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キャリントン・イブ  作者: 伊阪証


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第一章-壁の中に潜む光

雪解けの泥が石畳を覆い、湿った冷気が窓の隙間から這い入る季節になっていた。

パヴェルは木匙を握り、器の底に僅かに残った煮豆の滓を丁寧に掬い取った 。テキサスの路地裏でも、この半年間の異世界生活でも、彼にとって食事とは「評価」するものではなく、ただ「生存のために胃に叩き込む」ための儀式だった 。不味い、美味いといった贅沢な語彙は、彼の思考の優先順位から、とっくに削ぎ落とされている 。

向かいに座るヴィクトリアは、自らの食事を早々に終え、顎を引いてパヴェルの手元を観察していた 。

「……また震えているぞ、その指。三日前より酷い。匙すらまともに握れなくなったか」

ヴィクトリアの声は低いが、その響きにはかつてのような鋭い刺突ではなく、使い古した道具の状態を確認するような、無機質な静けさが混じっていた 。

「あんたがそうやって上からじっと監視してるからだろ。そんな気味の悪い目で見られながらまともな飯が食えるかよ。喉に詰まって死にそうなんだが?」

パヴェルは顔を上げずに応えた。半年という月日は、パヴェルの耳に届く音を、確かな「意味」へと変えていた 。言葉の壁が崩れるにつれ、彼はヴィクトリアに対して、反射的な拒絶以外の返答――皮肉や軽口を投げ返す術を、生存戦略として身につけていた 。

「喉を鳴らす余計な元気があるなら、全部胃に叩き込め。半年前、路地裏で匙も握れずにただ死を待っていた肉塊をここまで引きずり戻してやったんだ。文句は、逃げ出す実力をつけてから言え」

「……逃げる隙すら与えないくせに、よく言うよ。あんたのそのクソ熱心な『教育』のせいで、身体の芯まで冷え切っちまったわ」

「教育ではない。監督だ。お前は放っておけば、また泥の中で死神と心中しかねないからな」

ヴィクトリアは席を立ち、棚から古びた水差しを取ってきた 。彼女の動作には一切の無駄がなく、騎士という身分を捨てた今でも、その歩調は静かで確かだ 。コップに水を注ぐ音が、火の落ちかけた炉の爆ぜる音と重なる。

パヴェルはパンの塊を千切り、残った汁を拭い取って口に放り込んだ。 この半年、彼女は彼を逃がさなかった 。手首の縄こそ解かれたが、その代わりに彼女の視線という見えない鎖が、常にパヴェルの背中に貼り付いていた 。

「……今日は、表の『埋め場』を見に行かないのか」

パヴェルがボソリと漏らした。

「お前の脚がまだ笑っている。今日は一日、家の中で言葉を転がしていろ」

「監督様の仰せの通りに。外の泥に足を突っ込むよりは、マシかもな」

パヴェルは器を空にし、満足げに溜息をついた 。腹が満たされ、頭が動き出すと、かつてテキサスで感じていたあの焦燥感が、僅かに形を変えて胸の奥に澱む 。 ここでの暮らしは、飢えからは遠い 。だが、ヴィクトリアが時折見せる「過去」の欠片――鞘から抜かれない剣や、不意に遠くを見つめる目は、この平穏がいつか、あの「青い光」と同じ唐突さで終わることを予感させていた 。

会話が途絶え、部屋は再び、雪の音と薪の爆ぜる音だけに支配された 。 パヴェルは自分の掌を見つめる。肉は僅かに戻ったが、皮膚の下で脈打つあの「熱」は、半年経っても消え去ってはいない 。



重厚な扉が外から叩かれた。

ヴィクトリアの肩が僅かに跳ね、右手が無意識に腰のあたりを彷徨った 。そこには今、彼女を騎士たらしめていた剣はない 。彼女は椅子を鳴らして立ち上がり、音を立てずに扉へ歩み寄った 。

扉が開かれ、冷たい風と共に一人の男が滑り込んできた。

男の靴は泥で汚れ、かつての王族としての華やかさは微塵も感じられないほどに擦り切れていた 。だが、その立ち姿と、汚れを厭わぬ足取りだけが、彼がかつて高い場所にいたことを証明している 。男の名はトルステン。現在は非政府組織ユスティティアのサブリーダーを務めている男だ 。

ヴィクトリアは男の顔を見た瞬間、肺の中の空気をすべて吐き出したように息を詰まらせた。彼女の背筋が、まるで見えない断頭台の重圧に屈するように、ゆっくりと、だが深く曲がっていく 。彼女は椅子の横で冷たい土の床に片膝をついた 。パヴェルがこの半年間で一度も見ることのなかった、英雄の「屈服」だった。

「……トルステン様」

ヴィクトリアの声は、湿った雪に埋もれた藁のように乾いていた 。

「申し訳なかった。あの革命の時、私は……あなたの親族を、救うことができなかった 。それどころか、私は民衆に担ぎ上げられ、こうして『英雄』などという不名誉な名と共に生き永らえている」

トルステンは彼女を見下ろした。その目には、ヴィクトリアを刺し貫くような憎悪も、あるいは憐れみもなかった 。ただ、深い井戸の底のような、光の届かない疲弊だけが澱んでいる 。

「……顔を上げろ、ヴィクトリア。君のせいではないと、何度も言ったはずだ 」

「それでも、守護の任にありながら救えなかった事実は、私の中で消えはしません」

「消えないのは、君の罪悪感だけだ。……私にとっては、もう終わったことだよ。家族が死んだことも、私がこうして靴を汚して数字を数えていることも 」

トルステンはヴィクトリアを促して立ち上がらせたが、二人の間に流れる空気は、氷を噛み砕いた時のような鋭い沈黙に支配されていた。互いに相手を憎んでいるわけではない。だが、顔を合わせれば「救いがなかった過去」という事実が、否応なしに浮き彫りになる 。会話は事務的な確認のみに削ぎ落とされ、弾む余地は一ミリも存在しなかった。

トルステンはヴィクトリアと視線を合わせることを避けるように、パヴェルが座っている食卓へ歩み寄った。

パヴェルは木匙を握ったまま、その光景を黙って眺めていた。王族であった男の泥靴と、英雄と呼ばれた女の折れ曲がった背中。その二人の間に流れる重苦しい沈黙が、部屋の温度を一段と下げていた。

パヴェルの喉の奥に、不意に懐かしくも忌まわしい「金属の味」が突き抜けた 。テキサスの砂漠でプルトニウムの箱を開けようとした時、あるいはあの呪われた路地で青い砂を嗅いだ時と同じ、舌の根が痺れるようなあの感覚だ 。

