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キャリントン・イブ  作者: 伊阪証


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第九章-未だ残りし

山の石が熱い、という報告は、あまりにも小さかった。

一ヶ月前に壊れた炉の話を聞いた者なら、誰でもそう思う。空が黒くなり、地面の下から戦争の残りが爆ぜ、人が戻るための線さえ点になり、最後には組織の名を持つものが壊れた。その後に届いた知らせが、村の裏山で夜露の残らない石がある、近づいた羊が倒れた、火を焚いていないのに草が薄く枯れている、というものだったから、初めに聞いた引退者の一人は、温泉脈か、古い炭焼きの跡か、山火事の残り火を疑った。けれど、報告を持ってきた少年の手の甲に、妙な赤みがあった。熱傷と言い切るには浅く、かぶれと言うには形が不自然で、触ったというより近づいた時間で出たような荒れ方だった。医療担当はその手を見て、すぐ水を出さなかった。何の水を使うかを決める前に、少年がどこまで近づき、何に触り、何を持って帰ったかを聞く必要があったからだ。

「どこでやった。正直に言え。あの山の熱い石に素手で触れたのか。」

医療担当が聞いた。

少年は首を横へ振ったあと、少しだけ迷って、また横へ振った。

「触ってないよ。父ちゃんが、落ちてた長い木の棒の先で突いただけだ。」

「その棒は今どこにある。家まで持ち帰ってないだろうね。」

「置いてきた。山のあの場所に、そのまま放ってきたよ。」

「本当に家へは持ち込んでいないね。嘘なら、村ごと危ない。」

「持って帰ってないよ。触ってもいないのに、棒を伝って父ちゃんの手まで熱が来たんだ。怖くて、もう触れなかった。」

その一言で、戻り場にいた者たちの空気が変わった。燃えていないのに熱い。棒で突いたものが熱い。夜露が残らない。近づいた人間が崩れる。金属のようなものがある。山に放置されている。片腕の女は書き残し板を開き、熱源、金属容器疑い、接触なし、棒放置、皮膚症状、動物忌避、と短く書いた。作戦とは書かない。もう作戦という形は持てない。人員札はほとんど残っておらず、戻る道を引けるほどの数もない。アルフォンソの名を呼んでも返事はなく、三人の幹部の札は戻らないまま、引退者たちは決めた手順を知っていても現役の代わりになる身体ではなかった。

パヴェルは壁際の椅子に座っていた。座っているというより、座らされている方が近い。右肩から腕はまだ自由に使えず、首の皮膚は処置布の下で熱を持ち、長く立てば膝が遅れて震える。ヴィクトリアも近くにいたが、彼女には荷を持たせなかった。短時間で浴びたものの後遺症はまだ消えず、体調が良さそうに見える日でも、急に顔色が落ちる。二人とも、普通なら現場に連れて行く身体ではない。だが、普通の現場はもう残っていなかった。

「小さいからといって見くびるな。」

若い回収役が言った。声に安堵はなかった。小さいから楽だ、と誰も思っていない。ただ、前の大災害のあとで、その報告の小ささが逆に気味悪かった。

顔を布で覆った男は、残った道具を並べていた。黒札、外布、縄、袋、棒。どれも少ない。どれも古い。どれも何度も汚れと熱と煙を見てきたものだった。

「小さいものは、持てるように見える。そこが一番危ない。」

彼は言った。

若い回収役は口を閉じた。小さい危険物の嫌さは、彼らが何度も見てきた。見た目が小さいと、人は自分の手でどうにかできると思う。暖を取るかもしれない。金属として持ち帰るかもしれない。山で見つけた珍しいものとして、家へ持っていくかもしれない。大きな炉は人を遠ざける。小さな熱源は、人を呼ぶ。

片腕の女が、少年に山道を描かせた。少年の線は曲がり、ところどころで止まった。父親が棒で突いた位置、夜露が消える石、動物が避ける斜面、草が薄い場所。彼女はそれをそのまま使わず、少年が迷った場所に印をつけた。迷った場所ほど、記憶が危ない。記憶が危ない場所ほど、現場で足を誤る。

「行く人数は少ない方がいい。多ければ、誰かが触る。」

引退者の一人が聞いた。

顔を布で覆った男は、道具から目を離さないまま答えた。

「少ないほどいい。そこで足を止めさせられなければ意味がない。多いほど、誰かが触る。」

「少なすぎると押せない。後ろに回る者を先に決める。」

「押すかどうかはまだ分からない。」

「見るだけで戻れる余裕はあるのか。短く済ませるほど、人は危ない方へ歩く。」

「余裕はない。後ろの者が真似しない形にしてから動け。見る場所を先に決めろ。」

こういう会話だけは、まだ残っていた。命令ではない。組織の指揮でもない。ただ、危険物に近づく前に、余計な動きを一つずつ殺していく決めた手順だった。

山に入ったのは、朝ではなかった。朝に入る体力がなかったからではない。夜露の消え方を見るためだった。普通の草には水が残り、石の窪みにも白く湿りが溜まっている。だが、斜面の途中に、乾いた帯があった。そこだけ草が薄く、虫の音が途切れ、鳥の足跡が手前で曲がっている。熱いものがあるから動物が近づかないのか、近づいたものが戻らなかったから周囲が空いているのかは分からない。どちらでも、意味は同じだった。

先頭の顔を布で覆った男が、棒の先で地面を指した。

「踏むな。近づくな。」

若い回収役が頷く。

「見えているだけで止まるな。」

「見えている時ほど踏む。だから足を止めろ。」

「分かっているなら、その顔で前へ出るな。周りが安心して寄る。」

「分かっている足か。足を止めろ。」

「今は分かってる。」

その返しに、誰も笑わなかった。笑うには山が静かすぎた。木の枝が折れた跡がある。自然に折れたのではない。人が体を支えようとして掴み、途中で力が抜けたような折れ方だった。古い足跡もあったが、途中で乱れている。危険物にまっすぐ向かう道ではなく、避けながら、迷いながら、何度も戻ろうとして作られた道に見えた。

熱源は、最初は石に見えた。

黒くはない。光ってもいない。燃えてもいない。ただ、周囲の空気が揺れていた。山肌に半分埋もれた金属の塊で、古い外装が剥げ、丸みのある角が露出している。火ではない。炭でもない。炉の破片とも違う。静かに熱を出し続けるもの。ヴィクトリアは距離を取ったまま、口元の布を少しだけ押さえた。パヴェルはそれを見て、彼女の前に出ようとし、足が遅れて止まった。

「背中を向けろ。下がる理由まで口にしなければ、次の者が寄る。」

医療担当が言った。

「理解しているなら、その顔のまま前へ出るな。止める側が迷う。」

パヴェルは答えたが、足は一歩前に出ていた。彼は自分でそれに気づき、後ろへ戻した。戻すだけで息が乱れる。情けない、と言う余裕もなかった。

顔を布で覆った男は袋を見た。持ってきた袋は、熱源の大きさには足りるように見える。見えるから悪い。袋へ入れれば持てる気がする。だが、袋を近づける者が近づきすぎる。中で熱がこもる。布地が傷む。持ち手に熱が伝わる。何より、袋へ入れた瞬間、それは「持ち帰るもの」に見える。

