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第七話「鷲の目と鉛のトランク」

 歴史というものは、時に無慈悲なまでに喜劇的タイミングで進行する。あるものには悲劇であるかもしれないが。



 地下の密室で人間の肉体が未知の気圧と音波によって内部から破壊され、国家の極秘計画がその狂気の頂点に達しようとしていたまさにその頃、地上の世界では全く別の次元の、しかしはるかに巨大な暴力が世界を根底から揺さぶっていた。


 一九七三年(昭和四十八年)秋、第四次中東戦争の勃発である。



 遠い砂漠の殺戮は、瞬く間に「石油」という血液の供給停止という形で、極東の島国の経済の首根っこを激しく締め上げた。第一次オイルショックの直撃である。狂乱物価とトイレットペーパーの買い占めに象徴されるパニックが日本列島を覆い尽くし、高度経済成長という名の輝かしい祭りは、一夜にして終わりを告げた。


 この未曾有の経済混乱の中、莫大な国家予算をブラックボックスへと延々と注ぎ込む『案山子』(弾道弾用打上機計画)および『火鉢』(熱核弾頭及び再突入体計画)、そして『虫籠』(有人宇宙飛行及び大気圏外核実験計画)の三重計画は、大蔵省の財務当局にとって格好の、そして最大の標的となった。


 国家の金庫が底を尽きかけている時に、宇宙の果てへ人間を飛ばすための拷問器具や、絶対に公表できない兵器開発に回す予算など一円たりとも存在しない。


 大蔵官僚たちは、過日の密室でのデモンストレーションで味わった恐怖と屈辱への意趣返しとばかりに、冷徹な数字の論理で計画の首を絞めにかかった。


 しかし、計画の息の根を完全に止めた決定打は、国内の予算不足などという生易しいものではなかった。


 海の向こうから、世界最大の猛禽類が、極東の島国で蠢く異様な気配に気づき、その鋭い目を光らせていたのである。米国のインテリジェンス機関の動きであった。




 アメリカ合衆国にとって、日米安全保障条約とは、アジアで唯一の西側先進国であり、同盟国である日本を守るための盾であると同時に、日本という国が再び牙を持たないようにするための強固な首輪であった。ワシントンの戦略家たちは、この国が経済的に肥え太ることは許容しても、軍事的な自立を果たすことなど決して許すつもりはなかった。


 CIA(中央情報局)やNSA(国家安全保障局)の極東支局は、当初から日本政府の動きに微かな違和感を抱いていた。最初に異常を察知したのは、茨城県・東海村の動燃施設周辺における大気サンプリングのデータである。


 施設の排気口周辺から、微量のクリプトン85同位体比率の異常値が検出されたのだ。民生用の原子力発電や再処理の研究にしては、その数値はあまりにも不自然であった。それは、兵器級プルトニウムを極限まで濃縮抽出する際に特有の痕跡(シグネチャー)であった。


 疑念を確信に変えたのが、鹿児島県の内之浦宇宙空間観測所で進められていた大型固体ロケット「M-3C」の誘導制御装置に関する機密情報であった。CIAの協力者(モグラ)が持ち出したその仕様書には、およそ平和的な科学衛星の打ち上げには不必要な、耐放射線ミリタリーグレードのジャイロスコープの組み込みが明記されていたのである。


 国防総省(ペンタゴン)の地下深くで、CIAの分析官たちは持ち帰られたピースを組み立て、一つの結論を導き出した。


「日本は、全段固体燃料による弾道ミサイルの開発能力を既に獲得しており、より大型の弾道ミサイル(ICBM/大陸間弾道ミサイル)の開発段階に移行している。併せてその先端に乗せる弾頭用の核物質の精製に成功しつつある事は明白で、さらに恐るべきことに、彼らは人間を生体部品としてロケットに組み込み、手動で弾頭を投射・制御するミッションプログラムを進行させている。低軌道周回能力を持つ打ち上げ機の開発計画から考えて、有人の部分軌道爆撃システム(FOBS」の開発を念頭に置いているものと考えられる」