トルステンが懐から取り出したのは、何枚もの羊皮紙だった。



トルステンが卓上に広げたのは、数枚の汚れた羊皮紙だった。そこには整然とした数字の羅列と、村の境界線が歪に引かれた地図が記されていた。

「埋め場の土が、また新しくなっている」 トルステンの指が、紙の端に記された統計をなぞった。指先には、土を掘り起こした際についたと思われる黒い煤が染み付いている 。 「数が合わない。流行り病なら老いも若きも平等に連れて行く。だが、これは違う」

ヴィクトリアは、トルステンの隣でその数字を凝視した。彼女の眉間に深い溝が刻まれる。 「……働き手だけが不自然に欠けている、ということか」 「その通りだ。老人も、子供も、今のところは無事だ。死んでいるのは、日中外で働き、その部屋へ戻って眠る体力のある男女だけだ」

トルステンの指が、地図の一点を強く叩いた。 「特定の集合住宅――八十五号室だ。そこに関わった者だけが、不自然な速度で『白い病』に冒され、埋め場へ運ばれている」

パヴェルは、トルステンの背越しにその数字を覗き込んだ。 その瞬間、喉の奥に強烈な「金属の味」が突き抜けた。テキサスの荒野で、レンタカーの中の黒い箱に触れようとした時と同じ、舌の根が痺れるようなあの感覚だ 。

心臓の鼓動が急激に速まり、胸郭を内側から叩く。呼吸が浅くなり、吸い込んだ空気が肺の奥で熱を持つ 。 パヴェルは知っている。この世界の人々が「呪い」や「病」と呼ぶものの正体を。それは目に見えず、音もなく、ただそこに存在するだけで命の設計図をズタズタに焼き切る「死神」だ 。

「……そこ、温かいのか」 パヴェルが掠れた声で漏らした。ヴィクトリアとトルステンの視線が、同時にパヴェルに刺さる。

「温かい? 何の話をしている」 トルステンの問いに、パヴェルは答えなかった。代わりに、自分の後頭部に手を当てた。 皮膚が、じりじりと焼けるように熱い。焚き火の熱ではない。骨の内側から直接炙り出されるような、逃げ場のない熱だ 。

かつて、あるアパートの壁の中に、紛失した工業用の小さなカプセルが紛れ込んだことがあった。至近距離で眠る者たちに、毎晩、音のない死の宣告を与え続けた「迷子線源」 。 パヴェルの脳裏に、その光景がテキサスの「白い閃光」と重なって浮かび上がる。

「ヴィクトリア」

パヴェルは、ヴィクトリアの腕を強く掴んだ。彼女の冷徹な瞳が、パヴェルの震えを捉える。

「……そこには、俺が行かなきゃならない」

ヴィクトリアは何も言わず、ただパヴェルの手首の脈を指先で探った 。 「監督」としての彼女は、パヴェルの瞳の中に、恐怖とは別の「確信」が宿っているのを見抜いていた。

トルステンは羊皮紙を無造作に丸め、ヴィクトリアへ突き出した。 「会うかどうかは、まだ決めなくていいと言ったが……どうやら、その余裕もなさそうだな」

外では雪の音が止み、不気味なほどの静寂が部屋を包み込んでいた。

パヴェルの喉の奥で、カチカチと歯が鳴る音が止まらない。

沈黙の壁の向こう側で、死神が次の獲物を数えている。その輪郭を、パヴェルは暗闇の中ではっきりと捉えていた。



トルステンが持ち込んだ「数字」が、冷え切った食卓に重く沈んでいた。

翌朝、窓から差し込む光は灰色の雲に遮られ、部屋の埃をぼんやりと照らしている。パヴェルは寝台の端に座らされ、上着を脱ぐよう命じられた。ヴィクトリアの手は、躊躇なくパヴェルの細い肩に置かれた。指先が鎖骨のラインをなぞり、皮膚の下で騒がしく打ちつける脈拍を捉える 。

「……昨日より熱が上がっている。呼吸が浅いな 」 ヴィクトリアの声には、いたわりではなく、損傷箇所の特定を行うような冷徹な響きがあった。彼女はパヴェルの顎を強引に持ち上げ、瞼を押し上げて白目の色を確かめる 。

「削られているのは、自覚しているか」 「……ああ。あんたに言われるまでもない 」

パヴェルは視線を逸らした。鏡を見るまでもなく、自分の頬がこけ、鎖骨が異常に浮き出しているのは分かっている。身体の内側が、目に見えない砂嵐に削り取られていくような感覚。肺の奥にこびりつく、あの乾いた、金属的な不快感 。

トルステンは少し離れた場所で、腕を組んでその様子を眺めていた。王族としての威厳を捨てた男の目は、ヴィクトリアが「道具」の状態を確認する作業を、事務的に見守っている 。

「ヴィクトリア、そいつは動けるのか 」 「私が動かす 。……だが、頭が回らなければ、ただの死体と同じだ 」

ヴィクトリアはパヴェルの手首を掴み、その細い腕を観察した。半年間の食事で多少の肉は戻ったが、それでも彼女の掌の中に収まりそうなほどに脆い。彼女は懐から、一枚の羊皮紙と炭の棒を取り出した。

「書け 」 「……何だ。騎士様は、俺に詩でも作らせる気か 」 「軽口を叩く余裕があるなら、文字を思い出せ。お前の知っている『数』を、ここへ並べてみろ 」

パヴェルは炭の棒を受け取った。掌には嫌な汗が滲み、指先はヴィクトリアの「検品」を受けてもなお、微かな震えを止めていない 。 彼は羊皮紙に向き合い、テキサスで学んだ数字を、一つ、また一つと落としていった。その筆致は拙いが、迷いはない 。

トルステンが僅かに身を乗り出した。彼の目が、パヴェルの書き出す「数」の羅列を追いかける。

「……字は読めるか 」 「少し。……生きるのに必要な分だけだ 」

パヴェルの答えに、トルステンは頷きも否定もしなかった。ただ、王族時代に多くの人間を選別してきたであろうその目が、パヴェルという「異分子」の有用性を、冷徹に測り始めていた 。

炭の棒が、乾いた羊皮紙の上を滑る。 パヴェルの指先は、自分の意志とは無関係に、細かく、執拗に震えていた。炭の跡が歪み、数字の曲線が時折途切れる。その度に、パヴェルは舌の根を強く噛み、喉の奥まで這い上がってきた鉄錆の味を無理やり飲み下した。

「……何だ、この形は」 トルステンが、パヴェルの手元に身を乗り出した。彼の視線は、紙に刻まれた「0」から「9」までのアラビア数字を、得体の知れない生物の這い跡でも見るかのように追っている。

「数だと言ったろ。……それ以上でも、それ以下でもない」 パヴェルは吐き捨てるように言った。肺の奥が焼ける。吸い込む空気が、まるで熱せられた砂利のように気道を削り取っていく。

「私たちが使っている記号とは違うな。だが、規則性は見える」 トルステンは、自分の持ってきた村の統計資料と、パヴェルが書き殴った数字を交互に見比べた。 「……これをどこで手に入れた」

