第二章-川の流れの陽光に
朝食の皿は、まだ温かかった。豆を潰した粥に、硬いパンが一切れ沈んでいる。パヴェルは匙を握ったまま、扉の方を見ていた。外からは誰の足音もしない。それでも、呼ばれていることだけは分かっていた。ユスティティアの呼び出しは、扉を叩く前に部屋の温度を変える。そういう嫌な癖がある。
向かいに座っていた女は、針を止めなかった。厚手の布を縫っている。袖口を二重にするための縫い方だった。騎士の手には似合わない細かい作業だが、彼女は迷わず針を通していく。
「……またどこかの現場に行くのかよ。あんた、三日前からろくに寝てねえだろ」
「呼ばれてはいない。勝手に私の体を動かすな」
「嘘つけ。呼ばれてねえなら、なんでそんな今にも部屋を飛び出しそうな、気味の悪い顔してんだよ」
パヴェルは舌打ちし、粥を一口だけ掬った。熱い。口の中を焼きかけ、慌てて飲み込む。彼女はそれを見ても怒らず、皿を少し遠ざけた。近すぎると、彼が急いで全部を飲み込むと分かっている手つきだった。
「言っておくが、今回はあんたを連れていかねえからな。そんなボロボロの体で来られたら足手まといだ」
言ったあとで、言い方が悪かったと気づいた。彼女は針を止めないまま、目だけを上げた。
「……誰が頼んだ。お前に同行を請うほど、私は落ちぶれてはいない」
「そうじゃねえだろ! あんたがそんな無理して付いてこようとしたら、俺の気が散るって言ってんだよ!」
「……なら、そういうことにしておけ。その方が、お前も私を置いていきやすいだろう」
彼女は短く言い、縫い終えた布を机の端へ置いた。渡そうとはしない。必要になれば持っていけ、という置き方だった。パヴェルはそれを見て、胸の奥が少し詰まる。ありがたいと思うより先に、腹が立った。ありがたくなると、置いていくのが下手になる。
「……必ず、戻ってくる。それだけは約束する」
「分かった。お前の帰る場所(戻り線)だけは、私がここで繋ぎ止めておく」
「……おい、どこに行くのか、中で何が起きてるのか、あんたは何も聞かないのかよ」
「聞くわけがないだろう。……そんな恐ろしいマニュアルを耳にしたら、今すぐこの針を捨ててお前の後ろを追いかけたくなる」
彼女はそのまま針箱を閉じた。閉じる音は小さい。けれど、その音で会話は終わった。パヴェルは皿の粥を半分だけ胃に入れ、パンを布に包んで懐へ押し込む。扉の前で振り返ったが、彼女はもうこちらを見ていなかった。見ていないのに、逃げ道だけは塞がれている気がした。
外へ出ると、冷たい空気が肺に刺さった。修道院跡へ向かう道は霜で白く、泥の表面だけが薄く固まっている。踏むと割れ、中の黒い土が靴底に貼りついた。彼はそれを見て、すぐ足を止めた。泥が怖い。前は、そんなものを気にしていなかった。今は、靴底に何が付いたか考える癖が抜けない。嫌な癖だ。だが、抜けたら死ぬ癖でもある。
修道院跡の地下室には、すでに人が集まっていた。火はない。灯りは布で覆われ、机の上だけを狭く照らしている。紙の匂い、湿った革の匂い、古い土の匂いが重なっていた。机には地図が三層に広げられている。一番下は、今の地図。川と村と埋め場が描かれている。二枚目は、古い地形図。海岸線がまるで違い、今では山になっている場所に、低地と湖がある。三枚目は、記録だった。地図ですらない。処分層、封鎖深度、水脈遮断、冷却停止後廃棄工程。そういう言葉が、薄い文字で並んでいる。
「座るな」
片腕を吊った女が言った。彼女は筆を持つ手だけで紙束をめくり、顎で机の端を示す。
「読むだけだ。寝るなら外で寝ろ」
「歓迎の言葉がそれかよ」
「歓迎していない」
パヴェルは机に近づいたが、紙には触れなかった。触るなと誰も言っていない。だが、この部屋では触らないことが最初の挨拶らしい。トルステンは机の向こうに立っていた。いつものように靴が汚れている。王族だったという話を聞かなければ、ただの疲れた地図屋にしか見えない。
「読めるか」
「字ならな」
「意味は」
「俺に聞くな。ここにいる連中の方が分かってるだろ」
「その通りだ。だから君には、読めるところだけ読ませる」
突き放した言い方だった。けれど、それで少し楽になった。期待されているのではない。利用されている。それなら腹を立てるだけで済む。
パヴェルは紙面へ目を落とした。最初に見えたのは、地名だった。キシュテム。マヤーク。古い世界の文字のまま残っている。次に、高レベル放射性廃液。ストロンチウム90。セシウム137。プルトニウム。冷却系停止。水分蒸発。硝酸塩結晶化。化学爆発。単語は読める。意味は、読めるほど分からなくなる。学校で見たかもしれない。授業で聞いたかもしれない。ニュースで流れていたかもしれない。銃声と悲鳴と、親が死んだ日の後に自分の人生から剥がれ落ちた、まともな世界の残りカスみたいな知識が、紙の上で嫌な形に戻ってくる。
「……廃液を冷やしてた」
掠れた声が出た。
老人が顔を上げた。眉間に深い皺がある。彼は責めるようには見なかった。ただ、足りない語を待っている。
「冷やし続けないといけないものを、地下に溜めてた。冷却が止まる。水が飛ぶ。残ったものが乾く。熱は残る。硝酸塩が……たぶん火薬みたいになる。爆発すると、中身ごと飛ぶ」
「中身」
片腕の女が言った。
「さっきの。ストロンチウム、セシウム、プルトニウム。名前だけなら読める。骨に行くやつ、水や食い物で広がるやつ、粉で吸ったらまずいやつ。詳しいことは知らない。知ってる顔で見んな」
「知っている顔には見えん」
老人は紙へ印を入れた。
「震えている顔だ」
若い男が壁際で小さく笑った。笑った直後、顔を布で覆った男に肘で小突かれて黙る。地下室の空気は硬いが、完全に死んではいない。誰かが少し笑い、誰かが止める。止められた方も怒らない。作業が続く。ユスティティアの有能さは、冷たい無言ではなく、その戻りの速さにあった。
トルステンは古い地形図を一枚ずらした。
「これは旧時代の地図だ。今の地図とは合わない」
「見れば分かる」
「なら、何を見る」
パヴェルは口を開きかけ、閉じた。分からない。地図そのものは読めても、どう合わせるのかは分からない。彼が黙ると、老人が棒の先で山脈をなぞった。
「名は消える。川筋も変わる。湖は干上がる。海岸線も逃げる。だが、岩盤は逃げ切れない。谷は谷の癖を残す。低地は埋まっても水を呼ぶ。深く落としたものは、場所そのものが消えない限り、地の底に残る」
片腕の女が現在地図へ青い札を置く。
「青い砂の発見地点」
赤い札。
「葬儀数増加」
黒い札。
「郵便停止」
白い札。
「魚、猫、家畜の死亡」
札は川筋に沿って並び、途中から地図にない谷へ寄っていく。その谷は、古い地形図では処分層の外縁に重なっていた。地名ではない。施設名でもない。深層隔離地点。水脈遮断済み。封鎖深度。そう書かれていた。
パヴェルは喉が鳴るのを感じた。
「施設じゃない」
トルステンがこちらを見た。
「続けろ」
「建物が残ってる話じゃない。そこに何かを捨てた。地下深くに。捨てて、塞いで、忘れるための場所だ。けど今の地図だと、そこが上がってきてる」
老人が頷いた。
「隆起だ。南の岩盤が押し上がり、旧低地が割れた。水脈も変わっている。封じた層が浅くなった」
「だから漏れた」
「そうだ」
パヴェルは紙の端を睨んだ。地下深くに封じたものが、時間をかけて人のいるところへ戻ってくる。死体が自分で墓から這い出したわけではない。地面の方が勝手に墓を浅くしたのだ。
若い男が木箱を開けた。中には木棒と布袋、縄、外布だけが入っている。金属はない。鉛もない。密閉容器もない。前にも見た貧しい道具だったが、今度は笑う者はいなかった。笑えば、その笑いが自分に返ってくる。
「棒は十二本。袋は二十六。縄は足りない」
若い男が言う。
片腕の女がすぐに返した。
「縄を切るな。結び目を減らせ」
「減らすと緩む」
「緩む前に落とす。持ち帰るな」
顔を布で覆った男が木棒を一本取り、先を確認した。
「金属棒は使わない」
「ない、の間違いだろ」
