眠っていなかった。枕元の紙は遠ざけられたままだが、耳だけは廊下へ向いている。


「誰が下がった」


「聞いてどうする」


「名前を覚える」


「覚えなくていい」


「じゃあ、何人」


女医はしばらく黙った。嘘をつくかどうかではなく、答える意味があるかを測っている顔だった。


「前線から一人。後方へ一人。医療観察が一人。死者はいない」


パヴェルは目を閉じた。安心ではない。死者はいない、という言葉の後ろに、戻らない者がいる。前へ戻れない者、同じ仕事へ戻れない者、次に咳をしたら下がる者。死んでいないことと、無事であることの間には、ユスティティアの札が何枚も挟まる。


「機械が嘘ついたのか」


女医は椅子に座った。


「機械は喋らない。人が意味を間違える」


「嫌な訂正だな」


「正しい訂正だ」


「で、どうした」


「壁を見た。湿りを見た。咳を見た。扉は開けなかった」


「開けなかったのか」


「開けなかったから、帰ってきた」


彼はそれ以上聞かなかった。聞けば起きたくなる。起きれば廊下へ出る。廊下へ出れば殴られる。自分でそこまで考えて、少しだけ笑った。女医が眉を上げる。


「何だ」


「いや。俺、少し賢くなったかもしれない」


「熱があるな」


「褒めろよ」


「寝たらな」


廊下の向こうでは、まだ紙の擦れる音がしている。灯の色、壁の熱、湿った布、咳、目の痛み。人間が機械の言葉を分解し直す音だった。緑の灯はまだ紙の上で平気な顔をしている。だが、その横に、人間の嫌な顔がいくつも書き足された。


それで十分ではない。

けれど、その夜はそれ以上、人の肺へ流れなかった。


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