「袋は使わない。持ち帰りに見せるな。」

彼は言った。

若い回収役がすぐ頷いた。

「入れたら持ち帰る気になる。」

「そこまでは正しいが、それだけでは後ろの者の手を止められない。」

「外布だけで済ませるな。」

片腕の女が聞いた。

顔を布で覆った男は、外布を棒の先に掛け、熱源からかなり離れたところで止めた。近づけすぎない。空気の揺れが布の端をわずかに硬くした。焦げてはいない。だが、長く置けば痛む。覆えば熱がこもる。目隠しにはなるかもしれないが、運ぶ布にはならない。

「覆うだけなら、あとで触る者を作る。運べないし。」

「縄は使わない。」

若い回収役が、残った縄を見た。ヴィクトリアが一度、縄で終わらせたことを全員が覚えている。だが、その記憶を使うには相手が違いすぎた。

顔を布で覆った男は、縄の端を熱源へ向ける前に止めた。

「縛れないなら、別の手を考えろ。」

「試す前に何だ。ごまかすな、ここで言え。忘れた頃に人が触る。」

「試すために近づくな。近づく時間で削れる。縄は熱で負ける。今の縄は昔のものと材が違う。」

「前なら耐えたかもしれない。今は同じにはいかない。」

引退者の一人が言った。

「今は前じゃない。後ろの者が真似しない形にしてから動け。」

その言葉は短かったが、誰も反論しなかった。過去の道具ならどうだったか、過去の人員ならどうだったか、過去の組織ならどうだったか。そんな話は、今ある縄を強くしない。

外布なし。袋なし。縄なし。

残ったのは棒だけだった。

全員が、一度黙った。棒で転がす。押す。止める。方向を変える。引くことはできない。持つこともできない。転がりすぎれば追えない。横へ逸れれば、山道を下って生活圏へ行くかもしれない。止めるために体を入れれば、その人間が終わる。棒は道具ではあるが、戻せない道具だった。押した先で間違えれば、棒だけでどうにかするしかない。

「穴がいる。短く済ませるほど、人は危ない方へ歩く。」

パヴェルが言った。

顔を布で覆った男が彼を見る。

「見たか。近づくな。」

「見てない、いるだけだ。落とす先がなきゃ、転がす意味がない。穴の縁と逃げ道だけを見ろ。」

「探す。戻り道を塞ぐな。」

「探すな。」

パヴェルの声は思ったより鋭かった。全員が彼を見る。

「歩き回るな、誰かが過去に来てる、道がある。枝の折れ方も足跡も、ただ近づいた跡じゃない。何かへ向かった跡だ。行き先を札に落とせ。近づくな。」

片腕の女が、周囲の足跡を見直した。確かに、熱源へ向かった道とは別に、山の奥へ入る細い乱れがある。危険物から逃げる道ではなく、危険物をどうにかするために作られた道に見えた。彼女はそこに黒札を置かず、まず棒で土を確かめた。自然の獣道ではない。石の並びが不自然に寄せられている。土の層も、雨で流されてはいるが一度大きく崩されている。

山の奥に、穴があった。

最初、穴だと分からなかった。落ち葉と崩れた土が縁を隠し、斜面の影に沈んでいる。だが、近づきすぎない距離から見ても、自然の割れ目ではないと分かる。縁が荒く、道具で削った跡が残り、石が外側へ避けられている。人が降りるための足場はない。底を覗くための縁でもない。投げ込む、落とす、そのためだけの穴だった。

穴の近くの石に、白いものが残っていた。

チョークに似ている。雨で滲み、一部は消えかけている。片腕の女は、その石へ直接触れず、距離を取りながら文字を追った。字は乱れていた。手が震えていたのか、書いた者がもう長く立てなかったのか、線の太さが一定ではない。だが、読めた。

「命が尽きるまでここを掘る、ここに投棄しろ。」

若い回収役が、息を吸った。

「なんだよ、それ。途中で切るな。」

誰も答えなかった。

彼はもう一度言った。

「なんだよ、それ。命が尽きるまでって、なんでそんな書き方するんだよ。」

顔を布で覆った男は、文字ではなく穴を見ていた。

「仕事指示だ。」

「どこがだよ。どこを押す。」

「ここに投棄しろ、と書いてある。穴までどう運ぶ。」

「その前だよ。短く済ませるほど、人は危ない方へ歩く。」

若い男の声が割れた。怒りが戻っていた。けれど、その怒りは誰にも向けられない。書いた者はここにいない。穴は掘られている。熱源は残っている。怒っても、穴の深さは変わらない。

片腕の女は、書き残し板へそのまま写した。命が尽きるまでここを掘る、ここに投棄しろ。文字を整えなかった。整えれば、書いた者の震えが消える。読みにくいまま、読み取れる範囲だけを残す。

パヴェルは、その文を見ていた。誰の名もない。署名もない。自分の正しさを残す言葉でもない。後から来る誰かへ、自分が死んでも使える決めた手順だけを置いている。名前に縋るな。決めた手順を残せ。かつて聞いた言葉が、彼の中で遅れて響いた。だが、彼は口にしなかった。言葉にすると、穴を掘った者へ余計な意味を被せる気がした。

「深さはまだ見えない。今は近づくな。」

顔を布で覆った男が言った。

引退者の一人が、小石を拾おうとして止まった。拾う石も、場所を選ぶ必要がある。熱源の近くの石は使わない。穴の縁の石も崩すかもしれない。離れた場所から、乾いた小石を棒の先で寄せ、布越しに取る。彼は穴の縁へ近づきすぎず、腕だけを伸ばして落とした。

音はすぐ返らなかった。

皆が黙っていた。かなり遅れて、奥底で鈍い音がした。小石が壁に当たったのか、底に落ちたのかも分からない。ただ、浅くはない。奥底は見えない。火を入れて覗く者はいない。降りようとする者もいない。ここは見直しするために入る穴ではない。落とすために掘られた穴だった。

「跳ね返らないか。」

若い回収役が聞いた。

顔を布で覆った男は穴の縁を見た。

「小石では分からない。短く済ませるほど、人は危ない方へ歩く。だが、戻る浅さではない。」

「途中で引っかかったら。」

「引っかからない角度で入れる。左を空けろ。」

「失敗したら。」

「近づけない。理由も言え。」

若い男は唇を噛んだ。それが事実だと分かっているから、怒る言葉が続かない。

穴の縁を見直しする。入り口の幅。熱源が転がる角度。最後に棒が届く位置。人が足を置ける場所。置いてはいけない場所。穴へ向かう斜面は真っ直ぐではない。途中に小さな石があり、そこで横へ逸れる可能性がある。逸れたら戻せない。だから、その石をどかしたくなる。だが、石をどかすために近づけば、熱源の通り道に人が入る。顔を布で覆った男は、棒で届く範囲の石だけをずらし、届かないものはそのまま残した。