パヴェルが言うと、男は目だけで笑った。
「使わない、と言えば少し賢く聞こえる」
「賢く聞こえても折れるぞ」
「折れる前に捨てる」
「捨てるための棒か」
「生きて戻るための棒だ」
その言い方に、パヴェルは黙った。棒は放射線を防がない。袋も防がない。ただ、触らない距離を作るだけだ。その距離に、ユスティティアは命を賭けている。賭けているというより、そこしか残っていない。
トルステンが現在地図の端に灰色の札を置いた。
「破棄地点はここを第一候補にする」
地図の上では、鉱石も水もない崩落穴だった。古い坑道跡に見えるが、採掘価値がないまま捨てられたらしい。現在の川筋から離れ、地下水脈にも触れていない。古い処分層ほど深くはないが、縦穴の底は岩盤の割れ目へ落ちている。人は近づかない。水もない。草もない。用がない。
「浅すぎる」
老人が言った。
「だが、今ある道で最も深い」
トルステンは別の札を置く。
「第二候補はここ。深いが、途中で川を横切る。使わない」
「第三は」
「崩落の危険が高すぎる。袋を落とす前に人が落ちる」
若い男がぼそりと漏らした。
「人が先に地の底か」
誰も笑わなかった。言った本人も笑っていない。言わなければ口の中に溜まる言葉を、仕方なく捨てただけだった。
片腕の女が札を並べ直す。
「回収対象は、浅層に出たものだけ。青い砂、灰色泥、水場周辺の土、魚籠の底、濡れた荷袋、靴底、荷車跡。深層には入らない。崩落穴の奥も見ない。水脈に触れている箇所は回収しない。囲って捨てる」
「捨てるのに囲うのか」
若い男が聞く。
「捨てられないから囲う。持てるものだけ落とす。持てないものを持とうとした奴から死ぬ」
「朝から景気いいな」
「夕方に聞けば景気が良くなるのか」
「ならねぇよ」
「なら今でいい」
パヴェルは二人のやり取りを聞きながら、地図の灰色の札を見ていた。地の底へ落とす。地面の下へ戻す。いや、戻すという言い方では足りない。人の手が届かず、水が触れず、根が届かず、誰かが掘ろうとも思わない底へ押し返す。旧時代の連中が一度やった封じ込めを、道具も知識も足りない今の人間が、壊れた地形の上でもう一度やる。
できるわけがない、と思った。けれど、できる範囲までやるために、この部屋の人間は紙を重ねている。
「道は」
トルステンが言った。
老人が三枚の地図を固定した。片腕の女が細い糸を出す。糸は赤、黒、灰、青。青は水。赤は人の道。黒は避ける場所。灰は破棄路。彼らは地名ではなく、地形で道を作った。川を横切らない。風が戻る斜面を避ける。崩落した岩棚を通らない。人が薪拾いに使う道を避ける。魚商の道を避ける。葬儀屋の道を避ける。旧低地のぬかるみを避ける。深層縦穴まで、遠すぎず、近すぎず、袋を引ける幅があり、途中で捨て直せる崩れ穴がある道。
「ここで一度切る」
顔を布で覆った男が糸を押さえた。
「なぜ」
「袋が破れた時、ここなら水に入らない。人も来ない。岩が柔らかいから、棒で押し込める」
若い男が首を傾げた。
「柔らかい岩って何だよ」
「腐った岩だ」
「説明になってねぇ」
老人が短く補足した。
「崩れやすい凝灰層だ。踏むな。袋だけ落とす」
「先にそれ言えよ」
「聞く前に踏むな」
小さな苛立ちが、部屋の中を動く。だが手は止まらない。紙を押さえる指、糸を張る手、袋を数える手、棒の先を削る手。会話は荒い。だが、荒さで作業が壊れない。むしろ、荒い言葉が余計な手を止めている。
トルステンは最後に、パヴェルの前へ一枚の紙を滑らせた。そこには古い事故記録の一部が写されている。字は読みにくい。けれど、幾つかの単語だけはやけに鮮明だった。冷却停止。温度上昇。乾燥。爆発。広域汚染。強制退避。事故不存在。
「これは何だ」
「同じ型の失敗だ」
トルステンが答えた。
「ここでは、すでに爆発したものを封じた記録として残っている。問題は、封じた後だ。地形が変わり、封じたものが上がってきた」
パヴェルは紙を見たまま、唇を噛んだ。
「じゃあ、もう一回起きるのか」
「起きたものが、もう一度人の世界へ近づいている」
老人が言った。
「言い直すなよ。気持ち悪い」
「気持ち悪い方が正確だ」
パヴェルは返せなかった。爆発は過去にある。封じたのも過去にある。だが、危険は今来ている。事故の残骸が、地殻の動きで時代を越えて戻ってきた。新しく壊れたのではない。封じたはずのものが、地の底から押し上げられている。
片腕の女が、札の横に小さく人員を書いた。
「照合、二。水脈、一。地図、一。回収、四。記録、一。接近阻止、二。後方確認、一。パヴェルは資料読解補助、現場では補助線より前に出さない」
「俺、名前じゃなくて役かよ」
「役があるだけましだ」
若い男が言った。
「俺なんか袋だぞ」
「袋は大事だろ」
「人間より?」
顔を布で覆った男が木棒を箱へ戻しながら言った。
「歩いて帰るなら、人間。落とす時は袋」
若い男は少し考え、嫌そうに頷いた。
「嫌な納得した」
パヴェルはその会話を聞きながら、地図の灰色の糸を見ていた。そこが今日の道になる。いや、今日だけでは終わらない。青い砂は一箇所ではない。泥は水場にも荷袋にもある。靴底にもある。人の生活の中へ薄く入り込んでいる。それを全部拾うことはできない。できるのは、濃いものを選び、流れに乗る前に落とし、地の底へ押し返すことだけだ。
「これは調査じゃない」
トルステンが言った。
誰も返事をしなかった。彼は続ける。
「施設を探す作業でもない。地図に残った旧名を見に行くわけでもない。深く封じられていたものが浅く出た。だから、触れる範囲だけを拾い、触れてはいけない場所を避け、もう一度、地の底へ落とす」
その言葉の後、地下室は一度だけ静かになった。静かだが、止まってはいない。若い男は袋を腰に結び、顔を布で覆った男は棒の先を布で巻き、老人は地図の写しを畳み、片腕の女は記録板を外布で包んだ。全員が同じ結論を聞いて、それぞれ別の手を動かしている。
パヴェルは扉の方を見た。そこから外へ出れば、日常側へ戻る道もある。温い粥と、硬いパンと、針を持つ手。そこに戻るために、そちらを巻き込まないために、彼はこの地下室にいる。
トルステンが紙束を閉じた。
「出るぞ。戻るためではなく、持ち帰らないために行く」
若い男が肩をすくめた。
「景気の悪い出発だな」
顔を布で覆った男が返した。
「景気がいい時は、だいたい誰かが触る」
「じゃあ悪いままでいい」
「ようやく賢くなったな」
「腹立つな」
短い笑いが起き、すぐ消えた。
パヴェルは最後に、机の上の事故記録をもう一度見た。キシュテム。マヤーク。高レベル放射性廃液。冷却停止。爆発。封鎖。再露出。文字は紙の上にあるだけなのに、靴底の泥より重く見えた。
彼はその紙に触れず、外へ出た。地図を持つ者が前を行き、袋を持つ者が続き、棒を持つ者がその横へつく。誰も急がない。急げば、地の底へ落とす前に、自分たちが底へ近づく。そういう歩き方だった。
霜の残る斜面は、地図よりも意地が悪かった。
紙の上では灰色の線一本で済んでいた道が、実際には湿った岩、浮いた砂利、根の腐った低木、足首を取る浅い泥に分かれている。先頭の地面を見る男は、歩くたびに足を置く場所を変えた。右へ寄ったかと思えば、次の一歩では左へ戻る。まっすぐ歩いていないのではない。まっすぐ進むと、地面の方が裏切るのだ。
パヴェルは列の後ろ寄りにいた。前に出るなとは何度も言われている。言われなくても分かっていた。棒を持つ者、袋を引く者、地図を折らずに胸へ挟んでいる者、記録板を布で包んだ者。誰も彼を中心に置いていない。資料の文字をいくつか読めるだけの人間が、現場で一番賢い顔をしていたら、その時点で全員死ぬ。そういう空気が、列の間にあった。
「止まれ」
先頭の男が低く言った。
全員が同じ速さで止まった。急に固まったのではなく、止まることも手順に入っている足の止め方だった。若い回収役だけが半歩遅れ、腰の袋が前へ揺れた。すぐ横から、布で顔を覆った男が棒の先で袋を押さえる。
「揺らすな」
「足が滑った」
「袋は滑っていない」
「言い方が嫌だな」