「忘れた。……気づいたら、頭の中に張り付いてたんだよ」 パヴェルは炭の棒を卓上に放り投げた。 嘘だ。テキサスの埃っぽい教室で、あるいは解体作業の合間に、擦り切れたマニュアルから学んだ「効率の道具」だ。それを説明する言葉は、この世界には存在しない。

「嘘を吐くときの癖も、半年で随分と板についたな」 ヴィクトリアが、パヴェルの背中に手を置いた。その掌は熱を持たず、ただ冷徹な質量として、パヴェルの逃げ場を塞いでいた。彼女はパヴェルが書いた「数字の列」を上からなぞり、指先に付いた炭の粉をじっと見つめる。

「トルステン。この『道具』が示す数は、お前の持ってきた死者の数と一致しているか」

「……ああ。驚くべきことに、計算の速さが異常だ。私が数刻かけて導き出した『偏り』を、こいつは数分で書き換えた」 トルステンの目が、パヴェルを射抜いた。その眼差しは、もはやかつての王族のものではない。手元にある壊れかけの羅針盤が、まだ北を指すかどうかを確認する、執念深い航海士のそれだった。

「パヴェル。お前は、この数字の並びの先に、何を見ている」

「……終わりだよ」 パヴェルは、自分の首筋を強く掻きむしった。後頭部の皮膚が、目に見えない無数の針で刺されているように熱い。 「この数字が積み上がった先に、何があるか……あんたらに教える義理はない」

「教えろとは言っていない。……ただ、お前の『勘』が、どの程度の精度で死を嗅ぎ取っているのかを確認したいだけだ」

「……なら、その紙をよく見ろよ」 パヴェルは、地図の一点――八十五号室の区画を指差した。 「そこだけ、色が違う。……俺には、そう見えるんだ」

「色が違う? 私には、ただの石造りの壁に見えるが」

「……ああ、そうだろうな。あんたらの目は、便利なもんだ」 パヴェルは、喉の奥から込み上げる不快な笑いを、激しい咳と共に吐き出した。 視界の端が、チカチカと明滅している。 部屋の隅、影が濃くなっている場所に、自分たちを「設計図」から壊そうとする、あの青い熱が渦巻いているのが見える。

「……ヴィクトリア。こいつを、明晩、あの住宅へ連れて行く」 トルステンの声が、パヴェルの耳の奥で二重に響いた。

「待て、トルステン。まだ検品は終わっていない。……こいつの脚は、現場で私の重荷になる可能性がある」

「時間がない。……この数を見てみろ。次の『収穫』は、もう始まっているんだ」

ヴィクトリアは、パヴェルの手首を再び掴んだ。 彼女の指先が、パヴェルの皮膚の薄さを、骨の細さを、そして絶え間ない震えを、冷酷なまでに記憶していく。 「……パヴェル。お前、今、何が見えている」

「……何でもいいだろ。……早く、そこへ連れて行けよ」

パヴェルは、ヴィクトリアの手を振り払おうとした。だが、彼女の力は岩のように動かない。 二人の視線が、至近距離で衝突する。 ヴィクトリアの瞳の奥に、かつて自分が救えなかった者たちへの執着と、今目の前にいる「壊れかけの道具」を使い倒そうとする冷徹な決意が、混ざり合っているのをパヴェルは見た。

「……後悔するなよ、騎士様」

パヴェルの言葉に、ヴィクトリアは答えなかった。 ただ、彼女の掌から伝わる確かな「重み」だけが、パヴェルを現世へと繋ぎ止めていた。

トルステンは卓上の羊皮紙を無造作にまとめると、扉の向こう側に潜んでいた気配に向けて、短く指を鳴らした。

外で待機していた数人の足音が、石畳を遠ざかっていく。ユスティティアの現場班たちが、上官の無言の命令に従い、その場を離脱した。残されたのは、火の消えかけた炉が爆ぜる音と、重苦しい三人の呼吸だけだ。

「……部下を下げさせたな。何の真似だ」

ヴィクトリアの声が、低く室内に響いた。彼女はパヴェルの肩を掴んだまま、トルステンの意図を測るように目を細める。

「見世物にするには、この男の『芸』は繊細すぎると思ってね。……ヴィクトリア、私はこいつの真価を見たい。お前が半年かけて飼い慣らしたこの男が、本当に『死神』の輪郭を捉えているのか、それともただ死に怯えているだけの狂人なのかを」

トルステンは、腰に下げていた小袋から、ずっしりと重い布包みを取り出した。 それを、パヴェルの目の前に置く。

「……ッ、下げろ。それを、俺に近づけるな」

パヴェルは、椅子ごと後退りしようとした。 喉の奥に、焼け付くような鉄の味が爆発的に広がった。後頭部の針が、脳漿を直接かき回すように激しく振動している。 その布包みの中にあるものは、八十五号室に眠る「死神」と同質の、だがより鋭利な「毒」だ。

「パヴェル、動くな」 ヴィクトリアの手が、パヴェルの肩を万力のように押さえつけた。彼女の瞳には、パヴェルの顔面から一気に血の気が引き、鼻腔から細い血の筋が垂れるのを冷徹に観察する色があった。

「トルステン、試すのは勝手だが、この『道具』は壊れやすい。……パヴェル、見ろ。逃げるな。お前の目に、それはどう映る」

パヴェルは、震える手で鼻の血を拭った。 卓上の布包みの周囲で、空気が不自然に歪んでいる。目に見える光ではない。だが、網膜の裏側に直接、あの「白い閃光」と「青い静寂」が混ざり合った、不吉な色の残像が焼き付いている。

「……熱いんだよ。……そこだけ、世界が剥がれ落ちてるみたいに、真っ黒な穴が開いてる」

「……穴、だと?」 トルステンの目が、獲物を捉えた猛禽のように鋭くなった。 「私には、ただの鉛の箱に見える。だが、お前にはその中身が、壁の向こう側にあるものと繋がって見えるというわけか」

「……同じ匂いだ。テキサスの砂漠で、俺の肺を焼き切ったあの死神と、同じ匂いがするんだよ……!」

パヴェルは、激しく咳き込んだ。 嘔吐感がせり上がる。内臓を氷のヘラで削り取られるような、逃げ場のない不快感。 ヴィクトリアは、そのパヴェルの「反応」を見届け、トルステンに向けて短く頷いた。

「満足か、トルステン。こいつの『検品』は、これで済んだはずだ」

「……ああ。十分だ。……ヴィクトリア、君がこの男を死なせない理由が、ようやく理解できた。これは羅針盤などではない。……死神そのものを引き寄せる、呪われた磁石だ」

トルステンは布包みを再び懐へ隠した。 その瞬間、部屋を満たしていた殺人的な圧迫感が、僅かに霧散した。だが、パヴェルの喉に残る金属の味と、後頭部の熱は、もはや消えることはなかった。