「完全には整えない。近づくな。」

片腕の女が書く。

「完全に整えるために近づくな。そこまで言え。」

「その通りだが、それだけでは後ろの者の手を止められない。」

「押す人数は。」

「多すぎると散る。少なすぎると止まる。人数を決めろ。」

「三人で足りる。そこへは近づくな。」

引退者が言った。

顔を布で覆った男は首を横に振った。

「二人でいい。三人目は後ろで止めろ。」

若い回収役がすぐ言う。

「俺が押す。後ろを空けろ。」

「あなたは止める役だ。誰を止めるか言え。」

「またかよ。」

「走りたい奴ほど後ろで止めろ。」

「今は走らねぇよ。先を言え。」

「怒っている足は走る。」

若い男は地面を見た。拳を握りかけ、また開く。

「分からないならそこで止まれ、止める。」

その言葉が出るまで、かなり時間がかかった。出たあとも納得した顔ではない。だが、彼は棒を持ち替え、押す位置ではなく、逸れた時に人の足を止める位置へ移った。

パヴェルは押す側には入れない。ヴィクトリアも入れない。医療担当は反対するまでもなく、二人を下げた。パヴェルは言い返さなかった。言い返せば、立てるかどうかを見られる。見られれば、下げられる。下げられたところで、どうせ押せない。彼はそれを分かっていた。

「これは回収じゃない。」

顔を布で覆った男が言った。

片腕の女が頷く。

「投棄。」

「持てないものを持とうとするな、縛れないものを縛ろうとするな。包めないものを包もうとするな。押せる距離だけで片付けする。」

若い回収役が、穴の石に残った白い文字を見た。

「命が尽きるまで掘ったのに、俺らは押すだけか。」

顔を布で覆った男は答えた。

「押すために掘ったんだろ。どこへ落とす。」

若い男は黙った。その通りだった。掘った者は、自分が落とせないものを、後から来る者が押すために穴を残した。命が尽きるまで掘るという言葉は、美談ではない。仕事の残りを、未来へ渡すための文だった。

熱源の方へ戻る。金属の塊は、同じ場所で静かに熱を出していた。燃えていない。煙も上げない。けれど、周囲の空気が揺れ、草は薄く、夜露はそこだけ消えている。顔を布で覆った男と引退者の一人が、棒を構えた。若い回収役は逸れを止める位置に立つ。片腕の女は書き残し板を閉じず、最初の一押しを見る。医療担当はパヴェルとヴィクトリアをさらに下げる。

パヴェルは、穴の方を見た。奥底は見えない。書き足す言葉もない。誰が掘ったのか、誰が途中で倒れたのか、誰も知らない。それでも、穴はある。そこへ落とせば、もう誰も拾えない。誰も暖を取れない。誰も金属として持ち帰れない。

顔を布で覆った男が、最初の棒を熱源へ向けた。

「押すぞ。後ろへ下がれ。」

誰も返事をしなかった。返事をすれば、息が無駄になる。

最後の片付けは、そこで始まった。

最初の一押しで、熱源はほとんど動かなかった。

顔を布で覆った男と引退者の一人が、それぞれ別の角度から棒を当てていた。持ち上げるのではない。引くのでもない。棒の先で外装の歪んだ角を押し、山肌との噛み合いを少しだけずらす。金属の塊は沈黙したまま、石に見える重さでそこに残っていた。燃えてはいない。音も出さない。だが、棒の先へ熱が伝わるのが遠目にも分かった。顔を布で覆った男の手袋の指が、握りを少しだけ浅くした。

「強く押すな。」

引退者が言った。

「強く押してない。」

「肩に力が入りすぎてる。」

「顔で決めるな。声に出せ。」

若い回収役が思わず言いかけ、そこで黙った。いつものやり取りなら、誰かが短く返したかもしれない。だが今は、冗談にする余白が少なかった。熱源は、一度だけ小さく軋み、地面に張り付いていた黒い土を少し剥がした。動いた距離は指二本分ほどだった。けれど、それだけで周囲の空気が変わった。動く。動いてしまう。動くなら、間違った方向へも行く。

片腕の女は、距離を書かなかった。熱源、一押し。右へ小。停止。棒二本。逸れなし。そう書き残した。距離を書くと、進んだように見える。今必要なのは、どれだけ進んだかではなく、どれだけ逸れずに済んだかだった。

二押し目で、熱源は半回転した。球ではない。角があり、欠けがあり、古い外装が歪んでいる。押した方向へ素直には行かず、地面の小石に当たって斜めへ向く。若い回収役の肩が動いた。手が出たわけではない。だが、体が先に顔つきした。落ちそうな荷物を受け止める時の動きだった。

「手じゃない。」

顔を布で覆った男の声が飛んだ。

若い回収役は自分の手を見た。熱源へ届く距離ではない。それでも、止めようとしていた。彼は息を吸い、棒を横へ構え直した。熱源が山道の下側へ逸れそうになった時、体ではなく棒の先を地面へ置いた。止めるのではない。道を嫌がらせる。棒を壁にすれば折れる。体を入れれば終わる。だから、熱源の進みたい面の前に、ほんの少しだけ嫌な角度を作る。

熱源は棒へ当たり、完全には止まらなかった。だが、下へ落ちる角度は死んだ。金属の塊は重い音を立て、横へ跳ねるように戻った。

若い回収役の喉が鳴った。

「今、手で行きかけた。半歩下がれ。」

「行かなかった。次はどこを見る。」

顔を布で覆った男は言った。

「行きかけた。」

「行かなかったことを書け。」

片腕の女は、本当に書いた。若い回収役、手を出しかけ、棒で修正。本人が嫌そうな顔をしたが、訂正は求めなかった。嫌な書き残しほど、あとで人を止める。

棒の一本が、三押し目で傷んだ。

熱源へ当てた先端が黒くなり、木の表面が硬く縮んだ。燃え上がったわけではない。煙が出たわけでもない。だが、棒の先が熱を抱え、押した引退者が反射で握り位置を変えようとした。

「持ち替えるな。近づくな。」

医療担当が、離れた場所から言った。

「先が焼けてる。」

「そこへ手を滑らせるな。下げろ。棒の位置を言え。」

「まだ使える。」

「使える棒と、持てる棒は違う。持つ側を替えろ。」

引退者は一瞬だけ棒を見た。使える。確かに熱源を押すだけなら、まだ使える。だが、人間の手が握る場所はもう減っていた。彼は棒を地面へ置こうとした。医療担当がまた止めた。

「置く場所を見ろ。」

置く場所にも意味があった。熱を持った先端を草へ向ければ、そこが焦げるかもしれない。誰かが拾いやすい位置へ置けば、あとで触る。結局、割れた石の上に、先端を外へ向けて置く。熱源そのものではない棒一本で、そこまで決めた手順が増える。