「言い方で袋は破れない」
若い男は舌打ちしながら、袋を腰から少し離した。軽口は出るが、手は従う。そこだけは早い。
道の先に、小さな青があった。
最初は霜に見えた。朝の光が斜めに入って、泥の粒を光らせているだけにも見える。だが、光の角度が変わっても色が消えない。灰色の泥の中に、青い砂が細く混じっている。量は少ない。少ないのに、全員の目つきが変わった。
老人がしゃがまないまま、長い棒で地面を示した。
「川から来た色ではない」
「上から押されて出たか」
片腕の女が、記録板の布を少しだけ開いた。筆は持っているが、板を地面へ置かない。
「水筋は向こうだ。こっちは乾いてる。泥だけが新しい」
パヴェルは首の後ろを押さえたくなったが、手を上げなかった。癖になりかけている。嫌な感覚を確かめようと触る。触ると、何かが付くかもしれない。自分の身体すら信用しすぎるなと、八十五号室で身体に刻まれていた。
「青いところだけ採るな」
老人が言った。
若い回収役が眉を寄せる。
「濃いとこだけじゃないのか」
「濃いところだけ採ると、境目を見落とす。境目を見たい。多くは要らない」
「じゃあどれだけ」
「袋を殺さない量」
「また袋が死ぬのかよ」
「人より先に死なせるための袋だ」
誰も笑わなかった。言い方だけ聞けば冗談に近いのに、地面の青が笑いを吸っていた。
棒役が前へ出た。膝はつかない。腰を落としすぎない。棒の平たい先で、泥の表面を薄く剥がす。削るというより、皮をめくる動きだった。袋役が布袋の口を地面に沿わせる。袋は持ち上げない。口だけを開き、泥が入るのを待つ。
一度目は少なすぎた。二度目で少し多い。三度目で老人が止めた。
「そこまで」
「まだ青いぞ」
「見えるから残す。全部見えなくしたら、次に来る者が場所を失う」
若い男は不満そうに唇を曲げたが、袋の口を閉じた。縄を引く。結び目は一つ。余分に巻かない。汚れた縄を長く触る時間を作らないためだった。
記録役が短く読み上げる。
「第一露出点。乾燥泥。青粒混在。川筋外。回収少量。境界残置」
「残置って言い方、偉そうだな」
若い男が言った。
片腕の女は板から顔を上げない。
「『怖いから全部取れませんでした』と書いてほしいか」
「残置でいい」
「賢くなった」
「腹立つな」
パヴェルは、そのやり取りを聞きながら足元を見ていた。青い砂は薄く残っている。残すと決めたから残っている。回収できなかったものではない。回収しないと決めたものだ。その違いを間違えると、たぶん現場は人を食う。
次の地点では、泥ではなく魚籠があった。
籠はひっくり返り、底だけが上を向いている。魚はない。だが網目の隙間に灰色の粉が固まり、乾いた膜になっていた。誰かがここまで運び、捨てたのか、落としたのか。籠の横には小さな足跡がある。子どもではない。狐か犬か。途中で途切れていた。
若い回収役が息を飲んだ。
「籠ごとか」
布で顔を覆った男が答える。
「中は見るな」
「空だろ」
「空かどうかを見るために顔を近づけるな」
「顔は近づけねぇよ」
「今近づけようとした」
「してない」
「足がしてた」
パヴェルは少しだけ口元を歪めた。言われた若い男は不満そうだったが、足を引いた。全員が、人の言い訳より足の向きを信じている。妙な組織だ。だが、その方が正しい。
籠は袋へ入らなかった。袋の口より少し大きい。潰せば入る。だが、潰せば粉が舞う。棒役は少し考え、籠の縁に棒をかけた。
「押す」
老人がすぐに止める。
「押すな。粉が戻る」
「じゃあ捨てる」
「どこへ」
「そこの割れ目」
「浅い。犬が掘る」
若い男が顔をしかめた。
「犬まで勘定に入れるのか」
「犬が持てば人の家へ行く。人の家へ行けば子が触る」
「嫌な道筋だな」
「嫌な道筋ほど、よく通る」
片腕の女が地図を見る。近くの破棄穴は二つ。一つは浅い。もう一つは少し遠いが、岩の裂け目が下へ落ちている。水脈とは切れているはずだった。はず、という言葉を誰も口にしない。言えば弱くなる。だが全員分かっている。
「遠い方へ回す」
「籠一つで?」
若い男の声に、苛立ちが混じった。疲れている。まだ作業は始まったばかりなのに、何を捨てるにも手が足りない。手が足りないから、籠一つのために道を曲げることが腹立たしい。
老人は静かに言った。
「籠一つが家を殺す」
若い男は黙った。
籠は二本の棒で挟み、地面から少しだけ浮かせて運んだ。抱えない。肩に担がない。揺らさない。歩くたびに籠の網目から粉が落ちないか、全員が見ている。パヴェルも見ていた。見ているだけなのに、肩がこわばる。自分の手には何もない。何もないから余計に、手を出したくなる。役に立たない手ほど、勝手に動こうとする。
「パヴェル」
片腕の女が名前を呼んだ。短く、平坦だった。
「見ているだけにしろ」
「動いてない」
「動きそうな顔をした」
「顔で決める奴多すぎだろ」
「手を見るより早い」
彼は言い返せなかった。見抜かれていることより、見抜かれて止められていることが腹立たしい。だが、その腹立たしさのおかげで、足は止まった。
遠い方の裂け目は、岩陰に隠れていた。地図では小さな線だったが、実際には人の腰ほどの幅があり、下は見えない。風は上がってこない。水音もしない。老人が乾いた草の束を裂け目の上にかざした。草は下へ吸われず、横へ流れもしない。
「使える」
顔を布で覆った男が言う。
「深さは」
「石」
若い男が小石を拾おうとして、片腕の女が睨んだ。
「そこらの石を拾うな」
「試すだけだろ」
「触る必要がない石を触るな」
彼は両手を上げた。顔を布で覆った男が、自分の袋から古い石片を出す。持ち込み用の試し石だった。縄の端に結び、裂け目へ落とす。音は遅れて来た。乾いた音が一度、さらに下で小さくもう一度。水ではない。
籠は裂け目へ落とされた。落とす瞬間だけ、全員が息を止めた。籠が岩に当たり、少し跳ねた。粉は見えなかった。見えないだけだ。安全という言葉は、誰の口にも出ない。
「記録」
「第二破棄点。魚籠一。水音なし。風戻りなし。試し石二段落下。後日監視必要」
「後日って誰が見るんだ」
若い男が言う。
老人は地図を畳みながら答えた。
「後日生きている者だ」
「景気悪いな」
「この仕事で景気のいい言葉を探すな」
列はさらに上へ向かった。
川から離れるほど、青は消えると思っていた。だが逆だった。道の乾いたくぼみ、荷車の轍、靴で踏まれて固まった泥の縁に、薄い青灰色が残っている。水が運んだだけではない。人が運んでいる。袋で、籠で、靴で、車輪で、何でもない顔をして生活の中へ持ち込んでいる。
記録役が低く言った。
「川筋だけではない」
「荷道だな」
老人が地図へ赤い線を足す。
「魚商、郵便、葬儀屋。全部重なる」
若い男が頭を振った。
「葬儀屋までかよ」
「死体を洗う。布を使う。川を使う。布を干す。誰かが畳む」
「やめろ。想像した」
「想像してから触れ」
その言い方で、彼は黙った。嫌な想像は、役に立つ時がある。気分を悪くするだけではない。手を止める。足を止める。余計な一歩を消す。
パヴェルは資料の単語を思い出していた。セシウム。ストロンチウム。プルトニウム。名前を知っていても、目の前の泥が軽くなるわけではない。むしろ、名前を思い出すほど手が動かない。ユスティティアの連中は違う。名前より先に、どこへ行くか、何に乗るか、どう切るかを見ている。知識ではなく、現場の癖で動いている。
「資料の欄」
老人が急に言った。
「処分層番号の下に、排水の注記があったな」
パヴェルは一瞬遅れた。呼ばれたのだと気づき、懐から写しを出す。紙には触れすぎないよう、端だけを持つ。そこには小さな文字で、旧水脈遮断後、南西層へ移送、とあった。
「南西層」
「今の谷筋ではどこだ」
「俺に聞くな。地図は読めない」
「文字を読めと言った」
「……南西層へ移送。水脈遮断後。封鎖深度、二百……いや、単位が分からない。ここの数字、欠けてる」
老人は頷き、地図の別の線をなぞった。
「十分だ。南西で合う」
「知ってたのかよ」
「推定していた。文字で確かめた」