「明晩、八十五号室へ入る。……ヴィクトリア、お前はこいつを逃がすな。死神の喉元まで、確実に連れて来い」

トルステンは、一度もヴィクトリアと視線を合わせることなく、扉を開けて雪の闇へと消えていった。

残されたパヴェルは、食卓に突っ伏し、荒い呼吸を繰り返した。 ヴィクトリアの手が、パヴェルのうなじに触れた。その掌は驚くほど冷たく、そして、パヴェルの震えを分かち合うように、いつまでもそこにあった。

「……行くぞ、パヴェル。お前の役割を果たせ」

ヴィクトリアの声が、暗い部屋に死の宣告のように響いた。 壁の向こう側で、死神が獲物を数える音が、より鮮明に、より近くで聞こえ始めていた。

八十五号室を含む集合住宅は、石造りの無骨な外観を雪の中に晒していた。 広場では、子供たちが泥の混じった雪を丸めて投げ合っている。二階の窓からは、洗濯済みの白いシーツが揺れ、その下で女たちが井戸端会議に興じていた。

そこには、パヴェルの知る「死の気配」など微塵もなかった。

パヴェルは、ヴィクトリアの半歩後ろを歩いた。 石畳を踏むたびに、膝の裏が笑う。喉の奥には、古びた真鍮の鍵をずっと舐め続けているような、強烈な金属の味がへばりついていた。

「……パヴェル、歩調が乱れている」

ヴィクトリアは振り返らずに言った。彼女の視線は、周囲の住人たちの「顔色」を冷徹に走査している。

「ああ。……ここ、空気が重いんだよ。あんたには分からないのか」

「雪の重みなら分かる。……トルステン、報告にあったのはあの角の部屋か」

トルステンは、建物の三階、角に位置する窓を指した。

「八十五号室だ。半年前に入居した家族は、三ヶ月で夫が、その一ヶ月後に妻が、先週には上の子が埋め場に行った」

窓辺では、残された下の子が、指をくわえて外を眺めている。 その頬は不自然なほどに白く、透き通っていた。病に伏せっているわけではない。ただ、少しずつ、確実に、その生命の根源が漂白されていくような、静謐な白。

「……あいつ、死んでるぞ」

パヴェルがボソリと漏らした。

「生きて動いているではないか。妄言はそれぐらいにしろ」

ヴィクトリアが、パヴェルの首筋を軽く叩いた。だが、その手首に触れた彼女の指は、パヴェルの体温が異常に上昇しているのを認めていた。

パヴェルの視界の中では、建物の壁が、まるで内側から腐敗しているかのように歪んで見えた。 特定の壁、その一点から、目に見えない無数の「針」が放射状に放たれている。 子供たちはその針を全身に浴びながら、笑い、走り回っている。自分が何に削られているのかも知らず、ただ「最近、少し体がだるい」程度の認識で、死の淵へと一歩ずつ、楽しげに歩み寄っているのだ。

「……誰も、気づいてない」

パヴェルは、自分の腕を強く抱きしめた。 テキサスでもそうだった。見えない死神は、叫び声も上げさせず、ただ静かに、隣人の命を奪っていく。 パヴェルの後頭部で、あの乾いた、短い音が鳴り響いた。

「……ヴィクトリア。あいつら、明日にはもう動けなくなるぞ」

「……トルステン。こいつの言葉を、どこまで信じる」

「数だけを見れば、正解だ。……あの子の脈を測るまでもない」

トルステンは、広場で遊ぶ子供たちから視線を逸らした。 彼の目には、悲しみはない。ただ、自分の手に負えない「理不尽な欠落」に対する、乾いた諦念だけがあった。

パヴェルは、八十五号室の入り口へ向かう階段を見上げた。 喉を焼く熱が、いよいよ我慢できないほどに膨れ上がっている。

アパートの廊下は、驚くほど静かだった。

石造りの壁はひんやりと冷たく、誰かの家から漂う煮込み料理の匂いが、冬の空気に混じって鼻を突く。どこにでもある、生活の断片だ。

「……ここだ。八十五号室」

トルステンが、色褪せた木の扉を指した。

扉の枠には、幸運を祈るための古い飾りがぶら下がっている。その飾りが、風もないのに微かに揺れているように見えたのは、パヴェルの視界が既に歪み始めているせいだった。

トルステンが扉を叩くと、中から年配の女性が顔を出した。近所に住む親類だろうか。彼女はヴィクトリアの騎士然とした佇まいを見ると、疑うこともなく、穏やかな笑みを浮かべて一行を招き入れた。

「まあ、騎士様たちが。……あの子なら、奥の寝台で遊んでいますよ。少し体がだるいと言っていますが、食欲はありますし、ただの風邪でしょう」

パヴェルは、その女の顔を直視できなかった。

彼女の肌は、窓から差し込む冬の光を透かすほどに白い。不健康な顔色ではない。むしろ、陶器のように美しく、清潔な白だ。彼女はその白い手で、パヴェルたちに温かい茶を差し出そうとした。

「……要らねえ」

パヴェルは、差し出された器を拒絶するように手を振った。

喉の奥の金属味は、今や胃を直接抉るような吐き気に変わっていた。後頭部が、まるで沸騰した油を注がれたように熱い。

部屋の奥、小さな寝台の上に、一人の子供が座っていた。

広場で見たあの子だ。彼は積み木を重ね、崩れるたびに声を上げて笑っている。その笑い声は明るく、死の予感などどこにもない。だが、パヴェルの目には、その寝台の背後にある「壁」が、脈を打っているのが見えていた。

「あの子の父親も、母親も、最初はそう言って笑っていたわ」

女は、茶を啜りながら淡々と言った。

「少し疲れたと言って、この部屋で眠り、そのまま起きるのが辛くなって……。でも、この子は丈夫です。家系に病の筋があると言われましたけれど、私たちはそうは思いません。ここは、日当たりもいいし、温かいですから」

温かい。

その言葉を聞いた瞬間、パヴェルの背筋に冷たい汗が走った。

パヴェルには分かっていた。彼らが「温かい」と感じているのは、日差しのせいではない。壁の中に埋まり、音もなく、光もなく、ただひたすらに周囲の細胞を焼き続けている「死神」が放つ、目に見えない熱だ。

パヴェルは、壁の一点を見つめた。

そこだけ、空気の密度が異常に高い。目に見えない無数の「棘」が、壁を突き抜けて子供の背中を、女の白い肌を、絶え間なく刺し貫いている。彼らはその刺青に気づくこともなく、ただ穏やかな余生を削り取られている。