若い回収役が歯を鳴らした。

「穴はある、落とす場所もある。なのに棒一本置くのにどれだけかかるんだよ。」

顔を布で覆った男は、別の棒を取りながら答えた。

「速く押すと、戻せない。押す前に下がれ。」

「分かったふりをしているなら、余計に前へ出るな、覚悟の顔ほど周りを引っ張る。」

「分かっているなら、急ぐな。押す前に言え。」

「急がなきゃ、こっちが削れる。」

「急いでも削れる。違う削れ方をする。」

若い男は黙った。言い返しても、熱源は待たない。いや、熱源は待っているように見える。静かだからだ。動かなければそのままそこにいる。だが、それは安全という意味ではない。近づいた者が削られ、周囲の草が薄くなり、夜露が消える。静かなものほど、こちらの焦りを遅らせて殺す。

パヴェルは、少し離れた場所でそれを見ていた。棒の先が黒くなった時、身体が一瞬前へ行きかけた。何もできないのに、前へ行こうとした。ヴィクトリアが彼の袖を布越しに掴んだ。力は強くない。だが、その少しで彼は止まった。

「行くな。近づくな。」

ヴィクトリアが言った。

「納得しているなら、黙って前へ出るな、手を出す前に止まる理由を言え。」

「分かってる足じゃなかった。短く済ませるほど、人は危ない方へ歩く。」

「それ、流行らせるな。今やることだけ言え。」

「使えるから捨てられなかった。短く済ませるほど、人は危ない方へ歩く。」

彼は返そうとして、やめた。呼吸が浅くなる。彼も彼女も、ここで余計な会話をする体ではない。二人とも現場の外側にいる。外側にいるのに、体だけが何度も内側へ行きかける。

熱源は、少しずつ穴の方へ向かった。

一押しごとに、山道の表情が変わる。草の根に引っかかる。小石で向きが変わる。湿った土で半分沈む。乾いた石で跳ねる。押しすぎれば進みすぎる。弱ければ動かない。棒を当てる位置を間違えれば、穴ではなく下りの斜面へ向く。何度も、押す前に足場を見直しした。足を置ける場所、置いてはいけない場所、棒を伸ばせる角度、手を滑らせてはいけない握り。運搬ではなかった。方向を失わせないための押し続けだった。

片腕の女は書き残し板に同じような文字を積み重ねた。

五押し。左へ小。修正。

六押し。停止。棒交換。

七押し。下側へ逸れかけ。止め役、棒で修正。

八押し。進まず。角度変更。

九押し。前進、小。逸れなし。

「進んでるのか。」

若い回収役が聞いた。

片腕の女は書き残し板から目を離さず答えた。

「逸れていない。先を続けろ。」

「進んでるか聞いた。近づくな。」

「逸れていないなら、今は進んでいる。押す向きを言え。」

彼は舌打ちをしかけ、途中で止めた。苛立ちすら、ここでは余計な呼吸になる。

中ほどで、熱源が山道の下側へ大きく寄った。

小石に乗り、外装の歪んだ角が滑り、今までよりも速く右へ傾いた。若い回収役の体が動いた。今度は手ではなく、足が出た。体を入れて止める動きだった。彼自身も止まれなかったかもしれない。その前に、引退者の一人が斜めから棒を入れた。

棒は受け止めきれなかった。

熱源の重さが棒を弾き、先端が跳ね、引退者の手袋へ熱が走った。彼は歯を食いしばり、離すのが一拍遅れた。その一拍で熱源の向きだけが変わった。止まってはいない。だが、下りへ乗る角度から外れた。熱源は横へ歪みながら戻り、穴へ向かう道筋の外側で止まった。

「下がれ、下がる理由まで口にしなければ次の者が近づく。」

医療担当が言った。

引退者は首を振った。

「まだと言う顔が一番悪い、できると言いたい足を止めろ。」

「手を見せろ。短く済ませるほど、人は危ない方へ歩く。」

「押せる。近づくな。」

「押す役には戻さない。」

「歩ける。押す役には戻すな。」

「歩けても、棒の前には戻すな。」

その言葉に、若い回収役が顔を上げた。何度も聞いてきた形の言葉だった。立てる者ほど棒の前へ戻ろうとする。ユスティティアの札は、最後まで嫌な形で人を止める。

引退者は手袋を外そうとして、医療担当に止められた。

「外すな。布ごと下げる。腕を前へ出すな。」

「中が見えない。」

「見るために剥がすな。近づくな。」

彼はそこでようやく黙った。下げられることより、見られないことの方がつらそうだった。自分の手がどこまで壊れたか、自分で見直しすることすら許されない。だが、剥がせば皮膚ごと持っていくかもしれない。ここでも、知りたいことは後回しになる。

押す役は、顔を布で覆った男と、別の引退者に変わった。若い回収役は止め役のまま。彼は文句を言わなかった。さっき足が出たことを、自分で覚えていたからだ。

穴へ向かう斜面が見え始めた時、全員の動きが少し速くなりかけた。

穴が見える。落とす先が見える。ここまで来た。あと少し。その感覚が一番危なかった。顔を布で覆った男は、熱源を見る前に全員を見た。

「急ぐな、急ぐ顔を見た者が危ない方へ走る。」

若い回収役が息を吐く。

「理解しているなら、足を先に出すな、言葉が追いつくまで待て。」

「穴が見えたら、人は押しすぎる。」

「分かってるって。」

「分かっている声が速い。息を置いて言え。」

若い男は口を閉じた。顔を布で覆った男は、穴までの道を棒で三つに分けた。山道から穴へ向かう斜面へ乗せる区間。小石を避けながら真っ直ぐ進める区間。穴の手前で最後に押し込む区間。片腕の女はそれをそのまま書き残した。

「最後までは行かない。どこで止める。」

顔を布で覆った男が言う。

「ここで止めるのか。止める位置を言え。」

「落とす段階と、進める段階は違う。今は横を空ける。」

「穴があるのに止めるのか。」

「穴があるから止める。」

若い回収役は納得できない顔をしたが、足は止まった。穴が見えた時こそ止まる。それを体で覚えさせるための間だった。

途中の小石は、どかせるものとどかせないものに分けられた。棒で届くものだけを動かす。届かない石はそのまま残し、熱源の角度を変えて避ける。手でどかすことは禁止。足で蹴ることも禁止。石一つをきれいにどかそうとして人が近づけば、ここまで押した意味がなくなる。

一つの小石を、若い回収役が棒で弾こうとした。

「弾くな。」

顔を布で覆った男が止める。

「邪魔だ。そこで力任せに押し切るな。」

「弾いた先を見る余裕がない。横へ逃がして押せ。」

「遅い。」

「速い石は戻せない。転がる先を空けろ。」

若い男は歯を食いしばり、石を弾かず、棒の腹でじりじり押した。石は思ったより重く、途中で土に噛んだ。彼は苛立ちで棒を立てそうになったが、持ち直した。時間を使う。使ってしまう。だが、その時間で石の行き先を殺した。