「じゃあ俺いらないだろ」
「いる。推定は、確かめる手間が要る」
パヴェルは嫌そうに紙を戻した。褒められた気はしない。道具として使われた気だけがした。それでいいはずなのに、少しだけ胸が落ち着いた。役に立つ時、感謝されるより、次の作業へ移られる方が楽だった。
南西層へ向かう旧水脈の跡は、今では乾いた溝になっていた。溝の底には細かい白い砂が溜まり、その下に青灰色の粒が混じっている。水はない。だが、雨が降れば流れる。流れれば川へ戻る。
片腕の女が言った。
「ここは拾うより切る」
「切るって何を」
若い男が聞く。
「道を」
顔を布で覆った男が、棒で溝の縁を叩いた。崩れやすい。上から土を落とせば、浅い流れは塞げる。ただし、青い砂を巻き上げないようにする必要がある。拾うより難しい。力を入れすぎると舞う。弱すぎると塞がらない。
作業は三人で行われた。一人が上の乾いた土を崩し、一人が棒で流れを抑え、一人が袋を構えて余分な泥を受ける。説明すれば簡単だ。だが実際には、土が思った方向へ落ちない。袋の口が風でめくれる。若い男が反射で押さえようとし、棒で腕を止められる。
「またか」
「今のは風だろ」
「風でも手は出すな」
「じゃあ何で押さえるんだよ」
「膝」
「膝はいいのか」
「袋の外布越しならな。手より洗わなくて済む」
「洗わないだろ」
「だから切る」
「怖いことを普通に言うな」
「普通に言わないと、怖がって手が出る」
若い男は悪態を飲み込み、袋の外側を膝で押さえた。顔は嫌そうだが、動きは正確だった。風がもう一度来る。袋はめくれない。土が落ち、青い粒を覆う。老人が溝の端を見て頷く。
「仮切断。雨までに再確認」
片腕の女が記録する。
「雨までって、いつだ」
「空を見ろ」
若い男が見上げた。雲は薄い。だが山の向こうに低い灰色がある。
「今日じゃないよな」
「今日ではない。たぶん」
「たぶんが一番嫌だ」
「なら雨乞いをするな」
「してねぇよ」
溝を塞いだ後、最初の本格的な破棄走破が始まった。
袋は三つ。青い泥、魚籠の粉、溝から受けた余分な土。どれも軽いはずなのに、引く者の肩はすぐに張った。袋は吊らない。地面を滑らせる。縄を短く持ちすぎると袋が跳ねる。長すぎると石に絡む。棒役が前で進路を作り、袋役が後ろで引く。記録役は砂時計を見る。時間を測るためというより、同じ場所に立ちすぎないためだ。
道の途中、袋の底が岩に引っかかった。
音は小さかった。布が裂ける音ではない。擦れる音だ。だが全員が止まった。若い男の肩が跳ね、手が縄を離れかける。布で顔を覆った男が低く言った。
「引くな」
「分かってる」
「引くな」
「分かってるって」
「分かってる手じゃない」
若い男は縄を握ったまま、歯を食いしばった。棒役が膝を曲げ、袋の前へ棒を差し込む。岩との間に隙間を作る。袋は少し浮いた。だが、浮かせすぎると揺れる。
老人が横から言う。
「戻す」
「進んだ方が早い」
「戻す」
二度目は短かった。命令ではなく、結論だった。袋は一歩分戻された。縄が緩み、棒が角度を変える。袋の底が岩から外れた。若い男が大きく息を吐きかけ、途中で止める。息を吐きすぎると、次に吸う。
「今のは」
彼が聞く。
片腕の女が板へ書きながら答えた。
「岩を見落とした」
「俺か」
「全員だ」
「全員なら気が楽だな」
「楽になるな。次から一人増やす。岩を見る役」
「役が細かすぎる」
「細かくしないと、人が太く減る」
何だその言い方、と若い男は言いかけたが、言わなかった。代わりに縄を持ち直した。
縦穴は、昼でも暗かった。
岩の裂け目が斜めに落ち、その奥でさらに縦へ切れている。試し石は朝の別地点より深く落ちた。音が遠い。水音はない。風の戻りもない。老人は草束をかざし、片腕の女が糸を垂らし、顔を布で覆った男が足場を棒で叩いた。全部が終わるまで、袋は五歩手前で止められている。
「最後だけ速く」
老人が言った。
「走るのか」
「走りすぎるな」
若い男が嫌な顔をした。
「その中間が一番難しいんだよ」
「難しいから交代制にしている」
「交代するほど人がいない」
「だから失敗するな」
「励ましが下手すぎる」
布で顔を覆った男が、袋の前に立った。
「一つ目は俺が押す。縄は持つな。横へ殺すだけでいい」
若い男が頷く。冗談を言わなかった。言う余裕がないわけではない。ここでは言わない方がいいと分かっていた。
パヴェルは後ろから見ていた。前へは出ない。出る必要もない。なのに足の指に力が入る。袋が引っかかったらどうする。棒が折れたらどうする。縦穴の縁で破れたら。若い男が手を出したら。考えたことが全部、身体を前へ押す。
老人が横目で見た。
「そこにいろ」
「動いてない」
「動く前に言った」
「……どいつもこいつも」
「現場では、動く前が一番安い」
その言葉で、パヴェルは黙った。動いた後に止めるより、動く前に止める方が安い。人も、袋も、時間も、命も。ユスティティアの言葉は、時々ひどく嫌な形で納得できてしまう。
一つ目の袋が落ちた。
布が岩に擦れ、最後に軽い音を立てて消える。二つ目は少し跳ねた。若い男が縄を横へ逃がし、袋の腹が縦穴の縁へ向いた。棒で押す。落ちる。三つ目は、溝の土を受けた袋だった。少し湿っていて重い。底が丸く膨らんでいる。
「これは急ぐな」
老人が言った。
「重い方が楽じゃないのか」
「重いものは、言うことを聞くまでが長い。聞き始めたら止まらない」
顔を布で覆った男が小さく頷いた。
「人間みたいだな」
若い男が言った。
「人間よりはましだ」
「俺の方を見るな」
「見ていない」
今度は少しだけ笑いが起きた。笑いながら、袋は落とされた。落ちた音は遅かった。深い。地の底という言葉が、ここでは比喩ではない。見えない底へ、見えてはいけないものが戻っていく。戻ったから終わりではない。だが、少なくとも人の手が届く場所からは消えた。
戻り線では、誰も水を使わなかった。
靴底は棒で削る。外布は落とす。袋に触れた縄は切る。切った縄は捨てる。手で払わない。畳まない。丸めない。若い男が自分の袖を見て、少しだけ顔をしかめた。青は見えない。見えないが、泥はある。
「切るか」
彼が聞く。
片腕の女は袖を見た。
「切らない。外布だけ落とす。中へ行っていない」
「見えるのか」
「見える範囲で言っている。見えない分まで怖がると裸になる」
「それは困るな」
「困るなら次は袖を近づけるな」
「はいよ」
戻りの確認が終わった時、空は少し曇っていた。山の向こうの灰色が濃くなっている。雨はまだ来ない。だが、雨までにもう一度来なければならない。仮切断した水筋が持つかどうか、破棄点に風の戻りが出ないか、魚籠を落とした裂け目に動物が寄らないか。確認することは増える。終わった作業より、終わった後の方が多い。
修道院跡へ戻る途中、パヴェルは一度だけ振り返った。縦穴のある岩場は、もう斜面の陰に隠れて見えない。そこへ落とした袋も見えない。見えないから安全なのではない。見えないところへ遠ざけただけだ。
老人が隣で言った。
「見るな」
「見てない」
「戻りたくなる顔をした」
「顔で何でも決めるの、流行ってんのか」
「手を見るより早い」
彼はまた同じことを言われ、言い返せなくなった。腹が立つ。だが、その腹立たしさが足を前へ戻した。
地下室に戻ると、机の上に新しい札が増えた。青い砂の点、仮切断した水筋、魚籠の破棄点、縦穴、岩に引っかかった場所、袖を切らなかった者、外布を落とした者。地図は、朝より汚くなっている。汚くなった分だけ、少しだけ正確になった。
片腕の女が記録を読み上げる。
「浅層露出、予想より広い。水筋だけではない。荷道、葬儀布、魚籠、靴底、荷車跡へ拡散。第一破棄走破完了。袋三。仮水筋切断一。破棄点二。岩見落とし一。袖汚染なし。外布二枚廃棄」
若い男が疲れた声で言った。
「岩見落とし、残すのか」
「残す」
「消してくれ」
「消したら次に踏む」
「俺の恥を道具にするな」
「恥で人が助かるなら安い」
「ひでぇ組織だ」
布で顔を覆った男が棒を箱に戻しながら言った。
