第六話「愛国者のすき焼き」
その夜、東京・赤坂の高級料亭の奥座敷で、緊急の総括会議が開かれた。
黒塀に囲まれ、外界の喧騒を完全に遮断したその座敷は、昼間の鉛の密室とはまた違った意味で、日本という国家の密閉空間を象徴していた。部屋の中央に据えられた特注の南部鉄器の鍋の中で、最高級の松阪牛のすき焼きが煮えくり返っている。甘辛い割り下と上質な獣の脂の香りが、濃厚な湯気となって部屋に充満していた。
普段の政局の夜であれば、この芳醇な香りは権力者たちの胃袋と野心を心地よく刺激するはずの起爆剤であった。しかし今夜に限っては、ほとんどの者が箸をつけようとはしない。仲居たちは早々に下がらせられ、分厚い襖は固く閉ざされている。鍋の中で肉が熱に耐えかねて鮮やかな赤から茶色へと変色していく様や、ぶくぶくと弾ける気泡の音が、嫌でも昼間の凄惨な光景――カプセル内の気圧低下と自己の筋肉の圧力に耐えかねて目や鼻から鮮血を流し、強直性痙攣を起こして倒れた神谷一等空尉の姿――を、彼らの脳裏にフラッシュバックさせていたのだ。
「……率直に申し上げて、これ以上の実験継続は、我が庁としては看過できかねます」
沈黙を破ったのは、防衛庁の背広組トップである防衛局長であった。彼は忌々しそうに、そして昼間の視察で露呈してしまった自らの狼狽を必死に覆い隠すように、低く硬い声を出した。
「この体操と称するプログラムは、隊員の能力を強化するものではなく、肉体を物理的に自壊させる劇薬に他ならない。神谷一尉をはじめとする被験者たちは、我が国の防衛力を担保するために、莫大な国費と時間をかけて育成された最高峰の航空アセットなのです。彼らは決して、無謀な実験のためのモルモットではない。これ以上の消耗は、我が国の防衛体制そのものに直結する損失だ」
それは、防衛庁としての至極真っ当な組織防衛の論理であった。彼の言葉には、戦後の厳しい制約の中で、血の滲むような努力で練度を維持してきた自衛隊員たちへの、彼なりの強い庇護欲と誇りが滲んでいた。
しかし、主任医官である神保博士は全く怯まなかった。狂気の科学者というよりも、かつて大陸の野戦病院で無数の死を見送ってきた従軍医師の、あの冷徹で底知れぬ静けさを湛えた眼差しで、防衛局長を見据えた。
「局長。一つ訂正をさせていただきますが、我々は隊員たちを意図的に壊そうとしているのではありません」
神保の声は、熱を帯びるどころか、氷のように冷たかった。
「全段固体ロケットで人間を大気圏外へと打ち上げるという物理的現実は、あなたがたが管轄する戦闘機の飛行とは、次元が異なります。彼らが搭乗する『案山子』の振動と加速度は、計算上、人間の内臓を千切り、骨を砕く。第一体操や第二体操のような、関節をほぐし血流を促すといった一般的な健康増進の延長線上に、彼らの生存ルートは存在しないのです」
神保は、血を流して痙攣した神谷の姿を、一つの純粋な「医学的成果」として淡々と解説し始めた。
「神谷一尉は生きています。あのような状態になっても、内臓破裂も致命的な脳出血も免れました。彼が自らの筋肉を極限まで収縮させ、強制的に血流と骨格を固定する『マル四』の身体操作を行っていたからこそ、あの殺人的な気圧変化と圧力下で、脳血管が完全に吹き飛ぶのを防げたのです。鼻腔の毛細血管が破綻したのは、逃げ場を失った圧力の安全弁が機能した証拠に過ぎない。あれは、人体という脆弱な器が、宇宙空間の暴力に耐え得るだけの構造的再編を果たした、確かな医学的証明なのです」
冷酷な真理であった。しかし、それは平和な時代の倫理観からはあまりにも逸脱している。
座の空気がさらに重く沈み込もうとしたその時。
「――美味いですね。やはりこの時期の松阪牛は、割り下に負けない強い甘みがある」
唐突に、場違いなほど軽やかな声が響いた。
声の主は、下座に近い席に座っていた若き衆議院議員であった。内閣官房副長官のポストに就き、将来の総理候補と目される新進気鋭の二世政治家だ。彼は周囲の不快そうな視線を気にも留めず、一人だけ悠然と箸を動かし、煮え上がった霜降り肉を器の溶き卵にたっぷりと絡め、音を立てて平らげていた。
「煮えすぎると、いくら良い肉でも硬い塊になってしまいますからね。冷める前にいただくのが作法というものです」
若き政治家は、口元の汚れをナプキンで優雅に拭いながら、防衛局長の方を見た。
「局長のおっしゃることも、神保先生の理論も、どちらも正しい。しかし、我々が今ここで議論すべきは、隊員の健康管理の話ではありません。国家の存亡についてです」
彼の目は、先ほどまで肉を頬張っていた人間のものとは思えないほど、暗く、冷徹な光を放っていた。
「一九七一年。あの夏、ニクソン大統領が我々の頭越しに北京を電撃訪問し、ドル・ショックを引き起こした時、我々は何を学んだか。そして今、アメリカは泥沼のベトナムから名誉ある撤退と称して手を引こうとしている。……もうお分かりでしょう。いざという時、ワシントンは東京を守るためにロサンゼルスを犠牲にはしてくれない。我々は、自前の牙を持たねばならないのです」
彼の言葉に、同席していた外務省と内閣調査室の幹部たちが、重苦しく頷いた。