パヴェルは、穴の方を見ながら呟いた。

「穴を掘っただけじゃ、終わらないんだな。」

顔を布で覆った男が、聞こえたのか、熱源から目を離さずに答えた。

「だから、投棄しろと書いた。」

パヴェルは黙った。命が尽きるまで掘る。ここに投棄しろ。あの文は、穴を掘った者の終わりではなかった。仕事の引き継ぎだった。掘った者ができなかった最後の運搬を、残った者が棒で続けている。死んだ者の決めた手順は、まだ人の体を動かしていた。

熱源は、ようやく穴へ向かう最後の斜面の手前まで来た。

そこまでで、棒は一本使えなくなった。引退者の一人は押す役から外れた。若い回収役は手と足の両方を出しかけ、自分で止めた。顔を布で覆った男の呼吸は浅く、もう軽口を返す速度が落ちている。片腕の女の書き残し板には、距離ではなく押した回数と逸れた向きだけが並んでいる。医療担当は下げた者の手をまだ見ていない。見られないまま、布ごと固定している。パヴェルとヴィクトリアは前に出られず、ただ見ていた。

最後の斜面には、小さな石が一つ残っていた。

手では届かない。棒で動かせるかもしれないが、下手に触れば穴の縁へ転がり、熱源を横へ逃がす。石を避けるように押せば、熱源は穴へ向かう直線から外れる。石を越えさせれば、そこで跳ねるかもしれない。跳ねれば穴の手前で止まる。止まったものをもう一度押すには、人が近づかなければならない。

若い回収役が、息を吸った。

「ここから、どうする。順に言え。」

顔を布で覆った男は、穴を見た。熱源を見た。棒の長さを見た。人の足場を見た。

「ここから先は、押すんじゃない。近づくな。」

「じゃあ何だよ。どこを空ける。」

「落とすために押す。」

その言葉で、全員が一度止まった。進める段階は終わった。ここからは、最後の一押しの角度を作る段階だった。勝手に転がすのではない。進ませるのでもない。落ちる形を作る。失敗すれば、戻せない。

片腕の女は、書き残し板の最後に書いた。

最終斜面手前。

棒一本使用不能。

押し役一名下げ。

最後の石、未片付け。

以後、落下角度調整。

そして筆を止めた。

穴の奥は、まだ見えなかった。

最後の斜面の手前で、全員の足が止まった。

穴は見えている。見えているから危ない。見えない奥底へ落とすための穴が、目の前に口を開けている。縁は自然に割れた岩ではなく、削られ、崩され、手で諦めずに広げられた形をしていた。そこへ向かう斜面は短い。短いのに、熱源をそこまで運んだ道のどこよりも長く見えた。途中に残った小さな石が、斜面の中央から少し外れた位置に噛んでいる。手でどかせば一呼吸で済む大きさだった。足で蹴れば転がる大きさだった。だから誰も近づけなかった。小さいものほど、手を呼ぶ。

若い回収役が棒を持ち替えた。

「どかすなら今だろ。誰が押す。」

顔を布で覆った男は、熱源ではなく、その石と穴の縁を見ていた。

「どかさない。」

「乗ったら跳ねる。そこを先に言え。」

「弾けばどこへ行くか分からない。行き先を見ろ。」

「棒で押せば動くだろ。」

「押した石の行き先まで見られない。石をどこへ逃がす。」

「じゃあどうすんだよ。」

「石を消すんじゃない。石を使わせない角度にする。」

若い回収役は顔をしかめた。怒りか焦りか分からない。けれど、足は出なかった。そこだけは残っている。彼はもう、見えるものに手を出せば済む場所ではないと分かっていた。分かっているから苛立つ。分かっていない方が、どれほど楽だったか。

片腕の女は、書き残し板を持ったまま、熱源の位置を直接見ないようにした。外装の歪み、接地している面、穴の縁、石の位置、押せる棒の長さ、足を置ける場所。書いている余裕はほとんどない。ここで必要なのは書き残しではなく、失敗した時にどちらへ逃げるかを見ることだった。彼女は板を胸に引き寄せ、筆を持つ手を止めた。

「右へ寄せすぎると縁を外す。左を見ろ。」

パヴェルの声が、後ろから低く届いた。

全員が振り向いたわけではない。振り向くほど余裕はない。ただ、顔を布で覆った男の目だけが少し動いた。

パヴェルは、ヴィクトリアに布越しに袖を掴まれていた。彼は一歩前へ出ようとしていたのだろう。体は出ていない。けれど、ヴィクトリアの手がその前に服を捕まえている。彼女の顔色はまだ悪く、長く立っているだけで息が浅くなる。それでも、彼が前へ出る気配だけは見逃さなかった。

「真後ろじゃない、右を殺してから押せ、石を見るな。穴の縁を見ろ。」

それだけ言うと、パヴェルは息を整えるために口を閉じた。説明は続かなかった。続ける体がなかった。顔を布で覆った男は短く頷いた。礼は言わない。礼を言う時間も、返事を受け取る時間もない。

残った棒は、使えると言うには頼りなかった。一本は先が割れている。一本は短く、熱源の後ろへ届かせるには人が近づきすぎる。長い一本はしなりが強く、押す力が棒の腹で逃げる。承で傷んだ棒は、石の上に置かれたまま使えない。道具が残っているように見えて、実際に使える角度は限られていた。

顔を布で覆った男は、長い棒を引退者へ渡した。

「押すのはそっちだ。」

引退者は彼の顔を見た。

「あなたは押すな。」

「角度を見る。」

「まだ押せるだろ。」

「押せても、一人に預けるな。」

医療担当が何か言う前に、彼は自分でそう言った。自分の呼吸が浅くなり、指先の返事が遅れていることを隠さなかった。ここで隠せば、最後の押しで熱源の横に自分が落ちる。彼は棒から手を離し、代わりに穴の縁を見た。

若い回収役が一歩出る。

「それなら、俺が押す。」

「押したい奴は、押すな。」

顔を布で覆った男の声は即座だった。

若い回収役の顎が跳ねた。

「今それ言うか。手を止めるな。」

「今だから言う。」

「じゃあ何をすればいい。役を言え。」

「止めるな。逃げる面を潰せ。」

「意味分かんねぇよ。分かる言葉で言え。」

「熱源を止めるな、止めようとすると体が入る。横へ逃げる面だけ潰せ、逃げたいところを嫌がらせる。押し込むな。受け止めるな。」

若い回収役は、自分の棒を見た。押すために持っていた棒ではない。止めるために持っていた棒でもない。逃げ道を嫌がらせるための棒。力を入れすぎれば折れる。弱すぎれば意味がない。受け止めるのではなく、進みたい面を少しだけ殺す。彼は息を吐いた。