「今さら気づいたか」
誰かが短く笑った。すぐに咳をした者はいない。それを確認してから、老人は地図の南西に黒い札を置いた。全員の視線がそこへ集まる。
「深層側から、新しい押し上げがある」
若い男の笑いが止まった。
「今日見たやつか」
「今日見たのは表面だ。問題は、その下だ。封じられたものが一度顔を出しただけではない。浅い方へ、まだ動いている」
パヴェルは首の後ろが熱くなるのを感じた。思い込みかもしれない。だが、今日見た乾いた溝、魚籠、荷車跡、泥の青さ、その全部が一度きりの事故には見えなかった。地面の下から、ゆっくり押し返してくるものがある。人が押し戻した分とは別に、まだ上がってくる口がある。
トルステンは地図の灰色の糸を外し、別の糸を出した。
「次は拾うだけでは足りない。上がってくる口を塞ぐ。塞げないなら、落とす道を維持する」
「道を維持って」
若い男が言う。
「また行くってことだろ」
老人が答えた。
「明日か」
「雨次第だ」
「最悪だな」
「雨が降れば、水が運ぶ。降らなければ、粉が動く。どちらも最悪だ」
「選択肢がない」
「ある。どちらの最悪が先に来るかを見る」
地下室は静かになった。疲労で黙ったのではない。次の仕事が見えたから黙った。青い砂を見つけ、袋へ入れ、地の底へ落とした。それで終わるなら、まだ単純だった。だが、地面そのものがゆっくり押し上げているなら、これは一度の回収では終わらない。
パヴェルは地図の黒い札を見た。施設ではない。廃墟でもない。封じたはずのものが戻る口。そこをどうにかしない限り、袋はいくらあっても足りない。
老人が最後に、記録板を閉じた。
「今日は拾った。次は、上がってくる場所を殺す」
若い男が小さく言った。
「場所って死ぬのかよ」
顔を布で覆った男が答える。
「人よりは殺しやすい」
その言葉で、誰も笑わなかった。笑えなかった。
誰も否定もしなかった。
雨はまだ来ていなかった。山の向こうに灰色の腹を抱えた雲があるだけで、空気は乾いている。乾いているから、粉が動く。降れば水が運ぶ。降らなければ風が運ぶ。どちらが先かを選べるなら、まだ人間の仕事だったが、空は人の都合で待たない。
地図は朝より汚れていた。泥の色を写した点、袋を落とした裂け目、仮に塞いだ水筋、岩で布が擦れた場所、外布を捨てた戻り線。片腕の女がその上に細い黒糸を置き、老人が指ではなく棒で押さえた。トルステンは机の端に立ったまま、旧処分層の写しと現在の斜面図を重ねている。紙の上では、封鎖されていたはずの深い場所から、浅い亀裂が何本も伸びていた。一本なら崩れた穴として扱えた。だが、複数なら違う。地の底に閉じ込められていたものが、一箇所から顔を出したのではなく、岩の割れ目を選んで、少しずつ上へ押し出されている。
「拾うだけじゃ足りないな」
若い回収役が先に言った。軽く言ったつもりなのかもしれないが、声の底が乾いていた。
老人は答えず、黒糸の先を旧水脈の線へ寄せた。そこは朝に仮切断した溝のさらに上、青い砂の色は薄いが、泥だけが湿って続いている場所だった。
「先に水側を切る」
「色、薄いぞ」
「薄いから先に切る」
若い男が眉を寄せた。顔を布で覆った男が、木棒の先を布で巻き直しながら横から言う。
「濃い場所は逃げない。水は逃げる」
「言い方」
「水に言え」
短い返事の間に、袋の数が減らされた。回収に使う袋ではなく、塞ぐために捨てる袋だった。中へ土を入れ、落とし、踏まず、棒で押す。持ち帰るためのものではない。形を作るために死なせる袋だ。
パヴェルは写しの端を持たされていた。本文を読むわけではない。老人が示した欄に、古い文字が残っているかを見るだけだった。水脈遮断後、南西層へ移送。封鎖深度の数字は欠けている。単位も読めない。だが、南西という向きだけは残っていた。
「ここの南西層、さっきの仮切断の先と合う」
言うと、老人は地図を見たまま頷いた。
「合うように見ていた。文字で確かめただけだ」
「俺いらないだろ」
「いる。確認は人を減らす」
褒められてはいない。道具扱いされている。その方がまだよかった。自分が何かを解決できるなどと思われたら、次に間違えた時、人が死ぬ。
外へ出ると、風が変わっていた。朝より軽い。軽い風ほど粉を運ぶ。先頭の地面を見る男が一歩ずつ足場を選び、後ろの二人が土袋を滑らせる。袋は吊らない。抱えない。地面を引く。重いものを持ち上げるほど、誰かが自分の力を信じてしまう。信じた腕は、危ない時ほど余計なことをする。
水側の亀裂は、見た目だけなら大したものではなかった。乾いた斜面に、湿った線が一本ある。青はほとんどない。だが、そこだけ土が柔らかく、棒を当てると下から灰色の泥が滲んだ。青くないから安全ではない。むしろ、色で人を騙す分だけ性質が悪い。
若い回収役が、つい濃い青のある方へ視線を向けた。
「こっちを後にするの、気持ち悪いな」
片腕の女が記録板を胸に抱えたまま返す。
「気持ちで水は止まらない」
「分かってる」
「分かっているなら足を動かすな。目が先に行っている」
彼は舌打ちしたが、足を戻した。言い返しながら従う。その速さだけは、もう朝よりましだった。
土を落とす位置を決めるのに時間がかかった。落としすぎれば、下の泥を押し出す。足りなければ、雨で抜ける。老人は棒の先で斜面を叩き、音を聞いた。硬い音、湿った音、空洞を含んだ鈍い音。顔を布で覆った男が一度だけ首を振る。そこは駄目だという合図だった。
「ここから三寸下」
「三寸って、誰の三寸だよ」
「俺の棒の三寸だ」
「最初からそう言え」
「聞く前に落とすな」
「落としてねぇだろ」
「落としそうな肩をした」
若い男が口を閉じた。肩まで読まれるとは思っていなかった顔だった。パヴェルは少しだけ笑いかけ、すぐにやめた。笑うと、自分も読まれる。
最初の土袋が滑った。棒で腹を押し、縄で角度を殺し、湿った線の上へ乗せる。袋が少し沈んだ。沈んだ瞬間、下から泥が横へ逃げかける。老人が短く言った。
「押すな」
棒役の腕が止まる。止まっただけで、全員の息も止まりかけた。
「止めすぎるな。呼吸はしろ」
片腕の女の声が飛ぶ。命令ではない。確認だった。誰かが深く息を吸いそうになる前に釘を打ったのだ。
二つ目の袋を置く時、事故が起きた。
慣れている方の男だった。若い回収役ではない。朝から一度も余計な手を出さなかった男が、斜面の乾いた皮を安全だと読んで足を置いた。土は薄く割れた。靴底が半分沈み、青灰色の泥が縁に滲んだ。
誰も近づかなかった。
男自身も動かなかった。膝を曲げたまま、片足だけを沈めている。手を地面へ出さない。もう片方の足で踏ん張らない。動けば、泥が上がる。
「そのまま」
老人の声が低く出た。
「分かってる」
沈んだ男は短く返した。声に余裕はない。けれど、崩れてはいない。
若い男が一歩出かけた。顔を布で覆った男の棒が、その足元に入った。
「来るな」
「でも」
「二人目はいらない」
その一言で、若い男は止まった。悔しそうに唇を噛む。助けたいのではない。反射で動いただけだ。反射で人が増える。それが一番まずい。
片腕の女が外布を一枚棒の先へかけた。沈んだ足の周りへ直接触れずに落とし、泥の飛びを抑える。老人が斜面の上側から乾いた土を少しずつ崩した。顔を布で覆った男が別の棒で靴の踵を押す。
「抜くぞ。足だけ。靴を持とうとするな」
「靴まで捨てるのか」
「足を残す」
「了解」
踵が動く。泥が吸いつく。男の喉から、短い音が漏れた。痛みではない。恐怖を噛んだ音だった。靴が半分抜け、泥が糸のように伸びる。誰もそれを見に寄らない。遠くから見て、棒だけで処理する。
足が抜けた瞬間、老人が言った。
「靴底切除。外布も落とせ。前線札を外す」
沈んだ男が顔を上げた。
「まだ歩ける」
「歩けるうちに外す」
「戻れる」
「戻れるうちに戻す」
「次、誰がやる」
「別の者がやる」
声は冷たくない。だが、譲らない。男は何か言いかけ、結局やめた。自分の靴底が棒で削られ、外布が切られ、札が外されるのを見ていた。見ている顔は怒っていた。怒っているのに、手を出さない。それだけで、まだ現場の人間だった。