 報告書を読んだアメリカの首脳陣は、背筋に冷たいものを感じたに違いない。


 かつて太平洋戦争で、自らの命を誘導装置として敵艦に突っ込んだ「カミカゼ」の記憶が、アメリカの軍人たちの深層心理には生々しいトラウマとして刻まれている。その日本が今度は、核弾頭ミサイルの先端に人間を乗せようとしているのだ。それは、ソ連の核戦略よりもはるかに不気味で、予測不能な脅威であった。


 無論、この部分は誤解で、あくまでも実証実験のための有人宇宙飛行計画であったわけであるが、彼らは「カミカゼ」を忘れていなかった。まだ先の対戦から30年も経っていなかった。


 当時の若い兵士が今は国家の中枢に座っている。彼らは、自分たちの艦に対して命を捨てて体当たりしてくるパイロットをその目で見ていたのだった。彼らは日本人と言うものについて、必要であれば彼らとは全く違うプロトコルで行動すると言うことについて、ある意味、深い信頼感を持っていた。



 一九七四年一月。


 ホワイトハウスは、この極東の暴走を静かに鎮圧することを決定した。ヘンリー・キッシンジャー国務長官から、日本政府の中枢たる首相官邸へ、極秘裏に一通の非公式メモ(いわゆる「デマルシェ」)が手渡されたのである。


 外交辞令で飾られたその薄っぺらい紙切れには、極めて簡潔に、しかし絶対零度の脅迫が記されていた。


『貴国が推進しつつある独自の宇宙空間生体適応プログラム、並びに高推力固体推進システムと物理学的挑戦の進展について、合衆国政府は極めて重大な懸念を有している。極東の戦略的安定のため、賢明な判断を期待する』


 たったそれだけの文章であった。しかし、その背後には「計画を即座に中止しなければ、日米安保条約の破棄、核の傘の撤去、そして石油禁輸を含む徹底的な経済制裁によって、日本国を石器時代まで後退させる」という、超大国(アメリカ)の剥き出しの殺意が込められていた。それは、日米安保の根幹に関わる、日本の政策担当者に対しての最後通牒とも言える警告であった。


 このデマルシェを受け取った時の、日本の政治家や官僚たちの絶望と屈辱はいかばかりであったか。


 あの夜、赤坂の料亭ですき焼きを頬張りながら、「自前の牙を持たねばならない」と豪語していた若き衆議院議員は、議員会館でこのメモのコピーを読んだ瞬間、怒りで唇を噛み切り、クリスタルガラスの灰皿を壁に叩きつけて粉砕したと言われている。


 彼らは痛感させられたのだ。自分たちがどれほど国家の独立を夢見、密室で血を流すような非道な実験を重ねようとも、アメリカという巨大な飼い主がリードを強く引けば、日本という国は一瞬で窒息してしまうただの番犬に過ぎないという現実を。


 あの料亭で最後に計画の隠蔽を指示した大物政治家は、ただ静かに目を閉じ、深く長い溜息をついた。愛国心も、権力闘争の野心も、そしてあの悪夢のようなピアノ伴奏への倫理的な恐怖すらも、圧倒的な暴力の格差の前では無意味であった。




 一九七四年三月三十一日。


 内閣総理大臣の密命により、『案山子』並びに『火鉢』そして『虫籠』計画の無期限凍結が正式に決定された。事実上の計画の破棄である。


 現場の技術者や科学者たちの無念は、政治家たちの比ではなかった。


 製造途中であった単座宇宙船カプセル天翔一号(虫籠の中核)のチタン製耐圧殻は、彼らの目の前で無惨にバーナーで解体された。日本が誇る町工場の職人たちが、ミクロン単位の精度で削り出したその美しい金属の球体は、ただの屑鉄として新幹線の構体材料試験用インゴットという名目で民間に二束三文で払い下げられた。


 東海村で密かに濃縮されていた高純度プルトニウム溶液は、厚かましくも乗り込んできた米国査察団の冷笑的な視線が注がれる中、軽水炉用MOX燃料へと希釈・混錬され、その危険な痕跡を完全に消し去られた。日本の原子力技術者たちは、自らの手で育て上げた「火鉢」の火種が、アメリカ人の監視の下で泥水のように薄められていく様を、ただ血の涙を流しながら見つめることしかできなかった。