「理解できないならその場で止まれ。手を出すな。」

「分かってる手か。」

「今は、棒だけ見てる。短く済ませるほど、人は危ない方へ歩く。」

「ならいい。続けろ。」

一度目の角度調整は、熱源を右へ寄せすぎた。

引退者の棒が後ろの歪んだ角へ入り、熱源は小さく転がった。最後の石を避ける方向ではある。だが、穴の縁から逃げる方向でもあった。顔を布で覆った男が声を出すより早く、片腕の女が短く言った。

「右、深い。」

それだけで足りた。引退者は押すのをやめる。だが、熱源は少しだけ惰性で動く。若い回収役の棒が横から入りかけた。止める角度だった。彼は途中で握りを緩め、棒の腹を地面へ寝かせる。熱源は棒を壁として受け止めるのではなく、嫌な段差として踏んだ。進みたい右側の面だけが死ぬ。止まらない。止めない。斜めのまま、中心へ少し戻った。

「押し直すな。」

医療担当が言った。

顔を布で覆った男の肩が動いていた。自分で押し直そうとしたのだろう。だが、彼の呼吸は浅く、布の下で喉がわずかに上下している。医療担当の目はそこだけを見ていた。

「見ろ、押すな。棒の先だけ言え。」

彼は黙って頷いた。悔しそうではなかった。悔しがる体力も残っていないのかもしれない。ただ、自分の役を落とした。押す役ではなく、角度を見る役へ。

二度目の調整で、熱源は最後の石をかすめた。

外装の欠けた角が石の横を擦り、鈍い音を立てる。乗り上げてはいない。だが、擦れたことで熱源の向きがわずかに変わった。穴の縁へ向かう線から、ほんの少しだけ外へ開く。若い回収役の棒が入った。今度は止めなかった。強く当てず、逃げたい面の前へ一瞬だけ置く。棒が弾かれた。衝撃が手元へ返り、彼の指が反射で握り込もうとする。

「握るな。」

顔を布で覆った男の声が鋭く飛ぶ。

若い回収役は、握らなかった。握れば熱が伝わる。握れば棒を戻そうとする。戻そうとすれば体が入る。彼は棒を捨てた。棒は地面に落ち、先端が石に当たって跳ねたが、熱源には触れなかった。

「捨てる。短く済ませるほど、人は危ない方へ歩く。」

彼は自分で言った。誰に命じられたのでもなく、自分で決めた言葉だった。

片腕の女は、その一語を書き残そうとして、やめた。今は板を見る時間ではない。だが、彼女の中には残った。若い回収役が、まだ使えると言わずに棒を捨てた。持ち直さなかった。戻そうとしなかった。

熱源は穴の縁へ乗った。

半分が穴側へ傾き、半分が山側に残っている。最悪に近い位置だった。落ちそうで、落ちない。押せば落ちるかもしれない。押し方を誤れば、穴の入口で噛んで止まる。止まれば、誰も近づけない場所に残る。これまでよりもっと悪い。穴の縁に置かれたまま熱を出し続ける金属の塊など、誰が片付けできるのか。

全員が一瞬止まった。

風も止まったように感じた。山の虫の音も、遠くの枝の揺れも、全部が穴の縁へ集まったようだった。熱源は静かだった。静かに傾いて、静かに止まっていた。

「それなら、強く押すな。近づくな。」

顔を布で覆った男が言う。

引退者は棒を構えたまま、頷いた。

「低すぎると噛む。」

片腕の女が、書き残し板を持つ手を下げて穴の縁を見た。

「高すぎると滑る。低い方を空けろ。」

医療担当が、押し役の手を見ている。

「斜めは横へ逃げる。」

パヴェルが言った。

その先を、片腕の女が取った。

「上ではない、下でもない。近づくな。割れた角の真ん中。近づくな。」

声は小さかったが、全員に届いた。彼女は書き残しではなく、穴の縁を見ていた。最後の角度だけを言っている。余計な説明はない。今、必要なのはそこだけだった。

最後の押し役は、引退者と若い回収役になった。

顔を布で覆った男は角度を見る。片腕の女は縁を見る。医療担当は二人の手を見る。パヴェルは声を出しかけたが、ヴィクトリアの手が彼の袖を掴んだ。強くない。けれど十分だった。彼は口を閉じた。今、彼が言えば、誰かの手が揺れる。

若い回収役は、正面には入らない。熱源の逃げる側へ棒を入れるため、新しい棒を取った。さっき捨てた棒は見ない。拾わない。拾えば、また使えるかもしれないと思う。彼は別の棒を持ち、穴の縁から少し外れた位置へ足を置いた。足場は悪い。だが、そこしかない。

「止めるな。」

顔を布で覆った男が言った。

「嫌がらせる。どこへ逃がす。」

若い回収役が返す。

「受けるな。」

「逃げる面だけ潰す。」

「握るな。指を開け。」

「捨てる。」

「よし。短く済ませるほど、人は危ない方へ歩く。」

引退者が、割れた角の真ん中へ棒を合わせた。低くない。高くない。押すというより、傾いているものの最後の支えを外すような角度だった。彼は息を吸わず、短く吐いて、棒へ体重を乗せた。

熱源は動いた。

落ちる、と全員が思った。

落ちなかった。

穴の縁で一度、止まった。内側の岩に噛んだのか、外装の歪みが引っかかったのか、重心が半分だけ残ったのか分からない。棒がしなり、引退者の手が遅れ、若い回収役の棒が弾かれかける。顔を布で覆った男が一歩出た。医療担当が止めるために手を伸ばす。パヴェルの喉から声が出かける。ヴィクトリアの指が彼の袖に食い込む。

誰かが手を出せば終わる。

若い回収役は、棒を捨てた。

支えようとする棒を、支えないために捨てた。熱源の横へ入っていた棒が消える。逃げる面を殺していた支えが消えたことで、熱源は一瞬だけ自由になった。自由になった重さが、穴側へ落ちる。止めるものがなくなったから、落ちた。支えない判断が、最後の押しになった。

金属が岩へ擦れた。

鋭い音ではない。重く、嫌な音だった。穴の内壁へ一度当たり、火花ではなく鈍い響きだけを残して、熱源は奥へ消えた。誰も覗き込まない。誰も穴へ近づかない。音だけを聞く。金属が何度か壁に触れる。遠くなる。さらに遠くなる。すぐには底へ着かない。全員が息を止めていた。

かなり遅れて、奥底で鈍い音が返った。

承で小石を落とした時よりも重い。岩の腹を叩くような、戻らない音だった。人が拾える場所ではない。棒で届く場所でもない。縄で引ける場所でもない。暖を取る者の手にも、村の荷にも、山道にも戻らない音だった。

若い回収役は、自分が捨てた棒を見なかった。

棒は足元から少し離れた場所にある。まだ使えるかもしれない。そう考えた瞬間に、拾いに行きたくなる。彼は見ないように、穴の縁でもなく、地面の少し手前を見た。顔を布で覆った男も、穴を覗かなかった。片腕の女は、ようやく書き残し板へ筆を戻した。