パヴェルは腹の底が重くなった。
「まだ動けるだろ」
思わず漏れた。老人がこちらを見た。
「だから下げる」
「倒れてからじゃないのか」
「倒れてから下げると、運ぶ者が要る」
「二人減る。三人になることもある。動ける者を下げるのは、捨てることではない」
分かる。分かるのに、納得は遅れる。動ける人間を前から外す。本人が悔しがっている。周りも悔しい。けれど、悔しさで札は戻らない。ユスティティアの判断は、人間を物扱いしているのではない。人間を物みたいに壊さないため、先に切る。
水側の亀裂は、三つ目の土袋でようやく落ち着いた。塞ぎ切ってはいない。完全に塞げば、圧は別の割れ目へ逃げる。だから、深層縦穴側へ細い逃げ道を残す。人の道と水の道を避け、地の底へ落ちる道だけを残す。処理ではない。誘導だ。封じるには足りない。だが、人の側へ来る量を減らすには必要だった。
次の問題は、破棄路に出た白い粉だった。
朝にはなかった。あるいは、見落としていた。青くない。灰でもない。乾いた粉が、石の陰に薄く乗っている。若い男が一度通り過ぎかけ、記録役が「色で見るな」と言った。短い声だったが、列は止まった。
「青くない」
「青が合図になると思うな」
「じゃあ何で見る」
「そこにあるかで見る」
「全部じゃねぇか」
「だから歩くのが遅い」
粉のある道は使えない。だが、迂回路は長い。袋を引く時間が伸びる。外布を余分に捨てる必要もある。トルステンは黙って道を見た。老人が風を見た。片腕の女が残りの外布を数える。三枚。戻りで必要な分を考えれば、一枚しか使えない。
「一枚敷く」
片腕の女が言った。
若い男が顔をしかめる。
「戻りは」
「戻る者を減らすよりましだ」
「外布一枚で足りるか」
「袋だけ通す。人は横」
「袋のために布を敷くのか」
顔を布で覆った男が、わずかに目を細めた。
「今日の袋は人よりよく働いている」
「俺よりか?」
「今はな」
「腹立つな」
「腹が立つなら足元を見ろ」
外布は棒で広げられた。手では触らない。粉の薄い場所へ被せ、袋だけをその上へ滑らせる。人は横の石を踏む。滑るが、粉は少ない。袋が通り切ると、外布はそのまま棒で丸めず、端を押し込んで崩れ穴へ落とされた。畳まない。畳むと粉が立つ。惜しまない。惜しむと人が触る。
道具が減るたび、空気が少しずつ細くなる。袋を使えば袋が減る。外布を使えば戻りが危うい。棒を捨てれば次の距離が伸びる。どれを失えば人が残るか。全員が口には出さず、その計算をしていた。
再露出口は、穴ではなかった。
岩の裂け目から湿った泥が滲んでいるだけだった。水音はない。けれど、泥はゆっくり動いている。流れというほど速くない。だが、止まってもいない。青は薄い。灰色の中に、ごく細かい粒が混じる。その先には、人が通る旧羊道がある。反対側には、深層縦穴へ落ちる細い斜面がある。
「塞ぐな」
老人が言った。
若い男が驚いた顔をした。
「塞ぎに来たんじゃないのか」
「塞ぎ切ると別の口が開く」
「じゃあどうする」
「落とす」
顔を布で覆った男が、棒で泥の縁を削った。削るというより、溝を作る。人の道へ向いていた泥の舌を、縦穴側へ曲げる。片腕の女が崩れやすい土を少しずつ落とし、老人が棒で押さえる。誰も大きく動かない。力で押し切る作業ではない。力を入れすぎた瞬間、泥がどこへ逃げるか分からない。
パヴェルは写しを開いたまま、南西層の文字を見ていた。南西へ移した。水脈を切った。深く封じた。過去の記録は、正しく終わったように見える。だが、地面は終わらせてくれなかった。過去が悪いのか、今が悪いのか、そんなことを考えても泥は止まらない。
「そこ、少し右」
思わず言った。
老人が振り向く。
「なぜ」
「右の方が南西層の線に合う。たぶん、資料の移送先がそっち。……たぶんだ。俺の判断じゃない」
老人は地図担当を見た。地図担当が自分の糸を確認し、小さく頷いた。
「右で合う」
老人はすぐに棒の角度を変えた。パヴェルの言葉を採用したのではない。地図担当の確認を採用したのだ。それでよかった。彼は写しを閉じた。自分が中心ではないことが、これほどありがたいとは思わなかった。
泥の流れが少しずつ縦穴側へ寄った。完全ではない。水脈側にも湿りは残っている。旧羊道へ向かう細い筋も残った。だが、主流は変わった。これが成功なのかと聞かれれば、誰も頷かないだろう。ただ、人の道へ行く量が減った。それだけだった。
その時、地面が鳴った。
爆発ではない。重いものが下で身じろぎしたような音だった。足元が一瞬だけ沈み、置いていた袋が横へ跳ねた。若い男が反射で縄を引こうとする。
「引くな!」
顔を布で覆った男の声が飛んだ。
縄は止まった。止まったが、袋は岩に当たり、底が擦れた。小さな裂け目が見える。若い男の顔から血の気が引いた。
「これ、まだ」
「捨てる」
「でも」
「捨てる」
二度目を言ったのは片腕の女だった。彼女はもう記録板を開いていた。
「予定外破棄。近い崩れ穴。水脈なし。袋補修なし」
「まだ使える」
若い男の声は小さかった。
老人が見た。
「袋か。お前か」
彼は黙った。答えは分かっていた。分かっているから言えなかった。袋は棒で押され、予定外の崩れ穴へ落とされた。落とす直前、裂け目から灰色の泥が少しだけ滲んだ。全員が一歩下がる。誰も叫ばない。下がり方が揃っていた。怖がっていないのではない。怖がり方が訓練されているのだ。
回収量は、予定の半分にも届かなかった。
けれど、トルステンは増やせとは言わなかった。地図の上で、残す場所、囲う場所、落とした場所を分けている。残した青い砂には小さな黒点。水脈側の湿りには青い線。落とした袋には灰色の印。予定外破棄には赤の縁。
「拾う量を増やすな」
若い男が顔を上げた。
「残るぞ」
「残る。接触時間も残る。どちらを減らす」
「……人の方か」
「そうだ」
彼は俯いた。悔しさが顔に出ている。だが、次の袋を取りには行かなかった。そこが朝と違う。
帰り道、旧羊道の処理に入った。人が通る可能性がある。薪拾いか、狩りか、迷った子どもか。ここで「危ない」と札を立てれば、誰かが理由を見に来る。だから、道として選ばせない。倒木を置く。崩落に見せる。足跡を消す。通れないほどではなく、通りたくない程度にする。人は完全な壁を見ると越えたくなる。嫌な道なら選ばない。
顔を布で覆った男が倒木の位置を少し動かした。
「塞ぎすぎだ」
若い男が言う。
「塞がないのか」
「塞ぐと誰かが退ける。退けられそうで面倒な方がいい」
「人間嫌いの道づくりだな」
「人間をよく見た道づくりだ」
その作業の途中で、二人目が下げられた。
粉を吸ったのかは分からない。咳が一つ出た。鼻血ではない。倒れてもいない。ただ、記録を読もうとした時、数字を一度読み間違えた。本人はすぐ訂正した。周囲もそれだけなら流したかもしれない。だが、片腕の女は前線札を外した。
「後方」
「今のは読み間違いだ」
「だから後方」
「まだ目は見える」
「見えるうちに下がる」
「足も動く」
「動くうちに下がる」
「お前、俺が嫌いか」
「嫌いなら前に置く」
その返しに、誰も笑わなかった。笑うには少し近かった。下げられた男は記録板を握りしめ、しばらく黙っていたが、やがて板を別の者へ渡した。渡す時の指が震えている。悔しさか、損傷か、その両方か。判断するのは戻ってからだった。
パヴェルはそれを見て、胸の奥がざらついた。
「動けるのに下げるのか」
老人は歩きながら答えた。
「動けるから下げる」
「みんなそれ言うな」
「正しいことは増える」
「納得できるかは別だ」
「納得は帰ってからでいい。今は足を動かせ」
反論は喉まで来たが、出なかった。前を歩く者の背が濡れている。汗だ。寒いのに汗をかいている。疲れている。怖がっている。まだ動ける。そのまだのうちに下げる。倒れた者を運ぶ場面を想像して、パヴェルは口を閉じた。二人減る。三人になることもある。嫌な算数だ。だが、現場の算数はたいてい嫌な顔をしている。
