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第八話「臥薪嘗胆」

 一九七四年の春、アメリカ合衆国という巨大な猛禽類によって突きつけられた冷酷な最後通牒は、極東の島国から『案山子』と『火鉢』と『虫籠』いう三つの野心を奪い去った。しかし、ワシントンの戦略家たちが一つだけ計算違いをしていたとすれば、それはこの島国の底に沈殿する「情念」の粘り強さを見誤っていたことである。


 歴史を振り返れば、この国は黒船の砲艦外交に屈した屈辱を明治の富国強兵へと変換し、太平洋戦争の焦土を高度経済成長のエネルギーへと転化させてきた。外圧による敗北は、彼らにとって常に「臥薪嘗胆」の薪に火をくべるための儀式に過ぎない。


 計画を無惨に解体されたあの夜から、霞が関の奥深く、そして永田町の中枢には、冷たく青い復讐の炎が静かに、しかし確実に熾り続けていた。彼らはアメリカの圧倒的な力の前に一度は膝を屈したが、心までは売らなかったのである。



 その怨念とも呼べる執念は、その後の日本の歩みを、我々が知る史実とは少しばかり異なる、しかし極めて強靭なものへと変容させていった。政府中枢は、軽薄な理想主義や自己批判に陥ることを徹底的に拒絶した。冷戦の終結後も、彼らは決して過度なリベラリズムの甘い幻想に酔うことはなく、冷徹な現実主義(リアリズム)の防波堤を築き続けた。


 結果として、この国の経済と社会は恐るべき安定を得ることになる。バブルの崩壊という一時的な失速はあったものの、その後の致命的な失政は回避された。円が暴騰して輸出産業が壊滅するような悪夢も、株価が暴落して国家の血が干上がるような底なしの絶望も、この世界の日本には訪れなかった。


 豊かな中間層は維持され、東京の摩天楼は威容を誇り、二十一世紀が四分の一を過ぎても日本は依然として世界経済の覇権の一角を静かに、しかし暴力的なまでの資金力で占め続けている。それはアメリカに二度と首輪を引かせないという、一九七四年の屈辱を共有する愛国者たちが、経済という別の戦場で構築した非対称の防衛線であった。



 だが、その輝かしい繁栄の足元、高度に情報化された社会の影の領域に、かつて彼らが葬り去ったはずの「狂気」が、ゆっくりと漏れ出していたことに気づく者は少なかった。


 すべての発端は、計画解体の日に、書類の焼却を命じられた入省三年目の若手官僚が、好奇心からコートのポケットに忍ばせた一冊の資料である。


 神保博士と高取教授が自筆で修正を加えた「第四・生体負荷推移ダイアグラム」の最終稿。人体がどの角度で、どれだけの内圧に耐え得るかを示す、狂気の設計図の切れ端。


 若かった彼も、平成の世を迎える頃には初老の域に達し、天下り先の閑職で退屈な日々を送っていた。彼はある日、書斎の整理中に古いファイルの間に挟まっていたその変色した冊子を見つけた。そして、すでに時効だと高を括ったのか、あるいは初期のインターネットという匿名空間が持つ独特の魔力に当てられたのか、その紙片をスキャナーで読み込み、当時勃興しつつあったアングラな電子掲示板の片隅にアップロードしてしまったのである。


 それが、パンドラの箱の鍵を開ける行為だとは夢にも思わずに。




 冷戦が終結し、平成の世になると、「ラジオ体操第四」の存在はインターネットの黎明期とともに都市伝説として若者たちの間で語られるようになった。しかし、その語られ方は大きく歪められていた。


 ある者は「あまりにも動きがアクロバティックで、バック転や宙返りが入っているため放送禁止になった」とまことしやかに語り、またある者は「戦時中の特攻隊の出撃儀式だった」と的外れな尾鰭をつけた。


 そんな中、ある大手飲料メーカーがエイプリルフールの企画として、CGを駆使した超絶技巧のパロディ動画を制作・公開した。スーツ姿のサラリーマンたちが、あの軽快なピアノのイントロに合わせて、突然人間離れした跳躍や関節のあり得ない屈曲を披露する秀逸なコメディである。