「投棄、実行。近づくな。」

それだけを書いた。

完了とは書かなかった。まだ見直しの時間がいる。穴の縁が崩れるかもしれない。途中で引っかかった可能性を完全には消せない。熱源は見えない。見えないから終わったとはまだ言わない。ただ、投棄は実行された。そこまでは事実だった。

パヴェルは、穴の奥から返った鈍い音を聞いたまま動かなかった。ヴィクトリアも彼の袖を掴んだまま、息を浅くしていた。誰も喜ばなかった。誰も声を上げなかった。山は静かで、熱源のあった場所だけが、まだ少し空気を揺らしているように見えた。

若い回収役は、ようやく小さく息を吐いた。

「落ちた。」

顔を布で覆った男は答えなかった。答えの代わりに、足元を見ろというように棒のない手を下げた。若い回収役は頷いた。落ちた後こそ、足元を見る。拾わない。覗かない。戻そうとしない。

片腕の女は、書き残し板を閉じなかった。

穴の奥は見えない。

音は戻らない。

そして、まだ誰も「終わった」とは言わなかった。

穴の奥から返った鈍い音のあと、山はしばらく何も言わなかった。

若い回収役は、息を止めたまま穴の縁を見ていた。見ていたと言っても、奥を覗いたわけではない。縁の石、削られた土、落下の時に少し崩れた黒い線、その周囲だけを見ていた。熱源はもう見えない。見えないから終わったと言いたくなる。見えないから確かめたくなる。確かめたいという感覚が、足の裏からゆっくり上がってくる。

「見るな。」

顔を布で覆った男が言った。

若い回収役は肩を震わせた。叱られたからではない。自分が覗こうとしていたことに、その声で気づいたからだった。

「見てない。」

「見る顔だった。」

「もう、それ聞き飽きた。」

「使えるから捨てられなかった。近づくな。」

返しは弱かった。顔を布で覆った男の呼吸は浅く、言葉の終わりが布の内側で少し引っかかっていた。それでも彼は、穴ではなく全員の足を見ている。穴の奥より、穴へ寄りたがる人間の方が危ない。熱源を落としたあとでも、彼の見る場所は変わらなかった。

片腕の女は書き残し板を開き直した。投棄、実行。その行の下へ、すぐに完了とは書かなかった。穴の中は見ない。見ないまま、穴の外だけを見直しする。彼女は見直し項目を声に出さず、短い指の動きで周囲へ割った。

熱源が通った跡。

穴の縁。

山道の下側。

使用した棒。

外布。

足跡。

拾おうとする手。

引退者の一人が、熱源の通った跡を棒で示した。残留している破片は見えない。黒い土は削れているが、熱源そのものの欠けが残ったようには見えない。山道の下側へも転がっていない。穴の縁には、金属が擦れた黒い跡だけがある。そこへ近づけば、もっと分かるかもしれない。だが、それ以上を知っても、もう何かを取り戻せるわけではない。

「石を落とすか。」

若い回収役が言った。言ったあと、すぐ自分で嫌な顔をした。

顔を布で覆った男は首を横へ振った。

「落とさない。縁まで送る。」

「途中で引っかかってたら。そこで止める。」

「今の人数で、引っかかったものをどうする。」

若い回収役は答えられなかった。

「火を入れるのもなし、縄を垂らすのもなし、枝で探るのもなし。できない見直しは見直しじゃない。近づく理由を作るな。」

片腕の女は、その言葉を書き残さなかった。今は書き残しより、決めた手順として全員が聞いたことの方が重要だった。穴の中を見ようとする方法はいくつもある。どれも、見直しという顔をした接近だった。見直ししても直せないなら、見直しはただ人を穴へ近づけるだけになる。

若い回収役は、自分が捨てた棒の方を見かけた。視線が途中で止まる。棒は斜面の石の上に転がっていた。先端は熱源の横を嫌がらせた時に黒くなり、まだ使えるようにも見える。使えそうなものほど、人を呼ぶ。彼は自分で視線を外した。

顔を布で覆った男が、それを見ていた。

「使えそうなものほど置け。持つ物を減らせ。」

「納得した顔でいるなら、余計に前へ出るな、周りがあなたに釣られる。」

「分かっている手か。」

「もう手は出してない。」

「それならいい。」

棒は集めなかった。集めるためには近づく必要がある。近づけば、使えるかどうかを確かめたくなる。それぞれの棒の近くへ黒札を置いた。触るな、拾うな、持ち帰るな。外布は使わない。外布は残り少なく、棒を覆うために使えば、人へ使えなくなる。若い回収役は石をひとつ動かし、棒の一部が見えにくくなるようにした。隠すのではない。拾いたくなる形を少し壊すだけだった。

医療担当は、押し役だった引退者の手を見た。正確には、手袋の外側を見た。手袋を剥がさない。中がどうなっているか、全員が見たい。本人も見たい。だが、見るために剥がせば、皮膚ごと持っていくかもしれない。

「手袋ごと固定する。短く済ませるほど、人は危ない方へ歩く。」

医療担当が言った。

引退者は頷いたが、手を見下ろしたままだった。

「中が分からない。」

「安全圏で見る。」

「安全圏まで持つか。持てないならそこで落とせ。」

「持たせる。この場所では見ない。目を下げろ。」

彼はそれ以上言わなかった。見ないことは、時に治療の一部になる。ここでは、知ることより、持ち帰らないことと、悪化させないことが先だった。

顔を布で覆った男も下げられた。彼はまだ立っている。だが、呼吸が浅く、指先の顔つきも遅れている。本人が何かを言う前に、医療担当が布を指した。

「下がる。短く済ませるほど、人は危ない方へ歩く。」

「それなら、まだと言う顔が一番悪い、できると言いたい足を止めろ。」

「まだ、で押し役を一人失った。もう使わない。」

彼は抵抗しなかった。抵抗する声を出す方が、いまは余計だった。若い回収役は、それを見て口を開きかけたが、何も言わなかった。褒める言葉も、慰める言葉も、ここでは手を止める。片腕の女は、代わりに書き残した。

顔を布で覆った男、呼吸浅。指先遅延。下げ。

引退者、手袋固定。押し役復帰なし。

若い回収役、接近なし。棒放棄。穴見直しなし。

若い回収役は、その最後の行を見て眉を寄せた。

「それ書くのか。なら横に立つな。」

「書く。」

「ただ我慢しただけだ。」

「だから書く。」

彼は返さなかった。接近しなかった。棒を拾わなかった。穴を覗かなかった。どれも、何もしなかった書き残しに見える。けれど、この場では何もしないことが一番難しかった。

パヴェルは、穴の方を見ていた。

奥は見えない。底も見えない。熱源も見えない。見えないから、余計に何かを言いたくなる。穴を掘った誰かへ。落とした者たちへ。死んだ者たちへ。終わったものへ。終わらなかったものへ。だが、どの言葉も大きすぎた。大きい言葉は、現場では邪魔になる。