日が傾く頃、泥の主流は縦穴側へ寄った。
落ちているというには遅い。だが、確かに人の道から外れている。水脈側の湿りは残った。白い粉の道も残った。予定外に捨てた袋もある。外した前線札も二つある。成功と言えば嘘になる。失敗と言えば、落としたものまで無駄になる。
トルステンは地図を見て、短く言った。
「今夜は、人の側へ来る量を減らした」
それだけだった。
若い男が、疲れ切った顔で笑った。
「勝ったとは言わないんだな」
顔を布で覆った男が棒を肩に担ぎ直した。
「勝ったと言った奴から触る」
「じゃあ言わない」
「賢い」
「腹立つな、本当に」
片腕の女は、二つ外された札を別の袋へ入れた。前線札は戻さない。戻って損傷を見てから、治療か後方か監視かを決める。まだ死んではいない。だが、元通りではない。その事実だけが、袋より重く見えた。
修道院跡へ向かう道で、パヴェルは一度だけ後ろを見た。灰色の斜面、仮に塞いだ水筋、倒木で嫌な道に変えられた羊道、縦穴へ向かう湿った泥。どれも遠ざかっていく。遠ざかるほど、安心ではなく不安が増えた。残してきたものが多すぎる。
老人が横から言った。
「見るな」
「またかよ」
「戻りたくなる」
「戻らねぇよ」
「戻らない顔になるまで言う」
パヴェルは黙って前を向いた。足元の泥を見る。靴底に青はない。ないように見える。見える範囲でしか分からない。分からないまま、戻るしかない。
背後の地面は、まだ静かではなかった。
ただ、今夜だけ、人の方へ来る量が少し減った。
戻り線の手前で、二人が止められた。
片方は靴底を削った男だった。もう片方は記録を読み違えた男だ。どちらも歩ける。肩を借りてもいない。顔色も、死にかけというほどではない。だからこそ厄介だった。歩ける人間は、自分がまだ現場に戻れると思う。戻れると思う者ほど、次に余計な一歩を踏む。
入口の石畳に、白い紐が張られている。その内側へ入る前に、外布を落とす。靴底を見る。袖を見る。爪を見る。咳が出るかを待つ。誰も急かさない。急かせば、急いだ分だけ何かを見落とす。
「座るな」
片腕の女が言った。
靴底を削られた男が、壁に背を預けかけた姿勢で止まる。
「座ってねぇ」
「座る顔だった」
「みんな顔で決めすぎだろ」
「手より早い」
その言い方にも、もう誰も笑わなかった。朝なら少しは笑えた。今は、笑う前に喉を確かめる。咳が出ないかを待つ。その待ち方だけで、部屋の温度が下がった。
老人は水桶を遠ざけた。帰ってきた者の何人かが、泥を落とすために水を見てしまう。水で洗えば綺麗になる。そういう普通の考えが、ここでは一番危ない。削った泥は袋へ入れる。濡らさない。洗わない。流さない。汚れを消すのではなく、汚れた場所を切り離す。
若い回収役が、自分の手を宙に浮かせたまま呻いた。
「洗いたい」
顔を布で覆った男が答える。
「洗ったつもりで我慢しろ」
「つもりで汚れが落ちるかよ」
「落ちない。だから安全だ」
「意味が分からねぇ」
「分かったら水へ手を入れる」
「嫌な説得だな」
「効けばいい」
その間にも、外布は落とされていく。棒で端を押さえ、紐を切り、体だけ抜く。畳まない。丸めない。袋へ入った布は、もう服ではない。誰かの肩を守ったものではなく、地の底へ落とすものだった。
地下室へ戻った時、机の上には地図が一枚だけ残されていた。余分な写しはすでに袋へ入っている。泥のついた紙、外で開いた紙、風に晒した紙は持ち込まない。残した地図には、今日の線が重ねられていた。水側の亀裂、仮に塞いだ溝、予定外に袋を落とした崩れ穴、旧羊道、粉の出た斜面、深層縦穴、そしてまだ手を付けられていない灰色の範囲。
トルステンは座らなかった。泥のついた靴のまま、地図の横に立っている。靴を脱ぐ場所は決められているが、彼はそこまで戻っていない。自分の足元も汚染扱いしているのだろう。机へ近づきすぎず、棒の先で印を指す。
「水側は弱まった」
老人が首を横に振った。
「止まってはいない」
「分かっている。弱まった、までだ」
片腕の女が板へ短く書く。失敗でも成功でもない言葉は、書く手を鈍らせる。けれど、鈍った手を彼女は許さなかった。筆先が迷えば、その迷いが次の現場へ残る。
「破棄袋は四。予定外一。外布は五枚落とした。棒は一本破棄。靴底処理一。前線札、二枚外し」
「前線札を戻せ」
靴底を削られた男が言った。声は荒くない。荒くない分、よけいにしつこい。
片腕の女は顔を上げない。
「戻さない」
「足は動く」
「動く足で戻れ」
「だから戻るって言ってる」
「前へ戻すとは言っていない」
男は口を閉じた。拳を握りかけ、すぐに開く。爪が皮に入ると、また見るものが増える。怒り方まで制限されるのは屈辱だろう。だが、その屈辱を飲むのも作業のうちだった。
記録を読み違えた男は、壁際に立っていた。自分の板を別の者に渡してから、一言も喋っていない。視線は地図ではなく、自分の指先へ落ちている。震えているようにも見えるし、寒さのせいにも見える。判断を間違えるには十分で、切り捨てるにはまだ早い。そういう半端な状態が、一番場を重くする。
老人が彼の前に立った。
「数字を読め」
男は顔を上げた。板には、何でもない数字が三つ書かれている。袋の数、外布の数、破棄点の数。
「四、五、一」
「違う」
「……四、五、二」
「もう一度」
「四、五、二」
老人は頷かなかった。否定もしなかった。ただ、板を下げた。
「後方」
男の喉が動いた。
「一度間違えただけだ」
「一度で足りる」
「次は間違えない」
「次があるなら、後方で証明しろ」
「俺はまだ」
「まだ、だからだ」
そこで声が途切れた。言い返す言葉はあったはずだ。だが、言えば言うほど、自分が前へ戻れない理由を増やすだけになる。彼は板を持っていた手を下ろし、唇を噛んだ。血は出ていない。出たら、また見るものが増える。
若い回収役が、耐えきれないように横を向いた。
「最悪だな」
顔を布で覆った男が低く返す。
「最悪で済んでる」
「済んでるって言うな」
「じゃあ、まだ戻ってきた」
若い男はしばらく黙り、それから小さく息を吐いた。
「それも嫌だ」
「嫌な言葉しか残ってない」
机の上で、地図の線が一本引き直された。旧羊道は塞ぎすぎない。人が越えたくなる壁ではなく、面倒で避ける道にする。倒木の位置を変える。足跡を消す。崩落に見せる。警告の札は立てない。札を立てれば、誰かが読む。読めば理由を探す。理由を探せば、近づく。
「人を馬鹿にしてるみたいだな」
若い男が言った。
トルステンは地図を見たまま答えた。
「人を見ている」
「違いは?」
「馬鹿にしていれば、札を立てる。読ませれば従うと思うからだ」
若い男は、口を開けたまま少し固まった。それから嫌そうに頷いた。
「嫌な納得ばっかりだ」
「納得しなくていい。次に同じ道を作れればいい」
反省会という言葉は誰も使わなかった。会議とも呼ばなかった。ただ、戻ってきたものを机に置き、戻らなかったものを地図に残し、次に誰が死なないために何を変えるかを決める。それだけだった。そこに慰めはない。だが、責める声も薄い。失敗を誰か一人の胸に縛り付けると、次の手順が細くなる。細い手順は、現場で折れる。
パヴェルは壁際に立っていた。何も持っていない。何も拾っていない。何も落としていない。それなのに、手のひらの内側が汚れている気がする。資料の文字を読んだ。南西層という欄を読んだ。地図の線に少しだけ言葉を足した。それだけで、作業の中にいたことになるのか。分からない。分からないが、戻ってきた者たちの袖や靴や声の掠れ方を見ると、自分だけ綺麗でいることが、ひどく居心地悪かった。
老人が近づいてきた。
「手を見せろ」
「俺は触ってない」
「触っていない手も見る」
「意味あるのか」
「ないと分かる意味がある」
差し出した指先は少し震えていた。老人は爪、掌、手首を見る。次に目を見る。喉元を見る。呼吸の間を待つ。診察というより、道具の欠けを確かめる手つきだった。だが、雑ではない。雑ならもっと楽だった。
「熱は」
「元から」
「元から悪いものは、悪化しても元からに見える」