 そして、最も異端にして最悪の副産物であった「ラジオ体操第四」の開発者たちもまた、深い絶望と徒労感の中に放り出された。


 主任医官の神保博士は、「あと一歩で、人間は宇宙の圧力に耐え得る完全な身体を手に入れられたのだ。政治家の腰抜け共が、人類の進化を百年遅らせた!」と呪詛の言葉を吐きながら資料を破壊した。


 一方、あの狂気のピアノ伴奏を生み出した服部正信は、ただ薄暗い音響室で虚空を見つめ、不気味な笑みを浮かべていたという。彼にとって、計画の頓挫など些末な問題だったのかもしれない。なぜなら、実体化した深淵の「音塊」は、すでに磁気テープという物理的媒体に記録され、この世界に産み落とされてしまったのだから。そして何より彼は「新しい人」が産まれ出る瞬間を、その目に焼き付けていたからである。




 計画の終了に伴い、すべての証拠は隠滅されることとなった。


 組織の決定に関わる公文書や、法律上どうしても残さざるを得ない決済書類の一部は、「郵計・特資七〇四号」などの無害な符丁を付けられ、極秘の「赤本」として霞が関の地下書庫の最奥に封印された。それは、いつの日か国家が再び牙を必要とした時のための、呪われた備忘録であった。


 しかし、生体適応プログラムの核心部分――服部正信が録音したオープンリールのマスターテープ、高取教授らが作成した数百枚におよぶ奇怪な運動図解マニュアル、そして被験者たちが悶え苦しんだ筋電位測定記録など、「マル四」の本体にまつわる一切の生データは、公文書として残すことすら危険すぎると判断された。


 それらの資料は、ある日突然、関係省庁の保管庫から忽然と姿を消した。


 関係者の間で囁かれるその後の行方は、いくつもの噂となって霧散している。


 ある者は、霞が関の巨大な焼却炉で、案山子や火鉢などの機密文書群とともにすべて灰にされたのだと語った。またある者は、憲兵のような腕章を巻いた自衛隊の警務隊が深夜の地下室に踏み込み、無言ですべての機材とテープをジュラルミンケースに詰めて運び去ったのだと主張した。あるいは、今もなお、旧防衛庁の市ヶ谷駐屯地の地下の、誰も開けることのない倉庫の奥で埃を被っているはずだと信じる者もいた。



 だが、その証言の細部は食い違っていても、一つだけ不気味なほど共通しているディテールがあった。


 それは、「ラジオ体操第四」に関するマスターテープと資料一式は、ただのダンボールや金庫ではなく、『内側を厚い鉛張りにされた、防水のトランク』の中にまとめて封入されていた、という事実である。


 通常、機密文書の持ち運びに鉛を使うことなどあり得ない。鉛が必要なのは、強烈な放射線を遮断する時か、あるいは、何らかの「音波」や「周波数」が、物質を透過して周囲の人間の精神を汚染するのを、物理的に防ぎ止めるためでしかなかったはずだ。



 すべては闇の中へ葬られたかに見えた。


 しかし、完全な隠蔽などというものは、人間の好奇心が存在する限り不可能である。


 書類の廃棄担当を命じられたのは、当時入省三年目の若手官僚であった。彼は、重い台車に積まれた文書の山を霞が関の焼却炉へと運ぶ途中、その異様な図解の数々にどうしても抗いがたい好奇心を刺激され、周囲の目を盗んで一冊の印刷物を自分のコートの内ポケットに滑り込ませたのである。


 それは、神保博士と高取教授が自筆で修正を加えた「第四・生体負荷推移ダイアグラム」の最終稿であった。人体がどの角度で、どれだけの内圧に耐え得るかを示す、狂気の設計図の切れ端。


 彼はそれが、どれほどの呪いを秘めているかを知る由もなかった。


 このコートのポケットに隠された一枚の紙片が、後に半世紀という時を経て、「都市伝説」という名の残り火となってインターネットの深海を漂い、新たな犠牲者を呼ぶことになろうとは。



 大国のエゴと、国家の野心、そして狂った天才たちの執念が交錯した計画は、こうして歴史の表舞台から完全に消滅した。残されたのは、鉛のトランクに閉じ込められた絶対的な恐怖の和音と、自らの肉体を兵器に改造され、行き場を失ったまま元の部隊へと帰されていった男たちの、行き場のない喪失感だけであった。



次話につづきます。


最後までお付き合いいただき感謝します。

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