ヴィクトリアが布越しに彼の服を引いた。

「行く。穴の前で足を止めるな。」

彼は振り返った。

「それなら、それなら、まだと言う顔が一番悪い、できると言いたい足を止めろ。」

「まだ、じゃない。」

「分かっているなら、その表情で前へ出るな、止める側が迷う。」

「分かってる足じゃない。」

パヴェルは苦く笑いかけたが、表情になる前に消えた。彼は穴へ足を向けてはいなかった。だが、そこに立ち尽くしていた。立ち尽くすことも、ここでは接近の一種になる。ヴィクトリアの手は強くない。けれど、彼を動かすには十分だった。彼は穴を覗かず、石の文字の方へも近づかず、半歩下がった。

石には、白い文字が残っていた。

命が尽きるまでここを掘る、ここに投棄しろ。

雨で滲み、線は震え、ところどころ薄れている。それでも読める。若い回収役は、その前でまた足を止めた。何かを書き足したかったのかもしれない。完了。落とした。終わった。あるいは、ただ名前のない誰かへ返事をしたかったのかもしれない。彼の手が、腰の小さな白い欠片を探しかけた。

片腕の女が首を横へ振った。

「足さない。短く済ませるほど、人は危ない方へ歩く。」

「完了くらい。近づくな。」

「そのために近づく、書くものを探す、時間を使う。あの文はもう足りている。戻るぞ。」

若い回収役は石を睨んだ。

「命が尽きるまでって書いてあるんだぞ。」

「それなら、投棄しろと書いた。」

顔を布で覆った男の声だった。浅い呼吸の合間に、必要な分だけ出した声だった。

「指示は果たした。飾るな。」

若い回収役は、白い欠片から手を離した。怒りは残っている。悔しさも残っている。だが、石へは近づかなかった。穴を掘った者の言葉を、残った者の感情で覆わない。そこまでが片付けだった。

片腕の女は、書き残し板に事実だけを並べた。

熱源、穴へ投棄。

落下音、深部で見直し。

穴外への残留、現時点で見直しなし。

山道下側への逸走なし。

生活圏側への転落なし。

使用棒、放棄。

縄、使用なし。

袋、使用なし。

外布、運搬使用なし。

人工穴、使用。

石の書き置き、見直し。

書き足しなし。

その下に、少し間を空けて書いた。

投棄、完了。

安全化とは書かない。浄化とも書かない。解決とも書かない。山が安全になったわけではない。穴の中の熱源が消えたわけでもない。ただ、人が拾えない場所、人が暖を取れない場所、人が金属として持ち帰れない場所へ落とした。その投棄だけが完了した。

「終わった場所にいつまでも突っ立ってんじゃねえ。…戻るぞ。穴の前に余韻を残せば、また足が止まる。」

顔を布で覆った男が言った。

それが引き上げの合図になった。祈らない。語らない。黙祷もしない。穴の前で余韻を持てば、足が止まる。足が止まれば、視線が穴へ戻る。視線が戻れば、確かめたくなる。だから下がる。

若い回収役は、一度も穴を見ずに下がった。捨てた棒の方も見なかった。見れば拾いたくなる。拾えば、また何かを戻したくなる。引退者は手袋を剥がさず、医療担当に従って下がる。片腕の女は書き残し板を閉じる前に、石の文字をもう一度だけ写した。整えない。読めた通りに、震えた線を文字の形だけで残す。それが、穴を掘った者へ向けてできる唯一の片付けだった。

帰り道は静かだった。

熱源はもうない。だが、全員が軽くなったわけではない。押し役の手は使えない。顔を布で覆った男の呼吸は浅い。若い回収役は、気を抜けば膝が落ちそうになっている。片腕の女は書き残し板を胸に抱え、医療担当は山を下りるまで誰にも手袋を剥がさせなかった。パヴェルとヴィクトリアは遅い。二人とも、何かを支えているわけではないのに、互いの歩幅だけを見直ししながら下りていた。

途中で、若い回収役が小さく言った。

「おい、本当に終わったのかよ、アルフォンソも、幹部連中も全員あっちの煙に消えてユスティティアなんてとっくにバラバラじゃねえかよ…!これで本当に全部終わったって言えるのかよ!」

顔を布で覆った男は、少し遅れて答えた。

「『投棄』は終わった、あの死神の破片を、これ以上人が触れない底へ沈めるところまでは、俺たちの手で完了させた。それだけだ。」

「じゃあ、残された俺たちはどうなるんだよ?奪われた仲間は、俺たちが失ったものは全部どこへ行くんだよ!」

「全部なんて、最初から俺たちは持ってねえだろ。持たざる者が、これ以上何を失うって怯える必要がある。」

若い回収役は、それを聞いて黙った。納得ではない。だが、納得できる終わりを求めるには、あまりに多くのものが残りすぎていた。山も、穴も、石の文字も、使えなくなった棒も、手袋の中の手も、戻らない者たちも、全部残る。その全部を消す力は、最初から誰にもない。

パヴェルも何も言わなかった。

彼は、穴を掘った誰かのことを考えていた。名前はない。署名もない。顔も分からない。どこで倒れたのかも、最後まで掘り切った時に何を思ったのかも分からない。分からないまま、穴だけが使われた。使われるために掘られたのだから、それで足りる。そう思おうとしても、胸の奥に重いものは残った。けれど、それを言葉へ変えるのは違う気がした。

ヴィクトリアが、彼の服を軽く引いた。

「遅い。」

「足が遅いんだよ。短く済ませるほど、人は危ない方へ歩く。」

「知ってる。近づくな。」

「なら言うな。」

「止まるから。足元を空けろ。」

彼は少しだけ息を吐いた。笑いにはならなかったが、呼吸にはなった。彼女もそれ以上言わない。慰めない。励まさない。歩きが止まりそうになった時だけ、布越しに服を引く。それだけで十分だった。

山を下り、戻り場へ着いた時、片腕の女は書き残しを整理した。

リア熱源、投棄完了。

ユスティティア、作戦機能なし。

現場人員、残存。

石の書き置き、書き残し。

追加文なし。

筆が最後の行の前で止まった。

第六のころに聞いた、残りは数件という言葉が、ここへ来てようやく形を失った。数えられるものは終わる。終わるものは、いつか最後の一つになる。最後の一つが終われば、もう数えなくていい。そういう当たり前のことが、あまりに遠くまで回り込んで、ようやくここへ戻ってきた。

片腕の女は、最後の一行を書いた。

残件、なし。

誰も声を出さなかった。

若い回収役は、その文字を見て口を開きかけ、閉じた。顔を布で覆った男は目を伏せただけだった。医療担当は押し役の手袋をまだ剥がさない。パヴェルは書き残し板を見て、それからヴィクトリアの手を見た。ヴィクトリアは、何も言わずに椅子へ体を預けている。疲れ切っているのに、彼がまた立ち尽くしたら服を引くつもりでいる顔だった。

片腕の女は、書き残し板を閉じた。

穴の石には、何も書き足されなかった。


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