「……ヴィクトリア。あいつら、自分が殺されてるって、これっぽっちも思ってねえんだ」

パヴェルの声は、自分でも驚くほど低く震えていた。

「ああ。……不自然なほど、平穏だな」

ヴィクトリアは、子供の様子を冷徹に見極めていた。彼女の手は、いつでもパヴェルの襟首を掴める位置にある。

「怖くないんだよ。……何も見えないから、何も聞こえないから、死神が隣で飯を食ってても、誰も怖がらないんだ」

パヴェルは、一歩だけ壁に近づいた。

近づくほどに、身体の設計図が崩壊していく音が聞こえる。耳鳴りが激しくなり、視界の端が白く爆ぜる。

子供が、パヴェルを見て笑った。

「お兄ちゃん、顔が赤いよ。お熱があるの?」

その無垢な問いかけに、パヴェルは呼吸を忘れた。

テキサスでもそうだった。見えない死神を一番近くに置いている者ほど、その恐ろしさを知らずに、穏やかな眠りの中で消えていく。

「……下がってろ」

パヴェルは、自分に言い聞かせるように呟いた。

子供が、壁に背を預けて積み木を弄っている。その幼い背中が、壁のひび割れた一点に触れている。パヴェルは一歩踏み出し、子供の腕を掴んだ。

「何をするんです、お兄ちゃん」

女が驚き、手に持っていた器を置いた。パヴェルはその声を無視し、子供を寝台から引き摺り下ろした。

「出ろ。今すぐ、外へ出ろ」

「えっ、でも……」

「いいから出ろって言ってんだろ!」

パヴェルの叫び声に、子供が身を竦めた。女は恐怖に顔を強張らせ、入り口に立つヴィクトリアの顔を仰ぎ見た。ヴィクトリアは動かなかった。彼女は、パヴェルの指が子供の腕に食い込んでいる様子と、彼が凝視している壁の一点を、冷徹に観察していた。

「……ヴィクトリア。こいつらを連れて行け。外に、今すぐだ」

「理由は」

「……。死神が、そこにいる」

パヴェルは壁を指差した。

テキサスで死ぬ間際、あるいはかつて目にした事故記録にある「あの状況」が、目の前の光景に完璧に重なっていた。魔法でも呪いでもない。ただ、そこに特定の物質が埋まっているという物理的な事実が、パヴェルの判断を急がせていた。

トルステンが、卓上に金貨を置いた。

「……調査だ。夫人、子供を連れて広場へ。騎士様が点検される」

トルステンの事務的な声に、女はおどおどと頷き、泣き出した子供を抱き上げた。ヴィクトリアがその背中を促すようにして、廊下へと追い出す。

部屋には、三人だけが残された。パヴェルは、暖炉の脇に置かれていた、使い古された手斧を手に取った。柄の感触は湿っていて、ずっしりと重い。

「……パヴェル。何をするつもりだ」

ヴィクトリアが扉を閉め、剣の柄に手をかけたまま問いかけた。

「……壊すんだよ。全部」

パヴェルは、子供が背中を預けていた壁の「ひび割れ」に向けて、斧を振り抜いた。石が削れる乾いた音が、静かな部屋に響いた。

一度、二度。

漆喰が剥がれ、石材の隙間が露わになる。パヴェルの呼吸は、作業の負荷によってのみ乱れていた。三度目の衝撃。斧の刃が、石とは違う、硬質な手応えを捉えた。

パヴェルは斧を置き、指先を壁の隙間に突っ込んだ。石の角で皮膚が裂ける。パヴェルはその痛みを無視し、指先の感覚だけに集中した。

あった。

コンクリートの奥、指先に触れたのは、小指の先ほどの、冷たくて硬い金属の感触だった。



指先に触れたのは、石材とは明らかに異なる冷たく硬い質感だった。

その直後、廊下で乾いた音が響いた。積み木が崩れ、柔らかいものが床を叩く鈍い音。続いて、女の言葉にならない短い悲鳴が、冷え切った部屋に突き刺さった。

ヴィクトリアが、弾かれたように背後を振り返る。開いたままの扉の向こう、廊下の一点を見据えた彼女の瞳が、一瞬で鋭利な色に変質した。

「……パヴェル、立て。子供が倒れた」

彼女はパヴェルの肩を掴み、無理やり壁から引き剥がそうとした。その指先が、パヴェルの上着越しに食い込む。

「行くぞ。ここにはもういられない」

「……。すぐそこなんだ。あと少しで、これが……」

「黙れ! お前の脈も、呼吸も、さっきから狂っている! 運び出す!」

ヴィクトリアの声は、怒鳴り声に近かった。彼女はパヴェルの細い身体を抱え上げ、部屋から連れ出そうとした。だが、その行く手を、トルステンの汚れた長靴が遮った。

トルステンは扉を背にするように立ち、パヴェルの壊した壁の断面と、ヴィクトリアの顔を交互に見つめた。

「逃がすな、ヴィクトリア」

「どけ、トルステン。こいつまであの子のようになれば、取り返しがつかない」

「取り返しがつかないのは、今ここを離れることだ」

トルステンの声は、凪いだ海のように平坦で、それゆえに拒絶を許さなかった。彼はヴィクトリアの目を、真っ向から射抜いた。

「……。今度こそ、役目を果たせ」

ヴィクトリアの動きが、凍りついたように止まった。

彼女の指が、パヴェルの腕から力を失い、だらりと垂れ下がる。呼吸が止まり、彼女の肩が僅かに震えた。彼女はただ、床の石畳を見つめた。かつての革命の夜、守れなかった者たちの血の色を、今の沈黙の中に幻視しているかのようだった。

ヴィクトリアは、もうパヴェルを連れ出そうとはしなかった。彼女は、壁を背にしたパヴェルの前に立ち、ただ、その背中を壁から守るようにして沈黙した。

パヴェルは、壁の隙間に指を戻した。

金属の冷たさは、もう掌全体に広がっている。廊下からは、子供を呼ぶ女の啜り泣きが聞こえていた。



数日後、パヴェルは修道院跡の奥へ連れて行かれた。

表の礼拝堂は、まだ祈りの場所の形を残していた。欠けた石像が壁際に並び、煤けた燭台が床に転がり、屋根の割れ目から差し込む冷たい光が、祭壇だった場所の上に細く落ちている。だが奥へ進むほど、空気は祈りから遠ざかった。香の匂いはなく、代わりに古い紙と湿った革と、乾ききらない土の匂いが強くなる。扉は二重になっていて、一枚目は朽ちた修道院の扉、二枚目は内側から鉄で補強された無骨な板戸だった。

ヴィクトリアは一枚目の扉を越えたところで止まった。

止められたわけではない。トルステンが何かを言う前に、彼女の方が足を止めた。廊下の奥にいる男たちの視線、扉の前に置かれた水桶、壁際に積まれた使い捨ての布袋、それらを一瞥しただけで、自分が踏み込む場所ではないと判断した顔だった。

「ここから先は、王族の記録庫という扱いだ」

トルステンが言った。言い訳にしては雑で、命令にしては弱い。だがヴィクトリアはそれで十分だと受け取ったらしい。彼女はパヴェルの背中へ視線を落とした。見るだけで、触れない。