「便利な言い方だな」
「便利だから残った」
言い返せなかった。老人は小さく印をつけた。前線ではない。後方でもない。様子見。そういう半端な札だった。
「俺も下がるのか」
「前に出ていない」
「じゃあ下がりようがないな」
「そうだ。だから出るな」
それだけ言って、老人は次へ行った。
損傷確認は、夜まで続いた。咳をした者、咳を飲み込んだ者、鼻を拭こうとして止められた者、手袋代わりの布を外した後で自分の指を見続ける者。軽い者は湯ではなく乾いた布で拭かれ、休ませられる。水は使わない。重い者は別室へ回された。別室と言っても、扉一枚を挟んだ小部屋だ。中から声は聞こえる。聞こえるから、外の者は必要以上に静かになる。
靴底を削られた男は、治療側に回された。前線には戻さないが、手は使える。袋縫い、地図写し、戻り線の監視。本人は不満そうだったが、まだ怒る力があるなら働ける。そういう判断だった。
数字を読み違えた男は、もっと長く見られた。指の震えは止まったり戻ったりした。熱はない。咳もない。だが、同じ数字を二度見直す。記録役には戻せない。前線にも戻せない。
「監視小屋だな」
本人が先に言った。
部屋の空気が動いた。
若い回収役がすぐに顔を上げる。
「まだ決めるなよ」
「決める。悪くなってから決めると、だいたい格好つける」
「格好つける顔じゃねぇだろ」
「顔は関係ない」
片腕の女が短く聞いた。
「場所は」
「北西の縦穴側。人が来る前に布札を出す。煙は使わない。煙は人を呼ぶ」
「食料は置き渡し」
「分かってる」
「人と話すな」
「分かってる」
「分かってないなら今言え」
男は少しだけ笑った。
「分かってる。腹は立つ」
「腹を立てるのは許可する」
若い男が唇を噛んでいた。何かを言いたそうにしているが、言えば相手を止める言葉になる。止めても、前線札は戻らない。監視小屋という選択が救いでないことは全員知っている。だが、捨てることでもない。人の道から離れ、放棄した場所を見る。誰かが近づく前に布札を出す。誰とも話さず、死ぬまで、あるいは死ぬ前まで、そこにいる。
パヴェルはその言葉を聞いて、胃の奥が冷えた。
「小屋って、戻らないのか」
男は彼を見た。
「戻る時は、戻れなくなった時だ」
「何だよそれ」
「人に会える体じゃなくなったら、薬をもらいに戻る」
若い男が低く怒鳴りかけた。
「そういう言い方」
「別の言い方をしたら、別のことになるのか」
誰も答えなかった。
薬の話は、その後で出た。大きな声ではない。儀式でもない。治療できる者は治療する。戻れる者は戻す。戻れない者には選ばせる。眠る薬。監視小屋。副人員。どれも綺麗な言葉ではなかった。綺麗に言えば、選ぶ方が迷う。迷う時間が残っている者には迷わせてもいい。だが、迷う体力もない者には、言葉を軽くする方が残酷になる。
その夜、薬を選ぶ者はいなかった。
だからといって、安心した者もいなかった。今日選ばなかっただけだ。明日も選ばないとは限らない。来週も笑っているとは限らない。放射性物質は、剣や火傷のようにその場で形を見せない。遅れて来る。静かに来る。本人がまだ大丈夫だと言っている間に、骨や血や肺の中で別の返事をしている。
地図の最後の線を、トルステンが引いた。人の道へ来る量は少し減った。水側の亀裂は弱めた。主流は縦穴側へ寄せた。だが、白い粉の斜面は残った。仮切断の溝は雨まで持つか分からない。予定外に落とした袋は、後日監視が要る。旧羊道は人が避けるようにしただけで、閉じたわけではない。
「『封じた』なんて大層な言葉は書くな。そんな綺麗な終わり方じゃねえだろ」
彼が言った。
片腕の女は筆を止めた。
「だったら、この限られた板になんて書けば満足なんだ」
「『今夜、あの見えない死神が、人間のいる生活圏へ這い出てくる量を、ほんの少しだけ減らした』――そう書け」
「長い。そんなものを真面目に書いていたら行がすべて潰れる」
「長くて上等だ。たった一言で片付けようとするな。短く省略した分だけ、そこに都合のいい嘘が混ざるんだよ」
彼女はそのまま書いた。長い一文だった。記録板の行を一つ潰した。けれど、誰も削れとは言わなかった。
若い回収役が壁にもたれて、ぽつりと言った。
「……クソ、勝ったって大声で叫べるような仕事は一つもねえな。いつも泥水ばっか啜ってよ」
顔を布で覆った男が答える。
「『勝った』なんて景気のいい言葉を吐きたがる奴は、大抵、自分の足元に迫ってる最悪の負けが見えてない馬鹿だけだ」
「相変わらず嫌な師匠みたいなこと言うな。少しは労うとか、マシな気遣いはできねえのかよ」
「お前を弟子に取った覚えは、一度だってないがな」
「ああそうかい、こっちだってあんたみたいな不気味な師匠は御免だね!」
「なら安心だ。お互いに、余計な情を持たずに次の現場へ行ける」
少しだけ笑いが起きた。今度は誰も咳をしなかった。その確認だけで、笑いが長引く前に消える。ここでは笑うことにも、咳をしないか確かめる余白がついて回る。
夜半、監視小屋へ回る男が、自分の荷を小さくまとめた。荷と言っても、替え布、乾いた豆、火打ち道具、布札、細い縄、地図の写しではない地形の符号、そして薬包が一つ。薬包は今すぐ使うものではない。だが、持っていく。持たせる側も、受け取る側も、その重さを分かっていた。
若い男が豆の袋を一つ余分に押し込んだ。
「……すまねえ、今回の差し入れは肉じゃなくて、ただの硬い干し豆だ。期待させて悪かったな」
「お前から肉を持ってくると言われた記憶が、確かに私の頭に残っているんだが?」
「贅沢言うんじゃねえよ! この状況で豆が食えるだけでもありがたいと思え!」
「……死ぬまでの僅かな時間くらい、大層な贅沢を口にしたってバチは当たらんだろう」
「――だから! そんな縁起の悪いこと言うんじゃねえよ! まだ死ぬな、絶対に生きて戻ってこい!」
監視へ回る男は、少しだけ肩をすくめた。
「努力する」
その会話を聞いて、パヴェルは何も言えなかった。言えば軽くなるか、重くなるか、そのどちらかだと思った。どちらも違う気がした。だから黙っていた。黙っていると、男がこちらを見た。
「資料、読めるんだろ」
「字だけな」
「なら、次に俺の字が汚かったら読め」
「小屋で書く気かよ」
「暇だろうからな」
「人と関わらないんじゃないのか」
「紙は人じゃない」
若い男が横から言った。
「屁理屈だな」
「小屋へ行くには必要だ」
パヴェルは、少しだけ息を吐いた。笑ったのかもしれない。自分ではよく分からなかった。
灯りが一つ落とされた。地下室の隅が暗くなる。机の上には、地図と記録板と、使わなかった袋が残っている。使わなかった袋は、明日使う。明日使うために残ったのではない。今日、人を残すために使わなかった。そう考えると、布の塊がやけに重く見えた。
トルステンは最後に、地図の北西へ小さな印を入れた。監視小屋の印だった。事故の印ではない。回収地点でもない。人が一人、日常から外れる場所の印だ。
パヴェルはその印を見ていた。
地の底へ落としたものは、見えなくなった。だが、見えなくなったから終わったわけではない。見えない場所へ押し返すたびに、誰かがその縁に残る。誰かが道を見張る。誰かが前線札を外される。誰かが薬包を持つ。放射性物質を地の底へ戻す仕事は、物を捨てるだけでは終わらない。人の方にも、戻れない場所ができる。
朝、彼は日常側からここへ来た。温かい粥と硬いパンを半分残してきた。今、その温かさがひどく遠い。戻れば皿は片付いているだろう。何をしてきたかは言えない。誰が小屋へ行くかも言えない。地図のどこに黒い印が増えたかも言えない。
それでいい、とは思えなかった。
だが、言えば誰かが近づく。聞けば誰かが巻き込まれる。知れば誰かが見に行く。知らないことが防壁になる。その言葉を、彼は嫌いなまま覚えた。
外では、まだ雨は降っていなかった。
降れば水が運ぶ。降らなければ粉が動く。
今夜だけ、人の側へ来る量は減った。
それだけを持って、ユスティティアは次の朝を待つしかなかった。