そうだ。彼らは決して、悪趣味な人体実験を楽しんでいる狂人ではない。むしろ、誰よりもこの日本の行く末を憂う、強烈な愛国者たちであった。敗戦の灰燼の中から奇跡の復興を遂げたこの国を、再び他国の都合で焦土にはさせない。そのためには、アメリカの核の傘という不確かな幻影にすがるだけでなく、いざとなれば案山子で火鉢をモスクワや北京へと叩き込めるという抑止力を保持しておかなければならない。
「核には核を。しかし我々が実証試験を行う場所は宇宙にしか存在しない。そして実験の確認には、人間の介在が必要なのです。マスコミに知られれば確かに内閣は三つ吹き飛ぶでしょう。ですが、知られずにこの計画を完遂できれば、我々は真の独立国家としての生存権を得る。国家というものを維持するために、英雄たちの血が流れるのは、心の底から残念で全く望むところでは無いのですが、不可避の悲劇だと飲み込むことも我々の責任でしょう。彼らや彼らの家族には、国家がきちんと報いてやればいい」
若き政治家が自説を展開し終えた後、上座で目を閉じていた大物政治家――現在の政権与党における最大の派閥領袖であり、あらゆる裏面工作を取り仕切る男――が、ゆっくりと目を開けた。
彼は高度経済成長期の熱と埃をそのまま吸い込んできたような、分厚く底知れぬ顔の持ち主であった。指先で高級なハバナ産シガーを弄びながら、腹心の言葉を鷹揚に受け止める。
「君の言う通りだ。我々は政治家だ。国家の百年を思えば、我々自身の手に泥や血がつくことなど、取るに足らん事だ」
彼の声は低く、地鳴りのように座敷に響いた。
「自主防衛の歩みを止めることは許されん。しかしな……」
彼はシガーの先端を灰皿に押し付け、ふう、と紫煙を吐き出した。その表情には、政局の計算だけではない、もっと根源的な、一人の人間としての「躊躇い」が微かに混じっていた。
「神保先生。あなたの理論は完璧かもしれん。だが、昼間、あのマジックミラー越しに実験を見た時、私の背筋を何かが這い上がってきた。神谷君の目から血が流れたからではない。……あの音楽だ。あの、ピアノの音はなんだ」
大物政治家のその一言に、座敷の温度がさらに数度下がった。
すき焼きを食べていた若き政治家でさえ、箸を止めた。彼ら全員の脳裏に、あの服部正信という男が作曲した、常軌を逸したピタゴラス音律の不協和音と、空間を歪めるような変拍子の「うなり」が蘇っていた。
百戦錬磨の政治家や官僚たちでさえ、あの音を耳にした瞬間、自らの理性が根底から崩れ去っていくような恐怖を感じたのだ。あれは、単なる生理学的な負荷ではない。人間の魂の設計図を無理やり書き換え、宇宙の暗闇に接続しようとする、冒涜的な儀式そのものであった。
「我々は、国を守るための武器を作っているつもりだった。だが、あれは違う」
彼は、シガーの灰を見つめながら独り言のように呟いた。
「開けてはならない扉を開けてしまったのではないかという、妙な寒気を覚えたのだ。……神保先生。我々は国民を守るためにこの計画を進めている。しかし、その過程で、守るべき国民の中身を人ではない化け物にしてしまっては、本末転倒ではないのかね」
愛国心ゆえの冷酷な決断と、人間としての原初的な倫理的恐怖。その二つが彼の胸の中で激しくせめぎ合っていた。ここで計画を中止すれば、日本の安全保障はアメリカの掌の上で永遠に踊り続けることになる。しかし、このまま進めば、彼ら自身が取り返しのつかない業を背負うことになるのではないか。
「……いいか、諸君」
長い沈黙の後、大物政治家は結論を下した。その声には、もはや迷いはなかった。
「私は、この計画を明日で打ち切れと言っているわけではない。だが、この『マル四』というアプローチのまま、東京のど真ん中で実験を続けるのはあまりにもリスクが高すぎる。我々の想像を超える何かを、世間の目に触れさせるわけにはいかん」
彼は防衛局長と内閣調査室の幹部を鋭く睨みつけた。
「やり方を変えろ。被験者の数を最小限に絞り、音響のテストも含めて、完全に隔離された場所へ移管しろ。予算の付け替えは私が責任を持つ。絶対に、絶対に外部に悟られるな」
それは、計画の放棄ではなかった。より深い闇への「隠蔽」の指示である。
政治家たちが抱いたささやかな倫理的懸念は、結局のところ、愛国心という強固な大義名分と、政局の打算の前に押し流された。しかし同時に、彼ら自身もまた、これ以上あの狂気に直面することから逃げ出したのだ。
会議は、重苦しい余韻を残したまま散会となった。
誰もいなくなった奥座敷では、すき焼きの鍋が黒く焦げ付き、熱源を失って冷たくなっていく様だけが残されていた。
マル四の開発継続には、暗雲が立ち込め始めていた。しかしそれは、雨を降らせて空を晴らすための雲ではない。すべての光を遮断し、永遠の暗夜を作り出すための、どす黒い瘴気の集積であった。
祖国を守るという崇高な目的のために生み出された狂気のメソッドは、政治家たちの野心と恐怖が交錯する中で息の根を止められることなく、日本の裏面史のさらに深い、光の届かない深淵へと潜伏していくことになるのである。
つづきます。
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