「行ってこい。逃げるな」

「逃げる足が残ってりゃな」

「残っている。だから言っている」

パヴェルは返事をしなかった。返事をすると、喉の奥に残った鉄の味が動きそうだった。八十五号室から戻って以来、舌の根にまとわりつく不快感は薄まっていない。食べ物を飲み込めば胃の奥に沈み、眠れば後頭部に浮いてくる。身体のどこかに、まだあの銀の筒が引っかかっているみたいだった。

トルステンは二枚目の扉を開けた。

中は広くなかった。壁一面に木棚があり、棚の奥まで紙束と革表紙の帳面が詰められている。机は三つ。中央の机だけが使われていて、そこには地図と、細い紐で束ねられた記録片がいくつも置かれていた。窓は高く、小さい。空気の逃げ道が少ないせいで、紙の匂いが喉に貼りつく。

部屋には五人いた。年配の男が二人、片腕を吊った女が一人、顔の半分を布で覆った若い男が一人、奥の棚で帳面を探している背の低い老人が一人。誰もパヴェルを歓迎しなかった。嫌悪も出さない。ただ、作業を止めるに足るものが入ってきたかどうかを見ただけだった。

「八十五号室の処理者だ」

トルステンがそう言うと、片腕を吊った女が顔を上げた。吊っていない方の手で、机の端に置かれた小札を引き寄せる。

「処理者名は」

「パヴェル」

「姓はあるか。言いたくないなら、それでいい」

パヴェルは口を開きかけて、止めた。

トルステンが横から言った。

「今は要らない」

女は不満そうに眉を寄せたが、食い下がらなかった。小札には名前ではなく、符号だけが書かれた。P。続いて、八十五。壁。銀筒。投棄済。処理者生存。女の筆は速かった。人間の出来事を、人間の温度を抜いて記録へ変える手つきだった。

「生存と言うには、薄いな」

顔を布で覆った若い男が言った。声はくぐもっているが、皮肉ではない。観察だった。

「まだ立っている」

トルステンが返した。

「立っているだけなら、死体でも壁に寄せればできる」

「なら、喋らせる」

パヴェルは舌打ちした。舌打ちの音が紙の多い部屋にやけに響いた。

「見世物かよ」

年配の男の一人が、そこで初めてパヴェルを真正面から見た。目の下に深い皺があり、唇の色が悪い。手元には黒く焼けた木箱の破片と、鉛らしい薄板が置かれている。男はその破片を指で押さえたまま、低く言った。

「見世物なら、もっと人を呼ぶ。ここにいる人数で足りるなら、作業だ」

その言い方に、パヴェルは返せなかった。余計な温度がない。罵っているのでも、励ましているのでもない。ただ作業の分類をしている声だった。

トルステンが中央の机へ記録片を三つ並べた。

一つ目は、乾いた革表紙の薄い帳面だった。端に焼け跡があり、文字の一部が消えている。表紙の内側には、粗い手で「サラゴサ」と書かれていた。二つ目は、紐で縛られた紙片の束で、地名は「メキシコシティ」と読めた。三つ目はもっと傷みがひどく、紙の色がまだらに変わっていた。表書きの地名は一部欠けているが、「ブエノスアイレス」とだけは判別できる。

パヴェルは、そこで息を止めた。

名前が読めたからではない。読めてしまったことが嫌だった。舌がその音を勝手に覚えていた。遠い世界の地名が、湿った修道院の記録庫で、まるで墓標みたいに並んでいる。胸の奥が冷える。

「読めるか」

トルステンが訊いた。

パヴェルは答えなかった。

「読めるな」

トルステンは重ねた。本人確認ではない。反応確認だ。読めるかどうか、知っているかどうか、その一瞬の遅れを見るための問いだった。

片腕の女が、サラゴサの帳面を開いた。中には文章というより、記録の切れ端が貼り込まれていた。日付、症状、処置、名前、死亡印。途中から筆跡が変わり、最後の頁だけ、異様に文字が整っている。

女が読み上げた。

「治療器具。内部構造不明。外殻破損。接触者、発赤、嘔吐、脱力。処理班三名。遮蔽不足。対象確保。二名死亡。一名、十五日後に死亡」

パヴェルは奥歯を噛んだ。

女は次の行へ移った。

「対応者による追記。残存寿命を考慮し、以後の作業継続は不能。次回類似案件では、若年者を使うな。処理時間を短縮しろ。容器ごと破棄しろ。持ち帰るな」

若年者を使うな、という言葉だけが、妙に生々しかった。誰が書いたのか分からない。だが、その筆跡は整いすぎていた。死ぬ前に、手の震えを押さえつけて書いた字だ。

トルステンはパヴェルを見ていない。見れば逃げ道になると分かっているように、記録だけを見ていた。

「次の記録へ移れ。止まるな」

年配の男が、メキシコシティの紙束を広げた。そこには同じ地名が何度も出てきたが、文章は乱れている。誰かが急いで写したのだろう。余白には、別の手で補足が入っている。

「解体品。金属筒。市中流出。発見時、複数接触。衣類、寝具、工具に付着の疑い。詳細記録不足。第一処理者、死亡。第二処理者、右手壊死。第三処理者、記録後不明」

布で顔を覆った若い男が、そこで小さく咳をした。咳は一度で止まった。止めたのではなく、止まらなければ記録に支障が出るから押し殺した咳だった。

「続けろ」

トルステンが言った。

年配の男は頷き、続けた。

「処理完遂。市内死者推定、原記録比較で大幅減。ただし処理者の残存稼働期間、全員一年未満。以後、スペイン語圏記録保持者の不足を確認」

その言葉で、部屋の空気が少しだけ変わった。

パヴェルは顔を上げた。全員がこちらを見ているわけではない。むしろ誰も正面から見ていない。だが、視線の端が集まっている。机の上の地図、記録片、パヴェルの手、顎、呼吸。すべてが、同じ問いへ向けられていた。

トルステンが三つ目の束を開いた。

紙が脆く、めくるたびに端が欠けた。老人が棚から薄い板を持ってきて、下に差し入れる。こうしないと頁が崩れるのだろう。そこに書かれていた字は、他の記録よりさらに乱れていた。途中で墨が薄くなり、何度も同じ語が繰り返されている。

「ブエノスアイレス」

トルステンは地名だけを読んだ。

パヴェルは胃の奥がひっくり返るのを感じた。臨界、という言葉が頭に浮かんだ。だが口には出さない。この世界の言葉に直しても、意味は崩れる。崩れた意味で喋れば、余計なものが増える。