 世間はそれを笑い、消費し、エンターテインメントの枠組みの中に回収していった。ネット上には「第四踊ってみた」という動画が溢れ、誰もが平和な時代の冗談としてそれを楽しんだ。


 だが、そのパロディ動画をモニター越しに見つめながら、真冬の暖房の効いた部屋で冷や汗を流している者たちがいた。


 かつて『虫籠』計画に下働きとして関わり、その後、民間のスポーツ科学研究所やフィットネス業界、あるいは大学の生体力学のポストへと散っていった、かつての研究者たちである。


 彼らが戦慄したのは、動画が精巧だったからではない。そのパロディ動画の中で描かれた「理解不能な奇怪なポーズ」の幾つかが、かつて神保博士たちが血反吐を吐きながら設計した「求心性生体防衛姿勢」――つまりあの第一節から第十二節までの等尺性収縮の力学――と、不気味なほど酷似していたからである。


 単なる偶然で、あのような生体力学的な「関節のロック」と「拮抗筋の収縮」を表現できるはずがない。彼らは確信した。あの動画を監修した人間、あるいはCGのモーションを作った人間は、かつての流出資料(ダイアグラム)の断片を間違いなく目にしている。そして、その理論の恐ろしさを理解できないまま、毒気を抜いたキャッチーな形で世に放ったのだ、と。


 インターネットという仮想空間は、情報の質量を均一化してしまう。真実も嘘も、国家の極秘理論も三流のジョークも、すべてが同列のピクセルとしてディスプレイに表示される。だが、本物の毒は、どれほど水で薄められようとも、致死性の構造を保ち続けているものだ。


 画面の中で滑稽に手足を曲げるCGのキャラクターの背後に、彼らは、あの赤坂の料亭の決定によって永遠に封印されたはずの、血塗られた神谷空尉の姿と、鼓膜を突き破るような服部正信の不協和音の幻聴を聞いていた。


 そして、失われた身体知が静かに現代へ侵食し始めている現象は、日本のネット掲示板の片隅にとどまらなかった。それは、最も合理的な科学の最前線――すなわち現代の宇宙開発の現場において、奇妙な形での「再発見」という形で立ち現れたのである。




 現代の国際宇宙ステーション(ISS)。地上四百キロの上空を秒速約八キロで周回するこの巨大な実験施設において、宇宙飛行士たちは人類の最先端の叡智に守られて生活している。 


 しかし、彼らの生活は決して優雅なものではない。無重力という環境は、人間の肉体にとって依然として緩やかな死の空間である。骨からはカルシウムが溶け出し、筋肉は萎縮し、心血管系は衰える。これを防ぐため、宇宙飛行士たちは一日に二時間半以上の過酷なトレーニングを義務付けられている。


 彼らが使用しているのは、T2トレッドミル(ランニングマシーン)やARED(先進抵抗運動器具)といった、巨大な油圧・真空シリンダー式のトレーニングマシンである。これらは数億円のコストと莫大な重量をかけて打ち上げられた、極めて精巧な機械だ。


 しかし、宇宙医学の専門家たちは、常に最悪のシナリオに怯えている。


 もし、それらの巨大な機材が故障したらどうなるのか。あるいは、現在計画されている長期の火星探査船のような、極限の閉鎖環境において致命的な電力喪失が起きたとき、人類は何をもって肉体を維持するのか。


 地球と火星の往復には、最短でも三年近くの時間を要する。その途中でAREDの真空シリンダーが一つでも破損すれば、飛行士たちは地球に帰還した際、自らの体重を支えることすらできず、骨はガラス細工のように砕け散るだろう。機械に依存した生体維持には、常に破滅的なリスクが伴うのだ。