トルステンは淡々と読み上げた。

「短時間で複数名が倒れる。熱傷なし。外傷なし。吐き気、脱力、意識混濁。場所は閉鎖空間。金属片、液体容器、作業台。詳細不明。処理者二名、現場復帰せず。記録者、十七日後に死亡。追記。これは火事ではない。毒でもない。近づく時間を減らせ。見た目で判断するな」

パヴェルの指が勝手に震えた。

ヴィクトリアなら、ここで手首を掴んだかもしれない。だがヴィクトリアはいない。扉の向こうで待っている。知らないまま、待っている。知らないからこそ、ここに踏み込まない。信用しているから調べない。そのことが、急に重くなった。

トルステンが記録を閉じた。

「三つとも、対処は完遂している」

誰も頷かなかった。完遂という言葉が、勝利ではなく、ただ記録欄を埋める言葉だと知っているからだった。

「だが、対応者は残っていない。残っていた者も、残りの稼働時間を自分で見積もり、次の作業へ出た。戻った者は少ない」

片腕の女が続けた。

「犠牲者数は、元記録と比べれば少ない。街は残った。家族単位の崩壊も減った。だが、処理者が減った。言語が読める者も減った。事故の形を知る者も減った」

年配の男が、サラゴサの帳面を指で押さえた。

「その後、同系統と思われる記録は止まっている。止まった理由は二つしかない。事故がなくなったか、記録できる者が死んだかだ」

「後者だろ」

パヴェルの声は掠れていた。

部屋の中の全員が、今度ははっきりとパヴェルを見た。

トルステンだけが表情を変えなかった。

「なぜそう思う」

「なくなるわけがない。壊れたもんは残る。盗む奴もいる。売る奴もいる。分解する奴もいる。腹が減れば、何だって触る。誰かが止めても、別の誰かが拾う」

言いながら、パヴェルは自分の声が荒くなっていくのを感じた。止めたいのに止まらない。テキサスの夜、黒い箱、危険の印、顔のない買い手。自分がその「盗む奴」だったという事実が、喉を内側から引っ掻く。

トルステンは、そこへ踏み込まなかった。

「発電所で働いていたと言ったな」

部屋の空気が、わずかに硬くなった。

パヴェルの心臓が一拍飛んだ。

トルステンは続けない。問い詰めない。経歴を掘らない。嘘かどうかを暴くための間ではなかった。むしろ、あえてそこを踏まないための間だった。

「その話は、今は扱わない」

パヴェルは顔を上げた。

「は? “扱わない”って、今さら何を言ってんだ」

「経歴は後でいくらでも嘘を吐ける。今必要なのは、嘘を吐く前に出る反応だ」

トルステンはメキシコシティの記録片を一枚抜き出し、パヴェルの前へ置いた。そこには、崩れた文字で器具の形が描かれている。円筒、留め具、割れた外殻。横に、別の手で短い注記がある。青い、と読めた。

「これは何に見える」

パヴェルは答えたくなかった。答えたくないのに、目が勝手に線を追う。留め具の位置、割れ方、周囲へ散ったもの。頭の中で、見たことのない現場が勝手に組み上がる。

「……壊した後だ」

「何を壊した。外か、中か。言え」

「中に入ってたものを見ようとして、外を壊した。たぶん、売れると思った。綺麗だったか、重かったか、珍しかったか。理由は何でもいい。壊した奴は、中身の方が価値あると思った」

片腕の女が筆を走らせた。パヴェルの言葉を、そのまま記録している。評価も補足もない。

トルステンは次の紙を置いた。サラゴサの写しだった。器具の内部構造が雑に描かれている。

「これは」

「治療の道具だろ。病院か、それに近い場所にあった。中を開けるなって書いてあっても、読めない奴は開ける。読める奴も、金になると思ったら開ける」

「なぜ治療と分かる」

「形がそうだ。あと、サラゴサなら……」

そこでパヴェルは止まった。

口を閉じた瞬間、部屋の空気が動いた。全員がそこを聞いた。サラゴサなら、の後に続くはずだった言葉。知っている人間の言いかけた言葉。

トルステンは待った。待つだけだった。催促しない。

パヴェルは唇を舐めた。舌が乾いている。

「……似た話を聞いたことがある。それだけだ」

「どこで」

「忘れた」

トルステンは頷かなかった。否定もしなかった。

「忘れた、で通すなら、それでいい。記録には残さない」

パヴェルは眉を寄せた。

「何でだよ」

「残せば、経歴になる。経歴になれば、誰かが追う。今必要なのは経歴ではない。使える反応だ」

その言い方は冷たい。だが、パヴェルを守っているようにも聞こえた。守るというより、余計な情報を増やさない。増えた情報が人を殺すことを知っている人間の扱いだった。

年配の男が、別の箱から小さな札を出した。そこには名前が並んでいる。多くが斜線で消され、横に死亡日らしき数字がある。中には、名前ではなく地名だけのものもあった。

「スペイン語圏の対応者は、ここでほぼ尽きた。読み書きできる者、事故名を断片で持つ者、器具の呼び名を覚えている者。全員、先に行った」

パヴェルはその札を見た。名前を覚えようとして、やめた。覚えたところで、もう会えない。会えない名前を増やすだけになる。

布で顔を覆った若い男が言った。

「名前を覚える者もいる。覚えない者もいる。作業にはどちらも必要だ」

パヴェルは視線を向けた。

男は咳を押し殺し、続けた。

「覚える者は、声で呼べる。倒れた時に引き戻せる。覚えない者は、切れる。戻らない者を数に戻せる。どちらが優しいかは知らない。どちらも要る」

片腕の女が、パヴェルの小札へ符号を足した。

P。八十五。生存。スペイン語圏反応あり。後年知識疑い。経歴未確認。

パヴェルはその文字を見て、喉が詰まった。

「疑いって何だ」

「断定しないという意味だ」

女は顔も上げずに答えた。

「断定すると、間違えた時に人が死ぬ」

トルステンが、そこでようやく椅子を引いた。座れ、という仕草だった。パヴェルは座らなかった。座ると、そのまま立てなくなる気がした。

「パヴェル」

トルステンの声が少し低くなった。

「八十五号室の処理で、住民側の死者は、記録例より少なく済む見込みだ。すでに死んだ者は戻らないが、残った子供はまだ動いている。あれは処理の結果だ」

「俺がやらなくても、誰かがやっただろ」

「誰か、はもう少ない」

その言葉だけが、部屋に残った。

トルステンはサラゴサ、メキシコシティ、ブエノスアイレスの記録を順に重ねた。古い紙の束が、薄い音を立てる。

「ここにある者たちは、知識が残っているうちに処理へ行った。寿命が残っていないと判断した者から先に行った。結果、被害は減った。だが、記録を読める者も、事故の形を知る者も減った。今、ここに立っている者の多くは、事故の名前ではなく、死に方からしか推測できない」

パヴェルは黙った。

「そこへ、八十五号室で反応した者がいる。しかも、これらの記録片に反応する。本人確認より先に、それを確認する必要がある」

「だから俺を呼んだのか」

「ああ。だから君をここへ引っ張った」

「労働者かどうかは、どうでもいいって?」

「どうでもよくはない。だが、今ここで暴いても役に立たない」

パヴェルは奥歯を噛んだ。暴いても、という言い方で十分だった。トルステンは知らないわけではない。疑っていないわけでもない。ただ、今は扱わないだけだ。

それが一番きつかった。

責められれば、反発できた。嘘を吐けば、逃げられた。だが、使える部分だけを先に取られると、逃げる言葉が残らない。

「……俺は技術者じゃない」

声は、自分で思ったより小さかった。

部屋の誰も驚かなかった。

トルステンも、もちろん驚かなかった。

「知っている」

パヴェルは顔を上げた。

「知ってて呼んだのかよ」

「技術者なら、八十五号室であのやり方はしない。もっと正しく怖がる。もっと正しく諦める。パヴェルは違った。間違って、急いで、雑に寿命を削った。だが、対象を人の手から遠ざけた」

トルステンは、そこで初めてパヴェルを真正面から見た。

「ここでは、その結果を確認する」

パヴェルの喉が鳴った。

「犯罪者でもか」

「犯罪者なら、盗む理由を知っている。売る理由を知っている。分解する理由を知っている。触る者の手を、机の上の理屈より早く想像できる」

年配の男が、静かに口を挟んだ。

「だから役に立つ」

その言葉に慰めはなかった。嫌悪もなかった。事実だけだった。パヴェルは、吐き気に似た何かを飲み込んだ。

扉の外で、床板が小さく鳴った。

ヴィクトリアだ。

パヴェルには分かった。彼女の足音は軽いが、止まる時だけわずかに重さが残る。中を聞いているかどうかは分からない。だが、踏み込まない。扉を開けない。呼ばれない限り、こちら側へ来ない。

トルステンもその音に気づいたはずだが、何も言わなかった。

「最後に一つ」

トルステンは、ブエノスアイレスの記録片をパヴェルの前へ戻した。

「これは、何を警告している」

パヴェルは紙を見た。短時間で複数名が倒れる。熱傷なし。外傷なし。場所は閉鎖空間。金属片、液体容器、作業台。近づく時間を減らせ。見た目で判断するな。

頭の中で、見えない光が一瞬だけ膨らんだ。

「『近づくな』なんて警告、誰も守りやしない……! そんな生ぬるい言葉じゃ、何一つ足りないんだ!」

部屋の空気が止まった。

「中に入らなきゃ、中で何が起きてるか分からない時だってある! だがな、中に入ってから『どうする』なんて悩んでたら、その瞬間、全員ただの死体になるんだよ! だから、扉を開ける前に秒数カウントを決めろ! 何を見たらすべてを捨てて逃げるか、その境界(しきい値)を今ここで縛り付けろ! そして――誰がその場で倒れて、誰がそいつを置いて帰るかを、今ここでマニュアルに刻み込め!」

言い終えた後、パヴェルは自分の言葉に腹の奥が冷えた。置いて帰る。口に出した瞬間、その言葉はもう考えではなく手順になった。

片腕の女が筆を止めた。初めて、パヴェルを見た。

トルステンは小さく息を吐いた。

「……十分だ。私が欲しかったのは、歴史の教科書ではない」

「だったら、何のために俺をこんな場所へ引っ張り出した」

「今ここで、生きている人間を、どうやって『生かしたまま引かせるか』の、冷酷な手順だ。お前のその『怯え』には説得力がある。その震えは、この組織の文字になる」

トルステンは記録をすべて閉じた。閉じる手が少しだけ遅い。紙を傷めないためだけではない。そこに書かれた死者を、雑に扱わないための遅さだった。

「パヴェル。ここでは、誰も完全な情報を持たない。過去を知っていた者の多くは、数年前までに死んだ。新しい時代のことを話せる者は、さらに少ない。だから、今後は聞く。答えられる時だけ答えろ。答えられない時は黙れ。嘘を吐くなら、役に立つ嘘にしろ」

「……とんだ無茶苦茶を言ってくれる。まともな倫理すら捨てろって言うのかよ」

「無茶しか残っていないんだ。手順をサボった奴から順に、あの見えない死神に骨まで溶かされる。嫌なら最初からこんな組織(場所)にいるな」

パヴェルは笑いそうになった。笑えなかった。喉の奥が痛い。

扉が開いた。

ヴィクトリアが立っていた。中を見たが、机の上の記録には目を落とさなかった。彼女はパヴェルの顔色だけを見た。目元、唇、呼吸、指先。記録ではなく身体を見る目だった。

「終わったか」

トルステンが答えた。

「ひとまずは」

ヴィクトリアは短く頷き、パヴェルへ近づいた。

「立てるか」

「立てなかったら?」

「担ぐ。嫌でも立たせる」

「それ、脅しじゃなくて本気だから嫌なんだよ」

「分かっているなら立て」

パヴェルは椅子に手をついて立ち上がった。膝が少し遅れて震えた。ヴィクトリアの手がすぐに背中へ伸びたが、触れる前で止まる。パヴェルが倒れないと見て、手を戻した。

トルステンが、片腕の女へ小札を渡した。

「Pの札は、今は名前箱へ入れない」

女が眉を上げる。

「覚えない方へ?」

「どちらでもない。保留だ」

パヴェルはその言葉を聞き逃さなかった。

「保留って何だよ」

トルステンは扉へ向かいながら言った。

「まだ、どちらで呼ぶべきか決めていないということだ」

ヴィクトリアは意味を聞かなかった。察したかもしれない。だが、聞かなかった。

廊下へ出ると、空気が少し軽くなった。古い紙の匂いが背中から剥がれ、代わりに冬の湿った冷気が肺へ入った。パヴェルは咳き込みそうになり、喉で止めた。

ヴィクトリアが横から見た。

「また、何か隠したな」

「見てたのかよ」

「顔を見れば分かる」

「便利な目だな」

「不便だ。分かっても聞かないことが増える」

パヴェルは言葉を返せなかった。

記録庫の扉が背後で閉まる。中ではまた、紙がめくられる音が始まっている。死んだ者の記録を開き、まだ死んでいない者の使い道を決める音だった。

パヴェルは外套の前を掴み、深く息を吸った。息は浅くしか入らない。だが、さっきよりは立っていられる。

ヴィクトリアが先に歩き出した。

「飯を食うか」

「今かよ? この直後に飯の話か」

「今。空腹で判断するな」

その言葉は、半年前と同じだった。けれど、パヴェルの胸に落ちる重さは違った。半年前は、盗まなくていいという線引きだった。今は、次に死ぬための判断を、空腹で誤らないための命令だった。

パヴェルは黙ってついて行った。

背後の記録庫では、誰かが小さく咳をして、それをすぐに押し殺した。


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