 皮肉にも、NASA(アメリカ航空宇宙局)の生体適応研究チームの一部が近年、この問題の解決策として注目しているアプローチがある。


 それは、「高強度等尺性収縮と特定の呼吸パターンの組み合わせによる、器具を用いない骨代謝維持プログラム」である。


 外部の重力やマシンの反発力に頼るのではなく、自らの主動筋と拮抗筋を全力でぶつけ合い、生み出された内圧によって骨芽細胞に物理的な刺激を与え、脱灰を防ぐ。さらに、特殊な呼吸法によって胸腔内圧を操作し、血流の偏りを防ぐ。……それは、およそ半世紀前に、日本の薄暗い地下室で神保修三と滝本巌がパイロットたちに強要した、あの狂気のメソッドと本質的に全く同じアプローチ方法であった。



 二〇二〇年代初頭、テキサス州ヒューストンで開催された航空宇宙医学の国際カンファレンスでのことだ。


 NASAの気鋭の研究者が、最新のバイオメカニクスとスーパーコンピューターのシミュレーションを駆使して導き出したという「次世代型・無器具アイソメトリック空間適応プロトコル」を誇らしげに発表した。スクリーンには、複雑な筋電図の波形と、関節の固定角度を示す三次元モデルが映し出されていた。


 その発表を、会場の片隅で静かに聞いていた一人の日本人研究者がいた。


 彼はJAXA(宇宙航空研究開発機構)から派遣された生体力学の専門家であったが、同時に、かつての『案山子』『虫籠』計画に携わった技術者を祖父に持つ、因縁の血脈の男であった。彼はスクリーンに映し出された最新のシミュレーション画像を見つめながら、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。


 最新鋭のスパコンが何ヶ月もかけて弾き出したというその究極の身体操作のデータは、彼が祖父の遺品の中から見つけ出し、密かに暗記していたあの「赤本」の断片――郵計・特資七〇四号の運動図解マニュアルの記述と、恐ろしいほどの精度で一致していたのである。


(アメリカ人は、ようやくこの地点に辿り着いたのか)


 彼は、歓声を上げる他国の研究者たちを眺めながら、非公式な場で同僚にこう漏らしたという。


「彼らが最新のバイオメカニクスを駆使して到達した極限の自重トレーニング理論の基礎は、驚くべきことに、半世紀前の我が国の古い報告書の中に、すでに完成された形で記述されていたのです」


 それは誇りであると同時に、戦慄でもあった。


 アメリカが数千万ドルの研究費とスーパーコンピューターを使ってようやく導き出した「無重力下での最適解」を、半世紀前の日本は、元軍医と体育教師と古武術の達人と狂った音楽家の頭脳だけで、すでに弾き出していたのだ。しかもそれは、単なる理論ではなく、実際に生身の人間を極限まで痛めつけることで実証された、血肉の伴った実証済みのデータであった。


 一九七四年にアメリカの圧力によって理不尽に踏み潰された日本の極秘計画。しかし、その計画が到達していた技術的、生理学的特異点の高さは、今や半世紀の時を超えて、皮肉にもアメリカ自身の研究によって証明されようとしている。


 臥薪嘗胆の薪は、決して湿ってはいなかった。


 政治家たちが国を守るために耐え忍んだ歳月の中で、失われたはずの「マル四」の影は、インターネットのミームという奇妙な形で民間を侵食し、同時に宇宙開発の最前線において「究極の生体維持プログラム」として再び召喚されようとしている。


 あの鉛のトランクに封印された服部正信の狂気の音源は、未だに防衛省の地下深く、あるいはどこかの誰かの保管庫の奥底で、静かに再生の時を待っているのだろう。


 人類が本当に地球の重力を捨て、火星という遠い虚無を目指す時、巨大な機械に頼ることを諦めた彼らは、否応なく自らの肉体を内側から支配するあの「狂気の体操」に頼らざるを得なくなる日が来るのかもしれない。


 その時、宇宙船のスピーカーから流れるのは、最新の電子音だろうか。それとも、半世紀前に録音された、あのピタゴラス音律の不協和音なのだろうか。




次話につづく



最後までお付き合いいただき感謝します。

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「南山共和国建国史シリーズ」

https://ncode.syosetu.com/s0124k/


ご興味がある方はご一読くださいませ。


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